第4話―二人の衝動―

「ふわぁ……よく寝たぁ……」

 江戸城で弥栄は目を覚ます。体からは疲れが完全に吹っ飛び清々しい目覚めだ。

 体を起こしてぐっと伸びをする。

「あれ? 十兵衛殿いないや。もう起きたのかな? やっぱり十兵衛殿は早起きだなぁ」

 弥栄は自分の布団を畳み終えると、引きっぱなしになっていた十兵衛の布団を片付ける。

 と、その時だ、十兵衛の枕元に一冊の本が置いてあることに気が付いた。

「なんだろう、これ? にんげん……えっと、なんて書いてるんだろ? 難しい漢字で読めないや」

 農民の出の弥栄は文字があまり読めない。かな文字と少しの漢字しか教えてもらっていないのだ。

 弥栄はぺらぺらとページをめくるが、自分には読めそうにないと感じた。

「あ、でもこれ途中に絵が描いてある。可愛い女の子だなぁ……って女の子同士で接吻!? はわわ……これは僕には早いかも……」

 なんて言いながらも弥栄はじっと挿絵を見ている。それこそ穴が開くくらいに。

 女の子同士の恋愛の様子を描いたそれに、ドキドキと胸が高鳴る。

「そう言えば僕も昨日十兵衛殿と……ううん、あれは接吻じゃなくて治療だから! 全然好きとかそう言うのじゃ……!」

 しかし昨日のキスを思い出し弥栄は頬をピンク色に染めた。

 自分の中の鬼の血が暴走していたせいで細部までは覚えていないが、相当十兵衛のことを貪っていたことだけは覚えていた。

「……でも、気持ちよかったかも……ううん! 違う! 治療だから! 気持ちいいとかないから!」

 弥栄は頭を振って昨夜のことを頭から追い出す。

「ご飯食べに行こう……」

 気分を変えるために食堂へ向かう。

「あ、弥栄ちゃん。おはようっす」

 食堂に入った弥栄を迎えたのは太宰だった。彼はニコニコと笑顔を浮かべ、おいでおいでと弥栄を手招いた。

 弥栄は料理を取ってから太宰の向かいの席へ座る。

「弥栄ちゃん、朝から可愛いっすね。こんな可愛い女の子を朝から見れて、俺っち眼福っす」

「何言ってるんですか、太宰殿……」

 弥栄は呆れたような視線を太宰に送りながら、ご飯を食べていく。

「可愛い女の子に可愛いって言って悪いっすか?」

「僕、可愛いですか?」

「可愛いっすよ。男の子みたいっすけど、女の子らしい体してるっすし、何より十兵衛ちゃんを見てるときの目が恋する乙女って感じで超可愛いっす」

「こ、恋する乙女!?」

 弥栄は手に持っていたお椀を思わず落としそうになった。それをしっかり持ち直してゆっくりと机に置いた。

「ぼ、僕は十兵衛殿をそういう目で見ていません!」

「じゃあどういう目で見てるっすか?」

「尊敬の目です! 十兵衛殿は武士として相当強いですし、僕のことも守ってやるって言ってくれて……それに十兵衛殿は僕と同じ女ですよ? 恋など……」

「恋に男女もないっすよ。好きな気持ちに正直になればいいんすよ」

「だから十兵衛殿にそんな気持ちは抱いていません! あるのは尊敬と憧れです!」

 弥栄はむきになって思い切り机を叩いてしまった。

 周りからの視線が注がれ、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せる。

「ま、そういうことにしておくっす。あんまり弥栄ちゃんいじめるのもかわいそうっすから」

 太宰はいったん水を飲み、また口を開いた。

「弥栄ちゃん、俺っち気になってることがあるんすけど、聞いていいっすか? あ、もちろん言いたくないとか気が乗らないって言うならいいんすけど」

 弥栄はこくりと頷き、彼の話を促した。

「俺っちの世界の侍っていうのは一対一の戦いに重きをおいてたんすよ。だから昨日の弥栄ちゃんの戦いは俺っちの思う侍の姿じゃないなぁって。そっちの世界じゃ普通なんすか?」

 弥栄は考えて答えた。

「う~ん……確かに一対一の戦いを重んじてたってのはあるけれど、僕はもともと農民だし、本物の武士みたいにそんな誇りを大事にするってこともないかな。でも本物の武士も生きるため、故郷や家族を守るためならなんだってするよ? 太宰殿だってそうじゃない?」

