第30話 祝福の鐘
数十名の兵士、その最前列で敬礼するゴードン等に見送られながら、ニコ、アンドレア、ニールの三人はアヴェリノア門を後にした。
響く蹄鉄の音はテンポ良く、石造りの建物に反響して、住民の目覚まし代わりにはうってつけだ。
途中何度か夜勤明けの兵士に声を掛けられる事があったが、そつなくそれをいなせたのは、去り際にゴードンがくれた第三門兵団団長直々のサイン入り通行許可証があったからだ。
ただアンドレアは身元を隠す意味合いで、来たとき同様に黒い麻のローブを羽織わされていた。
「なあ、ちょっといいか」
真っ直ぐな通りの先を見据えるニコに、ニールが話し掛けてきた。
返事をすることなく、ニコは顔だけニールへ向ける。
「ニコ、お前さ、俺に協力してくれって言いに来たときの事覚えてるか? ああ、そうだカンパーニの入り口での事だ」
ニコはもちろんといった風に縦に頷く。
「ずっと気になってたんだ。お前さ、あの時確かに言ったんだ。『あの丘』って」
ニコは赤みを帯びた空に視線を上げ、その時のことを振り返った。
「あ、本当だ。僕、確かに『あの丘』って言ってたよ」
アンドレアはニコの背中にピッタリと顔を寄せ、二人の会話を黙って聞いている。
ニールは、ニコのその言葉を確認すると話を続けた。
「おかしかないか? あの丘って言い方。俺はてっきりお前があの場所へ、既に行ったことがあるのかと思ったんだ。でも違った。すぐ後に本で見かけたって言い直したもんな」
ニコは黙って眉をひそめた。
ニールは前方に目をやりながら、やや低めの声でニコに言う。
「なあ、お前…… 何か俺に隠してるだろ」
それを聞いたニコは目を大きく見開いた。そしてなぜあの時、そんな言葉を選んでしまったのかを思い返してみる。
しかし、いくら思い返してみてもその答が出てくることはなかった。
のはずだった。
ここに至るまでの様々な情景を手繰り、流れては消えていった記憶の一つ一つを思い返していた次の瞬間、その手懸かりになる記憶の欠片が突然呼び起こされた。
アンドレアから、外の世界を見てみたいと話を持ち掛けられたあの日。
アンドレアの去り行く後ろ姿と伸びる影を見つめながらニコは確かにみていた。
自分が知るはずのない『優しいあの丘』のシルエットを。
「そ、そんな…… 信じられない」
呟きにも似たその一言を最後に、ニコのその表情は、曇るでもなく困惑するでもない変に冷めた妙なものとなっていった。
そして、まるで焦点の合わない視線で、糸の切れた操り人形のように身体をぐったりとさせ、ただ馬に跨がっているだけの格好になってしまった。
ニコにピタリと密着していたアンドレアは、小刻みに身体を震わせ、ぐったりとしてしまったニコの異変に直ぐ様気付く。
「ニコ、どうしたの? 具合でも悪くなったの?」
それを聞いたニールも、魂の抜けてしまったかのようなニコの様子を見て、馬を止めるようにと声を張り上げニコに言った。
しかし、ニールやアンドレアの声はニコに届きはしなかった。
アンドレアは突然重たくなったニコの体を必死に後ろから抱え込むように支え、馬からずり落ちるのを懸命に防ごうとした。
「ニール!! ニコが、ニコがっ!」
ニールは馬を並走させるべくニコの馬に速度を併せ、ニコの握る手綱を強引に奪い取った。
「アンドレア! 鞍にしっかり掴まってろっ!」
ニールは手綱を強く手前に引き、馬を急停止させた。
ニールはゆっくりとニコを馬から引きずり下ろし、通りの脇へそっと寝かせる。
「私に介抱させて」
アンドレアはニコの傍らで腰を下ろすと、だらんとした重い頭を自らの腿へのせ膝枕をした。
そしてニコの帽子を取ると、母が子の頭を撫でるように、優しく優しくニコの髪を撫でた。
一瞬、その光景に目を奪われたニールだったが、何かを振り切るように頭を数回横に振り、ニコの瞳孔や脈を診て、その容態を確認した。
「医術士じゃないからなんとも言えないけど、こりゃただ気を失ってるだけだな」
