第4話―嵐の夜と快晴の朝、そして夏の風物詩―

「どうしてこうなったんだ……」

 世界が狂ってしまった4月20日。

 俺たちは世界の変わりように絶句するしかなかった。

 当たり前だと思っていた平穏な暮らし、いつも街に人がいて笑顔が溢れている。

 この噴水広場だって休日はカップルや家族連れで賑わっていたのだ。

 しかし今はどうだ。

 噴水の血は赤黒く濁り、響くのは悲鳴と、肉を食らうゾンビの咀嚼音だけ。

「先輩方、考えててもわかんないでござるよ! とにかく、今は安全な場所に避難するでござる!」

「そ、そうだな」

 紗英の言葉で何とか心の平静を取り戻し、俺たちは辺りを見回す。

 安全な場所、それはどこか探すが見当たらない。

「モールなんてどうかな? そこなら色々食べ物とかもあるし、困らないんじゃない?」

「塚本さん、それは違うよ。ゾンビパニックで一番危ないのはモール。人間同士の裏切りで派閥が生まれ対立、その上ゾンビに噛まれたのに黙ってた人が現れて大感染につながる。フィクションじゃ鉄則だね」

 得意げにそう語る大智。確かに映画や漫画ではモールは危ない。

「じゃあ自衛隊が来るまでどこかで隠れてるのはどうですか?」

「鎌滝さん。自衛隊はこんなパニックじゃだいたいは無能だ。いつ助けに来るか分かったものじゃない。フィクションじゃ鉄則だ」

「二人ともフィクションフィクションって。これって現実だよ? 現実ならどうにかなるんじゃないの?」

 恵那がそう声を荒げるが、俺も、きっと大智も意見を変えるつもりはない。

「そもそもゾンビ自体がフィクションの産物だ。ゾンビがノンフィクションになった今、モールのパニック含めゾンビ映画あるあるはノンフィクションになるんだよ。だから危なくなる可能性があるってところには近づくなってことだ」

「言ってることはわからなくはないけど……ならどうしたらいいのよ」

 むすっと膨れる恵那。

 ならばどうしたらいいのか、と悩む鎌滝さん。

 俺もゾンビ知識をフル動員するが、いったいどうしたものか。

「先輩方、ラブホテルでござるよ」

「は? ラブホ?」

 紗英の言葉に、俺たちはみな訳がわからないという表情を浮かべる。

「なんだ? 人類の危機だからって子孫残すのか?」

「純也先輩ってホントバカでござるね。そんなことするわけないでござるよ。そもそもあーしは純也先輩みたいなヘタレはタイプじゃないでござる」

「お、俺はヘタレじゃ」

「ジュンがヘタレなのはみんな知ってるしさ。そんなことより、なんでラブホなわけ?」

「ラブホなら普通のホテルより人が少ないでござる。そもそもこんなパニックでラブホに行くと思いつくような奴がいないでござるからな。だから人間同士のトラブルも起こらないでござる。それにラブホも一応ホテルなわけで、生活するには困らないはずでござる」

