第19話
倦怠感と虚脱感とほんの僅かな暖かさ。深南雲螺厭はぼんやりとした意識の中で、全身を包み込むそんな不思議な感覚に気づいた。
まさかここは天国なのかと淡い期待を寄せるが、すぐにトクン、トクンと自分の心臓の鼓動らしい音が耳に届く。しかもそれ以外の音が聞こえないからかやけに心音が大きく聞こえた。全く、嫌がらせか。やっとの思いで戦ったのだから、その報酬で天国に連れて行ってくれれば良かったのに。
螺厭が神様を怨みながら薄らと目を開けると、真っ白な天井とそこに取り付けられた蛍光灯を見つける。周囲はカーテンで覆われていて、そして……………
「ん…」
そこには彼女が、紅が居た。忍者装束では無く洋服を着て、椅子の背もたれに身体を預けて本を読んでいた。何を読んでいて、何が面白いのか時々頬を緩め、笑いをごまかす様に咳払いをする。その仕草に螺厭は少しの間だけ見惚れていた。
不意に思い出す船での最後の記憶。母さんを殺した毒ガスを全身に浴びて、それでもなお一人でも多くの敵を道連れにしようと特攻をかました。そして達成感に浸りながら死んでいこうとしたあの時、螺厭は確かに唇に不思議な暖かさを感じた。
母さんの迎えかと思ったが、実際はこうして生きている。あの毒ガスは一般の世界には血清も解毒剤も存在せず、忍者だけが助かる事が出来る。そして紅は以前、どんな毒も忍者の私には効かないと得意げに宣言していた。何故なら口の中にあらゆる薬が仕込まれた浄化親不知があるから。
螺厭はもう一度目を閉じて考える。これはどう言う事なんだろうか。紅はまさかそこまでして自分の事を助けたかったのか。それとも忍者にしてみればたかがキスくらいどうでも良い事なのか。こればっかりはここで悶々としていても答えは出ないのは分かっているのだが、聞くに聞かない。気にはなるのだが。
やがてなんとかその思考から自分を取り戻しつつ、螺厭はもう一度目を開ける。やはりさっきと同じ天井と蛍光灯。そして紅に声をかけようと口を開こうとしたその時、不意に紅が螺厭の顔を覗き込んだ。
「うおぉ!?」
びっくりして飛び起きる螺厭。紅はその動きを予想していたのか、ひょいと身体を起こして螺厭の額を避けると、もう一度椅子に座り直して足を組んだ。ミニスカートが風に煽られてフワリと膨らみ、ただでさえ赤い螺厭の顔が更に赤くなる。
「やっぱり寝たふり。忍者の私にバレないとでも思って?」
「お、脅かすなよ…心臓が止まるかと思った…」
「止めて欲しい?欲しいんでしょ?」
「今は良いよ…」
クスクス笑う紅。いつもの仕返しのつもりなのか、螺厭の視線を唇に指を当てて誘導する。まんまと紅の形の良い唇に視線を吸い寄せられて悔しげにベッドに倒れ込む螺厭を、紅は鼻歌交じりに掛け布団を掛ける。
「どうだった?散々から馬鹿してた忍者とのファーストキスの感覚は?」
「…覚えてないな」
「嘘ついても無駄よ。ま、医療行為だったから私の方はノーカンにしとく。螺厭もそうしたら?」
すっかりペースを握られ、心底楽しげに足をパタパタ揺らす紅から視線を逸らす。なんとかここいらでペースを取り戻さないと。
その時少しだけ咳き込む螺厭。もう吐血はしないらしい。見れば右手に輸血用の点滴が刺さっていて、その指先の血色はそれなりに良さそうだった。死の間際の母さんはそれこそ指先も真っ青だった物だ。
感慨深げに指先から視線を逸らすと、さっきまでとは違い真剣な眼差しで紅が螺厭を見つめていた。
「死にそびれた気分はどう?」
「…見捨ててくれれば良かったのにって思ってるよ。もう親父の計画を止めるのに必要な手は全て打った。結果を見届けるつもりも正直言って無かったんだ。なのに、何で助けた?」
「アンタが死にたがってたからよ」
さらりと言い放つ紅に唖然とする螺厭。紅はじっと螺厭の目を見つめ、居心地悪くて視線を晒そうとする螺厭の手を握った。ちょっと力が強くて骨が軋む音がした気がして思わず悲鳴を上げる。その痛みで生きている実感が湧いてくるが、そんな形で実感したくは無かった。
