テープを超えた先で

ぱんだのゆふ子

第1話

薄っすらと光るディスプレイが、暗闇の中で一人の少女の顔をぼんやりと浮き上がらせている。しんと静まり返った空間に、無機質な電子音楽が漂う。その音楽は、お世辞にも素晴らしいとは言い難いものだった。

ぼさぼさの髪の毛をさらにかきあげてから卓上の薬瓶を手に取ると、数錠飲んで布団に入る。


部屋に、静寂が訪れる。ーーー





目覚まし時計が鳴り響くことによって、その静寂は破られた。7時15分。彼女は高校生なので、学校に行かなければならなかった。

のそりと起き上がり、洗面所で顔を洗って制服に着替える。髪の毛はぼさぼさのままだ。胃が食べ物を受け付けていなかったので、何も食べなかった。ほとんど空っぽの鞄を持って、家を出た。

向かうのは、彼女の大嫌いな騒音の空間。教室にいるときは常にヘッドホンをしている彼女には、友達と言えるような人は一人もいなかった。ただ、少し喋ることができるクラスメイトが一人だけ。それ以外の人間は、彼女のことを空気のように、あるいは虫けらのように扱う。

ずんと沈んだ気分で教室の扉に、手をかける。

すると一人の女が、あぁ、と叫ぶ。

「来たじゃんあいつ」

彼女の顔が一瞬歪んだが、すぐに元に戻り、扉を締めてから自分の席に向かう。

するとその女もついてくる。

「今日も調子良さそうだね、その頭とか顔面とかね」

そんなことを言って、鼻で笑ってまわりに共感を促す。周りの人間も、あまり乗り気ではないが、流れに乗って彼女を笑う。彼女は気にする様子もなく、ヘッドホンをつけて机にうつ伏せる。

「こいついつもこうだよな。コミュニケーションしようよ、ねぇ」

懲りずに女が話しかける。ついにその女は、彼女のヘッドホンに手をかけ、勢いよく外した。

彼女は咄嗟に飛び起きて、女の顔を見る。かえして。そう言った。

「うるさい、目障りだよお前」

女はヘッドホンを窓の外に向かって投げる。

明らかに彼女の顔面が歪んだ。ぐしゃっと潰れたような、そんな顔だ。

すると彼女は鞄を持って立ち上がると、何かを言わせる隙も与えず教室から走り去った。

だが、ヘッドホンの方には向かわなかった。階段を駆け上り、立入禁止のテープを越えて、屋上に到着した。

鞄をそこら辺に投げてしまって、落下防止用の柵に手をかける。顔を乗り出し、下を見る。

彼女のヘッドホンが見える。もうすでに手遅れの状態であるようだった。

今日はもう教室にはいられないと呟く。それからポケットの中のスマートフォンを取り出し、適当に音楽を流した。陽気なアイドルの歌声が、彼女の耳にべっとりとこびりつく。彼女は横になって、空を見上げる。

嫌になるくらいの晴天である。彼女のどろどろとした感情を増幅させるように。彼女はもう既に、自分の人生を捨ててしまいたかった。何の取り柄もない、気持ち悪い自分が大嫌いだった。クラスメイトの人間も嫌いだった。私がいなくたって、世界は何も変わらないよと、そう思った。