「俺っちも? う~ん……まぁよく考えたらそうっすね。俺っちも生き残るためならなんだってすると思うっす。ありがとうっす、次の作品の参考にさせてもらうっすよ」

 太宰はそう言うと残った食事をかきこみ、さっさと立ちさってしまう。

「生き残るためならなんだってする……十兵衛殿はどうなんだろうか?」

 残された弥栄はゆっくりとご飯を食べながらそう思うのだった。


「んっ……朝、か? ぐっ……頭が痛い……体も少し重い……」

 一方の十兵衛はグラグラと重い頭を抱えながら起き上がった。

 気だるげな体に鞭打つように伸びをして、自分が服を着ていないことに気が付く。

「な、なぜ私は裸で……!? それにここは……?」

 十兵衛は痛む頭をフル回転させ、昨夜のことを思い出そうとする。

「眠れずに外に出て、蝶華に会って、チョコを食べて……そこから記憶がないな……私は何を……」

 と、記憶を辿っていると隣で眠っていた蝶華がもぞもぞと起き上がってきた。

「ふわぁ……あ、おはよう、十兵衛様」

「ちょ、蝶華!? なぜお前も裸なのだ!?」

 裸の蝶華を見て十兵衛は目を逸らす。それを見て彼女は小さく笑った。

「フフッ、十兵衛様ってばほんと初心ですね。昨日あんなに激しく愛し合ったというのに」

「愛し合った!? わ、私と、蝶華でか?」

 えぇ、と蝶華は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに頬を赤く染めた。

「十兵衛様ってば意外とうまくて、あたし何度昇天したか覚えていません。それに体力もすごくて……あたしが昇天してぐったりしてる間もずっと激しく求めてきて……思い出すだけでも疼いてしまいます……」

