朝の空色の瞳

篠岡遼佳

朝の空色の瞳

 その薄暗い部屋は、夜明けを迎えようとしていた。


 

 下着姿の若い男は、二、三度、タバコの箱の底を叩くと、一本取り出し、火をつけた。

 シーツも毛布も乱れたベッドには、亜麻色の波打つ髪。

 濃い酒と煙の匂いにつられたように、そのなめらかな肌が身じろぎ、まぶたを開いた。

 いまの空ような、浅いブルー。

 その目が、男の横顔を捉えて微笑む。


「ねえ、いつも先に起きてるのはなぜ?」

「男はこういうとき、先に起きてるものなの」


 言いながら、煙を吐き、ついでに女の頬に吸い付くようなキスをする。

 やぁだ、と言いながら、女は笑った。

 するりとシーツを身に纏い、身を起こす。

 その豊満な胸元には、識別番号のバーコードが刻まれている。

 彼女はだ。


 女は男の首に腕を回し、満足げな猫のように喉を鳴らして、顔をすり寄せた。


「"仕事"は何度もしてきたけど、こういうのははじめて」

「"仕事"を何度もしてる時点で、それは信じられねぇな」


 ――この国は天災と少子化に悩み、結果、アンドロイドを作り出した。

 見目良く、男女が有り、法律上はペットと同じ扱いの、人間ではない存在。

 そして"仕事"は、


「ま、いいや。風呂は?」

「シャワーだけ浴びてくる。借りるわね」

「おう」


 精子と卵子を提供してもらうことだ。

 一定の年齢を過ぎ、パートナーがいるという申し出をしなかった者は、役所から通知が来る。

 そしてアンドロイドがやってきて、その生殖細胞を保存するのだ。


 男は軽い朝食を用意して、タバコを消しながらグラスに牛乳を注いだ。

 食事は一人分。アンドロイドは食事をしない。その内部構造は特に秘されている。


 髪を拭きながら、女が男のシャツ一枚の姿で現れた。

 男はスツールから立ち上がると、女を軽く抱きしめた。


「いいな、それ」

「毎度ご好評です」

 そんなことを言い合い、額を合わせ、二人で微笑む。

 鼻先にキスをすると、男はじっと、女を見た。


「――一緒に暮らさないか」


 浅いブルーの瞳が二回瞬く。


「"仕事"は続けていい、それがアンドロイドだから。

 けど、帰ってくる場所を、ここにしないか?

 ずっと別の男の部屋に、泊まるんじゃなくて」


 その瞳は、微笑みの形に変わった。


「意外ね。

 あなたも、そういうこと言うなんて」


 かわいいわ。そう言って女はくすくすと笑った。


「私は、疑似家族かぞくって、だめなのよ。何度やっても。

 仕事、性に合ってるみたい。

 鳥みたいに、あっちに行ったり、こっちに行ったり。

 それに有り体に言えば、いい気持ちにさせてくれるのが好きなの」


「――そうか」


 男は視線をずらしてふっと息を漏らしてから、彼女を正面から見つめ、再びベッドに押し倒した。


「じゃ、忘れられないように」

「普通逆じゃないかしら」

「逆でもなんでもいい。もーいっかいでも、にかいでも、何回でも」

「どうぞ、何してもいいわ。痛いのも、苦しいのも、何でも大丈夫」

「やだな、そんなことしないよ。

 でも、忘れられないように、思いっきり、特別に特別なこと、俺はするから」


 ――いつか、俺を思い出して。




 

 

 ――そしていま。

 女のほおは膨れ上がり、まぶたも殴られたあとの痣が残っている。

 不衛生で淀んだ匂いと、食べ残しの匂いが混じり合い、痛覚を更に刺激するようだ。


 そんなときはいつも、記憶の奥から楽しかったことが思い出される。 


 優しい人、お金持ちな人、貧乏な人、悪いことをする人、良き隣人である人。

 それから。


「――そんなひとも、いたわね」


 なぜかその言葉が、声となってこぼれた。

 清潔なベッドも、シーツも、あのタバコの匂いも、ついばむようなキスも、ここにはない。

 アンドロイドの"仕事"とはそういうものだ。

 言われるがままに男の部屋をノックする。

 扱いはペットと同じ。

 虐待する者も、この世界にはいる。



 女は胸の前で、ぎゅっと手を握った。

 そうしなければ、このキリキリと痛む心音が、涙になりそうで。


 帰る場所、帰る場所、帰る場所。

 もしもそんなものが、あるのなら。



「……あなたに、会いたい」



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朝の空色の瞳 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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