「……まぁ、確かにな」

 紗英の言葉に皆頷く。今まで上がった候補の中では、一番まともだからだ。

「それに、あーしやってみたかったことがあるでござるよ」

「やってみたかったこと?」

「それは実際に場所を確保してからの内緒でござる。さ、早く探しに行くでござるよ」

 こうして俺たちはラブホ探しを始めたのだったが、その数十分後だった。

「やばいな……ゾンビの群れだ。囲まれてる」

 ゾンビの群れに遭遇してしまったのだ。

 武器も持たない俺たちはゾンビの間をすり抜けるように駆けた。

 息も絶え絶えになり、足が乳酸でパンパンに膨らんでも、走り続けた。

「柄本君!」

「鎌滝さん……?」

 だが、俺を呼ぶ声に振り向き思わず足が止まった。

 なぜなら、鎌滝さんがゾンビに襲われ、今にも食われてしまいそうだったから。

「鎌滝さん!」

 俺は引き返そうと足を踏み出した。が、すでに手遅れだ。

「柄本君……」

 何か言いたげに口を動かすが、言葉が出ていない。

 それもそのはずだ。彼女が放とうとした言葉は、噛み切られた喉から漏れる血とともに体外に飛び散ったのだから。


「うわぁぁぁぁぁ!!!」

 俺は思わず飛び起きていた。

 その瞬間に、ゴロゴロゴロ! と、空が鳴り、意識が現実に引きずり戻された。

「はぁはぁ……夢、か」

 額にびっしょりと浮かんだ汗の玉を拭い、俺はふぅ、と息を吐いた。

 鎌滝さんが死んだ日の夢。きっと彼女に似たノアを見たせいだろう。

 寝汗がひどい、シャツがビシャビシャだ。加えて喉もカラカラだ。

「つか雷まで鳴ってるのか……本格的な嵐だな、こりゃ」

 ざぁざぁ、と騒がしい雨音が聞こえる。雨が嵐に変わっていた。今は一体何時だろうか。

 手でスマホを探っていると、何か暖かくて柔らかいものに触れた。

「なんだ?」

 スマホを見つけ、ライトを灯す。と、そこにはノアが眠っていたのだ。

「の、ノア!?」

 俺は記憶を辿る。ノアはケイと一緒にお風呂に入りそのまま眠ったはずだ。俺も自室で風呂を済ませ、疲れに身を任せて眠った。

 ならばノアは寝ぼけてここまで潜り込んできたのか。何とも器用な子である。

「ほんと鎌滝さんに似てるけど、何者なんだ、お前は」

 眠るノアのほっぺたを指先でぷにぷにといじくる。子供特有の柔らかな肌はまさに餅肌という言葉がぴったりで、俺の指に吸い付くほどだ。

 彼女はそれが気に食わなかったのか、嫌そうな顔を浮かべ寝返りをうつ。

 が、すぐにまた気持ちよさそうな、天使のような笑みを浮かべた。

「深夜0時……まだ2時間しか寝てないのか」

 スマホで時間を確認し、俺は立ち上がる。

 まだまだ夜は長い。ならばこの汗を吸い込み冷たくなったシャツで眠るわけにはいかない。風邪をひいてしまう。

 薬は貴重なのだ。もしもの時のために温存しておきたい、そのためには自分の健康管理は大切なのだ。

 そう、これもゾンビ世界での大切な生き残り方の一つだ。

「シャツ、シャツ、っと……あった」

 明かりを点けてノアを起こすのも忍びない。俺は暗闇でシャツを探り当てた。

 ズガッ! ゴロゴロ! 内臓の奥底を揺らすほどの雷の音が闇の中で響く。

 俺はそれを聞きながら、シャツを脱ぐ。

 裸になった上半身にも汗が染みついており、不快だ。

「タオルは……探すの面倒だしティッシュでいいか」

 ティッシュなら枕元に置いてあるため探さなくて済む。

 俺はベッドに膝をつき、ティッシュへと手を伸ばした。それで身体を拭き、使ったティッシュはまとめてベッド脇へ。

 と、その瞬間だった。ガチャリ。俺の部屋の扉が開いたのだ。

 完全に油断していたため、体が動かない。が、頭だけは素早く扉のほうを向いてくれた。

 部屋の中に漏れこむ廊下の光、それに照らされて侵入者の正体が明かされる。

「じゅんぢゃぁん!! がみなりごわいよぉ!! のあもいないよぉ!! だずげでぇ!!」

 侵入者はケイだった。涙混じりの情けない声を出しながら部屋に転がり込んできたのだ。

 だが、彼女は俺の姿を見るやピタリ、と動きを止めた。

 その瞳にはベッドの上で上半身裸の俺と、すやすやと眠るノア、そして散乱する使用済みティッシュが映っている。

「ジュン……これは、どういうことなのかな? あたしに、教えてくれる?」

 ケイの言葉が異様に優しい。だがその優しさの裏には、理解を拒むほどの怒りが見え隠れしていた。

「い、いや、これはただ、寝汗が酷くて……ほら、汗拭いたティッシュも!」

「寝汗なら、タオルで拭けばいいよね?」

「タオル探すのに電気点けたらノアが起きるかなって……」

「ノアちゃんが起きたらまずいことしようとしてたもんね。そりゃ起きられたくないよ」

「ち、違う! 俺は何もしてない! 冤罪だ!」

「もし、もしもだよ。何もしてないとしてもあんたの部屋にノアがいるってことがアウトじゃないかな?」

「それはノアが勝手に」

「問答無用! 歯ぁ食いしばってしっかり受け止めな!」

 ケイの怒りの鉄拳が飛んでくる。物凄い怒りがこもり、オーラが見えるよう。

 食らったら痛いだろうな、意識飛ぶのかな、もしかしたら死ぬのかな、なんて思いながらケイの拳を待った。

 それが襲いくるまであと一秒。だがその瞬間に雷が鳴った。

「ぎゃぁ!」

 短い悲鳴を上げたケイ。そして俺を襲おうとしていた拳は開かれ、ぎゅっと抱き着いてきたのだ。

 そんなこと身構えてもいなかった俺はケイに押し倒されるようにベッドに転げた。

「け、ケイ……」

「ジュン……」

 目と鼻の先に、ケイがいる。

 お互いに目が合い、まるで磁石が引き合うように離せない。

 ケイの息が鼻先にあたり、こそばゆい。彼女も俺の呼吸でそう感じているのだろうか。

 何か甘い爽やかな匂いもする。それが俺の顔横にかかった彼女の金に染められた髪からすることにやがて気が付いた。

 時間が止まり、世界が俺たち二人だけになり、その俺たちでさえ溶けて合わさってしまったような不思議な感覚だ。

『はぁはぁ……』

 お互い、呼吸が早くなる。鼓動の速度も上がっている。

 心臓のバクバクがケイに聞こえているかもしれない。もし聞こえていたら、恥ずかしいな。

 なぜ彼女相手にそんな気持ちになるのだろうか。

「……ケイ」

「……ジュン」

 俺たちはお互いの名を呼びあう。いつも呼び合っているはずなのに、なぜか気恥ずかしい。ムズムズする。

 いったいこれは何なのだろうか。今は思考することすらできない。

 ぱっちりとしたケイの瞳に吸い込まれて、消えてしまいそう。

「ジュン」

 もう一度彼女が俺の名を呼んだ。俺もそれに応えるように口を開こうとした。

「近い!」

