今日はだれの誕生日

 弟の案内の元、やって来たのは見るからにこじんまりとしたアパートだった。階数は三階までで、左右に一つずつ部屋がある。少なくとも六世帯が自分の家を持つ事は出来そうだ。だけど柔らかなクリーム色に塗られた壁の塗装はあちこち剥げてしまっていてみすぼらしかった。おまけに入り口近くに作られている自転車置き場には、肝心の自転車が一つも置かれていない。お世辞にも綺麗とは言いがたいそのアパートへ弟はずんずんと向かって行く。怖いもの知らず。弟の事をそう揶揄しつつ先駆者に倣って私も階段を上る。木製の手すりは埃にまみれていて、掴んだ手のひらが気持ち悪かった。

 アパートの最上階たる三階まで上り詰めると、弟は左の部屋の前へ移動しいつの間にか握っていた銀色の鍵を鍵穴に差し込んだ。鍵はすんなりと穴に入り、がちゃんと物々しい音を立てて扉の開閉を自由にさせた。扉の取ってを捻って弟はさっさとその扉の先に入ってしまう。それがあまりにも自然な動きで私はポカンとしていたのだけど。閉じた扉が開き、弟が顔を覗かせる。

「早く入ってよ、鍵が閉められないじゃないか」

 弟の言い分はもっともで、私は扉の内へと入り鍵を閉めた。誰の家だか知らない家の鍵を。私が靴を脱いでいるあいまに弟は姿を消していた。居間の方へと行ったんだと思う。弟がしているように靴をきちんと並べ後を追う。

 玄関から居間へと続く戸を引き、私は埃っぽい空気に歓迎された。長年換気されていないらしい部屋の空気がむずむずと鼻をくすぐる。「いっぐし」間抜けなくしゃみの声が聞こえたと思ったら、弟が鼻を啜らせながらカーテンが垂らされていないベランダのガラス戸を引いている。間もなく、どろっとした熱を含んだ夏の風が埃っぽい部屋の空気をかき混ぜて行く。部屋はがらんどうで、生活に必要な家具の類がどこにも見当たらなかった。ベランダから入る夕焼けの色がじわじわと床を侵食している光景を眺めていると、なんだか懐かしい気持ちになった。

 それから弟の方へ視線を投げると、彼は絨毯も敷かれていない床上に座り込み、通学鞄からごそごそと丸い紙皿やプラスチックのフォークを取り出ている。書店での事が頭を過ぎって冷や汗を掻いた。

「それ、どうしたの?」

「どうしたのって買ったんだよ。当たり前だろ」

 何を言っているんだと言わんばかりの表情で弟は私を見やり、袋から紙皿を二枚取り出し床の上に一つずつ並べている。それが済むと、今度は小脇に抱えていたクーラーボックスからぶどうが描かれた紙箱を取り出した。そこからはほのかに甘い香りがしていて、箱の中身がそれとなく知れた。

 弟は箱の上蓋を開いて、中に入ってる物を手づかみで取り出した。セロファンが巻いてあると分かっていたからだろう。紙皿の上に細長い三角形のショートケーキがお上品に乗った。白い生クリームの上に赤いイチゴが一つだけ添えられ、その脇には小さな緑色の葉が飾られている。いちごの赤と生クリームの白で作られたケーキの断面図は妙に愛らしい。紙皿に乗った二つのショートケーキの内、一つを弟はずいと私の前に差し出す。ショートケーキと弟を何度か見比べ、「くれるの?」とおっかなびっくりした声で問う。

 弟はショートケーキの断面を覆っていたセロファンをぺりぺりと剥がしながら、

「感謝して欲しいね。わざわざねえさんの誕生日の為に小遣いをはたいたんだから」

 とかわいいんだかかわいくないんだかよく分からない言葉をのたまった。まあ兎も角、お礼を言わなくてはと「ありがとう」と頭を下げた。と彼はむっとした表情を浮かべる。何が気に食わなかったんだろうと考え込みながら、私はふと不思議な事に気がついた。

