第26話 影、再び

 予期せぬ訪問者は音もなく二人の背後に忍び寄っていた。


 水辺を沿いながら周囲の警護に当たるゴードンを飛び越え、丘の中腹から彼の者等が再び姿を現した。


 暗闇を支配する彼等の存在に気付く者は、まだ誰もいない。


 丘の中腹の至るところから、それはまるで、地面から生えてくるように次々と形を成していく。


 暗闇に姿が溶け込んだ半透明の彼の者は、肉眼ではうまくその全貌を捉える事が困難であった。


 特徴的な朧気に光を放つ青き瞳も、星々に紛れ更にその存在をわかり難くしている一因か。


 ニコの動物的な勘が働いた時、それはもう手遅れに近い状況に陥っていた。


 二人の周囲には既に二十体近く、影の一族が音もなくワラワラと取り囲んでいた。


 アンドレアはニコを見つめているせいか、まだその存在に気付くことなく、何ともいえぬ切ない表情のまま瞳を揺らしている。


 ニコはこの絶体絶命とも言える状況に飲まれ、思考が停止してしまう前に、あらゆる策を捻りだそうとした。


 アンドレアに状況を説明し、いたずらに混乱させたとしてそれはあまり得策ではない。むしろ命取りになってしまう可能性すらある。


 その判断のもと、ニコは冷静を装い行動に移すことにした。



「アンドレア、目を閉じて……」


「あ、あの……私まだ、その、心の準備が……」


 と言いながら戸惑いつつも、素直にゆっくりと瞳を閉じたアンドレアをニコは強く抱き締めた。


 あまりに強引なニコのとった行動にアンドレアは驚きつつも、その中にニコの男らしさや、宙に浮いていた感情の答えを見た気がした。


 力強いその温もりに包まれながらアンドレアは今の自分の気持ちを包み隠さずニコへ告白しようとしていた。


 一方のニコはアンドレアの心境など露知らず、それどころの騒ぎではなかった。


 ジワジワと距離を詰めてくる影達に睨みを利かせながらも打開策とその後の身の振り方を何度も頭の中で繰り返した。


 ニコはアンドレアが影の存在に気づかぬように、左腕で彼女の頭を包むと胸に寄せ、目を開けても周りが見えないようにした。


 そして右手を彼女の左手に絡ませると、あの黄月欠石の指環を何時でも外せるように手を掛けた。


 いざとなったらアンドレアの指環に付いている黄月欠石を砕き脱出する算段だった。


 しかし、状況はニコの予想だにしなかった方向へと転がり始めた。


 ワラワラと沸き出した、目視出来るだけで二十体程の影はニコ達の真横を次々とすり抜け、丘の頂上で輪を作り始めた。


 体を強ばらせながら身構えているのが滑稽に思えるほど、その想定外の影達の動きは信じがたいものだった。


 ニコはアンドレアを抱き締めながら、輪になる影を不思議なモノを見るように目で追う。


 すると、きつく抱き締めていたせいか、アンドレアが少しむせかえったように咳き込みながらニコに言った。


「けほっニコ、苦しいわ。私、父様以外の男の人に抱き締められたのって……あの、初めてだけれど……こんなにも苦しいものなのね。色々な意味で……」


 ニコの腕の隙間から顔を覗かせたアンドレアは照れながらも話を続けようとした。


 しかし、その口をつぐむようにとニコは首を横に振り、目配せでアンドレアに自分達の状況を知らせた。


 ニコの視線をゆっくりと追ったアンドレアは驚愕したと同時に、雲の上から突き落とされた気分にみまわれた。


 理由は言うまでもないが、アンドレアが辿ったニコの視線のその先は、自分の夢を容易に砕くことのできる唯一の存在、あの忌まわしき者等がいたからだ。


 アンドレアの恍惚こうこつとしていた表情は一転、血の気の引いた顔色となり、心が縛り付けられてしまうような、どうしようもない不安が押し寄せてきた。


 それでも、その不安感に呑み込まれず自分の足で立っていられたのは他でもない、ニコに抱き締められていたからだった。


 何かを確認するようにアンドレアはニコの表情を伺った。


 そこで見たものは、想像とは少し違う表情のニコだった。


 二重の輪を作り、星空を仰ぐ影達の『儀式』を、どこか心待にしていたかのような表情のニコ。とても神々しい風景を眺めているような感じにさえ見えてしまう柔いだ表情のニコ。


