第11話 靴なんかいらないよ
薄暗い工房の椅子に浅く腰を掛け、ニコはくたびれた革靴を脱ぎ捨てる。
ぺたぺたと裸足のまま壁に備え付けてある棚の前まで来ると、膝の下まであるよく使い込まれた長い革靴を取り出し履き替えた。
足首には革紐の編み込みがしてあり、それをきつく締めつける。
踵を床に二三度叩くと、しっくりきたのか満足気な顔をしてゆっくりと立ち上がった。
日の光を浴びたせいで色褪せた、ボロのカーテンを少し開く。外の暗がりを確認し、緩んだ顔を一層引き締めた。
棚に無造作に置いてある道具がある。主に植物や鉱物を採取するために使う道具だ。それらを鞄に詰め込むと、工房の裏口から風のように静かに出ていった。
周りを塀に囲まれた袋小路にニコは身を潜めていた。
民家の窓から溢れる暖かい光や、街路灯の無機質に照らし出す光を掻い潜りここまで無難にこれた。
ニールの用意してくれた黒い艶やかな毛並みの馬も一緒だ。
ニコは馬の太く逞しい首を撫でながら息を潜め、時が来るのを静かに待った。
「君はとても大人しい、良い子だね。ニールは君への扱いが乱暴だから嫌がったんだよね」とニコは小声で馬に話しかける。
馬はニコに甘えるように首をすりよせ、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「さあ、そろそろ九時の鐘の頃かな。移動しようか」
ニコはそう言って手綱を引き歩き出すと、馬は大人しくそれについていく。
アンドレアの屋敷・裏口付近
新月の夜の警備を掻い潜り、ここまで来るのは容易な事ではなかったはずが、ニールの指示通りの道を辿ると不思議と警備兵や夜警団等に出くわすことはなかった。予想よりも随分と早く、一番街のアンドレアの屋敷まで難なく着いてしまった。
ニコは流石だなと感心する反面、近頃よく耳にするニールの良からぬ噂を思い出した。
それはニールの交易社が盗賊紛いの者達を囲っていると言う内容だった。
ニコはその噂話を耳にしたとき、まさかと思ってはいたが余計な詮索はせず、親友であるニールを信じる事にしていた。
(どうやってこんなにも厳重な警備の目を盗む道筋を把握できたのだろう。噂通りに黒い連中と繋がりがなければ素人には無理に近いしなあ)
そんな事を思いながらニコは馬と共に茂みに身を隠していた。
暫く待っていると、塀と植栽の隙間から屋敷の裏口より小さな陰が駆けてくるのが見えた。
ニコは用心深くその動く陰の様子を見ていたが、それがアンドレアだとわかると茂みに馬を残し、塀についた小さな裏門まで小走りで移動した。
施錠が外れているのはアンドレアが昼間に外しておいたのだろうか、すんなりと敷地内に入ることが出来た。
手招きでアンドレアを呼ぼうとしたが暗がりの中では無意味かと思い、あげかけの腕をおろし高音の指笛で自分の存在を知らせた。
ニコに気がついたアンドレアは小走りで近づいて来る。その足取りの軽さから彼女の気分の良さが伺えた。
ニコの姿を見つけたアンドレアは嬉しさの余りそのままニコの胸に飛び込みたい衝動にかられる。しかし、羞恥の
「ニコ、本当に来てくれたのね、ずっと、ずっと待っていたわ、ありがとう」
足取りの軽い小走りで近づいてきたわりに、妙な冷静さを突如として出したアンドレアの仕草にニコは違和感を感じる。
それがアンドレアの少女故の小さな葛藤だとはニコにはわからなかった。
「約束通り迎えにきたよ、さあ
「はい。あ、うん!」
「出発の前にいくつか話があるから聞いてほしいのだけれど」
ニコはそう切り出し、これから始まる事の大まかな説明をする。
「まず、新月の夜は普段よりも数倍危険なんだ。アンドレア、君が思っている以上にね。具体的なことは場所を変えてから説明するよ。次に、今回のこの計画は僕一人では君を守りきれないと言い切れる。だから協力者がいるんだ。覚えておいて、大聖堂の前で合流する予定だよ。最後に、僕は君を
ニコの穏やかな表情の中に垣間見れる凄みの様なものを受け、アンドレアは目をぱちくりとしながら首を傾げた。
