第26話 カウントダウンⅢ
恥ずかしそうに赤く染めていた顔は、喜びに満ち溢れた笑顔へと変わって、再度一樹のことを見つめてくる。
その癖が強い髪の彼女は、
「それなら……い、一樹君も私のこと……名前で呼んでくれる……?」
心配そうに口にしたことは他愛のない言葉だが、それは狗龍幸にとってはとてもじゃない程の勇気が必要な言葉だった。
二ヶ月前まで人の個人情報を盗み取り、そして、それを使って他人を困らせてきたと言っていた彼女は友達がいなかったに等しい。そんな彼女をクラスのみんなは狗龍と呼んでいて一樹もその一人。そんな狗龍は初めて友達として、心を許せる人物として一樹に自分の名前を呼んでもらおうとしている。
狗龍の心拍数は少しだけ乱れていたのが、急速に速くなり、呼吸も肩でするようになり始める。
断られたらどうしよう……。
この不安が、彼女の心の中で大きく膨れ上がりストレスとなって、心拍数を上げるといった現象が体に現れたのだ。
一方の一樹はと言うと、狗龍からの言葉に驚いていた。これまでの彼女は、ミカエルにクラスに入れてもらうように言ったのを最後に、誰かにことを頼むことなどはしなかった。
そして、そんな彼女が今、一樹の目の前で「名前で呼んで」と頼んできたのだ。
それを無下にする訳にはいかない。
「狗龍がいいなら、俺も名前で呼ばせて貰うよ」
その瞬間に、狗龍は嬉しそうに微笑んだ。
俺は多少、名前を呼ぶのに戸惑うが、目の前にいる彼女の嬉しそうに微笑んでいる顔がより一層、輝くのを見たくなり、彼女の名前を口にした。
その名前はどんな風に言ったのかは分からない。自分でも意識していったわけではなく、ただ、自然と口から出てきたのだ。
彼女の名前を口にすれば、彼女の頬には一筋の雫が伝っていた。
「友達に名前で呼ばれるって……こんなにうれしいんだ」
彼女は涙を流しながら、頬を伝う一滴の涙を拭ってさっきよりも輝きが増した笑顔を向けてくる。
今のこの状況を他人が見たら、一樹が幸のことを泣かしたように見えてしまうかもしれない。そんな一抹の不安すら抱かずに、一樹は目の前にいる彼女を見つめる。さっきまで心の中にあった恥ずかしさは、いつの間にかどこかへと消えて無くなっていた。
「これからもよろしく頼むよ、幸」
幸へと伸ばされた一樹の右手へと幸の右手が差し伸べられる。手と手が重なり合い、
二人は優しくも力が籠った握手を交わしたのだ……が、
「イッキ~、そこで何してるのかなぁあ、ねぇ?」
この訓練棟の出口、一樹たちの目の前にある出口の前に立っている女子が一人。その制服も、一樹たちと同じ赤一色で染められたもので、高性能が売りと言っても過言ではないその制服を着た女子が、殺意が籠った視線と言葉を投げかけてくる。
その殺意には慣れている一樹ではあるものの、目の前で一樹の手を握っている幸にとっては相容れぬ存在。
『姫……』
目を逡巡させた幸が彼女を呼ぶ。
クラスの全員から呼ばれている名称、『姫』。そんな彼女が一樹たちの目の前に現れた。
「イッキたちが遅いと思って来てみれば……イッキは何? 幸を泣かしてるわけ?」
ここであらぬ誤解をされてしまった俺は、これをどうやって弁解すればいいのやら……。
「明日奈、俺は幸を泣かしてないぞ。ただ、幸がいきなり泣き出してだな……」
そして、俺の隣ではそれを証明するかのように頭を縦に振っている幸がいる。その様子は、明日奈に少し怯えていると言ってもいいかもしれない。たった一ヶ月で性格まで変わるとは……。由愛が言っていた性格とはもう、似ても似つかない性格へと変わってしまっていて、そこにさらに驚く俺だ。
「幸が勝手に泣くんだぁ、へぇー。でも、それって必ず何か原因があるわよね?」
そこまで俺のことを弄りたいのかっ!
心の中で叫んでも、それは明日奈に届くはずもなく、
「最低っ!」
の一言。その直後、制服の内側へと手を入れ、明日奈が特注で作った銃を取り出しては連射してくる。
ゴム弾だから死なないとは言っても、銃口から打ち出されたゴム弾は実銃と同じ速度で放たれるので、死ぬほどの激痛が襲ってくるのだ。
タ、タ、タァァンと三回もの発砲音が廊下に轟き、その光景を監視しているカメラが明日奈を捉えている。
音に反応するかのようにカメラのアングルが明日奈の方へと向くと、明日奈は襟元に着いている機械を弄り、
「由愛? 悪いんだけど、射撃場の監視カメラのモニター偽造しといてくれる? 今、イッキのこと撃った瞬間撮られちゃったからどうにかしないとまずいのよ。やってくれない?」
と、由愛に連絡を取ったらしい明日奈の声に反応するかのように、制服の襟元に着いている機械からは声が響いて、
『明日奈~。そうやってイッキを見つけたら撃つ癖どうにかして欲しいなのよ。毎回、私がやってると流石に私だって嫌気が指すのよさ』
「そうは言わずに、お願いよ。今度なにか買ってあげるから。それならいいでしょ?」
『買わなくてもいいのよ。その代わりに、イッキを一日私に貸してほしいのよ? それならやってあげなくもないのよさ』
「イッキを一日貸す……」
顎に手を当てて、迷っている様子の明日奈は唸り始める。
何故にそこで悩むのかが分からないが、それ以前に俺はお前のものになったつもりはないんだが!?
地面で呻く一樹を尻目に明日奈は勝手に話を進めていく。明日奈の傍若無人ぶりに、拍車が掛かってしまったのは誰のせいなんだ……。
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