懐かしいものに新しいもの
耳に残っている懐かしい曲が学園内から校舎全体を包むようにして響いて行く。
俺はそんな懐かしい曲が響く方へと体を動かしていく。まだ、学園全体の容貌を知らない俺だが、それでも曲が響いてくる方へと駆けて行く。
息切れが激しくなり始めるが、そんなことは関係なく全速力で走る。
「凄く懐かしいな、この曲……いつからだ? 聞かなくなったの……」
走りながら曲を懐かしむ俺は昔の記憶を遡ろうとしたが、なかなか昔の記憶を取り出すことができない。本当に昔、俺がまだ小学生ぐらいだった時によく聞いていたような気がするけど、それが鮮明には思い出せない。
今も尚、俺が校内を走り続けている中で耳に届くのは、心を穏やかにさせる曲。
「あそこから聞こえてくる……」
音楽室と書かれた表記が目に止まり、俺はより一層足を速めて音楽室へと近づいて行き、扉の前へと着いた俺は一度深呼吸をしてから中へと繋がる扉をゆっくりと開ける。
金具が出す甲高い音が扉を開くときになり、ゆっくりと開いていた扉を少しだけ速めて開き、中へと足を踏み入れる。俺の後ろからは春一番が穏やかに吹き付け、音楽室の中を通り過ぎていく。
そして、俺の視線の先……黒板の目の前に黒い光沢を放っているグランドピアノ。その鍵盤へと手をそっと置いている一人の女子がいる。
この光陽学園は全生徒がネクタイを付けている。上履きなどはどんなものでもいいのだが、学年を表す意味で今年の一年が青、二年が緑で三年が赤だ。そして、俺の目の前にいる女子生徒のネクタイの色は緑……要するに上級生だ。
今日の入学式では在校生はいないと聞いたのだが、何故だか彼女はこうして入学式当日。在校生は立ち入り禁止の学園へと足を踏み入れている。
怪訝そうに目の前にいる上級生、所謂先輩へとそんな視線を向けていれば、
「久しぶりだね……幸ちゃん。私の事……覚えてる?」
と、まるで俺の事を知っているかのように話しかけてくる先輩。そして、そのまま言い終わった後、彼女の目の前にあるグランドピアノへと手を置いてもう一度グランドピアノで音を奏で始める。
視線の先にいる彼女……モデルでもしていそうな先輩の言葉、そして弾いている曲。どこか聞き覚えがあり、先輩にも見覚えがある気がする。何年も前に何度も会ったようなそんな気がする。
少しずつ、少しずつ頭の中から湧き出てくる記憶の断片。その中には、誰かと一緒におそらくは小学校の音楽室だろう。そこで先生が弾いてくれた、この曲を一緒に聞いている子がいた。俺よりも一学年上で、俺に凄く優しかった子。
俺のことを理解してくれていた子がいた。それも女の子だった。
鮮明に流れてくる記憶を再生させて、確認することが出来たのはその子の表情。満面の笑みをこっちに向けて、俺の名前を呼ぶ彼女の姿だ。
俺はふと、そこで彼女の名前を思い出すことができた。彼女が先に卒業してから呼ばなくなった名前。
俺はゆっくりと動く口から彼女の名前を呼ぶ。昔と同じ呼び方で……。
「もしかして………………由美姉ちゃん?」
曲が流れている中で、俺の声は鮮明に彼女の耳元へと届いただろうか。
これで間違ってたら笑いものだよな……。
俺はそんな気持ちで彼女の表情を少し遠くから見つめた。彼女がどんな表情をするのかで、俺が間違っているのか間違っていないのかが一目瞭然になるからだ。
そして、次には答えが出てきていた。
「私の事……覚えてくれてたんだね」
涙を浮かべながら視線を向けている彼女はピアノを弾くことを止め、少しずつ俺の方へと歩みを進める。
その歩の進みは優しいもので、その姿も昔に見たものだった。彼女は心身ともに成長しているから昔の面影を薄くしているかと思っていたが、その歩く様は昔も今も変わらずにいた。
「あれからもう五年も経つんだよ? ずっと逢いたかった……」
そして、彼女は俺にそっと腕を回して優しく抱いてくれた。その腕から伝わる温もりは心に染み渡るようで、ポカポカとした気持ちになる。昔に無くした気持ちが少しずつ戻ってくるかのようだ。
「由美姉ちゃん……?」
「あれから同じ中学校に行けると思ってたのに……幸ちゃんったら違う中学校に行って、私……寂しかったんだよ?」
「…………ごめん」
その言葉が妙に心に突き刺さり、俺はどんな顔をして由美姉ちゃんを見ればいいのか分からなくなった。由美姉ちゃんが卒業してから俺にはいろんな出来事があった。それが結局、彼女と同じ学校に行けなくなった直接的な原因に繋がったわけでもある。
俺自身、今どんな表情をしているのか分かったものじゃない。
久しぶりに会えた由美姉ちゃんには申し訳ないけど、他にどんな言葉を掛けていいのかも分からないし、どんな表情をしていいのかも分からない。
そんなことを考えていると、音楽室のスピーカーからは学校中に響き渡るチャイムの音が流れてくる。
「やばっ……どうしよう、俺遅刻してきたんだよね」
あと十分もすれば、教室で待機していた新入生たちが入学式のために体育館へと移動を開始する。本当だったら、俺も入学式に参加しなくちゃいけないのに寝坊をしてしまった俺は入学式に参加するのか決めかねていたところだったんだ。
「由美姉ちゃん……ここまで来たから俺、入学式に参加した方がいいよね?」
恐る恐るといった感じに俺に抱き着いている彼女へと質問をすれば、
「……確かにそうかもね。私もそろそろ行かないといけないし、幸ちゃんも早く自分のクラスに行った方がいいかも」
とのことだ。
久しぶりに会った由美姉ちゃんには悪いけど、これから同じ高校に通うことが出来るため、一旦ここで別れた。
明日も由美姉ちゃんと会えるかな?
俺は心の中で呟き、音楽室の扉を勢いよく開けて自分の教室へと走っていく。その時にはもう恥ずかしさとかは消え去っていて、とにかくこれからは、この光陽学園で学生生活を楽しむことが出来る。しかも、中学校の同期もいない。それが意味することは俺にとっては大きい。そして、この学校には俺に優しくしてくれる先輩もいる。
そんな気持ちでいっぱいになった心で自分のクラスへと足を踏み入れたのであった。
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