「今日、私の誕生日じゃないよ」

 私は秋生まれだ。夏生まれじゃない。

「知ってるよ、そんな事」

 そっぽを向いたまま弟はそう返した。綺麗な三角形だったショートケーキは弟の手によって、いまや台形になっていた。無残だ。「でも」と弟はケーキを食べる手を止めず、言葉を続ける。

「ねえさんは今日生まれたっていうのも事実だ」

「……私には誕生日が二つあるって事?」

「そういう事になるね。ほら、その証拠に誕生日ケーキを食べてるじゃないか」

 弟があまりにもおどけた様子でショートケーキを指差すので、私は自分の分のショートケーキをこれ以上無いくらいにまじまじと見つめていた。

「それでもってこっちは誕生日プレゼント。ね、完璧だ」

 弟が押し付けるようにして渡してきたのは、弟が誕生日だというので購入し包装用紙にくるんでもらった本だった。これにはさすがに苦笑するしかない。苦い顔で本を見つめている私に弟は開けなよとせっつく。言われるがままに、私は包装用紙を解いて初めて自分が買った本が何だったかを知った。

 あなたにはこの謎が解けますか、と歌うような一文が載った帯が巻かれた文庫本。その帯に書かれた言葉が示すとおりに、この本のジャンルはミステリーだろう。あるいは推理小説。

 その時、頭の端っこで記憶というオルゴールが音を鳴らし始めた。フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット。 誰が犯人なのか、どのように犯罪を成し遂げたのか、何故犯行に至ったのか。そこでオルゴールのねじは切れた。

「……なんで推理小説なの?」

 自分でも驚いてしまうほどに、私の声は小さかった。そんな私を弟は一瞬視界に入れたものの、さして気にならなかったのか直ぐに明後日の方向を向いた。私は弟の横顔を見て、まだ一口も手をつけていないショートケーキに視線を移した。弟は私の誕生日が今日だという。誕生日が二つあるのだと。頭がこんがらがってき始めた。ああ、ほら私はやっぱり考え事には向かない。直ぐにこうなるもの。辛くなってしまうんだもの。

 額に手を当てていると、ぽつと弟が話し出した。

「本棚いっぱいにあったんだろ」

「何が?」

「推理小説だよ。お母さんがそっちの方面に熱心でさ、国内じゃ江戸川乱歩に横溝正史、三大アンチミステリーにも手を出していたみたいだよ」

「そうだった?」

 と不安げに訊きかえすなり、たちどころに弟の機嫌は悪くなった。どうやら彼の地雷を踏んでしまったみたいだ。弟はゴミに群がるカラスを見るかのように冷ややかな視線で萎縮している私を睨む。

「ねえさんがよく知ってる事じゃないの」

 語気を強くしてそう言い捨てた弟に私は返す言葉を失った。胸の内に広がる苦痛から逃れたくて視線をあちらこちらに飛ばす。眼に留まったのはベランダ側から入ってくる淡い橙色の光だ。心なしか、その光が衰えているような気がする。夜がやってくる合図だろう。

 薄い黒の影を孕んだ橙色の光を眺めながら、私は物思いにふけっていた。お父さんに許可を貰っているとは言っていたけど本当だろうか。ほんのすこし、心配だ。弟は私を困らせる事においては、いくつもの罪を持つ前科者だった。これまでも歌舞伎の狂言めいた言い回しを信じた挙句、墓穴を掘らされた事が幾度もあった。書店での出来事もきっと勘定に入るだろう。たびたび被害に会う内に、弟は何かしら私に不満があるのではと思えて来た。だとしたら、弟は何の不満が合って私を困らせるんだろう。

 心で嘆息しつつ、お父さんにどう謝ろうかと頭を悩ませていれば、「ねえさん」と声がかかる。今度は何だろうと両肩を落とし、これ以上何か起こりません様にと願う。

「どうしたの?」

 と言ってみたはいいが弟の姿が見当たらない。あれと不思議そうに首を傾ぐ。くすくす。後ろから聞こえた笑い声を辿ると、いつの間にか別の部屋に移動したらしい弟は面白おかしいといった表情を浮べ、おいでおいでと私を招いた。どうしようと思ったものの、行かない訳にもいかず私は重たい腰を持ち上げた。