 が、言葉を放つ前に俺の頬にパンチが飛んだ。

 頭が揺れるほどの衝撃で、目の前に星がチカチカと輝いた。

「理不尽……だ……」

 俺はそんな言葉を吐くだけで精一杯だった。


「で、どうして俺が床で寝なくちゃいけないんだ……」

「もちろん、あたしたちに変なことしないようにね」

 俺は恨みがましくベッド上のケイを見たが、彼女はそんなこと気にもしない。

 それどころか近付けばまた殴るぞ、とでも言いたげな雰囲気を放っている。

「つかそもそもなんで俺の部屋に来たんだよ。ウサの部屋に行けばいいだろ」

「だって雷がまた鳴るかもだし……それにあたし、あの子の先輩だし怖がってるところみられるのはちょっと……」

 先ほどから約20分が経過している。その間一度も雷は鳴っていない。どうやら暴風域は抜けたようだ。

「ほんとお前は昔から雷苦手だよな。そうそう、あれはいつだったかな、小学校低学年くらいか? 俺の家に泊まりに来た時も雷鳴っててさ、怖いよぉって泣きついてきて」

 あの頃の泣き虫なケイの姿を思い出し、俺は小さく笑った。

 彼女もそれを思い出してか、恥ずかしそうにだが笑う。

「そうだったね。で、結局雷怖くて一睡もできなくてさ。次の日友達とプールの約束してたのにすっぽかして一日中爆睡」

「はは、俺もだ」

 なんて言い合い二人して笑いあう。

 お互いの口からは止めどなく昔話が零れる。

 無性に話したくてたまらないのだ。あの懐かしい夕焼けを見たせいだろうか。

「そうそう、昔といえばさ、俺お前に聞かなくちゃいけないことがあったんだよ」

「何かな?」

 そうだ、俺は彼女に聞かなければならないことがある。

 今まで聞こうとしていたが機会がなく、いや、答えを聞くことから逃げていた質問が。

 だが今なら聞ける気がする。過去と決別するために。

「どうしてお前はそんなギャルみたいになったんだ? クラスではお前がエンコーしてるだのなんだの噂もあった。昔は俺の後ろで隠れてたくらいビビってる奴だったのにさ」

 彼女は俺の顔を見つめる。俺の意志が真相を話すことにふさわしいか見定めているのだろう。

 やがて彼女は堪忍したように、はぁ、と息を吐いて話し始めた。

「あたしがギャルになったのは、ジュンがいなくなったから」

「俺が転校したからか?」

 親の都合で転校し、ケイと離れ離れになってしまった。しかしそれが原因だとは思いもしなかった。

「そう。あたしはジュンが行っちゃったときに決めたの。ジュンがいなくても大丈夫なあたしになるって。昔はさ、ジュンがあたしのことずっと守ってくれたよね? あの頃のあたしは引っ込み思案でおとなしい子だった。だからクラスの子にからかわれても反論できなくて」

「あぁ、それで軽いいじめにも発展した」

「でもいつもジュンがあたしを守ってくれた。ジュンがいたからあたし、学校に行けてたんだよ? でもあたしを守るジュンがいなくなった日、あたしはあたしを守るために変わったんだ。まずは見た目からね」

 ケイはそう言って自分の金色の髪を懐かしそうに撫でた。

 こんな世界だと言うのに、彼女は髪のケアをおろそかにしていないのだろう。柔らかな髪に、すすぅと彼女の指が通り抜けていく。

「金髪にしたらなんだか自分が変わった気がしたの。強くなったって錯覚。たとえ錯覚だったとしても、あたしはそれでいじめっ子たちにやめてって言えた。次は化粧もしてみた。そしたらもっと強くなった気がして、いじめっ子たちに仕返しもできた。あたしは着飾れば着飾るほど、強くなれたんだよ」

 たとえ錯覚だとしても、彼女にはそれが心の支えになっていたのだ。

「どんどん着飾って強くなると、性格も自然と変わって引っ込み思案のあたしは消えていった。けど、あたしの周りからも人が消えていった。あたしについての変な噂も流れてた。こんなのあたしが求めたモノじゃない、気付いた時にはもう遅かった。あたしは、着飾ってないと何もできない体になってた」

 そう語るケイの瞳は寂しそうだった。俺がいない間に苦しんでいたんだ、と感じたと同時、本当のケイは変わっていないな、と安堵した。

 やはり中身は、昔の俺が知っているケイだ。

「じゃあ結局噂は噂ってことか。ガチでギャルになったわけじゃなかったんだな」

「まぁね。あたし、エンコーするほどお金に困ってないし、勉強も好きでやってたから先生に答え教えてもらったりもしてないよ。全部あたしの見た目だけで奴らが勝手に根も葉もない噂流したの。ま、そんな噂なんてお構いなしって感じであたしに付きまとってたのもいたけどね」

 俺は記憶を辿り、ある男の顔が浮かんだ。

「皆川か」

「そう。あいつはしつこいくらいあたしに付きまとってさ。何度も嫌だって言ってるのに付き合えってうるさくて。放課後まで付きまとってくるんだよ? ありえなくない?」

「あぁ、ありえないな」

 いつかケイが皆川とともにハンバーガーショップに入っていくのを見た。

 あの日の胸のもやもやが晴れた。いや、そもそもなんで俺はそれを見てもやもやとしたのだろうか。

「じゃあ今度はジュンの話。ジュンも変わっちゃったよね?」

「え? 俺が変わった?」

 俺は頭にクエスチョンを浮かべる。本当はわかっていたのに。

 ごまかすことで彼女からの追及を逃れられると思った。だが、違った。

「わからないの? ジュンはあたしを守ってくれてた時よりも弱くなった。ううん、何もかもから逃げてた」

「……」

 俺が逃げていた、心に棘が刺さったようにヂクリ、と胸が痛んだ。

「昔のジュンは強くて優しくて、困ってる人を助けるヒーローになりたいって言ってたのに。こっちに帰ってきたジュンは昔とはまるで違ったの。困ってる人がいても、見て見ぬふりしてた。キナコを眺めるふりしてね」

「違う!」

 俺は思わず声を荒げた。

 うぅん、とノアが声を漏らし寝返りをうった。

 静かに、とケイはジェスチャーをする。

「違わないよ。だってあたしは、あんたに助けを求めてたのに。何も着飾らなくてもいいって言って欲しかったのに。あんたはキナコに夢中だった、あたしを無視して」

「鎌滝さんは関係ないだろ」

「わかった。じゃあキナコのことは抜きにして、あんたの話。ジュン、転校してから帰ってくるまでに何があったの?」

 ケイの鋭い瞳に見つめられ、俺も諦めることに。

 それに彼女だけ真実を話し、俺が話さないのも吊り合わない。

 結局俺は、話を聞いて、許してもらいたかっただけなのかもしれない。無様な自分自身を。

「俺は転校した先でも、ケイを守ったみたいに、誰かのヒーローになろうとした。けれど、それが通じたのは他の奴らが幼かったからだ。中学生になり、賢くなったあいつらのいじめはもっと陰湿になった。俺が守ってやれないほどに」

