第13話
「お帰り、紅」
満面の笑顔、一切の屈託のない心からの言葉。深南雲螺厭は自宅の玄関口を前に紅に改めて手を差し伸べ、紅はげんなりとした顔で肩を落とした。
確かにもう戻って来るはずもないこの家に紅がまた泊まりに来るこの状況を考えたら、ここでお帰りなんて言葉が来るのは自然の流れかもしれない。ただそのセリフを吐く目の前のインチキ詐欺師の笑顔が紅の感慨深さを台無しにしていた。
昨日紅がいつ以来か分からないくらい心地良い夜を過ごせたのは嘘ではないのだが、どうも昨日の夜程はリラックス出来そうにない。ため息混じりに玄関に上がり、アライアンスで螺厭に買ってもらってしまったシューズを脱ぐ。
その時思わずホッとため息とは違う吐息が漏れた。今、どうして。
(…ここ、やっぱり居心地がいいのかも)
「君さえ良ければ、しばらく泊まってくれてもいいんだけど?」
「アンタさえ居なきゃ完璧だと思ってたところよ」
「失礼な。ここは俺の家だよ?なのに俺が居なきゃ、不完全にも程がある」
「やっぱりアライアンスの方に泊めてもらうわ。さようなら。二度とその気味の悪い薄ら笑いと腹立つ減らず口見なくて済む様努力しないとダメね」
「まーまーまーまー、待て待て待て待て待て。別にこの家に泊まる必要は無いけど、ちゃんと意味があってこの家に呼んだんだ。腹立つのは分かるが、もう少し付き合ってくれ」
鼻歌を歌いながら螺厭は自宅の玄関口の靴箱の上に置いてあった写真立てを持ち上げる。写真には昨日見た時と同じ様に、綺麗な女性がクソ生意気な笑みを浮かべている螺厭少年の頭を撫でていた。彼女が話にあった螺厭の母親で、この事件のきっかけになった女性、未亜さん。確かに今にして思えば、この儚げな笑顔も死病に侵された彼女自身の未来を覚悟している様に見えた。
ただ一つだけ。一体どうしてこんな優しそうな女性から、こんな口の減らない悪辣な詐欺師が産まれてしまうんだろう。
ジトっとした目で睨まれ僅かに肩を竦めた螺厭は立てられた家族写真を取り出し、わざわざ父親の部分だけを折り畳んで差し戻す。何の意味があるのやら、と今度は紅が肩を竦める。
(コイツも、拗らせてるってわけね)
どれだけの意味があるのかは、余所者の紅には分かるはず無い。ただそもそも意味なんてない事なのかもしれない。こうやる事でしかこの親子はコミュニケーションの取り方を知らないのかもしれない。
少なくとも、両親共に愛されて生きてきたと胸を張って言える人生を送って来た紅には理解出来ないし、したくない。
ふう、と思わずため息を吐く。敵の家庭問題にまでなんでわざわざ気にかけなくちゃいけないんだろう。それもこれもこの目の前の詐欺師が絶妙に可哀想な雰囲気を醸し出しているからだ。一度はそのオーラに騙されてしまったが、もう二度とコイツに同情なんてしない。絶対、二度と。
少し無理した感じに鼻歌を口ずさみながら奥へ奥へと進んでいく螺厭。二階に上がり、自分の部屋に入って机の上に置いてあったノートパソコンを開いてスイッチを入れた。
「さーてと、そろそろのタイミングだと思うんだけど…」
「通信?誰と?」
「お巡りさん」
「はぁ?」
いきなり聞こえてきた聞き捨てならない言葉に思わずクナイに手が伸びる。そろそろ本気で殺そうかな、と螺厭の首の後ろに手を伸ばす。だが螺厭はその手をねっとりとした手つきで撫で、紅は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「短期は損気。違うか?」
「アンタを殺すのはゆっくりじっくりと考えた結果よ」
僅か2日程の付き合いだったが、なんだかもう何年も前からチャンスさえあれば殺そうと決意していた気さえしてきた。それくらいこの目の前の詐欺師は許しがたいくらいに鬱陶しい。
「ま、それはともかく」
「ともかくじゃないわよ…」
「お巡りさんってのは嘘じゃ無いが、お巡りさんの中にも話の分かる連中ってのが居るもんでね。もしもし?」
『…そろそろだと思っていたよ。探していた忍者は見つけられたみたいだな』
「そうそう。貴方のくれた情報は本当に助かったよ」
「コイツがアンタの共犯者?」
『声が聞こえて来たな。予想以上に若い声だ』