 蝶華がとろんとした瞳で十兵衛に迫る。が、十兵衛には何が何やらわからずただ戸惑うのみだ。

「す、すまん……昨日のことは何も覚えていなくて……」

「二日酔いですね……それではあたしに愛の告白をしてくれたことも、覚えていませんか?」

「あ、愛の告白!?」

「えぇ、『蝶華、一生お前を愛するからな。私と共に生きよう』って言ってくれました」

 十兵衛は頭を抱えた。まさか酔っぱらってそんなことを口走っていたとは。

「お、女同士で恋愛なんて……私には……」

 十兵衛はひたすら考える。

たとえ酔っぱらっていたとしても自分が言ってしまった言葉には責任を取らなければならない。

しかし女を好きになってしまって本当にいいものなのだろうか。もし二人が好き同士になったとしても幸せな結末が待っているのだろうか。過去から来た自分と未来の蝶華。

 彼女はひたすらに考えるが、二日酔いの痛みが思考を妨げる。

 そんな十兵衛を見て、蝶華はふっと噴き出した。

「十兵衛様ってば、そんなに深刻に考えないでくださいよ。冗談です、冗談。本当は愛の告白なんてありませんから」

 それを聞いて十兵衛はほっと胸を撫で下ろした。

「そ、そうか……冗談だったか……そうだよな、私が女同士愛し合うなど」

「あ、そこは冗談じゃありませんよ。あたしたちはちゃんと愛し合いました。何なら体で思い出します?」

 いろめかしい蝶華の顔を見た瞬間、十兵衛の奥底が疼いた。記憶はないが確かに体は覚えていたようだ。

 ゴクリ、十兵衛は生唾を飲むが理性をフル動員して欲求を押し込める。

「わ、私は今から城に戻らねば……着替えはどこだ?」

「十兵衛様、もう帰ってしまうのですか? せめて朝食でも」

「い、いや、やめておく。食欲が無いのだ」

 食欲が無いのは本当だ。二日酔いで何か食べる気分ではない。

「わかりました、十兵衛様……」

 悲しい顔を浮かべる蝶華。十兵衛はそれを見ていられなかった。

 蝶華には常に笑顔でいてほしい。十兵衛の中にいつのまにかそんな願いが生まれていたからだ。

「大丈夫だ、また来る」

「本当ですか?」

「あぁ、だが次は愛し合ったりはしないからな。一緒に食事したり、散歩したり、ゆっくり過ごそう」

「ふふ、それも楽しそうですね。でも、あたしはいつでも愛し合う準備はできていますからね?」

 にこりと笑った蝶華に見送られ十兵衛は城へ帰っていく。

 十兵衛の背中が見えなくなったころ、蝶華は顔を曇らせ、寂しそうにポツリ言った。

「十兵衛様……あたしはあなたを本気で好きになってしまったと言うのに……あなたはあたしを好きの対象として見てくれないのですね……」

 愛の告白が嘘と知った十兵衛の安堵した顔、それが蝶華の脳裏から離れない。

 それを思い出すだけで蝶華の瞳には涙が浮かぶ。

「神様……どうしてあたしにこんな不幸をお与えになるのですか……あたしだって、幸せになりたいのに……」

 その言葉は吹き抜けた風にかき消される。神のもとに届くこともなく、だ。


「十兵衛殿、一体どこに行っていたんですか? もう夜になってしまってますよ?」

 十兵衛が城へ戻ったのは夜だった。

「す、すまない……城下で色々食べていたらこんな時間に……」

 蝶華と会った後、弥栄に会いたくない、弥栄に蝶華とのことを知られたくない、彼女はそう思い城下で時間を潰していた。

 だが城下の食べ物が予想以上においしくこんな時間まで食べ歩いてしまったのは誤算だったが。

「おいしいものを食べてたんですか、十兵衛殿一人で?」

「ま、まぁな……」

「なんで僕を誘ってくれなかったんですか?」

 ぷくぅと頬を膨らます弥栄に十兵衛はしどろもどろに答える。

「ま、まずは下見だよ。おいしいかどうかを調べなければな」

 弥栄は納得していなかったが過ぎたことを責めても仕方ない、とこの話を切り上げることに。

「それで十兵衛殿、一つ頼みがあるのですが……」

「頼み?」

「その……もう一度血をくれませんか? なんだかまた身体が疼いてしまって」

 瞳を潤ませる弥栄に十兵衛はたじろいだ。

 彼女に責任を取ると言ったが、前のように生殺しにされてはたまらない。

 かといって断ってしまえば彼女が疼きに堪えられないだろう。

 悩んだ末、十兵衛は自分の人差し指の腹を噛み切り、それを弥栄に差し出した。

「唇ではないのですか?」

「鬼の血は唇が一番濃いとされる。今までは弥栄が血に馴染んでいないから唇から血を飲ませた。それに昨日も血を飲んだだろう? 濃い血を飲みすぎてもいけないんだ」

 弥栄は少し不満そうだったが、彼女の指をカプリ、と咥えた。

 そして赤子が乳を飲むみたいにちゅうちゅうと指先から血を吸いだす。

「ちゅぷ……ちゅうちゅぅ……ちゅる……十兵衛殿の血……おいちぃです」

「んっ……弥栄、舌を這わせるな……」

 弥栄の舌がちろちろと指先に這うたびに、十兵衛はこそばゆそうに身悶える。

 唇ではないから気持ちよくさせられない、それは十兵衛の誤算だった。

 指先のほうがより弥栄の舌遣いを感じ、必死に指を吸う弥栄の姿が視覚的にも快楽を誘う。

「弥栄……今日はここまでだ……」

 十兵衛は耐えられない、といった表情を必死に隠しながら弥栄の口から指を引き抜いた。

 一方の弥栄はまだ満足しておらず、物欲しそうに十兵衛の瞳を見つめている。

「この前も言っただろう? 血を取りすぎてはだめだ、と。それは鬼の血であってもだ」

「あと一口だけ……あと一口だけでいいから」

「いいや、だめだ」

 十兵衛は唾液に塗れた指を布切れで拭き、ぎゅっと巻き付けて止血をする。

「あ、もったいない!」

「もったいないものか。本当にわかっているのか? 血を求めすぎるとどうなるか」

「わかってるよ!」

 弥栄は声を荒げた。普段の弥栄とは違う、本気の怒りの声音に十兵衛はビクリと肩を震わせる。

「話しか聞いてないけど、どうなるかわかってる……体でわかってるんだ。けど僕は十兵衛殿が欲しいの! こんな時代に来て、僕に頼れるのは十兵衛殿だけなんだよ? だから僕をもっと見てよ……僕と一緒にいてよ……」

 懇願するような弥栄の瞳に涙が浮かんでいた。それを見た十兵衛は自身の心が揺らぐのを感じる。

「弥栄……すまない……弥栄の言っていることはわかるし、応えてあげたい……だが私は、わからないのだ……私の心も……弥栄の心も」

「僕の心も?」

「あぁ……私たちはこんな世界に飛ばされて頭がこんがらがっているせいで心が乱れているのではないか? 本来なら生まれてはいけない感情を抱いてしまっているのではないか? だから私たちは少し、距離を取ろう……」

