音楽の中で
桜の花びらが何十、何百と散っている春。
俺こと櫻坂幸は入学式当日、集合時間の十五分後に学校へと到着したのだ。簡単に言えば、遅刻。
そう、俺は学園生活の始めである入学式に遅刻してしまい、今は昇降口で呆然と立っていたのだが、そんな時間を過ごすわけにもいかない。
来て早々だが、ここまで歩いてきた道を遡る形で自分の家がある方向へと体を向けたのだ。
だが、そんな時に飛んできた一つの紙飛行機。その紙飛行機は必然か偶然か、俺の顔へと一直線に飛んできたのだ。
この春一番が吹く季節の中で飛んできた紙飛行機は、驚くほどの速さだったが意外にも取れた自分が誇らしく思えた。だが、そんな紙飛行機には紫色の文字で何かが綴られていた。
俺は紫色で綴られた文字を確認するために、ゆっくりと紙飛行機を開けば、
入学おめでとう、幸ちゃん♡
という、おかしな文面があったのだ。
そんな奇妙な文面が視界の中へと入ってきた俺の気持ちはと言うと、
「この学校、辞めたくなってきた」
と、こんな感じに意気消沈となったのだ。
そして、時を同じくしてその光景を見ていた女子がいた。
スラッとした足に丁度良く括くびれのあるウェスト。また、そんな体にお淑しとやかに供えられた二つの双峡そうきょう。そして、パッチリとした目に可愛らしい口元を持つ彼女は、まるでファッションモデルの表紙を飾ってもおかしくない程の体つきで、近くを通った男子が目で追ってしまいそうなほどの容姿。
そんな彼女がいるのは日の字型の学園の下側、昇降口のちょうど真上にある三階の音楽室の窓から見下ろす様にして、踵を返した少年を見つめていた。
「久しぶりに見たけど、やっぱり昔と変わってないみたいだね……幸ちゃん」
どこか気品のあるお姉さま系の空気を醸し出している彼女だが何故、入学式当日に在校生がいないはずの校内にいるのか……。それは教師の人たちにも分からず、その答えは彼女にしか答えられないものになった。
音楽室に備え付けられているグランドピアノ。
彼女は窓から一度離れればグランドピアノのある方へと歩み寄り、黒く光沢を光らせている椅子へと座り込み、ピアノの鍵盤へと両手をそっと置く。
「幸ちゃんがこれを聞いたら、私の事……思い出してくれるかな?」
彼女一人だけの室内では、そんな彼女の優しい声が響き渡る。音が反響する音楽室の中で、たった一つの音源である彼女の声。そんな声と同時に響き渡るのは彼女と大切な人との想い出の曲であるヨハン・パッヘルベル作曲のカノン。柔らかな曲想に心が癒される音色。そんな彼女にとっての想いの詰まった曲が音楽室から窓を通して昇降口へと響いて行く。そして、彼女の奏でる音色は学園に入学したての一年生の緊張した心を解きほぐしていくものだった。
数分間にも渡る曲は、ただ只管ひたすらに心を込めて弾いた。
これを聞いて、彼がここに来てくれることを願って……。
そして、曲へと込めた気持ちは優しく自分自身を包み込む。
彼女が幼い頃に何度も何度も練習してやっと弾けるようになった曲が学園を包み込んだのだ。それに端を発する教師などは誰一人としていない。
教師達も一緒に、彼女が弾いている曲を聞き入っていた。
そして、この音楽室へと近づいてくる足音が一つ。この曲の出元であるこの場所へと急いで近づいてくる足音。それが誰のものなのかは、彼女には分からない。ただ分かることは、その足音が確実にここへと近づいている事と、足音が徐々にだが速くなっていることだけだった。
タッタッタ、と速くなって近づいてくる足音は急に減速した。足音が音楽室の前に近づくと遅くなっては、恐らく、彼女が弾いている左側、音楽室の前のドアからは誰かが入って来るだろう。
そんな予想と期待、そして不安を抱えながら尚、彼女は軽やかに、そして優雅に動く腕がカノンをより優しい曲へと変えていく。
彼女が弾いている曲が一区切りついた時、音楽室の扉が開かれた。
扉が開かれると同時に開かれた扉から、外では激しく吹いている風が髪を靡なびかせる程度の力で吹いてくる。
心地良い風……。
彼女は心の中で呟き、そしてピアノへと向いていた視線は、この音楽室へと入ってきた一人の生徒へと向けられる。
そんな彼女はその生徒を知っている。ほんの数分前まで下で、入学式に遅刻してきた少年のことを彼女は知っている。
風に吹かれたせいか、身嗜みだしなみは悪くなってしまってはいるものの、彼自身の雰囲気は変わらない。平均的な身長で髪もワックスなどを一切使っていないのがわかる程のストレート。昔から眠たそうにしている瞳に、そんな表情からは窺えない程の抱擁力のある雰囲気。
昔から知っているそんな彼は息を切らせながら、私の方へと視線を向けてくる。
そこで私たちの視線が重なった。
数秒間も私の事を見つめる彼に、私も見つめる。
本当にそこには、私が知っている彼がいる。
だけど、そんな彼は私の事を覚えているのだろうか?
五年前、私が先に卒業した時に最後に掛けた言葉を、彼は覚えているのだろうか……。
勇気を振り絞って出した言葉。
どれだけの勇気を振り絞ったのかは、もう覚えていない。それ程の勇気と覚悟を持って、心の底から想っていた言葉。
昔の想い出を海馬の中から取り出しては、脳内で何度もリプレイする。
桜が散るこの季節に、先に小学校を卒業した私。そして卒業した時、彼へと掛けた言葉は今でも忘れない。一年後には、同じ中学校に通うと思っていたものが叶わないものになった時は、心の底から悲しんだけど、こうしてもう一度、再会できた喜びは昔の事なんかを忘れさせるほどの出来事。
三階の昇降口の窓。そこからは校舎へと吹きつけた春一番が三階へと遡り、桜の花びらが私の背中を優しく吹き付け、それはゆっくりとした速度で目の前にいる彼へと吹いて行く。
目をパチクリさせている彼は、何かを思い出そうとしているようだ。懐かし顔ぶれを思い出そうと頭の中を整理しているかのようだ。
そんな彼よりも先に、
「久しぶりだね……幸ちゃん。私の事……覚えてる?」
私はその言葉を言い終わると同時に、再びカノンを弾き始める。これが切掛けで思い出してくれるかもしれない。
幸ちゃんが好きだって言ったこの曲を何十回、何百回と練習してやっと弾けるようになったこの曲を……。
この曲を私が弾いている瞬間を彼には見せたことがない。でも、小学校の放課後、音楽室に先生と一緒に三人で聞いたこの曲で私の事を思い出してくれるかもしれない。
私はそんな想い出を乗せて、この曲を彼へと贈る。
何度も何度も一緒に聞いた曲。想い出が詰まったこの曲を音楽室、そして学園中へと響かせる。
そして、この音楽室の中には新たな音源が生まれた。
「もしかして…………由美姉ちゃん?」
音楽室に響き渡る音楽(想い出)に交わるもう一つの音楽(思い出)。
声という名の音楽が柔らかな曲想を描いて、私の音楽へと重なった。
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