 俺は思い出す。自分自身があまりに無力で、自己満足で動いていたことに。

「俺はヒーローごっこで誰かを救った気になってた。けど俺の知らないところでもっと酷い目に合ってるやつがいて、結局誰かを救うのなんて無理だと知った。この世界に、ヒーローなんていらないんだって。だから俺はフィクションに逃げたんだ」

 そのころから俺は映画を見始めた。レンタルビデオ店に行き、片っ端から漁るように見ていた。

 そこに映っていたのは主人公に都合のいい世界。

 どれだけ泥水をすすろうと、周りから人がいなくなろうとも、最後は自分の信念を貫く物語。俺はそれに酔いしれ、現実に別れを告げたのだ。

「俺は映画の主人公じゃない。そう思えば思うほどバカらしくなって、結局見ないふりに落ち着いた。そうすると俺の心も腐っていき、強い奴らに逆らおうなんて気も起きなくなった」

 そうしてヘタレた俺の誕生ってわけだ。

 ケイは俺の話をじっと聞いていた。非難するわけでもなく、同情してくれるわけでもなく、ただただ、聞いているだけだ。

「じゃああんたが今生き生きしてるのは、映画の主人公気取りってわけだ」

「……そうかもしれないな」

 ゾンビが発生し、フィクションが現実になった。

 その世界で俺は、映画の主人公を自分自身に当てはめていた。無意識のうちに。

「ほんと、笑えるよな。人間ってさ、やっぱり変わっていって、昔のようには生きていけないんだよな」

 俺は自嘲気味に笑みを零す。

 せめて笑い飛ばすことで、少しでも惨めな気持ちを紛らわせたかったから。

 でもケイは違った。ケイは笑う俺を蔑むように言った。

「あたしはそう思わない」

「え……?」

 彼女は立ち上がり、俺のもとまで歩いてくる。

 そして、ぎゅっと抱き着いてきたのだ。今度は無意識ではなく、彼女の意志で。

「たとえどんなことがあっても、変わらないものもある。色々あったけど、ジュンは今、あたしを守ってくれてる。それがどんなに心強いか、気付いてないでしょ?」

 彼女が耳元でそう呟いた。優しげな口調で。

「たとえジュンが主人公気取りだとしても、あたしはそれで十分だから」

 そして、ケイの身体が離れていく。

 彼女はベッドに戻り、何事もなかったかのように目を瞑った。

 俺はというと体に残る彼女の熱が冷めず、ただただぼぉっとするしかなかった。

 彼女の言葉の真意も捉えられずに。

 だが、やがてその熱も襲い来る睡魔にやられ、こてん、と体が床に転がる。

「お休み、ジュンちゃん」

 ケイのその言葉を最後に、俺の意識はゆるやかに闇の中へと落ちていった。


 翌朝、昨日までの嵐はどこかに行ってしまったようだ。

 俺は起き上がり、ぐっと伸びをする。床で眠ったせいで体が固まり、関節からボキボキと小気味のいい音が鳴った。

「体がいてぇ……ったく、ぐっすり眠りやがって」

 ベッドではケイとノアがまだ眠っていた。

 二人は仲良し姉妹みたく寄り添いあって眠っている。そんな二人を起こすのも忍びないが、起きてもらわねば困る。

 俺は心を鬼にして二人を起こした。

「ふわぁ……おはよう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

「あ……おはよう、ジュン」

 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がる二人。

 ケイがぐっと伸びをすると、彼女の健康的なお腹がちらり、と見えた。

「ケイ、早くノアを連れて自室に戻れ。こんなところ誰かに見られたら」

「お~い、ジュン。今日は自衛隊にバック返しに行くんでしょ。起きてる?」

 最悪のタイミングで扉が開き、イチが入ってきた。

 イチは俺とケイ、交互に見てからゆっくりと扉を閉めた。

「ウサ! 聞いて聞いて! ついにジュンとケイが一夜を共にしたよ!」

 が、次の瞬間にはどたどたと足音を残し、ウサに報告に行ってしまった。

「イチ、てめぇ! つか誤解だ!」

 昨日命がけの戦いがあったというのに、もう騒々しい朝が戻ってきていた。

「それじゃ行ってらっしゃいでござる。不潔なジュン先輩」

「いや、ウサ。何回も言ってるけど誤解だし、何もしてないからな」

「はいはい、悪い人はみんなそう言うでござるよ」

 数時間後、俺はケイとノアを連れて居住区へ向かうことに。

 見送りのウサの視線が痛いが、仕方ない。

 ウサだって本気で俺とケイがしてた、とは思っていないだろう。

 ただからかっているだけだ。そう、思いたい。

「ねぇねぇ、今からどこに行くの?」

「今からお買い物よ。それから、おいしいものも食べよっか」

 今日の目的はまず自衛隊にカバンを返却する。次にこの前の時計を質屋に売る。最後に、今まで外を彷徨っていただろうノアのためにおいしいものを食べさせてあげる、だ。

 イチとウサに店番を任せて遊びに行くのは少し忍びないが、ノアが特に俺とケイに懐いているのだから仕方ない。

「それじゃ俺はカバン返してくるのと入場手続きするから、ここで待っててくれ」

 ホテルから数十分歩き、ようやく居住区へ到着した。