「年は関係ない。それより、貴方は誰?」
『警視庁公安部、外事第三課所属の葦原和也だ。お互いに時間は無いだろう。本題に入ろう』
画面に映った誠実そうな人を思わず知らず警戒する紅。こういう顔が何より怪しい。経験則から言わせて貰えれば…
『まず忍者。先行報酬としてこれだけは教えておこう。日本政府は今揺れている。忍びの郷とこれまで通りの関係を維持するべくテロリストと戦うか、忍びの技術の開示を受け入れて2MCと協力関係を新たに結ぶべきかでね』
「何もしてない私が警察に追われているから、この国の政府はとっくに落ちぶれてるかと思った」
『忍びの郷が既に陥落したと思われていたからね。だが、唯一逃げ延びた君は予想以上に抵抗して見せた。総理大臣は優柔不断だよ。お陰で君達忍びの郷に最後のチャンスを作れる』
「正確にいうと、チャンスを作れるチャンスかな?」
「黙らっしゃい」
余計な事言わないで欲しいって、何で分かってくれないんだろう。二、三発くらい殴ってやりたいが、話をスムーズに進めるためにもここは一発で済ませておこう。ドガっと音が通信越しに届いたのか、葦原と名乗った男は微かに顔を潜めた。
『彼の言うことも間違ってはいないな。逆転のチャンスを作れる。今日の午後、2MCと協力関係にあるテロリスト達が港の船に例の鋼を乗せて海に出る。例のガジェットも一緒にだ。これを海上で日本政府と交渉する予定だよ。これが最初の取引になる筈だ』
「それって…」
「まぁ世間知らずな忍者の君にも分かりやすく言うなら、最初の取引は信用を勝ち取る目的があるって事。この取引の成功は今後の取引を保証してくれる筈だ。それを台無しにすれば…」
『日本政府は2MCとの取引を根本から見直す事になる。元々君達忍びの郷と日本政府は協力関係だ。国内外の諜報活動の代行する代わり、諸外国などの勢力からその存在を隠す。だがそれは君達が世界最高の諜報機関であると言う前提で成り立っている』
「そうね…」
腹立たしいことに螺厭の世間知らず発言に反論出来ない。見なくても怒りで拳に青筋が立つのがわかるくらいに強く握りしめた。殴りたい、この気持ち。
「忍者、未だ不滅って所を見せつければ日本政府は味方をこの詐欺師の父親から私達忍者に乗り換えるって事?そんな勝手な態度…」
『勝手だろうね。だがお互い様だ。君達忍びの郷も日本の国土で随分と好き勝手してくれた。度重なる技術協力要請を拒否し、あまつさえ君らは事故とは言え日本国民に危害を加えた。何度我々が誤魔化して来たか、君は知らないだろうね』
「…」
葦原の言葉に無言で鼻を鳴らす螺厭。彼の母の事は不幸な事故で片付けられない。片付けられるはずもない。螺厭とその父は昔も今も苦しんでいる。
「SDガス…」
「ん?」
『十六年前に起きた忍者ガジェット流出事件で深南雲君の母の死因になったガスの事か。成る程、お子様だから頼れないかもとの深南雲君の予想は違うらしい』
「おい」
「しゃーないでしょ、まだ会った事なかったんだから…」
クナイを突きつけ殺意の篭った目で睨み据える。螺厭も珍しく減らず口ではなくげんなりした顔で応答する。まだ母親のことを言われたのが気になるみたいだ。それこそ、しゃーないか。
『情報は伝えた。この情報を元に君が何をするかは自由だ。だがあまり時間はないぞ。刻一刻と出港時間は近づいてくる。この取引を阻止出来さえすれば…』
「勝ちの目が見えて来ただろう?さて、どうする紅。俺の作戦に乗るか、おばさんの所の新型ガジェットだけ持って一人で戦うか?決めるのは君だ」
二者択一に見せかけた一択。何処までも腹立たしい奴。でも今はその悪魔の口車に乗せられるしか無いのが悔しかった。
「やるわ。やるわよ。こんな所で終われない。アンタみたいな詐欺師も同じ気持ちなんでしょ?」
「そうだな。分かってもらえて嬉しいよ」
「アンタを理解はしたく無いけどね」
『決まりだな。幸運を祈っているよ。次は直接会おう』
葦原の通信が切断され螺厭のスマホにメールが届く。詳しい住所だけが書いてある素っ気無いメールだったが、螺厭にはそれで十分だった。
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