第3話―未来の戦場―
「ふわぁ……よく寝た……」
朝、弥栄は目を覚ましぐっと伸びをした。体から疲労がすっかり消えている。気分が楽だ。
「そっか……僕、未来に……夢じゃなかったんだ」
だが辺りを見渡して、昨日の出来事が夢ではないと気付く。この楽な気分で、しかも昨日が夢ならばどれだけよかっただろうか。
「あれ? 十兵衛殿は?」
昨夜ともに眠っていたはずの十兵衛がいない。弥栄はもう一度辺りをぐるりと見渡すが、彼女の姿を見つけられない。
「もう起きてるのかな?」
「えぇ、起きてますよ」
と、突然輝が部屋へ入ってくる。気配もなく入ってきた輝に弥栄は大きく肩を震わせた。
「もぅ……びっくりしたぁ……」
「おはようございます、弥栄さん。いえ、おはようには遅すぎる時間かもしれませんが。もうお昼ですよ。食事ができてますから、来てください」
「わかった」
弥栄は輝について食堂へ向かう。
食堂には既に十兵衛がおり、おいしそうに米を頬張っていた。
「おはようございます、十兵衛殿」
「あぁ、おはよう、弥栄。ずいぶんよく眠っていたな。よほど疲れていたのか」
「まぁ、そうですね……十兵衛殿はよく眠れましたか?」
「私か? 私は……まぁ、そうだな。よく眠れたよ」
十兵衛はごまかすように言葉を濁した。
昨夜、蝶華のもとで眠ってしまった十兵衛。そのことが恥ずかしくなり、とっさに隠したのだ。
「そういえば十兵衛殿、お米とは豪勢ですね。お魚もお肉もありますし、何かの宴なんですか?」
弥栄の問いに輝が代わりに答えた。
「もう昔じゃないのですよ、弥栄さん。お米も年中栽培できますし、お魚もお肉も楽に作れます。ですから弥栄さんも好きなだけ食べてくださいね。これから戦なのですから力をつけてもらわないと」
「戦!? これから!?」
輝はこくり、と頷いた。十兵衛もすでに聞いていたようで顔色一つ変えずにパクパクと食事を口へ運んでいる。
「食事が終われば作戦会議がありますので、お忘れなく」
そう言って輝は去って行ってしまう。
「弥栄、食べないと力が出ないぞ」
「はい、わかりました十兵衛殿」
十兵衛に促され、弥栄も食事をとる。この後の戦いに備えて。
「さて、戦の前にまずこの国の情勢を教えておかなければいけません」
食事を終えた彼女たちは輝に連れられ作戦会議室に来ていた。
ホワイトボードに地図を貼って輝は説明を始める。
「日ノ本はもともと多くの国が覇を競っていましたが、今は6つにまで統合されました。まず関東、ここがボクたちのいるサイバー江戸タウン。そこから北の奥州、ここは昨日弥栄さんたちが戦った奥州連合会があります。奥州の連中は江戸を落とそうと頑張ってるみたいですが、正直敵じゃないです。江戸から西へ行き中部は上杉・武田両家が納める
「なるほど……で、私たちはどの国と戦えばいいのだ?」
「現在信長軍が虎丸毘沙門天に進行しています。上杉・武田軍は兵法に優れ、また堅牢な守りが持ち味です。ですから信長軍を食い止めてはいるのですが、戦が始まりもう7日が過ぎています。こちらからも兵を派遣していますが、決着がつかず……いくら彼らが盤石な守りを築いていても疲弊してしまえば信長軍に突破されてしまう」
「突破されれば江戸に攻め入られる、そういうことだな」
えぇ、と輝はうなずいた。
「でも7日も終わらなかった戦いに僕たちが行ってなんとかなるものなの?」
「敵も疲弊していますから少しかき乱してやれば瓦解する、しかしこちらからはこれ以上兵を出せない。国を守らなくてはいけませんから。そういうわけで弥栄さんたちです。弥栄さん、ここで負ければ多くの罪の無い人が傷つきます、わかりますよね?」
弥栄はじっと目を瞑る。瞼の裏に映るのは家族の姿。
この世界にも自分の家族と同じような人がいる。そんな人が傷つく、そんなことは許されない。
弥栄は覚悟を決めて、瞳を開いた。
「わかった。僕たちが信長軍を退けてみせます」
