第20話
ベッドの上で拘束されたまま、どれだけの時間が経ったのか。忍びの郷の長である忍(しのぶ)は全身を苛む地獄の様な苦しみを奥歯を噛みしめながら耐え続けていた。
忍び郷の郷長を襲名して三十年。既に七十歳の高齢で、ここ数年は一日のほとんどを後継者選びに費やして来た。未だに当代の郷長として納得のいく後継者は見つかっておらず、日増しに焦りを募らせて来た。
原因は忍自身も分かってはいた。忍びの郷の中で外界との接触を禁じた掟に反発する声が出始めているせいだった。
忍びの郷は外界の政治勢力との協議により、アメリカのCIAやロシアのKGBさえも凌ぐ世界最高ランクの諜報活動で求める情報や、ある時には敵勢力を秘密裏に排除しその報酬を得ている。だがその際、どの様な手段、技術、人員、作戦を使ったかについては一切の極秘とし、世界各国の諜報活動における最終兵器としての地位を確立して来た。
だが外界では忍者達でさえ想像もつかないほどの速度で情報化が進んでいる。対して忍びの郷は科学技術や医療技術では大きく進んではいても、技術進歩に関しては停滞期に入りつつある。故に忍びの郷の技術的優位が確立出来ている内に、外界との接触を図り今後の将来の忍者達が苦労する事のない新体制を作る。
二十年ほど前に忍者ガジェットの開発者だったくノ一が提言したその改革案が彼女が追放されてなお収まるところを知らず、少しずつ少しずつ広がりつつあった。
あり得ない事だ。忍はその改革案について聞くたびにそう吐き捨てて来た。幾ら外界の連中の進歩スピードが速かろうと、忍鋼を守り続ける限り忍びの郷の優位性は変わらない。それ故に忍鋼が流出する可能性を一つでも潰す為に外界との接触を禁じたのだ。その掟を守る為に一体どれほどの忍者が命をかけて来たか。掟の歴史の重みも知らず、軽んじる様な忍者に郷の未来を語る資格なぞあるものか。
真に郷の未来を守りたいのであれば、例え忍者や家族であっても掟の為に犠牲にする覚悟を持ってから語りたい事を語れ。それが出来ないなら口を閉ざすか郷を去れ。
改革案を最初に言い出した実の娘にそう言い放ち、それが母娘の最後の会話になった日から郷長として掟を守る事こそ使命と信じてどんな非情な決断も下して来た。それが如何に心苦しくとも、郷を守るため。ひいてはそれが未来の忍者達の為と信じて来た。
だがまさかここに来てかつての愛弟子が裏切るとは。確かに追放はした。だがそれは自分の弟子だからと手心を加えてはならぬと、断腸の思いで下した沙汰であった。
だからこそ六年前に弾が一度現れた時には心底失望した。追放処分にせざるを得なかった師であり郷長の覚悟を、あの馬鹿弟子は何も理解していなかったと思い知らされた。だからあえて目の前で道を塞ぎ、掟の重さを思い知らせてやったのに。
だが今やかつての弟子は内部の反乱分子と組んで郷を襲い、忍鋼も忍者ガジェットも根こそぎ奪おうとしている。
「おのれ、おのれ、おのれ…!!」
確かに考えうる中でこの郷に対して最も効果のある最高の復讐だ。しかしそれ故に余計となんたる恩知らずな弟子だろうと涙が出て来る。
この体さえ動けば、今すぐにでもここを抜け出し不届き千万なる裏切り者どもを八つ裂きにしてやると言うのに。
毒に蝕まれ、身動き一つ取るごとに激痛が走る。完治こそさせないが、死にはしないよう解毒剤と毒が交互に右手に刺さった点滴から血管に流し込まれ、忍はただひたすらに呪詛の呻き声を上げ続けるしかない。
「おのれ、絶対に許さんぞ弾…!!このままにはさせぬ…!!例え化けて出てでも必ずや郷の秘密は、掟は破らせはせんぞ…!!」
喉は枯れ、全身の血が毒々しい青に染まりながらも、忍は怨嗟の限りを尽くして叫び続ける。
その光景をモニター越しに見て、弾は周囲の仲間たち共々戦慄していた。
「…この映像、ネットに出せば中々良いホラー映画のワンシーンに間違われるんじゃないかな?」
「貴方も相変わらず映画ネタ好きだねぇ」
呆れたように吐き捨てる旋風を横目に話の通じない女だとため息を吐く弾。旋風の目には、苦しむ忍の歪んだ顔に対する怒りと失望、そして僅かな後悔の混じった表情を誤魔化そうとやけに饒舌になる弾が写っていた。しかし本人にそのことを伝えるつもりはない。カウンセラーの真似事などするつもりは無かった。