 そして見張りの自衛官に挨拶をする。

「おや、ジュンくんじゃないか。どうしたんだい?」

「ゲッ……森崎……」

 見張りは森崎だったようで、俺はわざと顔をしかめて見せた。

 が、彼はいつものことだと言わんばかりだと鼻で笑う。

「昨日のカバンを返しに来た。あと、居住区の入場手続きを。3人だ」

「仕方ないな、貸しだぞ」

「何が貸しだ、ばかが」

 なんて言い合うが、森崎はしっかり入場券を発行してくれた。

 それと一緒にコンビニの大き目なレジ袋を手渡してきた。

 中をのぞくと、そこには大量のお菓子が詰め込まれていた。

「これは?」

「昨日のコンビニにあったものだ。勘違いするなよ、お前にあげるんじゃない。あの子にあげるんだ」

 そう言った森崎の視線はノアにあった。

「彼女の捜索依頼は他の居住区では出ていない。もしかすると居住区で育てられなくなったからわざと外に放置したのかもしれないし、もともと外で暮らしていたのかもな」

「なんにしろひどい話だ」

「あぁ、まったくだ。とにかく、今のあの子には少しでも辛さとか寂しさとか、そういうのを紛らわせることが必要だろう」

「だからお菓子か。意外と良い奴だな、お前」

「自衛隊だから、当たり前だ」

 彼は改めて自分のしたことが気恥ずかしくなったのか、そっぽを向いた。

「とにかく、ありがとな。またノアのこと何かわかったら連絡してくれ」

 おう、と森崎は頷き俺たちを居住区の中へと通してくれた。

 居住区といっても外と何ら変わりはない。

 違いはゾンビがいるかどうかだ。

 居住区の人々はかつて誰かが住んでいた家で暮らしている。

 だがそんな彼らも日中は働いている。自衛隊と共に家や水道などインフラの工事をする者、家の前で自作の服を売る者、他にも子供を預かる託児所なんてのもある。

 そうした仕事をし、自衛隊から給料である配給をもらい彼らは生活しているのだ。

「うわ~、人がいっぱい!」

 働く彼らを見てノアは目を輝かせる。

「ノアちゃん、お姉ちゃんと手、つなごっか。迷子になっちゃう」

 うん、とノアはケイと手を繋いだ。

 俺は二人の歩幅に合わせて、居住区の中を見て回る。

「あ、ジュン。見てよ。公民館で授業開始だって」

 ケイは電柱に貼られた一枚の広告を見て喜んだ。

 授業が始められるのは俺たちが学校で教材を見つけたからだ。

 俺たちが命を張った結果があり、途端に鼻が高くなり誇らしく思えた。

 俺たちがヒーローになった、そんな気分だ。

「おい、退け」

 と、背後から声がかかり、電柱の前に立っていた俺たちは背を引かれた。

 振り返るとそこには、真っ青に髪を染めたロン毛に革ジャンの若い男が立っていた。

 革ジャン男は授業開始の広告の上に一枚の紙を貼った。

 そこには大きく「南無なむ金剛こんごうきょう、信者求」と書かれていた。

 南無金剛教、それは腐食箱舟と同じくゾンビ発生後にできた宗教だ。

 あちらはゾンビを信仰しているが、こちらはゾンビを殺し、ゾンビとなった人々の魂を解放しよう、というものだ。

 自衛隊とは別に動き、ゾンビを倒して回っている彼ら。武闘派である彼らのもとには、大切な人をゾンビに殺され復讐がしたい、という人が多く集まっているという。

「おいお前! なにすんだよ! 宗教の勧誘より子供たちの授業のほうが大事な連絡だろ!」

 俺の言葉に革ジャンはぎろり、と明らかに機嫌が悪そうに睨みつけてきた。

 彼の放つ強烈な威圧に、関係のないノアまでもがビビり、ケイの後ろに涙目で隠れてしまった。

「ったく、ガキが吠えるなよ。わざわざ左京様がビラ配りに来てやったってのに」

「左京って……あの」

「左京、失礼ですよ」

 と、左京の背後からおとなしげな、しかし腹に響く男の声が聞こえた。

 見るとそこには山のような大きな体躯を持った、坊主の男がいた。

「だってよ、右京。こいつがビラを貼るなって噛みついてきたんだよ」

「右京……ってことはあんたらが」

「えぇ。我々が南無金剛教の開祖、右京と左京でございます。この度は弟が迷惑をかけてしまい、申し訳ありません」

 右京と左京、彼らは双子であり、教団の中でトップの実力を誇るとのこと。

 その戦いぶりは仏さえも恐れる、という噂もある。

 そんな右京が、俺に頭を下げている。

 左京も何か言いたげだったが、ようやく頭を下げた。

「我々の教えよりも、子供の勉強のほうが大切だ。本当に、申し訳ありません」

「い、いや……その、俺も悪かったかなって……」

「ジュンが謝ることないよ」

 そう言ったケイのことを、左京が鋭く睨む。彼女はびくり、と肩を震わせ後退る。

「ではこの話はこれで。我々もビラ配りで忙しいので。行きますよ、左京」

「命拾いしたな、ガキども」

 そう言って彼らは俺たちに背を向けて歩き出した。が、右京が思い出したように振り返り、にっこりとほほ笑みこう言った。

「それでは、もう会うことはないでしょうが、さようなら、ヘルス・オブ・ザ・デッドの方々。死者の肉体を愚弄するあなた方は、ゾンビよりも質が悪い。いずれ地獄に落ちますよ」