しばらくして螺厭の手を放した紅は、呆れた様にため息を吐く。ここまで馬鹿だとは思わなかったと言わんばかりだ。
正直言って本当は馬鹿と叫びたい気持ちを堪えて、紅は持っていた本をテーブルに置く。その表紙を見て螺厭は思わず顔をしかめる。
「おい…それ、家の家族アルバム!」
「そうよ。瑠璃子さんが預けてくれたの。本当に綺麗な人ね、アンタのお母様。どうしてこんな素敵な人からこんな馬鹿が産まれるのか不思議なんですけど」
「そりゃそうさ。半分は親父の血が混じっているんだから」
「そう言う話じゃない。アンタが昨日話してくれなかった事、アンタのお母様が亡くなってからの十年間のことを、瑠璃子さんに聞いたりして調べたの。計画を邪魔する為に進めていた準備から、アンタの素行までね。アンタが自分の部屋の棚の隙間に隠してたパソコンも調べたわ」
紅の視線がスッと鋭くなり、もう一度螺厭は視線を逸らす。今度は紅も実力行使で視線を合わせようとはしてこなかった。ただ十年前で更新が止まってしまった家族アルバムの表紙を撫でていた。
何もかも知られている。その実感が湧いて来て、螺厭は思わず唇を噛む。なんだかとても恥ずかしくて、居心地が悪くて、悔しい。
紅は寝返りを打って背中を見せて来た螺厭を見て改めてため息を吐く。こうして見るとまるで身体と悪知恵だけが大きくなった子供だ。可愛くない。
初めて出会った時。家に匿ってくれた時。温かい食事を用意してくれた時。彼は随分と大人に見えた。普通の社会に住んでいるにしては、どこか浮世離れした変わり者で包容力のある青年だった。
ぼんやりと夢に見ていた外の世界で、初めて出会った優しくて不思議な魅力を持った同年代の青年。危うい所を助けられて、おまけに追手の追撃を共に乗り越えた事で、吊り橋効果の様だと分かっては居ても胸が高鳴り心臓がドキドキした。家に招かれ、どこか陰を感じた時もその陰さえも怪しい魅力を感じさせてくれた。
だけどその正体が忍びの郷を襲った深南雲弾の息子だと知った時。紅の動向を探っていたと知った時。そして敢えて敵の振りをした上に揶揄ってくる様になった時。紅には螺厭が分からなかった。
何をするにしても一々意地悪くて、余計なことばかり言ってきて、こっちを苛立たせてくる。本当に初めて出会った時の優しい螺厭と同一人物なのか。正直言って認めたく無かったくらいだった。
でもこうして不貞腐れた様子で背中を見せて来た螺厭を見て、やっと紅は螺厭のことを理解できた。
「全く、子供なんだから」
「は?」
「子供よ、子供。減らず口も、お父様への反抗心も、お母様への未練も。ぜーんぶひっくるめて子供って言ってるのよ。せっかく、キスしてまで助けてあげたってのに、螺厭は私の事をお母様と間違えたのよ?」
どことなく拗ねた様子の紅を前にして、うぐっと呻く声が螺厭の口から漏れ出た。助けられた時の記憶は残っているので、当然その時螺厭はどんな感じの声でそう呼んだのかも覚えている。心の底から安心しきった、甘える様な声。
確かにあんな声を聞かれて仕舞えば、いいやあんな声を出してしまうのだ。紅の言う通り子供の頃のあの十歳の誕生日の日から、螺厭の時間は止まってしまったのだ。
横になった体勢から仰向けになり、天井を見つめる螺厭。そんな螺厭をまるで母親の様に微笑ましく、それでいて小馬鹿にする様にニコニコ笑う紅。
「悪かったよ。あの時、本当に俺は…母さんを見た気がしてさ。暖かくて、心の底から安心出来て…」
「そ。じゃ、それが私で随分がっかりでしょ」
「…がっかりなんてしない。ただ、君に助けて貰う資格も無かったはずなのにって思うと複雑でさ。本当、なんでここまで上手く行かないかなぁ」
ベッドの上で悔しげにため息を吐く螺厭。それに対してふふん、と鼻高々に笑う紅。昨日あたりから散々いい様にあしらわれて来たが、ここに来てようやく螺厭の口から敗北宣言を引き出す事ができた。嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。
その紅の喜ぶ顔を見て、げんなりとした顔に微かな笑顔が混じる螺厭。その笑顔に紅は気付いていなかった。