「それにしても、手が足りていないんじゃ無いの?あの大蛇はくたばったんだし、協力してくれそうな忍者の一人や二人、選ぶのもアリだと思うけど」
「問題無い。港の時は新型ガジェットと奇襲の二つでやられたが、大蛇の奴が最後に送って来た情報で新型ガジェットの一部は既に割れている。敵の狙いも分かっているのなら、俺と影の二人で十分だろう」
「本当に?アンタ、実の所鈍ってんじゃ無いでしょうね?」
「鈍ってたさ。だが、感は取り戻した」
自信満々な弾の横顔を旋風が疑わしげな目付きで見つめる。
身体全体が軋むように痛む。螺厭は病院着を脱ぎながら、肩の関節が悲鳴をあげているのを感じて顔をしかめた。この痛みを感じるたびに忍者の毒の絶対に殺すし万が一死ななくても限界まで苦しめてやると言う悪意満載っぷりに恐怖を感じる。
紅の薬が無ければ間違い無く死んでいた。それが良かったのか悪かったのかはこれから決まる事。ただやっぱり忍者ってのは怖い奴らだったという事は間違いない。
痛いのを堪えつつシャツを羽織りながら螺厭はふと視線を感じて天井を見上げる。一見すると何も無いただの警察病院の病室の天井だが、そこからはすっかりと慣れ親しんだ気配がした。
「気づいた?」
「勿論」
天井に張り付きずっと螺厭の事を見張っていたのか、すうっと全身を覆っていた光学迷彩を解除し紅が顔を隠していたマフラーを首元にまで下げる。そして忍び装束の指向性磁力を切って螺厭のベッドの隣に飛び降り椅子に座った。
「着替え中なんだけども」
「いーじゃない。今更」
「俺は君の着替えの時はちゃんと出て行くんだけどさ。そこの所どうなんだよ。この世の中一応セクハラってのは男女問わず成立するんだが」
「ふーん」
興味なさげな様子で忍び装束のあちこちに仕込まれた忍者ガジェットの数々を確認し始める紅。今更螺厭の着替えなんか別に一々関心持ってられない、と言わんばかりの様子にイラッとする。だがだからと言ってここで時間をかけてはいられない。全身の痛みを堪えて上着を羽織り靴下を履く。そして靴に足を入れた所で紅も忍者ガジェットの確認が終わったらしく立ち上がって螺厭の肩を支えた。
「辛いんでしょ?肩、貸したげる」
「…あ、ありがとう」
ふふ、と穏やかな笑顔を向けてくる紅に微かに赤くなって視線を逸らす螺厭。そして靴を履き終え立ち上がって、予想以上に足の力が入らない事に驚いた。
「う、お、とと…」
紅が支えているお陰でなんとか立ち上がる事は出来た螺厭だったが、足に力が入らない。ぐらりと体勢を崩し、紅が慌てて螺厭を引き寄せる。思わず螺厭が紅にしがみ付くと、その手は意図せず柔らかくて大きな物体にしがみ付いてしまった。
「………」
一瞬何が起きたか分からずキョトンとする紅。慌てて離れてまたベッドに倒れ込む螺厭。その手の形は明らかに何かの感触を確かめる様に固まっていたのを見て、紅はまるで太陽の様に顔を真っ赤に染めて後ずさる。
無言のまま暫く固まる二人。口がカラカラになって、何と言い訳しようと思っても声が出ない螺厭と身を守る様に自分の身体を抱きしめる紅。
触られた。握られた。そりゃ、時々視線は感じてたけど…と悶々としてしまう。
紅が再起動するより先に、とりあえず身体が動いた螺厭がベッドの上で正座。首を垂れて土下座の姿勢を取ろうとする。
「ちょ、ちょっと…!!待っ………って!!」
相手は病み上がりの半病人。それもワザとじゃ無いって事もちゃんと分かってる。恥ずかしいし、ちょっと悔しいけど、そんな事で土下座なんてさせられない。
まるでマシーンの如く機械的に土下座の姿勢を取ろうとする螺厭の肩を掴み、グググと無理やり持ち上げて行く。忍び装束のパワーアシストもあって軽々と螺厭を持ち上げ、ストンと音を立ててベッドから隣の椅子に座らせる。そして恐怖なのかこの世の終わりの様な、しかしどこと無く役得感を隠し切れない螺厭の手を掴んだ。
「あ、アタシ、怒って、無い、から…」
「殺されるかと…」
「し、しないしない!絶対この事で螺厭の事、責めたりなんてしないから!だから、ね?忘れて?」
手の形がまだ紅の膨らみの形を維持しているのを手で抑えられ、螺厭はふうーっと大きく深呼吸。しかし次の言葉が出てこない。状況に応じて紅相手に反撃する筈だったのに、まさか言葉が出てこないとは。