「なっ……!」

 何か言い返してやりたい、そう思ったがケイに手を握られる。何事かと見ると、首を横に振り、進むように促された。

「おい、ケイ。言われっぱなしで済むかよ」

「あいつらはだめ。絶対に関わっちゃいけない。あたしにはわかるの。あいつら、人間相手でもきっと容赦しない」

 俺は振り返り、彼らの姿を見た。その瞬間、ぞくり、と背筋に寒気が走った。

 先ほどはわからなかったが、彼らの後ろ姿がとても大きく見えたのだ。それだけではない、背中に何かが宿っていると感じた。

 それは鬼か羅刹か、正体は知れないがやばいものだということだけはわかる。

 俺は前を向いて、ケイに手を引かれるまま歩く。二度とあいつらに会うものか、と心に誓いながら。


 そこから少し歩き、俺たちは目的の質屋に到着した。持ってきたブランド時計や財布などを売り、代わりに食料や薬をもらう。

 この時代、ブランド物は価値がないと思われるが、実際は違う。これらのブランド物を求めるのは居住区の人々だ。

 彼らにも居住区内でのランク付けがあり、より価値のある品を身に着けているほうが格が上なのである。

 皆、仕事をし、生きるための食糧を切り詰め、ブランド品を身に着ける。結局ゾンビが現れても人々の求めるものは何も変わっていなかった。

「それじゃこれを売ってノアの服でも買うか。好きなもの選べよ」

「やった! 私可愛いのがいいなぁ」

 ノアの服が買えるのも、ひとえに居住区の人々が何も変わっていないからだ。

 変わるモノ、変わらないモノ、その線引きを決めるのは、結局のところ人間なのだ。

 服を選ぶノアは先ほどの怯えた空気はどこへやら、楽しそうに目を輝かせている。

 そんな彼女の様を見ることはとても嬉しい。これが子を持つ親の気分、いや、それは言いすぎだな。妹ができた気分だ。

「これにする!」

「いいね、ノアちゃん。可愛い!」

 ケイもノアに癒され、頬を緩めている。

 こうして服を買い終わり、俺たちは最後の目的地へ。

 そこはひと際年季の入った食堂だ。木造の壁に黒く浮き出る染みが、この店の歴史を物語るよう。

「ここだ、くーろん食堂。ノア、ラーメンは好きか?」

「うん! 大好き!」

「ノアちゃん、今からおいしいラーメン食べられるからね」

 俺たちはのれんをくぐり、店を入る。

まず俺たちを迎えたのはむわっと暑苦しい蒸気だった。常に麺を茹でられるように、大鍋が煮えたぎり、そこから発生した蒸気が店内に充満しているのだ。

「おっ! らっしゃい! ジュン、ケイ、久しぶりじゃねぇか! ん? 子供連れか?」

 蒸気の向こうから声がかかる。40代くらいの男、この店の大将が額に汗を浮かべながら湯切りをしていた。

 慣れた手つきで麺をどんぶりに移し、客の前に出す。客は嬉しそうに麺をすすった。

 このご時世のもう一つの金の使い方、それはうまいものを食うことだ。

 いついかなる時でも、人はおいしいものを食べれば幸せになれる。毎日携帯食料で質素な食生活を送っていれば、心だって貧しくなってしまう。

 大将はそんな人たちのためにおいしいラーメンを作ってくれるのだ。

「まぁとにかく座ってくれや」

 俺たちは大将に促されるまま席へ。そしてメニューを眺める。

「じゃあ俺は出前一丁で」

「あたしサッポロ一番のみそ。ノアは?」

 ノアはう~ん、と視線をメニュー全部に動かし、やがて大声で言った。

「チキンラーメン!」

「あいよ!」

 大将は袋麺を取り出し、それを鍋で茹でていく。

 この店は客に袋麺を出すのか、とはじめて来た時は驚いた。

 しかし出来上がったものを食べてみると、本当に袋麺かと疑うおいしさだった。

 調味料か何かを追加して、袋麺が一流ラーメン店の味わいになるのだ。

「あい、ラーメンお待ち! 可愛いケイちゃんにはチャーシューおまけね。で、こっちの可愛いお嬢ちゃんには味玉だ」

「おいおい大将。俺には何かないのか?」

「あ? 男にサービスする気はねぇよ」

「ひでぇ……」

「ま、おまけでネギ大盛りにしてやるよ」

 いやがらせだろうか、麺が見えなくなるくらい器の中が緑に染まった。

「ほら、冷める前に食べな」

「そうだね、ジュン、食べよ。ノアちゃんも。いただきます!」

『いただきます!』

 俺とノアは同時に声を発し、麺を口いっぱいにすすった。

 麺とスープが絡まり、ネギのシャキシャキ感が後から追ってくる。絶妙なおいしさだ。

 やはりおいしいものを食べると心が幸せになる。

 俺は気付けば一口、また一口と食べ進めていく。

 彼女たちも夢中で麺をすすっている。

「あんたらうまそうに食うねぇ。作ったかいがあるよ」

「おじさんのラーメン、あたし大好きなんだ。何杯でも食べれる」

「私も! ラーメンおいしい!」

「おい、ジュン。この子ら俺の店にくれないか? あんな変な風俗まがいの店に居座らせちゃ勿体ねぇよ。うちの看板娘にする!」

「大将、そんなことばっかり言ってると次から割引なくすぞ? あと新人の子入っても一番に報告しないぞ?」

「わ、悪かった! すまん!」

 俺たちは笑いあう。こうして笑っておいしい食事をとると本当に幸せになる。

 気付けば俺たちはスープまですべて飲み干し、器をテーブルに置いた。

「ごちそうさま、大将。それじゃお代」

 テーブルの上にいくつか袋麺を置く。昨日コンビニで回収できた分だ。

「お、助かるね。これでまたレパートリーが増えるってもんだ」

 大将はニコニコ顔でお礼を言う。

 俺たちは店を後にしようと席を立つ。と、大将が声をかけてきた。

「おい、ジュン。一ついいか?」

「なんだ?」

 大将は神妙な面持ちでいう。

「最近自衛隊の連中が妙にざわついてる。なにかでかい作戦でも始めるんだろうな、武器だけじゃなくて人材も集めているようだ。あの右京兄弟にも声をかけたらしいぞ。お前たちも声がかかるかもな」

