蜃気楼
私は小学一年生の時に一週間ほど姿をくらませていた事がある。とは言え好きで姿をくらました訳じゃない。目隠しをされ、体を縛られた状態でどこかのアパートの浴室に放り込まれていたから外に出るに出られなかった。
運が悪ければ誘拐されてしまった子供は最悪のカードを引かされてしまう筈なのに、私は何故かそのカードを引きはしなかった。なにせ私を連れさらったはずの……いわゆる犯人はまるで霞のようにその場に居た形跡を一切残さず消えてしまっていたから。だからだろうか、警察はこの事件を誘拐ではなく行方不明事件として扱った。
マスコミはこの変哲極まりない事件に「蜃気楼」という呼称を付け、あれこれと迷走珍走した説を世間に放出させた。久々に放られた餌を我先にと食べる鯉の如く、この事件はしばらくマスコミにとって、都合がいいように調理をされ骨の髄まで使い尽くされた。
最後に皿の上に残ったのは色を飾るパセリ程度の、謎だけだった。
けれども私が覚えているのはあの歪な言葉だけで、どうしてそうなってしまったのかだとか、どうやって身を保護されたのかも綺麗さっぱり忘れてしまった。
情けない話だ。一人ごちていると、見知った背中を見つけた。弟だ。無造作にあちこちへ跳ねている髪といい、あの無気力な歩き方といい、多分いいや絶対そうに違いない。弟はおぼつかない足取りで書店へ入って行く。つられるように私も書店に足を踏み入れた。
店内はしっとりとした雰囲気に包まれており、上映間近のシアターのように静かだった。忙しなく辺りを見渡し弟の姿を探す。店の中央にはレジカウンターが設置され、その周囲を囲むように本棚が並べてある。この書店の本棚は他の書店にある本棚よりも背丈が低くて、弟はあっさりと見つかった。そちらへと向かっている途中、弟はきょろきょろと辺りを神経質に見渡していた。その手には一冊の本。まさかと思っていると、弟は鞄に本をゆっくりと近付けて行っている。あっ。声を発するよりも先に私は弟の元に走り寄り、本を持っていた弟の手を掴み取った。
突然現れた私に弟はきょとんとした表情を見せたのもつかの間で、怪訝そうに眉に皺を寄せた。
「痛いんだけど離してくれない」
「本、盗らないって約束してくれるのなら」
私がそう言うと、弟は眉間の皺をさっと消す代わりに嫌な笑みを顔に張り付かせた。
「盗ろうなンて考えてないよ。買うつもりだったさ」
答えて、弟は私の手を振り払いすたすたと中央のレジへと向かう。その言葉を本当に信用して良いか分からず、念の為に先にレジへと向かった弟の後を小走りに追いかけた。
本を預かった店員が本の値段を告げるなり弟は私の方へ顔を向けて、「買ってよ」と一言。どうしてと尋ねると、弟はあまり鋭さが無い眼つきで私を睨んだ。
「今日は俺の誕生日なんだ、何かプレゼントをくれたって良いんじゃないの?」
そうだったんだ。納得した私はごめんねと謝って、鞄から財布を取り出し本の代金を支払った。そしてふと思い立って、本をプレゼント用に包んでもらえるように頼んだ。店員は面倒臭そうな顔で私を見やり、「かしこまりました」と投げやりに言葉を返した。白色の下地に桃色と黄色の花があしらわれた包装用紙に、本がくるまれる。綺麗に出来上がったそれは書店オリジナルの袋に収められ、「ありがとうございました」とそっけない店員の声と一緒に手渡された。こちらもありがとうございますとお礼を返す。
「誕生日おめでとう」
言いながら袋を弟に渡すと、彼は呆れた顔ではあと溜息を零した。
「ねえさんはやっぱり駄目だね。俺の誕生日は今日じゃないよ」
種明かしをしながらも、弟は丁寧にくるまれた本を返してはくれなかった。本の代金もだ。百面相をしていると、先に書店を出ようとしていた弟がふいに振り返った。
「置いてくよ」
まだ納得がいかなかったものの、置いていかれるのもなんだかしゃくであえて本の事はこれ以上何も言わない事に決めた。そのまま家に帰るものだと思っていたら、弟は家とは逆の方向へ進み始めた。もくもくと歩く弟と同じ歩調を保ちながら弟がどこへ向かっているのかを考え込んでいる間に、甘い香りを店先に立ちこませているお店に辿り着いた。ケーキ屋さんのようだ。
「ねえさんはここで待ってて」
弟は早口でそうまくし立てて、一人お店の中へ入って行った。待っている間、私はフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットを変な抑揚をつけて歌っていた。お店の扉にくくりつけられたカロベルが間の抜けた音を鳴らして、弟を吐き出す。と何故か、弟は小型のクーラーボックスを肩に提げていた。さっきまであんなの提げていただろうか。ううんと頭を悩ませているところへ、弟がやって来る。
「ねえさん、行くよ」
私は首を捻るのを止め、
「行くってどこへ?」
と訊いた。明らかに家に帰る雰囲気じゃなかったからだ。いかに今の季節が夏とは言っても、日はゆっくりと傾き始めているし何よりお父さんに心配を掛けるのは良くない。
「そろそろ家に帰らないとお父さんが心配するよ、」
弟の名前を付け足そうとして、私はいまだに弟の名前に当てられた読み仮名が分からない事を思い出した。
隠 満喜生。
隠が苗字でナバリと読んで、満喜生の三文字が弟の名前に当たる。しかしその三文字の漢字が私には難関だった。そう読むんじゃないだろうかとぼやぁとした答えがあるにはあるけど、そんな当てずっぽうな感覚で弟を呼ぶのが恥ずかしかった。人の名前を間違うなんてとんでもなく失礼な事だし、しかも相手はかれこれ何十年と一緒に住んでいる弟だ。いたたまれなさと申し訳なさの板に挟まれ続け、その危うい均衡から私は脱せていない。このままずっと名前を呼べないままよりは幾分かマシだと考え、一度私は弟に直接名前の読み方を尋ねた事があった。
当然の事ながら、弟は怒った。とても静かに怒った。それを裏付けるように、弟は名前の読み方を教えてはくれなかった。おまけに、その場に居合わせたお父さんに、私が居る時には自分の名前を呼ばないようにとぴしゃりと言った。お父さんは苦笑しつつ、私と弟を交互に見比べてうんともすんとも言わなかった。だけれども弟がそう言った日から、お父さんは私が居る前では決して弟の名前を呼びはしなかった。
振り出しに戻った挙句、負債まで背負った気分だ。……勿論、本気でそんな風に言ってる訳じゃない。だってそうなったのは身から出た錆であって、誰でもない私のせいなのだから。
口をもごもごと動かしている私に弟はそっけなく言う。
「父さんだって承知済みの事だよ」
眼をぱちくりとさせ、「そうなの?」と聞き返す。彼は半ばうんざりとした表情で頷いて、「早く行こうよ」と急かした。うんと頷いた後で、「どこへ行くの?」と再び尋ねる。弟は影法師を作りながら、
「付いて来れば分かるよ」
それだけ言うと、弟は黙りこんでしまった。私もとりわけて弟と話す内容が無く、硬く口を閉ざしていた。よくよく思えば、なんのおかしさも感じない。この状態こそが私たち姉弟の常であった。
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