「何それ……そんなの全然わからないよ……」

「私だってわからないのだ! この気持ちも、快感も、何もかも!」

 そう叫ぶと十兵衛はばっと城を飛び出してしまう。追いかける弥栄だが、十兵衛は城下をよく知っていた。

 路地を何度も曲がり弥栄の追跡を振り払ったのだ。

「十兵衛殿……僕の気持ちは……嘘だと言うのですか……」

 取り残された弥栄は瞳から大粒の涙を零す。そして周りの人が何事かと振り返るほどの大声で泣いた。

「僕は十兵衛殿が……! 十兵衛殿が……好きなのに!」

 それは突き放されたことで初めて認めることができた気持ちだ。

 自分の中で生まれていた好きという気持ち。尊敬や憧れと思い込んでいた気持ち。

 彼女はそれを吐き出した、涙とともに。

「ひどいよ、十兵衛殿……僕の気持ちを……心が乱れているせいだって……たとえ十兵衛殿でも……そんなこと、言われたくなかったなぁ……」

 彼女の涙を洗い流すかのように、突如雨が降り注いだ。

 雨脚は強まる一方だ。ざぁざぁ降りで道行く人はみな建物の陰で雨宿る中、弥栄だけが一人歩く。

 その頬に流れる水滴は涙か雨か、それは彼女自身にもわからなかった。


 そこから3日たっても十兵衛は帰ってこなかった。一体彼女はどこへ行ったのか。

「十兵衛様は何でもおいしそうに食べますね」

「まぁな。食べている間が一番幸せだ」

「本当に食いしん坊なんですから」

 十兵衛は蝶華と共にいた。弥栄から逃げた十兵衛は蝶華の元へ転がり込んでいたのだ。

 そんな彼女は弥栄のことを忘れようとするかのように蝶華とともに江戸の町を満喫していた。

 今は江戸で一番おいしいと評判の団子屋でおやつタイムだ。

「うむ、本当にうまいな、この団子は。江戸で一番と言われるだけのことはある」

「十兵衛様、頬にみたらしのたれが付いていますよ」

 蝶華が十兵衛の頬のたれを指で掬い取り、ペロリと舐めとった。

「十兵衛様、子供じゃないんですから。お行儀よく食べてくださいね」

「蝶華が母上みたいなことを言う……」

「十兵衛様がしっかりしないせいです」

 なんて言いながら二人で笑いあう。何とも幸せな時間だ。

「さて、十兵衛様。夕餉の買い物をして帰りましょうか。何が食べたいですか?」

「なんでもいいぞ?」

「また困ったことを……」

「蝶華の作るモノならなんでもうまいからな。何が出ても文句は言わないし、おいしく平らげるぞ。だから蝶華が好きなものを作ればいい」

「十兵衛様ったら……」

 とたん蝶華の頬が赤く染まる。あまりの嬉しさに思わず口元がにやけてしまっている。

(十兵衛様、そんなことを言われるとあたし、もっと好きになってしまいます……)

 この恋は叶わない、蝶華はそう感じているのに自分の中の好きという気持ちが収まらない。

 その気持ちを飼い殺しながら蝶華は日々過ごすこととなっていた。

「そうだ、十兵衛様。今日の夜、食事を終えたらこれを見てきてくれませんか?」

 蝶華は十兵衛に小さな紙を手渡した。

「これは?」

「演劇の招待券です。昔世話をしてもらった方からもらったのですが……なにぶんあたしはこの髪と目です。あたしの方が見世物になってしまいますでしょう? ですから十兵衛様に見てきてもらって感想をお聞きしたいのです」

「本当にいいのか?」

「えぇ。あたしのことは気にせず、楽しんできてください」

「では遠慮なく……」

 そうして夜になり十兵衛は演劇を見に来たのだが……

(うぅむ……あまり面白くないな……見ていてもどかしい)