 そんなニコを見て、アンドレアの心に押し迫っていた不安感は、いつの間にかどこかに引いてしまっていた。



「こんな近くで彼らの儀式を見たの初めてだよ、いや、きっと僕らが人としても初めてなんじゃないかなあ」


 ニコは率直な思いをアンドレアに伝える。それに対してアンドレアは小さく頷き、同意しながらもニコに質問をした。


「ニコは怖くないの?」


「そうだね、怖くないって言ったら嘘になるかもしれないけれど。すれ違った時、彼等から敵意みたいなものを感じなかったんだよ。実際僕らはそっちのけみたいだし」


「そ、そうね。なんだか私達とんでもない所にい合わせているけれど、まったく蚊帳の外って感じね……あ……」


 アンドレアはその後に、先程の言えず終いだった言葉を続けようとしたが、急に胸が締め付けられ、それを言えずに口を止めてしまった。


 しかし、それでは自身の気持ちや、溢れそうなニコへの想いを伝えられないと感じ、ほんのわずかばかりあった勇気を振り絞り、震えながらもニコの背中に華奢な両腕を回した。


 濡れる大きな瞳でニコの顔を見つめるアンドレアに、こんな時はどうしたらいいのか分からなくなってしまったニコは、何故か記憶の引き出しを開けたり閉めたりを繰り返し、この状況を上手く乗り切る方法を、記憶に蓄積されているであろう情報から探り当てようと必死になった。


 その時、ずっと前に酒場でニールが自信ありげに放った一言が何処からか飛び出してきた。



『---いいか、ニコ。女なんてもんはな、バーンといってドーンだ!』


『バーンといってドーン? なんだよそれアハハ』




 軽い混乱に陥っていたニコは思わずそれを口ずさんでしまっていた。


「バーンといってドーン……」


 瞳を閉じ、次にくるであろうニコの行動を待っていたアンドレアは、頭から蒸気の沸き立つニコのそんな姿を見て思わず笑ってしまった。


「アハハ、やだニコ! なによそれアハハハ」


 豆鉄砲を鼻っ柱に喰らったような顔をしたニコは、目を点にしながらしどろもどろに言う。


「ぼ、ぼ、僕、こんなときどうしたらいいか分からないんだ、ごめんよアンドレア……」


「ううん、いいのよニコ。とってもあなたらしいわ、さっきまでの草原を駆け抜ける騎士の様な凛々しいあなたも、今、こうしてもじもじしている少年の様なあなたも、わたしとっても大好きよ! 大好き」


 アンドレアは無邪気な笑顔でそう言いきり、目一杯の力でニコの体を締め上げた。それはアンドレアがニコと身も心も一つになりたいと願う願望の現れだったのかもしれない。


 そして、ニコは今夜二度目の意識の昇天を果たした。





 ニコとアンドレアは平たい石の上に腰を下ろし、寄り添いながら影達の儀式を眺めていた。


「あ、そろそろだ、来るよ」


 アンドレアはそう呟いたニコの顔を一度伺い、その視線の先に目をやった。


 影が一斉に腕を上げると、円陣の中心に青白く輝く小さな焔の竜巻が立ち上がった。


 同時に影の"影"が周囲に何本も広がると、少し遅れてその中心から生暖かく柔らかい風が二人を包み、そして通り抜けてゆく。


「うわあ、綺麗……」


 恐怖心という心につかえていた物を取り除かれたアンドレアは、青白き光に照らし出されながら自然とそう溢した。



 柔らかな風に揺れる、アンドレアの束ねた美しい髪を横目で見ながら、ニコは浅く被っていた帽子を風に飛ばされぬ様に深くかぶり直した。


 やがて青白い焔の竜巻は勢いをどんどんと増し、辺りは一瞬眩い白き光に包まれた。


 ニコとアンドレアは咄嗟に腕で目を覆い、眩しすぎる光の直視を避けた。


 瞼ごしに眩い光が終息したのを感じたニコは、ゆっくりと瞼を開け、細目で影を追う。


 影たちは腕を天高く伸ばし、空を仰ぐような格好で静止していた。先ほどまでの焔の竜巻は消え失せ、天を突き刺す一筋の光の線に変化していた。



 あんぐりと口を開け、光の指す空の彼方をニコが見上げた時、それはゆっくりと姿を現した。


 輪郭の曖昧な薄ぼんやりとした巨大な丸い塊、出来の悪い鉄釜のように歪で不揃いなおうとつまでもがはっきりと肉眼で見えるほどの大きなそれは、白く輝きながら地上を一斉に照らし出した。



「嘘だ!新月の夜に月が出るなんて!」


 ニコは咄嗟に立ち上がり、堪らずそう叫んでいた。


 アンドレアは現実と浮世の狭間に迷い混んでしまったかのような困惑した表情を見せ、ニコとは対照的にただただ茫然と幻想の波に飲まれて行くだけだった。



 立ち尽くしながらも、何かを思い出したかの様に視線を下ろしたニコは、白い光に包まれながら、次々と消滅していく影達の姿を見た。


 そこには、命有るものが消え行くようなもの悲しさや哀れみなどは感じられず、ただ、目の前の無機物が見たままに消え行く光景が続いているだけだった。



 全ての影が目の前から消え失せても尚、新月の夜の白き満月は存在を誇示するよう輝いていた。


 その光の強さは満天だったはずの星の存在を全て消し去り、深い眠りについていた大地を起こさんとしているかのようだ。


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