「そんなわけないだろ」

「いいや、お前たちが強いって噂はここらじゃ結構広がってるぜ。なんせゾンビを生きたまま連れ帰って風俗嬢にしちまうってんだからな。ま、とにかくだ。もしでかい作戦に参加することになってもさ、ちゃんと帰って来いよ。ラーメン、もっとうまくなるよう改良しておくからさ」

「そう簡単に死なないっての。守るモノもできたからな」

 俺はノアの頭に軽く手を乗せた。

 彼女は何もわかっていないようだが、小さく微笑んだ。

「なら、全員で食いに来いよ。サービスでタダにしてやるからよ」

 わかった、と俺は返事をし店を後にする。

「自衛隊の大きな作戦、気になるね」

「何かあればまた森崎が来るだろう。その時が来るまではあまり考えたくないな」

 空を見上げる。雲一つない、からりと晴れた夏空。

 それに吸い込まれてしまうようで、俺は思わず視線を地面に戻す。

 地面には俺たち3人の影が伸びている。

「今が、幸せなんだから」

 伸びた影が交わって互いが手を繋いでいるよう。

 ゆっくりと傾いていく陽光に身を預けながら、俺たちは家路についた。


「花火をやるでござるよ!」

 その夜、ウサの一言で急遽花火大会が始まった。

 ゾンビが集まってしまうのを防ぐために、俺たちは屋上に集まる。

 すでにウサが準備をしていたようで、大量の花火と水の張ったバケツ、それに缶ジュースとお菓子まで用意されていた。

「へぇ、花火なんてボク久しぶりだな。中学の頃友達とやって以来だ」

「俺は小学校からやってないな。親が虫に刺されるから嫌だって買ってくれなかった」

「私、花火やったことないなぁ」

「ウサ、花火なんていったいどこにあったの?」

「今までこっそり集めてきてたでござるよ。曲がりなりにも火薬でござる。銃弾が足りなくなったらお手製銃弾の素材にしようかと思ってたんでござるが、ノアがいるでござるし、パーっと楽しむでござる!」

 こうして花火大会が始まった。

「火を見るとテンション上がるでござるなぁ!」

「ウサってばいきなり二本!? あたしも二本持ちする! イチ、火点けて!」

「火点けならボクにまかせて!」

 ウサたちが花火を振り回し楽しむ横で、ノアは何を使うか悩んでいた。

 彼女は一番長いものを選び、俺に見せる。

「ねぇねぇお兄ちゃん、これどうやるの?」

「おっし、火点けてやるからな。ちゃんと持ってろよ」

 ノアの手持ち花火に火を点けると、瞬く間にスパークのように火の粉が飛び散り、彼女の顔を明るく照らす。

 鮮やかな火花のライトに照らされた彼女は、驚いた顔を浮かべていた。

「うわわ! すごい!」

「ノア! 危ない!」

 思わず手を離しそうになった彼女の手を握る。彼女の小さく、温かな手が少し震えているのが伝わってきた。

「ノア、怖いか?」

「うん、少しだけ……」

 火花が飛び散るモノはノアにはまだ早かっただろう。俺も初めて花火をしたとき、火がこちらに飛んでこないか怖がった記憶がある。

「じゃあこっちにするか」

 線香花火を彼女に手渡し、火を点けてやる。

 ぱちぱち、と小さな、それでいて激しい閃光が飛び散った。

「小っちゃくて可愛いね。私、これ好き」

 オレンジの光に目を輝かせるノア。

 しかしそれはすぐにポタリ、と地面に落ちた。

「あ、落ちちゃった……早いよぉ」

「それがいいんだよ。落ちるのは早いけどさ、キレイだし、それにどうやったら長く続けられるか頑張るのも楽しいんだ」

 俺も線香花火に火を点ける。緊張で手が震えるのを抑え、風から守るように場所を変え、頑張れと念を押す。

 ぱちぱちと燃えるそれは俺の意志が通じたかのようにじわじわと粘り、最後の一瞬、パッと燃え上がり地面に落ちた。

「お兄ちゃんすごいね! 花火名人だ!」

「あ、線香花火あたし強いよ! 花火名人の座はあたしの物よ!」

「いやいや、あーしのほうが強いでござるよ! 線香花火バトルロワイヤルでござる!」

「ボクも混ぜてよ!」

 ケイたちもこちらにやってきて、線香花火大会が始まった。

「まずはどれを選ぶかよね。どれが強いか……」

「そんなの見てわかるのか?」

「あーし程の名人になるとすぐにわかるでござるよ」

 自称線香花火名人たちは花火選びから真剣である。

「ちょっと、早くしてほしいんだけど。ジュンもノアも待ってるよ」

 彼女らが花火を選び終わり、俺たちは風の影響を受けないように円形に集まり、一斉に火を点けた。

 皆の線香花火が燃え、ぱちぱちと音が響きあう。

 独特の焦げた匂いが俺たちの輪の中で充満する。

「あ、ボクくしゃみが……はっ……はっくしょん!」

「おい! 俺のほう向いてするなよ!」

 煙が鼻孔をくすぐったせいでイチがくしゃみ。

 くしゃみの衝撃で手が動いたイチが脱落し、それに巻き込まれるように俺の花火も火が消え脱落。

「ふひっ、先輩方は口ほどでもないでござるね」

「俺はイチのせいだ」

「ボクは煙のせい」

「うるさい。集中してるから黙って」

 三人はじっと花火の先端を見ている。

 その緊張感は脱落した俺たちにも伝播し、ゴクリ、とつばを飲み込んだ。

「頑張れ……頑張れ……」

 ノアが俺の教えた通り花火を応援しているのに対し、自称名人は睨み合っていた。

「そろそろ燃え尽きそうじゃない。あんたの花火」

「いえいえ、あーしのはまだこれからでござるよ。今は休憩中なんでござる。先輩のほうこそ、大丈夫でござるか? 激しく燃えすぎでござるよ。その調子じゃすぐ消えるでござるな」

