第25話 星の降る丘③
知識と教養を無理矢理に叩き込まれるアンドレアは、さほど勉強が好きではなかった。それは大人が彼女の白いカンバスを次々に塗り替えようとするからだった。
しかし、そんな中にあって、唯一アンドレアが心を許した師がいる。その師はアンドレアに筆を持つことを教え、次いで自らカンバスに向かい好き勝手に描いて見せろと云う人物だった。
知りたくも無いことは無理に知らなくてもいい。欲する事だけに目を向けろ。それが師の教えだった。
「これらを教えてくれた私の先生ね、風変わりでとびきりおかしな歴史の先生なの。フェメール・サンデス先生、いつかニコにも合わせてあげたいわ。とってもおかしな人だから」
「うん。そのときはよろしくね。サンデス先生かあ。どっかで聞いたことあるような……はて?」
ニコが首を傾げたタイミングで、ニールの横槍が入ってきた。
「なんだお前等、歴史の勉強会か? そんな話聞いてたら俺は吐き気がしてきた。それよりもちょっとこっち来てみな。この柱の材質、普通じゃないぞ」
アンドレアとの会話に一旦区切りを付けたニコは、柱を擦りまじまじと観察するニールの元へ足を向けた。
ニールに促されるまま、ニコは朽ちて横たわる柱を調べる事になったのだが、時を待たずしてニコは驚きの声をあげた。
「ちょっとこれ黒曜石じゃないか!」
ニールはそのニコの驚く様を見て何かの匂いを感じとり、思わず本音を口ずさんでしまった。
「はん? なんだそれ、金になるのか?」
「お金になるとかそれ以前の問題だよ!この黒曜石ってのはね、建築物に向くような石じゃないんだ。どっちかっていったら硝子に近いんだよ!?
大した硬度もないし。
こんな大きな塊で出てくることもない、それを加工する技術力も信じられない。
なにより黒曜石の産出地、僕が知る限りでは一番近い所だって海を越えたガルナーバル火山地帯だよ? 滅茶苦茶だよこんなの! それにしても凄いなあブツブツ…」
ニコは崩れ落ちた石柱を撫でながら、興奮を抑えきれない様子だ。撫で方が尋常ではなかった。つられたニールも気分の高揚が隠せずにいる。
「滅茶苦茶ったって実際目の前にあるだろーが。それとその石だの鉱石だのに対する情熱はわかるが独り言は止めてくれ。気味が悪い。で、で、金になるのか?」
「お金になるとかそんなものじゃない、だ、大発見だ……」
「だ、大発見!?」
ニールは生唾を飲み込み、改めて神殿を見渡した。なめ回すようにして、それら朽ちた黒曜石の神殿の外観を頭に叩き込むと、指を折り曲げ何かを計算しているようだった。
薄気味の悪い笑みを溢しブツブツと呟くニール、石柱を興奮しながら撫で続けるニコ。なんとも異様な光景がアンドレアの視界に広がる。
しばらく待って、事の進展がないのに痺れを切らせたアンドレアは、停滞した流れを促すように小声でニコに尋ねた。
「彼、何をしているの?、やたら笑顔のようだけど、なにか気でも触れたのかしら?」
そんなアンドレアの疑問にニコは仕方なしに答えた。
「ああ、あれね、きっとお金の計算だよ。売り払おうとしてるんじゃないかな。僕がそんなこと絶対にさせないけれどね。すぐに持ち出せる物でもないし、彼の事は放っておこう」
「ええ、目がリング硬貨になっているわ。彼には歴史のなんたるかなんて関係ないみたいね」
冷めた視線でアンドレアはニールを見つめた。
ニコはそんなアンドレアを横目で見ながら心の中でニールに謝罪した。
(ごめんよニール、こればっかりはフォローのしようがないや)
時は暫し流れる。
「ねえ、ねえってばニール!」
「ああ、今忙しい。話し掛けないでくれ」
ニコは棒立ちのまま皮算用をしているニールの肩を揺すり声をかけるが、返ってくる返事はどれも空返事なのに業を煮やし、ニールを放ってもう一つの丘へ移動することにした。
「行こうアンドレア」
「うん」
手を取り合い二人は一つ目の丘を下り、もう一つの丘の頂上を目指した。
「それにしても不思議な丘だよ」
ニコの手の温もりにわずかばかりの幸福感を得ていたアンドレアは、その突然の呟きにビクンと反応した。
「ええ、そうね」
とっさに返すのがやっとなくらい、アンドレアの意識もまた遥か空の上へと行っていたのだろうか。
「近場に都市がないにしても、集落は点在しているでしょ? 今の今まで見つからなかった理由がわからないんだ。それとは別にもうひとつ。見て、この丘。単一の草しか生えていない。雑草の一つもだよ、あからさまに不自然に思うんだ。言ってる意味わかる?」
上を見たり下を見たりと忙しそうに首を捻りながらニコはアンドレアに語りかける。
「ええ、私の屋敷の庭と一緒って事ね? 庭師のカールさんが手入れをしているように、誰かが手入れをしていると?」
「うん。そう言う事。でなきゃ説明がつかない気がするんだ。それにしてもアンドレア、君は鋭いね。僕の欲しい答えをちゃんと持っているのだもの」
髪をなびかせ、首を横に振りながらアンドレアは言う。
「ニコのリードのお陰よ。ニコの照らし出す道がはっきり見えるから、私、それに沿っているだけだもの。だけど、ニコはいつもそんなまどろっこしい目で世界を観ているの? ねぇ見て、この素敵な景色。小さいものがもっとちっぽけに見えてしまうこの景色、ニコの目にちゃんと映っているのかしら」
アンドレアは水面を飛び立つ白鳥のように両腕を広げ、夜空の無限の広がりを小さな体で表現してみせた。
アンドレアの美しい姿の後ろに広がる背景は、先程までのニコの頭の中の全てを吹き飛ばした。
そして油絵のように、今、この瞬間に塗り重ねられていった。
やがて二人は双子の丘のもう一つの頂上へと着く。
少し遠くの対極には、あの黒曜石の神殿がニールの持つ松明に照らされ赤黒い光を歪に浮かび上がらせ、暗闇に浮かぶ巨大な赤い星のようにも見えた。
こちらの頂上には遺跡こそなかったものの、腰を下ろすのに具合のよい石が数十個バラバラに転がっていた。
ニコはその中でも一際大きくて平らな石の上にアンドレアと共に立つと、ぐるりと一周しながら回り、あたりを見渡した。
眼下にはゴードン等と思われる三つの松明がゆっくりと移動していた。少し離れた場所にはメルとソールであろう二つの松明が動く事なく燃えている。
更に視野を広げると、そこはもうこの世とはとても思えぬ、上下もわからない景色だけがあった。
水面に映された数千、数万の星々を見下ろしている二人は顔を見合わせ同時に言葉を重ねた。
「これじゃまるで空の中だ」
「空を飛んでいるようね」
自然と溢れた笑みを互いに見合うと、二人は自分達に訪れるであろう限りなく近い未来をそれぞれに見た気がしていた。
しばらく無言の時が流れる。
時折二人の頬を優しく撫で上げる風は生暖かく、揺らぐ葉音は暗闇の中でも風が見えてくるようだった。
片時も離れる事のなかったその手をニコはゆっくりと離すと、アンドレアの両肩にそっと置いた。
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