 開始30分で彼女は耐えきれず劇場を出てしまった。

 見ていたのはラブストーリー、お互いを思いあっているけれど意思がすれ違いなかなか結ばれないといった話だ。

 だが十兵衛はそういうじれったい物語は苦手だったようで、退屈していたのだ。

「蝶華には悪いが帰らせてもらおう……お詫びに何か買って帰るか」

 十兵衛は街をぶらりとし、適当な店で饅頭を飼い、帰路へ着く。

 蝶華の店の扉を開こうとしたが、カギがかかっているようで開かない。

「蝶華? 私だ、十兵衛だ」

 どんどん、と扉を叩くが蝶華は出てこない。

「まさか……また賊が押し入っているのか?」

 十兵衛は扉に耳を押し当て、中の音に意識を集中させる。もし悪い連中がいて蝶華に酷いことをしようとしているならば、十兵衛は怒りのままに賊を叩き斬るだろう。

「……あぁ! だ、ダメ……!」

 中から蝶華のそんな声が聞こえてきた。十兵衛は刀に手をかけ、慌てて裏口へ回る。

 裏口の扉はカギがかかっていなかった。彼女は勢い良く扉を開き、蝶華の声を辿る。

 足が早まり、心臓の鼓動も早まる。もし蝶華に何かあったら、そんな不安が彼女を駆り立てていた。

「あぁん! これ以上はダメ……! 気持ちよくて……耐えられない! あぁん!」

 だが彼女の声が近付くにつれ、その声音に色が混じっていることが分かった。

 何とも蠱惑的でねっとりとした、叫びにも似た喘ぎ声。それが十兵衛の鼓膜を震わせた。

「蝶華……」

 早まっていた十兵衛の足は今、ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように動いている。

 だがそれとは反対に心臓の鼓動は先ほどよりも早まっている。ドクドクと強く脈打ち、その音が自らの鼓膜を痛いほどに震わせていた。

「蝶華……頼む……私の、勘違いであってくれ……」

 十兵衛は蝶華の声がする真っ暗な部屋の前へと辿り着いた。閉じられた襖は明かりの無い中の様子を写さない。

「あぁ! ダメなの……! 気持ちよくて……イっちゃいそう……! あんっ!」

 中の様子を伝えるのは漏れ出る蝶華の声だけだ。

 十兵衛は震える手を必死に動かして、襖に手をかける。そしてばれないようにゆっくりと、ほんの少しの隙間を作り中を覗き込んだ。

「蝶華……」

 中には快楽を貪る二匹のメスの獣がいた。

 一匹は蝶華だ。彼女は汗だくの裸体で相手の女の上にまたがり、ひたすら腰を振っては喘ぎに顔をのけぞらす。

 その顔は十兵衛には決して見せない女の顔だ。

「蝶華……私は……どうして……」

 そんな彼女の姿を見た十兵衛は息ができないほどの胸の痛みに襲われる。

 これが彼女の仕事だ、だからこの二人の間に愛なんてない。そう思っても痛みは止まない。

 胸の奥底にナイフが突き刺され、さらにその傷口をぐちゅぐちゅと指でほじくられるような、そんな耐えられない痛みに彼女は顔を歪め、持っている饅頭の袋を落としてしまった。

 バレてしまう、十兵衛はさっとその場から離れたが行為に夢中な蝶華は気付いていなかった。

「なんで……なんで私の胸は……こんなに痛むのだ! この感情は、混乱して生まれただけなのに!」

 蝶華の店から飛び出した十兵衛は河原へ向かう。そこで自分の胸をドン、ドン、と叩いた。痛みが治まるように。

 けれど痛みは収まらない、さらに痛く彼女を苛んだ。

(どうしてだ。自分が女を好きになるなど、混乱しているだけなのに。弥栄にもそう言ってしまったのに。どうしてこんなに苦しいのだ!)

 十兵衛は痛みに耐えきれず、地面に倒れこむ。

 そんな彼女をあざ笑うように月だけが静かに見下ろしていた。

「また……行き場を失ってしまった……私はこの世界の、どこで生きればいいのだ……」

 瞳から涙が流れてきた。決して泣いてはいけない、そう思っていたのに。

 溢れ出る涙を拭う気力もない、彼女は自らの心のままに泣いた。

 それこそ何十分とだ。

「十兵衛様……」

 ふと名前を呼ばれ、彼女は上体を持ち上げる。彼女の目の前にいたのは蝶華だった。手には饅頭の袋を持っている。

「これ、十兵衛様が買ってきてくれたのですよね?」

「あぁ……一人で食べればいいさ」

「こんなにいっぱい一人で食べきれません……十兵衛様、一緒に食べようと思って買ってきたんでしょう? お茶淹れますから、一緒に戻りましょう?」

 彼女は瞳に涙をためながら、ニコリとほほ笑んだ。だがそれは十兵衛にとって胸を抉る行為でしかない。

「戻れないさ……私は、おかしくなっているのだから……」

「おかしく?」

 十兵衛は頷き、ゆっくりと口を開く。

「私は、見ず知らずの女と愛し合っているお前を見た。それは仕事だとわかっているのに、私の胸は痛んだのだ……お前が、私以外の誰かに取られたと思ってな……それって、おかしいだろう?」

