回想

 廃れたアパートの狭い浴室に設置された白いバスタブの中に私はいた。残念な事に、バスタブの中からの景色は見えない。赤い布で目隠しをしていたからだ。

 身動きが取れないようにと体を縛る紐が無い以外にはあの頃と、……私が誘拐された時と全く同じ状況だった。いいえ、全く同じというには後もう一つ足りない要素がある。

 魔法のように神秘的で、呪詛のようにおどろおどろしい言葉たちを歌う私を攫った「犯人」が。

 世間も世間で、まさか被害者が犯人を所望するなんて思いもしなかっただろう。ところで実際に今の私に犯人が必要かと問われれば、答えは否だ。だって私はあの言葉を、声をはっきりと覚えていたから。

 視覚はあれども目隠しで封じられ、体を動かそうにも紐で動けない。そんな中で普段と変わらず自由に使えていた聴覚は鮮明に私が置かれている状況を音で示してくれていた。それはもう必死に。

 そのお陰もあってだろうか。あれから十年の時が経ようとしているのに、今尚耳元近くであの言葉を囁かれているような心地に陥る事がままあった。もはやその記憶はトラウマとしか言いようが無かった。

 そう、私はトラウマを見ている。トラウマを構成する記憶たちを傍観者面で一人、眺めている。バスタブの排水溝からは腐った水の匂いが漂っている。夏を失って、緑色に濁ったプールから漏れるあの匂い。一瞬、鼻をついてその後はじわじわと感覚を麻痺させて行くあの匂いはひどく懐かしくて寂しかった。

 目隠しの下にある二つの眼がゆっくりと瞼を閉じる。私の意識を沈める為に必要だったのは春の穏やかさじゃない。古びているのに、色だけはあせないあの言葉たちだった。  

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