「いい目です、弥栄さん。それではこちらに」
輝に通された先は兵器保管庫だ。多くの武具が眠る中から輝は二つ手に取り、机の上に乗せた。
「この時代で戦うにはこの時代の武器がいる。ですからこれを使ってください。弥栄さんにはこちらを」
と、弥栄に渡されたのは真っ黒な刀身の刀だ。彼女はそれを手に持ち、あまりの軽さに驚いた。
「軽い……羽毛みたい」
「
十兵衛に差し出されたのは彼女の身長ほどあろうと思われる超巨大な刀だ。刀身にギザギザとした刃がつけられているそれは鈍色に輝く。
「
「確かに重いが、見た目ほどではないな……握り心地も悪くない」
「で、この二つの刃にはとびっきりの仕掛けがあるんですが……それはまた後でお楽しみということで。それよりもこれを見てください! 技術部渾身の出来ですよ!」
そうして輝が二人に差し出したのは四角い箱のようなもの。
重箱のような見た目のそれを、輝は二人の背中に慣れた手付きで装着させた。
「むっ……輝、なんだこれは? これはどのように使う?」
「それはですね……実際に使ってみたほうがいいでしょう」
輝がパチン、と指を鳴らすと目の前の壁が開き、陽光が狭い部屋に差し込んでくる。
輝は不思議そうな顔を浮かべる二人を開いた壁の縁に立たせる。
「な、なかなか高いな……」
「そうですね、十兵衛殿……ちょっと僕、怖いかも」
足元を見た二人は顔を青ざめさせる。地上からは20メートルは離れている高所だ。
もし一歩でも足を踏み出せば真っ逆さまに落下してしまう。その先の結末はバカでもわかるだろう。
そんな危うい場所に立つ二人の背中を輝はにっこりと笑いながら思いきり押した。
「うわぁ!?」
真っ逆さまに落ちていく二人。どんどん加速して地面が近づいてくる。
「ぶ、ぶつかる!」
だが、地面につく一瞬前だ。二人の身体が落下に逆らうように浮かんだのだ。
そしてそのまま勢いをつけてぐんぐん空へ上っていく。
「え、えぇ!? 今度は空飛んでる!?」
「輝! これはどういうことなんだ!? 教えてくれ!」
「背中のそれ、ジェットパックです! それがあればどこへでも飛んでいけるんですよ!」
言われて二人は、自分の背負っていた箱が青白い火を噴いていることに気が付いた。
「行きたい方向を思うだけで移動できますから、それで戦場に行ってください! 通信設備も内蔵されてますからボクの声も聞こえます!」
「なるほどな……では、行くか、弥栄。鳥のように!」
十兵衛は楽しそうに笑うと、ギャッと勢いをつけて飛んでいく。
一方弥栄は自分の体が浮いていることにまだ驚き、怖がっているよう。
「待ってください、十兵衛殿!」
「ははは! 楽しいな、弥栄!」
「全然楽しくないです!」
だが十兵衛に置いていかれるのは嫌だ、その一心で弥栄は必死に怖さを押し殺し戦場へ向かったのだった。
ようやく弥栄が空を飛ぶことに慣れてきたころだ、戦場の狼煙が彼女たちの目に映る。
周りの木々よりも高く上がる土煙、その下で今戦いが起こり、人々の命が散っているのだ。
「弥栄、戦えるな?」
「はい、大丈夫です。僕はもう覚悟しましたから。民の命を守ります!」
「よし、いい覚悟だ。ならば、行くぞ!」
十兵衛の背中のジェットが火を噴き、ギッと加速する。
弥栄もそれに続くように加速して戦場に向かった。
弥栄は覚悟をしていた。だが実際にこの世界の戦場に立ち、その覚悟が一気に揺らぐ。
戦場を絶えず飛び交うレーザー銃弾、分厚い装甲の兵士たち、そしてギャリギャリと地面を抉りながら進む戦車。
自分がいた世界には無かった代物に弥栄はたじろいだ。
「弥栄! 退くな! 大丈夫だ! これが人が作ったものならば、断ち斬れる!」
十兵衛はジェットで加速し、手近な戦車に巨大な刃を振り下ろした。
重みのある刃が戦車のエンジン部にめり込み、バチバチ、と火花が飛び散る。
そして爆発し跡形もなく消え去った。
「弥栄は兵を頼む! 私はこのデカブツを屠る!」