 蝶華は一歩、十兵衛に近づいた。

「いいえ」

 また一歩、蝶華は踏み出す。

「おかしくありません」

 そして蝶華は残りの距離を縮めるように駆けて、十兵衛を抱きしめた。

「それが、愛なのです」

 蝶華は十兵衛の耳元でそう囁いた。ぞわり、十兵衛の背に寒気が走る。だがそれとは逆に彼女の胸に暖かな何かが溢れ出してきた。

 自分は蝶華のことが好きだ、それが愛なんだ、そう認めると胸の傷が癒えていくような温もりを感じる。

「十兵衛様がおかしくないことを、あたしが証明してあげます」

 そう言って蝶華は十兵衛の唇にキスをした。

 相手を求めるような激しいキスではなく、慈しむような優しいキスを。

「あたしは、十兵衛様が好きです。十兵衛様が女とかそういうのは関係ない。十兵衛様という人を、好きになってしまったのです」

 蝶華の瞳は潤んでいるが、強い眼差しが十兵衛を捉えて離さない。

 一方の十兵衛は迷いがある風に瞳が震えている。しかし自分の中で覚悟が決まったのだろう、その瞳がしっかりと蝶華を捉えた。

「今までお前が女だということばかり気にしていたが、違うのだな。私は蝶華が好きだ。蝶華という人が好きだ」

「十兵衛様……」

 二人の視線が交わりあった。愛し合う瞳が炎のように揺らめきお互いだけを見つめ続ける。

 そして我慢できずに、二人キスをする。愛を確かめ合った二人の長い長いキス。

 そんなキスを見ることが恥ずかしいのか、月は雲の合間に隠れてしまっていた。

「十兵衛様……ひとつ頼みがあるのですが、いいですか?」

 キスが終わり、蝶華は恥ずかしそうに頬を染めて言った。

「十兵衛と、呼んでもいいですか?」

「なんだかむず痒いが……いいぞ。それで、私の方も頼みがある」

 十兵衛は蝶華の肩に手を置き言う。

「もうあんな仕事はしないでくれ。私が侍としてお前を食べさせられるだけ稼いでくる。」

「それはこの先ずっとあたしを養ってくれる、ということでいいですか?」

「あぁ、養ってやる。ずっとだ」

「じゃあ結婚しよう、ということでいいですよね?」

 蝶華はにっこりと笑って言う。何の曇りもない、満面の笑みで、だ。

「け、結婚!?」

「えぇ。養うと言うのはそういうことですよね、十兵衛? あぁ、それと……ちゃんと夜のほうも満足させてくださいね? でないとあたし、また仕事しちゃうかも」

 ニマニマと意地悪に言う蝶華に、十兵衛はたじろぐことしかできない。

「フフッ、冗談ですよ、十兵衛。あたしは浮気なんてしません。十兵衛といられるだけで幸せなんですから」

「私も幸せだ、蝶華。結婚のほうは……前向きに考えよう」

 十兵衛は蝶華に手を差し伸べる。彼女はその手を取り、家路へ着いた。

 そうして二人、幸せな夜を過ごし、朝が来た。

 玄関の扉がどんどん、と強く叩かれる音で二人は目を覚ました。

「んっ……朝っぱらから誰だ……?」

「見てきてくださいよ、十兵衛……あたし、服着てない……」

「それなら私も同じだ……まぁ、いいか。見てくるよ」

 十兵衛は上着を羽織り、玄関へ。そして扉を開けずに声をかける。

「誰だ?」

「輝です、十兵衛さん」

「輝? どうした?」

 十兵衛は扉を開く。少しの間しか離れていなかったが、輝の顔を見てなんだか懐かしい気分となった。

「じゅ、十兵衛さん!? その格好!?」

 一方の輝は顔を真っ赤に染めてあわあわとしている。

「私の格好などどうでもいい。こんな朝から、しかも私の所へ来たのには理由があるのだろう?」

「あ、は、はい……えっと……弥栄さんが、いなくなりました」

「弥栄が!?」

「はい。昨夜江戸を飛び出した姿がカメラに残っているのですが、それきり」

 と、彼女らの会話を遮るように爆発音が響いた。

 そしてそれに続くように威嚇するようなエンジン音が江戸中を震わせる。

「な、なんだ……?」

「奥州の連中です! 十兵衛さん!」

「あぁ、わかった! 蝶華、すまない! 戦いだ、行ってくる!」

(弥栄……すまないが、待っていろ……私も答えを出したんだ……もう、お前から逃げないからな)