とりあえずは手の力を抜き、感触やら何やらは記憶からは消えそうに無いのでそっと頭の中のフォルダーに残しつつ何とか寝惚けと色惚けで真っ白だった頭のギアを入れようと自分の両頬を叩いて立ち上がる。
が、立ち上がって降ろした腕の先、手の形がまだ変わっていなかった。紅の目が微かに鋭く、そしてジトッとした色に染まる。螺厭はどうという理由はないが、久しぶりに握力を鍛える為にグッパグッパと手の運動を始めた。
もう、と流石にごまかし切れ無かったのかため息混じりの紅の隣を歩幅を合わせて歩き出す螺厭。紅もいつ倒れ込んでしまってもいい様に左手の裾を握り締めた。螺厭の方は顔だけは気まずそうに、そして紅はむすっとしながらも寄り添いながら二人は警察病院のエントランスに降りて行った。
待ち構えていた公安の葦原は、味気なさそうな顔で禁煙用のガムを包み紙に包んでゴミ箱に捨てつつ二人の方を振り向いた。少し顔色の悪い彼氏の迎えに来た彼女、と言う病院のエントランスではそれなりに珍しくない光景だが、生憎と二人はまだそんな色っぽい関係では無い。まあ子供の面倒の一つや二つ見れなくも無いが、一々首を突っ込むこともないだろう。
「瑠璃子さんは?」
「彼女はもうこれ以上は手を貸す理由もないとの事で帰ったよ。此方としては、出来れば技術顧問として日本政府直下のポストを用意したかったが、本人にその意思がないなら仕方ない。それに、私達もこれ以上は君らに手を貸せないしな」
「…改めて、日本政府や警察庁は今回の案件に無干渉の立場にあると。そう言いたい訳ですか。今まで散々からあたしの事追いかけ回しておいて、螺厭を一晩警察病院に泊めただけで貸し借り無し?」
「いやいや、俺たち港一つ吹っ飛ばしちゃってるしな。ここは引き下がっておいた方が良さそうだぞ」
「そう言う事だ。既に薬品輸送船の事故で処理している。でなければここでお前たち二人を逮捕している所だぞ」
「全く、これだから考えに足りない忍者は困るんだ」
「なんか言った?」
「いえ、何も」
次下手なことを言ってみろ、支えているこの左腕にアームロック極めてへし折ってやると言わんばかりの満面の笑顔。若干冷や汗をかく螺厭だったが、それでも素直に黙ると紅もそれ以上は何も言わなかった。そしてこれ以上の支えは要らないと判断したらしく螺厭のそばを離れた。ただ少しだけ調子の戻ってきた螺厭の様子にほっとした様子でもあった。
「勿論君らの動向は監視させてもらう。曲がりなりにも国内でドンパチやらかそうとしているんだ。忍びの郷の情報だって要らないわけではない。だが、それ以上のことはしない。君が我々の追跡を振り切り、たった一人でテロリストに占領された忍びの郷に突入しようと、それを事前に阻止する権利は私達には無い。だが、深南雲螺厭君。君は今ならただの一般市民として、事件の部外者に戻ることは可能だ。望むなら、非公式ではあるが証人保護プログラムとして別人として新しい戸籍と名前を与える事も出来る。どうする?」
葦原の言葉に螺厭は一切の躊躇も迷いもなく首を横に振った。その躊躇の無さに紅がかすかに不安げな顔を見せる。
螺厭が心に抱えていた自殺願望は恐らくもう無いと信じたい。だけど他人の心の内なんて外からそう簡単にわかるものじゃ無い。
紅にとってまだ螺厭はいつ目の前からフッと消えてしまうか分からない蝋燭の火の様だった。紅一人では到底見つけられなかった、忍びの郷の奪還に向けての道筋を照らす一筋の光明。多少の減らず口はともかくとして、暗がりの中でただ一つ、螺厭だけが信じられる。
しかしそう思うからこそ、どこかで螺厭がまた消えようとしている雰囲気を感じてしまう。紅は不安な心持ちだった。お願いだから、まだ消えないで。そう心の中で願う中で、螺厭はギュッと紅の手を握った。
「決着は、俺と紅で付けるって決めました。だから、ここでお別れです」
螺厭の手を紅もギュッと握り返し、二人は歩き出した。葦原はその背中を見届けて新しい禁煙ガムの包み紙を開けて口に入れつつ自分も仕事に戻るべく歩き出す。
「本部、忍者が動き出しました。現時点より二十四時間以内は事前の対忍者マニュアルに則って、厳重警戒態勢を維持して下さい。繰り返します、二十四時間以内には本案件の解決が見込まれます。各位、厳重警戒態勢を………………」
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