「わ、わかりました十兵衛殿!」
弥栄は自分を鼓舞するように刃を強く握り、兵に斬りかかった。
刃は装甲を切り裂き進み、肉を断ち斬る。そのはずだった。
しかし実際は装甲を斬り裂いただけ、肉に到達したはずなのに斬り落とせない。
「な、なんで!? 確かに斬れたと思ったのに! 硬すぎる!」
『弥栄、それは信長の半機械兵だよ』
ジェットから輝の声が聞こえる。弥栄は敵と距離を取り、輝に尋ねた。
「半機械兵?」
『あぁ。体に機械を埋め込んだ兵士のことだよ。常人には出せない力と強靭さがある』
「じゃあどうしたら?」
『とっておきがあるって言ったよね? 柄の部分にスイッチがあるから押してみてよ。それで刀の本当の力が出せるから』
弥栄はスイッチを押した。すると刃がギュンと唸り、青白い光を発したと思えば、次の瞬間にはバチバチと電流が走った。
青白い電流が弥栄の驚いた顔を明るく照らす。
「な、何これ……!? 雷!?」
『電磁刃、触れた相手に電撃を流し体の内側から焼き切る代物だよ。これなら半機械兵にも対抗できる』
もう一度弥栄は刀を握り締め、敵に斬りかかった。
敵の身体に刃が触れた瞬間、バリバリと耳をつんざく轟音が響き敵がガクガクと痙攣し始める。
刃は吸い込まれるようにどんどん体の内側に沈み、すっぱりと敵を両断した。
切断面からは黒い煙が上がり、人の肉が焦げる嫌な臭いが弥栄の鼻を刺激する。
しかし弥栄には臭いを気にする暇はない。何せ刀のあまりの威力に目を丸くするしかないのだから。
「すごい……これがあれば、僕だって……」
弥栄はにやり笑うとジェットで急加速した。
そうして次々と敵の懐に潜り込み、その体を両断していく。
弥栄の機動力に敵は追いつけない。成す術も無く敵は弥栄の刀で地に落ちる。
それを見た上杉・武田軍は大声を上げた。
「我々も負けていられないぞ! 続け!」
覇気を取り戻した味方軍が信長の兵たちを押し込んでいく。
そうして戦況は一気に覆り、信長軍は撤退していった。
「やったよ、十兵衛殿! 敵が逃げていく!」
「そうだな、弥栄。だが私たちにはまだやることがある。追いかけるぞ」
「でも敵はもう戦う気も……」
「違う。血を吸うんだ」
「血を……」
十兵衛は逃げる敵兵を追っていく。だが弥栄は追いかけることができない。
血を吸いたくないから、とか、血を吸う覚悟ができていないから、という理由ではない。
血を吸う、弥栄がその言葉を聞いた時、身体はどうしようもなく火照り、喉が渇き、自分では制御できないくらいダラダラと涎が垂れてきた。
その時気付いてしまったのだ。自分の身体が本当に鬼と化してしまったことに。
十兵衛の言葉で理解した気になっていたが、いざ自分が鬼だと思うとショックで動けなくなってしまったのだ。
「どうした、弥栄。早く来い」
「十兵衛殿……僕は……」
僕は行けない、そう言おうとしたのに体が勝手に十兵衛の後を追っている。
自分では抑えきれない衝動が身体を動かしている。
「弥栄、血を吸うのは水を飲むことと同じだ。生きるためには仕方ないこと。だから抑えることも恥じることもない。ましてや恐れることもないんだよ」
弥栄を慰めようと十兵衛が放つ言葉。しかし彼女にその言葉は届かない。
どくんどくん、と弥栄の心臓が強く高鳴る。視界はぐるぐると揺れ、敵しか見えない。
いや、彼女が見ているのは敵ではない。肉の膜を纏った巨大な血液袋だ。
もう彼女には理性と呼べるものがなかった。
彼女は十兵衛を追い越し、敵へ向かっていく。
そして逃げ遅れた敵兵に飛びかかり、その喉元に鋭く尖った歯を突き刺した。
「血……! 血を……! 飲ませろぉ!」
弥栄の歯によって穿たれた喉から血が漏れ出てくる。
彼女はそれを喉に流し込んでいく。
するとどうだろうか、身体の奥底から力が沸き上がり、脳内から快楽物質がドバドバと放出され、とたん幸福な気分になる。
ゴクリゴクリと血を飲むが、飲み込んだ瞬間に喉が渇き、さらなる血を求めてしまう。