 弥栄はこの数日どう過ごしていたのだろうか。彼女は江戸城でひたすら血の渇きに抗っていた。

「はぁはぁ……十兵衛殿……体が……熱い……熱くて……死にそうです……それに……喉も……カラカラ……」

 彼女は苦悶の表情を浮かべながら、自分の指を齧る。

 吹き出す血を舐め取りながら欲求を満たしても、満たされない。もう限界は近かった。

 彼女の瞳は赤くなったり元に戻ったりを繰り返している。

「血が……血が欲しい……十兵衛殿……」

 彼女は十兵衛を求める。十兵衛の行き先は江戸を監視する飛行艇のおかげで分かっている。

 しかし今十兵衛に会い、自分ははたして理性を保ったままいられるのだろうか、また暴走して十兵衛を求めて拒絶されないだろうか。

 彼女はそんな不安に駆られ、十兵衛に会うことができなかった。

 その間にも吸血欲求は耐えられないほどに膨らみ、今に至るわけだ。

「血が……十兵衛殿……ううん……人の血が……飲みたい……!」

 弥栄はついに耐えきれず、城下に降りてしまった。

 城下町は夜だと言うのに人がひしめき合っている。

「血……血……」

 飢えて彷徨う弥栄にとって道行く人はみなごちそうに見えた。

 がっちりとした血気盛んな男はおいしいだろうか、熟れた女の血はどんな味がするのだろうか、子供の柔らかな皮膚から吸う血はどれほど美味なのだろうか。

 口を開けているだけで唾液が零れ落ちてしまう。

「ダメだ……これじゃあ……悪い鬼に……なる……」

 弥栄は自分の指をガジガジと噛み、欲求を抑える。だが指の間からふぅふぅと獣のような荒げた息が漏れ出し、道行く人は怯え去っていく。

「良い鬼になるには……血を吸っていい奴を……探さないと……血を吸っていいのは……悪い奴だ……信長……信長は悪い奴……」

 弥栄は一度城へ戻り、ジェットパックを奪い、江戸から飛び出した。

 渇きで思考が定まらずジェットパックが思ったより進まない。

 弥栄が江戸を飛び出し、信長の領地へ辿り着いたのは朝日が昇った少し後、輝が十兵衛に弥栄の不在を伝えたころだった。

「はぁはぁ……血を……血を……!」

 信長の領地では上杉・武田領にまた攻め入るために兵たちが準備をしていた。

 弥栄はそこへ飛び込むと、自らの欲望のままに辺りを血に染めていく。

 腹を裂き、腕をもぎ、首を落とし、足をねじ斬り、あらゆる方法で蹂躙していく。

「血だ……血だぁ!」

 そこは一瞬で血の雨が降り注いだ。弥栄は敵兵を殺しながら、歓喜の表情を浮かべて雨を浴びる。

 その表情はまさに日照りに降った雨を喜ぶ農民のよう。

 彼女はべろりと舌を出して降り注ぐそれを味わう。

 喉に血が流れる瞬間、身体に言い知れぬ快楽が走り、狂喜の叫びをあげた。

「もっと! もっと血を! 僕に血を寄こせぇ! ははは!」

 戦闘準備の瞬間を狙われるとは思っていなかった信長の兵士たち。

 さらに血を浴びて嬉しそうにする弥栄に襲われて、だ。平静でいられる兵士などいるわけがなく、あっという間に弥栄に蹂躙されてしまった。

 兵士の数は200から300、それが10分もたたずに全滅させられたのだ、一人の少女、いや、悪鬼によって。

「はぁはぁ……血だ……血がいっぱい」

 弥栄はその場に膝をつくと、手近にあった死体の腕をもぎ、切断面から零れ出る血を飲んでいく。

 それを飲み干すとポイ、と放り捨て、別の死体の足をもいでまた血を飲む。

 部位は違えどその繰り返しだ。彼女はその姿がわからなくなるほど血で真っ赤に染まろうとも、血を飲むのをやめなかった。

「弥栄、本物の鬼と化すか」

 鬼は声のしたほうを不機嫌そうに睨んだ。その手に掴む死体の腕から血を吸うのをやめずに。

 そこにいたのは十兵衛だった。背のジェットパックが火を噴き、弥栄との距離を一気に詰める。

「私の言葉も理解していないのか。なぁ、弥栄よ」

 目前に迫った十兵衛を弥栄は鬱陶しそうに睨むが、すぐに視線を落とし死体の血を漁っていく。

「弥栄!」

 十兵衛は叫んだ。死体を探す弥栄の腕を刃で突き刺して。

 だが痛覚すら鈍るほどの狂気に身を浸した弥栄は、ただ十兵衛のことを睨むのみだ。

「お前が本当の鬼に落ちたのなら、それを介錯するのも私の仕事だ……許せ、弥栄よ!」

 十兵衛が剣を横に薙いだ。弥栄の首を落とす、その勢いで。

 しかしその刃は弥栄の手で宙に制止させられる。

「邪魔……するな……!」

 そして弥栄は刃とともに十兵衛を放り投げたのだ。