 弟が入って行った部屋は洗面所やトイレ、浴室が設置されている。本来なら浴室への途中に置かれているだろう洗濯機や脱衣篭が無いから、味気なさを感じるけど。「ねえさんこっち」と弟の声がぼんやりとする私を叱咤する。

 浴室へ繋がる仕切りの前に弟は立っていた。弟の猫背が彼の無気力な感じをより際立たせている気がする。ぐんにゃりと曲がっているけど痛くないんだろうか。弟は私が弟の背骨の事を考えているとは露とも知らず、浴室の中を顎でしゃくった。いぶかしみつつ、浴室の中を覗く。換気用の小窓が一つと白いバスタブが一つ。それ以外に物は置かれていないし、特に変わった所もこれと言って無い。

「浴室がどうかしたの?」

「もういっぺん見てみなよ」

 呆れ顔で言う弟に従って、浴室を今度はじっくりと観察する事に決め浴室へと入る。とその時だ。

「ヒントをあげようか」

 バスタブを見つめていたら、弟が突然そんな事を言い出した。私としては願っても無い事だから、首を縦に振る。すると弟は薄っぺらい笑顔でそっと言うのだ。

「ここ、ねえさんが居たアパートだよ」

「私が居た?」

 頭の中で情報が錯綜する中、弟は手品師のようにどこからか赤く細長い布を取り出した。

「さて問題です、これはなんでしょう」

「何って、布でしょう」

 抑揚無く尋ねて来る弟に私はそう答えたのだが、直ぐに不正解という声が飛んで来た。それから必要なくなったらしい布をこちらに寄越した。弟の意図が掴めないでいると、暢気にあくびをかみ殺す声が聞こえてくる。その姿さえも猫に見えるのだから、きっと弟の前世は猫かそれに類似する何かだろう。

「ね、いい加減思い出さない?」

 弟の眠たそうな眼が猫の眼のように見開かれている。

「いったい何を思い出せって言うの」

「ねえさん自身の事だよ。ねえさんは鈍感だから気付かなかったかもしれないけど、俺は今までねえさんにずっとそう言ってきたつもりなんだ」

 弟は首を伸ばして眼下の私に言う。

「思い出せないならさ、思い出せるまで何べんだってやれば良いよ。俺はそんなに気が長い方じゃないから、途中で飽きて寝てるかもしれないけど待っててはあげるから」

 さっそく弟は瞼をうとうとと開けたり閉じたりを繰り返している。ふああと生あくびを浴室に響かせ、浴室の仕切りをぱたんと閉めた。あろう事にか、ガチャガチャと鍵を閉める音がする。

 慌てふためいた私は仕切りを叩き、弟に呼びかけようとして喉まででかかった言葉を飲み込んだ。名前が、分からない。背中に冷や汗が伝う。

「浴室に、目隠し。いくら鈍感なねえさんでもここまで言えば分かるんじゃないの?」

 仕切り越しに弟の声が聞こえ、浴室と目隠しという単語が頭の中を駆け巡った。浴室。冷たい。 ふーだにっと、はうだにっと、ほわいだにっと。視線が赤い目隠しに行き着き、離せなくなる。犯人の形跡は無い。蜃気楼。

シズカねえさん、俺のお膳立てはここまでだよ」

 弟の声が浴室にくぐもって響いた。一方私は水が張られていないバスタブへ入り、弟から渡された目隠しを自分の両目に当て頭の後ろで縛った。そのまま仰向けに倒れる。脚は収まらなかったから、バスタブの外へと投げ出した。目隠しによって得た闇はあの頃と変わらず、白昼夢を見ているような気分を与えてくれる。服越しに伝わるひんやりとした冷たさは現実へ戻る余地をくれた。ただ足りないのは、現実から私を乖離させたあの言葉を歌う主だけ。

「フーダニット、ハウダニット……、ホワイダニット」

 

 犯人は、だあれ。

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