第32話 星
ニコが目を覚ましたのはもう陽が陰る頃だった。
「あぁ…… 夢じゃなかったんだ……」
雨漏りのシミだらけの天井に、その呟きは吸い込まれてゆく。
馬での長距離の移動は、体の節々に予想以上の負担をかけていたようで、思うように動かない自分の体に向かい冷やかに笑った。
ニコはベッドに貼り付いた、重たい体を無理やり起こし、ボロのカーテンをゆっくりのけると出窓を押し開いた。
葡萄色の空には、帰宅を急ぐ鳥たちが連なって飛んでいる。
そこかしこの屋根に付いた煙突からは灰の煙が上がり、空に溶けてゆく。
見下ろす狭い路地にも、夕食の材料を抱えた近所の婦人等の姿がちらほらとあった。
「ふう、駄目だ。お腹空いたけど歩けないや」
ニコは窓を開けたまま、ベッドに戻ると崩れるように横たわった。
虚ろな目で天井のシミを見つめ続けたニコは、昨夜の出来事を回想した。
……。
アヴェリノア街道で接触した影……
彼等は僕に何かを伝えようとしていた。
うまく聞き取れなかったけれど、約束を果たせ…… とか言ってた。
その後のアンドレアの言葉にも混乱したなあ。僕が知らない言葉で話していたとか言うのだもの。
なんだったんだろ一体……
影。
彼等の存在は一体なんなのだろう。そう言えばソールったらおかしな事を言ってたなあ。直接聞いてみたらいいなんて。
できっこないじゃない。
そんなこと。
あ、それとあの丘での光景。あれも不思議だったなあ。
新月の夜の見たこともない大きな月。
それが消えたと同時に降った星。
なんだか謎だらけになっちゃった。
……。
……。
アンドレア。
また、会えるかなあ。
会いたいなあ。
……。
いつしかニコの意識は使い込んだ枕へと再び落ちていった。
まだ夜が明けぬ頃、工房の奥からなにやら作業をしている様々な音が聞こえてくる。
秤の分銅を置く小さな金属音。
木べらで粉末を調合する乾いた音。
練り物を木台に打ち付ける鈍く重い音。
そして、少し音程の外れたニコの鼻歌。
工房の真ん中に我が物顔で陣取る大きな作業台の端には、失敗してしまったと思われる幾つもの練り物の塊が乱雑に置いてある。
「うーん。何かが違うなあ。あの時僕が見た色はこんな単調な色なんかじゃなかった。様々な色彩を一度に表現する術ってどうしたら……」
ニコは腕組みをして頭を傾げ、中々うまく表現出来ない、あの夜見た極彩色の夜空に想いを巡らせた。
「暖色? 違う。寒色…… でもない。見たままの色を配合するだけじゃ駄目だしなあ。輝くアヴェリノア、星降りの丘、影にそれから月…… ああ、駄目だ! うまくいかないや」
頭を掻きむしり、作業台に突っ伏したニコは壁にぶち当たってしまっていた。
二日前に感じた『自分にしか見えない色』をどうにか再現しようとしていた。だが、自らの五感をどう駆使しても、あの日あの場所で感じたものを形にすることが出来なかった。
詰まってしまったニコは、気分を変えるべく自室に向かう。
そして、暗がりの空をより良く見るために窓を大きく開いた。 眠る街の静かな吐息は心地の良い風を誘う。自然と瞼を閉じたニコは、出窓の縁に顎を乗せ、繰り返し繰り返しあの夜を回想した。
気分を一新したニコは再び作業台に戻ると、また一から顔料を選別する作業をはじめる。と、その時だった。
「おーい、開けろー! ニコー」
ニコは自分を呼ぶ声のする方へ顔を向ける。どうやら工房の裏口のようだ。
勝手口の小さな磨りガラスに人影が見える。
鍵を外し、扉を開くとそこにはあの男の姿があった。ニールだ。
「よう、ニコ。おはよーさん」
なぜか上機嫌の彼は、挨拶もそこそこに工房の中へずかずかとはいってくる。その脇には布にくるまれた重たそうな物が抱えられていた。
「おはよーさんて、ニール。陽も昇ってもないのに。どうしたのさこんな時間に」
不満を若干滲ませながらも、ニコはニールを招き入れる。
ニールは口笛を吹きながら、作業台の上に抱えてきた物を置く。その鈍い音からも、やはりそれはそれなりの重量物だということが伺えた。
ニヤニヤといやらしい笑顔をみせながら、ニールは布に手をかける。ニコはその一部始終を冷ややかな視線で眺めていた。
「おいおい、ニコちゃん。なんだよその目は。最高のブツをお届けに参ったのに。確かに時間はおかしいが、陽が昇る前の夜にしか輝かないこれを見たら、お前、腰抜かすぞ」
「まさか、まさか……」
ニールの口から発せられた少ない情報に、ニコは敏感に反応する。そしてその答えを頭に浮かべ体を震わせた。
布にかけられた手はゆっくりと上がってゆく。摘まみ上げられた布の下部から優しい薄ぼんやりとした光が漏れた。
布を取り払われたそれは、不思議な輝きに満ちていた。青や黄や緑に次々と色を変えて輝く球体。真ん丸な鉄の籠におさめられたそれは宙に浮いていた。
「こ、これって『星』だよね? そうなんでしょ?本物は初めて見たよ、綺麗だなぁ」
興奮で顔を赤らめたニコは、視線をはずすことなく声だけでニールに詰め寄る。
「ふふふふ。そうさ、ご名答」
「で、でもどうやって?」
「お前らが丘の上でチチクリあってる間に、俺達はきちんと仕事してたんだぜ?」
ニコは更に赤面し、別にチチクリあってなんかない、と言ったがニールはやんわりとその言葉を退けた。
「まぁいいじゃない。ね、そう見えたんだから。それよりもさ、俺達の分はまだそこそこあるし暫くは仕事もしないで飯は食えそうだからやるよ、それ」
星。新月の夜に降ってくるその名の通りのものである。通常、星は地に到達すると粉々に砕け散るか、運良く形を残したとしても輝きは失われ、鈍色のただの石になってしまう。
しかし、精霊の加護を受けたとされる特別な網で捕ると輝きを失うことなく採取できるのだった。
その昔、そうやって星を取ることを生業(なりわい)にした人々がいると云われていたが、その
思慮深く物事を捉えられる状態ではなくなったニコは、ニールの説明を聞くこともせずに鼻を膨らませた。
キラキラと輝く目でニールを見やると、そのまま駆け寄り両手で力一杯の握手を無理矢理にする。
「お、おいよせ。お前、手が汚れたまんまだろ! ニコ! 本当によせって」
ニールの両手は、ニコの手に付着した顔料のせいでぐちゃぐちゃな色に染まってしまった。ニコは申し訳なさそうな顔をしながらも、舌を出してそれを誤魔化した。
「ああ、これなかなか落ちないんだよなあ」
ニールは苦笑しながら「またな」と言って工房を後にした。
ニコは朝陽が昇るまで、籠の中で輝き続ける星をじっと見つめていた。
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