「バカ言わないでもらえる? あたしのは常に全盛期なの。ずっと燃え続けるのよ」

 いがみ合う二人は、やがて手を出すまでに至った。

 ケイがウサの肩にぶつかり、一方ウサはケイのすねを蹴っている。

 花火というのはこんなにも殺伐としていたのだろうか。

「あんた、痛いんだけど」

「先輩こそ痛いでござるよ。ちょっとは後輩に花持たせようとは思わないでござるか?」

「花持たせて勝ててうれしいの? ウサはそんなちっちゃい人間だったんだなぁ。その線香花火みたいに」

「うぐぐ……」

 動揺したウサの手元が震え、花火が落ちてしまった。

「やっぱりあたしが一番ね」

「まだ……まだノアがいるでござる……ノア、最後の希望を託すでござるよ……」

 ノアは彼女らのやり取りなど眼中にないようで、ずっと花火を見守っていた。

 がんばれ、と小さな声で応援し、花火が落ちないで、と願う。

 ノアの火は、ぱち、ぱち、と小さくなり今にも落ちてしまいそうだ。

「頑張って、ノア。ボクも応援するから」

「俺も応援してるからな。頑張れ、ノア」

「え!? あたしの応援なし!?」

「みんなノアが勝つほうが嬉しいでござるからな」

 みんなでノアを応援する。その意思が通じたのか火はまた明かりを取り戻した。

 がんばれ、俺の意志をノアに込める。

 ぽたり。炎が落ちた。

 先に火を落としたのは、ケイだ。

「やった! ノアの勝ちだ!」

「これからはノアが花火名人を名乗るでござる。前花火名人が許可するでござる」

「前花火名人はあたしなんですけど? あたしのほうが長かったんですけど?」

「あー、私も落ちちゃった……残念」

 ノアは勝った嬉しさよりも花火が落ちてしまった悔しさのほうが大きかったようだ。

「えへへ、花火って楽しいね! 私もっとやりたい! 今度はばぁって火が出るやつ!」

「もう怖くないか?」

「うん! わたしやってみたい!」

「よし、それじゃ火点けるぞ」

「あ、ジュン。あたしにも火点けてよ」

「あーしにも!」

「じゃあボクも!」

「はいはい、火点けるから並べ」

 暗闇に花火の光が浮かんでは消える。真夜中の空に真白の煙が充満しては、夏の夜風に吹かれてこれもまた消えていった。

「なにこれなにこれ! 追いかけてくるよ!」

「あはは! 蛇花火も久しぶりにやると楽しいね」

 なんだかんだ、みな童心に戻ったように楽しんでいる。俺はそれを眺めながら、缶コーラをグイっと喉に流し込んだ。

 乾いた喉に炭酸が染みわたり絶妙に気持ちがいい。

「ジュン先輩、楽しんでござるか?」

 と、ウサがやってきて、俺の顔を覗き込んできた。

「あぁ、楽しいぞ」

「それはよかったでござる。最近先輩、頑張りすぎてる気がするでござるから」

「まぁ、色々あったからな」

 俺は目を瞑り、今までのことを思い返す。が、なかなか思い出すことができない。

 色々なことが起こりすぎて、逆に記憶が曖昧になっている。

「それもあるでござるが、ケイ先輩のこともでござるよ」

「ケイのか?」

「先輩は必死でケイ先輩のこと、守ってる気がするんでござるよ」

「まぁケイは幼馴染だし仲間だからな」

「それ以上な気もするでござるけどね」

 俺がケイを守る理由。それは昔彼女を守っていた頃の名残なのか。

「ま、先輩が自覚してないならこれ以上言う気もないでござる」

「……?」

「自分で気付いたほうがいいってことでござる」

「何にだよ」

「あっ、私この一番太いのやってみたい!」

 と、ノアの声に俺たちの会話はかき消された。

「打ち上げ花火かぁ……ウサ、どうする?」

「う~ん……音がすごいでござるからね、ゾンビを引き寄せるかもでござる。それに火花も凄いでござる。自衛隊から何か言われるかもでござるよ」

「ならやめておこっか。ごめんね、ノア」

「代わりにねずみ花火するでござるよ!」

 ウサはケイたちのところに行ってしまった。結局彼女は何が言いたかったのだろうか。

 俺がケイに抱いている想い。

「ねぇ、ジュンも来なよ! まだまだ花火いっぱいあるし!」

 ケイが俺を呼ぶ。火花に照らされる彼女の笑顔。それは花火と同じように輝き、同時に儚さを孕んでいた。

 それを見て俺の心臓は少し早く脈打った気がした。

「あぁ、今行くよ!」

 きっと気のせいだ。なんてことはない。すべては、夏の夜のせいだろう。

 蒸し暑い気候、世界を包む夜の幕、身体に伝う汗、輝く花火と硝煙の匂い。

 俺たちは夜深くまで遊び続けた。

 この夜のような楽しさがこの先も続け、と願いながら。

 しかしその願いも叶わない。幸福は花火のように儚く、パタリ、と炎は止んだのだ。

 ノアがやってきて一週間も過ぎたころ。森崎が俺たちのもとを訪れてこう言ったのだ。

「明日、自衛隊はサンシャイン通り奪還作戦を開始する。君たちにも参加してほしい、頼む」

 それは今までで一番大きな戦いの始まる合図でもあった。


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