その様子を見てニコは事の重大さが伝わっているのかが疑わしくなった。
ニールの言った通り、アンドレアはあくまでも貴族であり、庶民の感覚とはだいぶかけ離れた所に居るのだと改めて思い知らされる。
「あの、私……」
うつむき気味なアンドレアの手をニコは優しく包むと、先程の凄みを打ち消すような柔らかな表情をして彼女の不安を取り除こうとした。
「ごめんよ、驚かすつもりじゃなかったんだ。ただ本当に危険な事だと知っておいてもらいたかったんだ。でも大丈夫、僕が守るから」
「うん、ありがとう」
その時、静かに星の瞬く夜空に大聖堂の鐘の音が響き渡った。
「さあ、時間だ。行こうアンドレア! 素敵な事が待っているよ」
興奮のためか、思わず声が大きくなったニコは慌てて口を手で塞ぐ。眉を上げ周りを見回した後、ちらっとアンドレアを伺うと、同じ様に口を手で押さえクスクスと笑った。
「あはは、つい興奮しちゃった」
おどけて見せたニコはすっと手を差し出した。アンドレアはそれに応え、ニコの手に自らの手を添える。しっかりとした手の温もりが伝わってくると、アンドレアはつい視線を外し、真横を向いてしまった。
ニコは不思議なものにまかれながら、首をかしげアンドレアの表情を伺うが、真相は暗がりに姿を消してしまった。もしも、これが陽の当たる場所だったならば、アンドレアの赤面した顔が答えとなっていただろう。
ニコはアンドレアの手を引き、路地の脇にある茂みの前まで来て立ち止まる。「ちょっと待ってて」とニコは言い残し、茂みを掻き分けて行ってしまった。
暫くすると、ガサガサと音を立てながら馬を引き連れたニコが現れた。アンドレアは少し驚いた表情になりニコに尋ねる。
「ニコ、乗馬が出来るの? 凄いわ、わたし馬になんて乗ったことないもの」
「ああ、父さんから教わったんだよ。顔料の元になる鉱石とかをあちこちに探しにいくからね。馬に乗れないのは男じゃないって良く言われたよ」
「ふふっ、ニコのお父様、どんな方かしら。一度お会いしたいわね」
ニコは会話を終わらせるため、視線をアンドレアから外し彼女を馬に乗せる為に屈んで踏み台になった。
「さ、乗って」
そう促すとアンドレアは若干の戸惑いを見せつつも、ニコの背中に足をかけた。
ヒールが背中に食い込みニコの顔を歪ませたが、彼女の素性を考えればこれも仕方ない事だと思った。
「っしょっと」
ニコも続いて器用に騎乗し、手綱を胸元まで引き寄せる。馬のたてがみを一撫でしながらアンドレアに言った。
「ね、アンドレア。靴なんか要らないよ、脱ぎ捨てちゃえばいいじゃない」
「うん! そうね、そうするわ」
すると、アンドレアは足をバタつかせ履いていたヒールをその場に脱ぎ捨てた。
「裸足、裸足よわたし。なんだか心まで軽くなったみたい。子供の頃に戻ったみたいよ、ねえニコ!」
「まるで足枷が外れたみたいだ。さあ行くよ、落ちない様にしっかり掴まっていてね」
アンドレアはニコの胴に手を回し力一杯抱き付いた。小さく見えたニコの背中が今はとても大きく頼もしいものに感じる。それまでの不安は一切立ち消え、安心感に包まれた。
頬を背中に添えるようにくっつけると、布越しにニコの体温や鼓動といった暖かいものが感じられた 。自身の早まる鼓動の意味すること、流行り病の類いではないのは確かだった。アンドレアはこの時、自分の中に芽生えたものが何物だったのかはっきりとわかった。
そして、それはまるで心が優しい色に染め上げられてゆくようだった。
そんな少女の内面の変化を他所に、ニコは馬の胴を踵で
二人が出発してから間もなく、高身長の人物が茂みから姿を現した。脱ぎ捨てられたアンドレアの靴を拾い上げ、大事そうに汚れを払う。
「いってしまわれましたな。無事に帰って来ることを祈り、待っていますぞニコ様……アンドレア様……」
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