その時だった。校舎から屋上につながる扉がガチャリと音をたてて開いた。彼女がゆっくりとそちらの方に目をやると、一人の少年が立っていた。

「あれ、何してるのお前」

少年の声が中低音でカラッと響く。見覚えのない顔だ。あなたこそ何してるのと彼女は聞き返す。

「おれ?さぼり。質問に質問を返すなよ」

ごめんね。と呟く。

「まあいいけど。てかお前、髪の毛ぼさぼさだな、何かあったのか」

彼女は黙り込む。少年は答えを待ったが、しばらくしてから彼女の隣に座り込んだ。

「まあいいや。一緒にさぼろうぜ」


それから二人は世間話から、少しずつ自分のことに関しても話し始めた。

「へぇ。お前、曲作ってんだ。すげえな」

彼女はそんな大層なものじゃないと否定した。

「でもすげえよ。おれ、何も無いし。得意なこととか」

少年は、とても気さくで喋りやすい人だった。

どこか落ち着きもあって、察しも良かったので、彼女はとても気が楽だった。

「ま、こんなんでも人生楽しいよ」

そう言ってへらっと笑う。

「そういえば名前、聞いてなかったよ。学年も。おしえて」

彼女はまた黙り込む。話したくない。そう呟いた。少年も、じゃあいいよと笑う。

「お前、なんか悩みあるだろ。聞くけど」

彼女はふと少年の顔を見る。どこか

寂しげな表情をしていた。よく見ると、彼の目の下にはくまがあった。この人も、苦労しているんだと彼女は思った。

そして彼女は話し始めた。



私は、クラスの人間が嫌いなの。周りに合わせてハリボテの笑顔貼り付けて、気持ち悪く笑ってる人間が嫌い。だから教室も嫌いだし学校も嫌い。

それと、音楽を作るのも下手くそで、見た目も醜くて、それを直そうともしない自分が嫌い。知らんふりしてやり過ごす自分が嫌い。

精神薬を飲まないと眠りにつけない自分が嫌い。

私はもう生きる価値を見いだせない。



彼女は一通り話して、息をたっぷり吸い込んだ。彼女の涙がほつりと地面に落ちる。

少年は頷きながら、彼女の背中を優しく叩く。

何も言わないで、ただ隣りに座っていた。それが彼女は嬉しかった。

「おれも、ハリボテの笑顔貼り付けてる自分が嫌い。心から笑えない。家に帰っても…」

言いかけて止まる。なんでもないとごまかして笑う。

「そういや、お前音楽聴いてたよな?おれのおすすめ教えてあげるよ」

少年は引きつった笑いを浮かべながらMP3プレイヤーを取り出し、音楽を流した。

「海外のロックミュージシャンの曲。もう大分昔の。おれはこういう叩きつける音楽が好きなんだ」

そう言って今度はにっこりと笑った。曇りのない笑顔だった。

彼女は思う。あぁ、音楽って、素晴らしい、と。


少女と少年は、それからしばしば屋上で色々なことを話した。その時間はふたりにとって、きっと楽しいものであっただろう。


ある日、学校が緊急休校になると彼女に連絡が入る。

ラッキーだと思って曲作りをしていると、母親が部屋のドアをノックして開けた。

「うわ、汚い部屋ね。片付けなさいよ。そういえば今日の休校の理由なんだけど。うちの学校で今朝、飛び降り自殺があったらしくて」

そう聞いて、彼女は少し胸騒ぎがした。何か引っかかった。昨日も彼とふたりで一日中屋上でさぼった。何も変わらなかった。

そういえば、彼は何故あの始まりの日に、屋上に来たんだろう。さぼりと言っていたが、それなら屋上の必要は無かったのではないだろうか。

彼女は我慢ならなかった。急いで支度して家を飛び出す。いつもは嫌々向かう学校に、全速力で走って向かった。

パトカーが数台止まっていた。捜査をしているようだった。

彼女は警察に話しかける。

すみません、ここで亡くなった人の名前を教えて下さい、と。

だが、個人情報など諸々の理由で言えないと断られる。そういえば彼の名前も知らないことに気づく。

もう行くしかない。校舎に駆け込む。止められたが、無視した。

階段を駆け上る。昨日よりも厳重になった立入禁止のテープを越えると、屋上に到着した。

警察が、「何してるの君」と注意しても、彼女には聞こえていない。

彼女は屋上の隅々を観察した。いつもと変わらない屋上だった。しかし、柵の向こう側に、何かが落ちていた。

それに手を伸ばしてみた。見覚えのあるMP3プレイヤーだった。

満面の笑みでロックについて語ってくれたとき、彼はいつもそれを手に持っていた。

そこで彼女は察した。

ぽっかりと心に穴が空いた。

無の感情が彼女を襲った。

そのとき、MP3プレイヤーの裏側に付箋がついていることに気がついた。

それを見た瞬間、彼女の目からは、大量の涙が流れ出した。



おれは親からずっと暴力を受けてた。おれもおまえと一緒で生きる価値を見いだせなかった。初めて会った日、ほんとは死ぬつもりだったんだ。おまえはおれとはちがうよ。逃げてない。おまえはすごい。尊敬してる。俺が死んでもお前は死ぬなよ。おねがいだ。覚えてて



一番下に、最期まで知ることも無かった彼の名前も添えてあった。



それから彼女はふたたび走って彼女の部屋に戻った。パソコンに向かい、曲を作った。

すべての感情を音楽にぶつけた。

彼女はもがいた。彼の意思を気持ちをすべてを音楽に詰め込んだ。

そして題名をつけた。


もう会えない一人の少年の名前。


彼女は最後に、一粒の涙をその曲に注いだ。

美しくきらきらと輝く、まるで青空のような曲だった。それは一人の少年の存在だ。

少女は薬瓶の薬を数錠飲んで、布団に入った。

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