アンドレアはニールのその一言を聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。
「ニコ。ごめんね。私、貴方になんにもしてあげられなくて……」
アンドレアはそよ風のように呟いた。
「それ、こいつが起きたら言ってやれよ。喜ぶからさ。あー、それにしても困ったもんだ。一体どうしたってんだ? 今までこんな事なかったのになあ」
ニールはおもむろに立ち上がると、キョロキョロと辺りを見回しアンドレアに言った。
「まだ少し暗いな、人が起きだすのはもう暫くあるな。悪いがアンドレア、少しの間ニコを看ててくれ。俺は近くの商社へ行って荷馬車を借りてくるわ」
アンドレアは小さく一つ頷き返事とした。
薄暗い見知らぬ神殿とおぼしき建物の中を彷徨っていた。
冷たい石の床にヒタヒタと足音を立てながら。
途中で気が付いた。
衣服を身に纏っていないことを。
おうとつの一切無い硝子のような質感の壁に手をあて、手探りで何処を目指すでもなく進む。
暫くして、縦に細長い光の筋が見えた。
薄ぼんやりとした光の漏れる扉を開けると、そこには真っ黒で質素な祭壇があった。
祭壇の真上は天井がなく、丸く大きな穴が空いている。
両端には、小さな蒼白い焔の立ち上がる燭台が、蝋も無いのに燃えている。
祭壇の前に立ち、天を仰いだ。
天井に空いた穴には満月がピタリとはまり、白い光が祭壇を真円で包み込んだ。
すると、壁や天井、床の下から声が聞こえてきた。
「おお、哀れな迷い人。お前は目的を忘れた彼の者か」
「そのようだ。戻るに戻れず自分が何者だったかすら忘れているようだよ」
「すっかりそれっぽくなっているじゃない。人そのものね」
主の分からぬその声は低く、そこかしこで反響しては消えてゆく。
不思議と恐怖心のようなものはなかった。
ただ、あちらこちらから聞こえてくる誰かの囁きや呻き声、地鳴りのような叫び声といったものが生まれては消えてゆくことに、終始耳を立てていた。
一体ここは何処なのか。
悪い夢だとするならば、早く覚めてしまいたい。
しかし、今は自分が何者なのかすら分からない。
果たしてこれは現実なのか。
ただただ立ち尽くすばかりだ。
誰かの呼ぶ声がする。
唄っているようだ。
懐かしいなぁ。
……。
……。
アンドレアに膝枕をされたニコは、まるで寝ているかのように小さく呼吸をしている。
アンドレアはニコの髪や頬を優しく撫でながら、幼き日に聴いた母がよく唄ってくれていた童歌を唄った。
旅の若人見た空は 散り散り別れる月星の
涙の欠片や瞬きや 何時しか交わるその日まで
拾い集めた星月の 思い出紡いで奏でよか
約束の地の真ん中で 空と大地に祈ろうか
「ニコ。私の母様ね、よくこの童歌を唄ってくれたの。
ニコは嘘だって言うかもしれないけれど、私ね、小さい頃はすっごくお転婆だったのよ。
そのせいもあってか失敗も多くて、よく泣いていたわ。
そんなとき母様の膝の上で聴くこの童歌が大好きだったの。
……。
ねえニコ。
私、あなたのこと大好きよ。
そう、出逢った時から。
もしも出来る事なら……
全てを投げ棄ててでもあなたに付いて行きたい。
でも、叶うことはなさそう。
だって私、もう決まってしまっているのだもの……
ニコ、好きよ。
起きて。
そして私に笑顔を見せてニコ……」
アンドレアは髪をかきあげながら、そっとニコの顔に唇を近づけた。
そしてゆっくりと、二人の影が重なった。
近くの聖堂の
通り向かいの窮屈そうに建ち並ぶ建物の狭い隙間からは太陽の光が射し込んだ。
それが朝霧に反射して拡散し、幻想的な雰囲気を醸し出しながら二人を優しく包み込んだ 。
その光景はまるで、世界の全てが二人を祝福しているかのようだった。
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