第2話 コロナ禍について
コロナ禍という状況になり、既に一年以上経過している。
第一波の逼迫した頃から、ポストコロナ(そのようなものがないことは自明になってしまったが)において世界状況がどのようになるのか語られていて、スペイン風邪の際の記述から『最も驚くべきことに、結局何も変わらなかった』という文言が見られたが、まったくその通りになっている印象である。変わらないも結局変わらないし、変化と見えるものは、コロナ以前から既に起きていた変化であって、その速度がコロナによって加速したに過ぎないように思える。
在宅ワークというものは以前から移行の動きが見られたし、その移行が前倒しになったのに過ぎない。都市部への人口流入は今は鈍化しているが、数年たってみればまた元のペースに戻ると推測している。
社会構造という意味では、確かに変化は見られない。ただ、個人という単位では、少なからざる変化を迫られた人は多いのではないか。
少なくとも自分はそうであった。
行動の制限のような、現実的な生活変化そのものは大した問題にはならないと思う。それよりも、コロナ禍にまつわる全体の社会の雰囲気、そこからコロナでない何かが自分に伝染し、自分の『心持ち』のコンディションを揺さぶった。最も緊張の高かった第一波の最中は、具体的な情報収集と対策に追われて肉体的な疲労にとどまったが、第一波収束から間もなく、些細なことでいら立ちを覚えたり、気分の変動の強い一時期があった。
それも時間経過とともに軽減していき、よくも悪くも、最大の感染拡大を見せている現在は、『心持ち』のコンディションは変わらないのだが(まさに麻痺)、この一年半の異常な社会状況をもって、根深い疑問を持つようになった。
まずひとつに、自分の人生とは何かという、青臭い自問自答である。まだCOVD-19がいかなるものか判然としない最中に、明日にも院内感染が起きて感染対応にあたり、自宅に帰ることができない可能性というのを考えた時、立場的にもはや避けることはできないという腹は括っていたが、人生とはなんだ、という疑問はよぎった。つらい体験をするかもしれないと迫られた時、思うことは『いったい自分は何のために』ということだった。その答えは出ないままだが、少なくともそこで自問自答したということが変化だった。自分探しなるものは、思春期だけに許される自意識の肥大と考えていたが、やはり大事なことなのではないだろうか。何が正解かわからない混沌の世界で立つ力をつけるためには、とにかく自分とは何なんだ、自分がなぜそこに居てなぜそれをしているのか、と、世界と同様に答えのない自分に纏わる問いかけをし続けるほかないように思える。
そしてもう一つは、国家に対する距離感である。
生涯の中で、今回ほど国家というものが遠くに感じられたことはない。
いろいろあるが、一つ例をあげるとすれば五輪に関することである。国家運営というものは、きっと頭のいい人たちが方々の顔色をうかがいながら、いろいろ算段して決めてはいるのだろうから、やるからにはやったほうがいいという根拠はあるものと考えている。経済やら国際関係やら、諸々総合して考えた時に、最終的な犠牲は少なく済むという判断が働いているはず(と信じている)。
ただ、個人の立場からすると、自分の目の前で感染患者が亡くなっていくのを見るのは嫌なのである。五輪と感染拡大の関わりについては諸説あるが、自分は五輪開催は少なくとも感染対策の観点からは最悪の一手と思っている。為政者は巨視的に物事を見ないといけないのだろうが、自分は医療という狭い枠でしか物事を見られない(それが自分の生活とコンディションに直結するからである。目の前で患者さんが亡くなる確率は減らしたいに決まっている。きれいごとではなく、死は怖いものだ)。
国家の幸福が自分の幸福とバッティングする。『無傷ではいられないから、このくらいの犠牲はしかたがない』という時に、その犠牲の側に回ったのなら、やはり相手の理屈にどのような正当性があったとしても、ふざけんなと言うだろう。それは『飲食店閉めてくれ』という医師会に対して、飲食業がふざけんなと思うのも同様である。それぞれの立場でそれぞれの最善は追求される。
だから、どの判断がより多くの人の不幸を最小限にする解なのかはわかりようもないのだが、個人的立場からものを言うことしかできないことを前提として、自分は国家を信用しないと決めた。
だからどうするかといえば、どうすることもできない。べつに国外に出ていけるわけでもない(国外に自分にとってのユートピアがあるわけでもない。当たり前だが、自分は一人で生きているわけではなく、自分の生活圏とともに生きている。それに、国家は嫌いになったが、くに自体はわりに好きである)。何らか行動に移すメンタリティもない。
ただただ、信念として、国家は信用しない。
足らない自分の頭を捻って、その局面での最善は何かを自分なりに考えるほかない。
たとえそれが、大海でちゃぱちゃぱ水面を叩いて喘いでいるだけだとしてもだ。
コロナ禍では、それを痛感した。
日々野雑感 @ryumei
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