 だが十兵衛はジェットを用い空中で姿勢を戻し、もう一度弥栄に斬り込んでいく。

「弥栄ぇ!」

「邪魔だぁ!」

 弥栄が死体を投げて十兵衛の動きを牽制しようとする。しかし十兵衛は死体を真っ二つに斬り裂き、勢いを殺すことなく弥栄に近づく。

 十兵衛がまたも弥栄に向けて剣を薙いだ。弥栄は今度は自らの刃でそれを受け止める。

「鬼の血を分け与えたのは私だが、本当の鬼に堕ちることを選んだのはお前だろう! お前は本当に鬼に堕ちたかったのか!?」

「僕は……血が欲しかった!」

 弥栄は十兵衛を押し返して、斬りつける。しかしその刃は躱され、むなしく宙を裂く。

「違う……十兵衛殿が、欲しかった!」

 さらに斬りつけるがその刃は十兵衛に届かない。弥栄の思いと同じで。

「僕は十兵衛殿が欲しかった! 十兵衛殿が好きだから! 十兵衛殿を愛していたんだ! でも十兵衛殿は僕の愛が偽物だと否定した! だから僕は十兵衛殿じゃなくて、血を欲した! 鬼に堕ちて十兵衛殿を忘れるために!」

 弥栄の刃の先端が十兵衛の脇腹に突き刺さる。ようやく弥栄が十兵衛に届いたのだ。

「そうか、全部私のせいか……すまなかったな、弥栄……だが私はもう、逃げない! お前を否定しない!」

 十兵衛は自分の腹に剣が深く刺さることも恐れずに、弥栄に近づいた。

 ずぷぷ、と沈んでいく刃を見て、弥栄は刀を手放して一歩後退る。

 しかし十兵衛は逃がさないといった風に腕を伸ばし、彼女を抱きしめた。

「弥栄……お前の気持ちは嬉しい。私もお前のことが好きだ。けれど私の好きはお前の好きとは違う……けれどお前の好きを抱きしめたい。私はお前の好きを受け入れる!」

 そう言うと十兵衛は弥栄の唇にキスをした。

 突然のことに固まる弥栄の唇に、ちりり、とした痛みが走る。十兵衛が唇に噛みついたのだ。

 そして彼女は弥栄の唇から血を吸いだしていく。

 血を吸われた弥栄の身体からは熱が冷めていく。瞳は黒く戻り、狂暴になっていた思考も蘇った理性に抑えられる。

「十兵衛殿……何を……」

 唇を離した弥栄はそう尋ねる。十兵衛は口に溜まった血を地面に吐き捨て言う。

「過剰な血を吸いだした。少しは体が楽になっただろう?」

 ふっと笑う十兵衛。だが次の瞬間にはぐらり、と体が揺れ、地面に膝をついてしまった。

 腹の傷のせいだ、弥栄はとっさに彼女の腹を抑え、止血を試みる。

「大丈夫ですか、十兵衛殿!?」

「大丈夫だ……少し無茶をしたが、さっきので少し血を吸ったからすぐに治るだろう……それよりお前だ、弥栄」

「え……?」

 十兵衛は弥栄の顔にへばりついた血を拭き取りながら言う。

「本当にすまないことをした。私は逃げていたんだ。間違った思いを抱いていると思ってな。けれど人を好きになることに性別は関係ないと知らされた。弥栄も私を、一人の人として好きになってくれたのだろう?」

 うん、とうなずく弥栄。その瞳には涙が煌めいていた。

「だが弥栄、本当にすまない。私にも、好きな人がいるのだ……私が二人いれば弥栄も愛せたのだが……」

「はは、十兵衛殿ってば何言ってるんですか……いいですよ、僕は。十兵衛殿に思いを受け止めてもらえただけで十分です。それで、幸せなのです……」

 弥栄は自分に言い聞かせるようにそう言った。十兵衛にも弥栄が我慢してそう言っているとわかった。

 だから声をかけることも、ましてや彼女に何かしてあげることもしない。

 ただ優しく笑いかけるしかできなかった。

「あれあれ~? こんなに精鋭が死んでおるのじゃ、何があったのじゃ?」

 と、そんな声が響き弥栄はすぐさま刃を構えた。

「それにそこの女子たち、わしが恥ずかしくなるくらい乳繰り合いおって……これだから最近の若者は……」

「お、女の子……?」

 声のしたほうにいたのは女の子だった。それも10歳に満たないくらいの小さな女の子だ。

 その子は金色のツインテールに猫耳猫しっぽが付いており、背中には赤いランドセル、さらにはスク水縞々ニーソ、弥栄たちにしてみればかなり奇抜な格好で目を真ん丸とさせるしかない。

 女の子の胸には「げんない」と書かれたワッペンがつけられていた。

「げんない……?」

「そう! わしが天才科学者、平賀源内なのじゃ! ばば~ん!」

 源内と名乗った少女はそう言って、ニシシ、と歯を見せて笑った。


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