「アンタは私に勝てないのよ。ま、忍者の私を随分と甘く見てたみたいだし。これを機に少しは私に敬意を示すのね。そもそも私が居ないとアンタの計画は成立しないってのに…」
両足をパタパタと震わせ、嬉しそうな声音が響く。その様子を見て思わず人懐っこい小型犬を連想する螺厭だったが、それは心の内にしまっておいて頭をポリポリとかきながら身体を起こす。今まで忘れていたがそれなりに体力は消耗しているらしく、微かに息が切れた。
しばらく得意げな顔で笑っていた紅だったが、息を切らす螺厭を見て笑うのをやめて真剣な顔で螺厭の肩を押してベッドに無理やり寝かせる。その顔の距離感に螺厭が微かに赤面するものの、紅は至って真剣な眼差しだった。
「もうちょっと休んでて。いくら中和剤飲んだからって、全身の血と臓器の半分くらいはガスで汚染されてたのよ。血液交換だけじゃ治りきらないし、当分は動けるはず無いんだからね」
「良く助かったもんだよ…ホント」
「本当よ。だいぶ吸ってたし、最初は助からないかと思ったけど…」
「そうか…」
「とりあえず今夜はゆっくり休んで。私がそばに居てあげるから」
そう言って螺厭の手を握る紅の姿があの死にそびれた時に見た母の顔と一瞬ダブって、螺厭は思わず息を呑む。
どうしてこんなにも紅の顔が母さんの顔とダブってしまうんだろう。顔立ちが似てるわけじゃ無いし、性格だって違う。なのにどうして。
だけどふと思う。自分自身、母さんの事をどこまで理解していたんだろう、と。最後の時、もはや死ぬのを待つだけになってしまった母さんを親父は見捨てた。そう思った。実際の所は助かる唯一の希望に縋り手が届かなかっただけだった。それが分かっても、不安で仕方が無かったあの時、一人にして欲しく無かったあの時に、親父が自分を見捨てたのは事実だった。
考え込んでしまった螺厭の顔を、不思議そうに首を傾げて覗き込む紅。螺厭は気まずくなって顔を背けて目を瞑る。
「紅」
「なーに」
「紅は母さんのこと、素敵な人って言ってくれた。でも、それが本当だって確信出来るか?」
「さぁ?何せ、私の目はアンタの本性を見切れなかった節穴だもん」
ここに来て嫌味ったらしい言い方をされ、しかしそれが自分のせいだって事は分かっているせいでぐうの音も出ない螺厭。紅はもう一度椅子に座り、深南雲家の家族アルバムを開きながらクスリと笑う。
「でも、きっと素敵な人だって私は信じてる。だって、あなたのお母様なんだから」
「何だよ、それ…」
「ふふふ。螺厭、自信持ってよ。あなたのお母様は、復讐なんて望んで無いわ。きっとね。それを決めるのは、私じゃなくてあなたと、あなたのお父様。その答えを見つける為にも、明日忍びの郷を取り戻して、深南雲弾の計画を止める」
本当に全部お見通しだったか。紅には敵わないな。
「ありがとう…」
「お礼なんてイイよ。その代わり、しっかり寝て、しっかり郷奪還の為の作戦練ってよ。アンタのサポート、それなりに頼りにしてるんだから」
紅の言葉は螺厭の不安と恐怖で染まりつつあった心にスーッと染み込んできた。そう、もう居ない母さんの心の内を探ることなんて出来るはずがない。死んでしまった母さんの事を決めるのは、残された自分自身と、親父なんだから。
そうと決まればもう何も怖くは無い。今はとにかく休んで、明日に備えよう。
「分かってるさ。親父は絶対に止める」
「…ん」
待ってろ親父。これ以上、馬鹿な真似はさせない。後ついでにこれ以上紅にマウント取られるのも面白くない。明日、目を覚ましたらどう言って反撃してやろうか。
色んな作戦を組み立てつつ、次第に螺厭の意識は遠ざかっていく。やがて穏やかな寝息を立て始めた螺厭の寝顔を見て、紅はもう一度そっと顔を近づけた。黙っていればそれなりに整った顔立ちをしている螺厭の唇を見つめる。
「ばーか。女の子にノーカン何て、言わせないでよ」
んべーっと舌を出し、不満げにため息を吐きながら紅は病室を出た。
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