「もっと……もっと……欲しい!」
ばたばたと抵抗する敵兵の頭を地面に押さえつけ、彼女はもう一度喉元を狙う。
今度は歯を突き立てるだけではない。喉の血管を守る皮膚を噛み千切ったのだ。
切れた血管からは止めどなく血が、それもシャワーのように溢れ出して弥栄の顔を、身体を、深紅に染め上げた。
「血だ……血だぁ!」
彼女は恍惚な笑みを浮かべ、溢れ出る血をゴクゴクと飲んでいく。
一方敵兵は血を失いすぎて抵抗する力も無く、ぐったりとなすがままに血を吸われるのみ。
「弥栄!」
背後で響く十兵衛の声。しかし弥栄の耳にはその言葉は聞こえていない。
血を吸うことに夢中な弥栄の姿は獣、いや、鬼そのものだ。
自分の欲しいがままに貪り、理性の欠片もない。
「弥栄! やめろ!」
十兵衛は弥栄の肩を掴む。が、弥栄の物凄い力により振りほどかれてしまう。
弥栄は邪魔された、と嫌そうな顔を浮かべたが、次の瞬間にはまた血を貪る快楽の獣の顔に戻ってしまう。
「弥栄! これ以上はだめだ! 戻れなくなるぞ!」
十兵衛の静止の声を聞こうともしない弥栄。
十兵衛は諦めたように顔を歪め、拳を強く握りしめた。
「すまない、弥栄……お前を止めるには、これしかない!」
握りしめた拳が弥栄の頬にめり込んだ。そして彼女の身体は横に吹き飛んでいき、ずざぁ、と地面に転がる。
「どうだ、弥栄? 目が覚めたか?」
「じゅうべえ……どの……」
弥栄に人の理性が戻ってきた。それと同時に彼女の瞳には大粒の涙が浮かぶ。
「怖かった……僕が……僕じゃないみたい……怖かったよぉ……!」
弥栄はわんわんと泣き出した。瞳から流れる涙が彼女の頬に付いた血を流し落としていく。
十兵衛はそんな弥栄を優しく抱きしめた。
言葉はかけなかった。弥栄にかける言葉などなかったからだ。
自分が弥栄を鬼に変えてしまったから。弥栄がこんな目にあっているのも自分のせいなのだから。
「十兵衛殿……十兵衛殿……」
十兵衛は弥栄が泣き止むまでずっと抱きしめ続けた。
優しく、慈しむように、母親のように。
そこから数十分ほど後、弥栄は落ち着き、二人で江戸へ向かい飛行していた。
「十兵衛殿は血を吸う時、僕みたいにおかしくなったことはありますか?」
そんな最中、弥栄が十兵衛にそう尋ねる。
「いや、私はそこまで吸血欲求に飲み込まれたことはない。弥栄のような強い欲求はもともと人間だった者が鬼になった時に起こるものだ。すまない、私がちゃんと注意しておけば」
「いえ、十兵衛殿のせいじゃありません……僕が我慢できなかったから……」
弥栄は先ほどの自分を思い出して身震いする。
「あの時、自分が自分じゃなくなってて、おかしくなって、全然血はおいしくないのにもっともっと欲しくなって……ねぇ、もしあの時十兵衛殿が止めてくれなかったら、僕はどうなっていたの?」
十兵衛は言いにくそうに口をもごもごとさせる。だが真剣な弥栄の瞳と、自分が彼女を鬼に変えてしまった責任から口を開いた。
「死んでしまっていた。そう、あのまま放っておいたら、命が危なかったんだ」
「どうして、死んでしまうんですか?」
「鬼にとって人間の血は生きるために必要なものだ。鬼は人の血を吸うことで自らの生命力を高め、生き延びている。しかし血を取りすぎることにより生命力が暴走し、結果死に至らしめる」
「それってご飯をいっぱい食べたら苦しくなるってことと同じ感じですか?」
「ふふっ、まぁそれに近いかもな」
十兵衛は小さく笑ったが、すぐに表情を曇らせる。
「人々が力を手に入れるために鬼の血を欲したという話をしただろう? 鬼の多くは滅ぼされ、人は鬼の力を手に入れた。けれど鬼の力を手に入れた物はみな、吸血欲求に耐えきれず死んでしまったんだ。そのこともあって私たちは鬼の力を簡単に人に分け与えることはしてはいけないのだ」
「そうだったんですか……」
「だが安心しろ。弥栄を鬼に変えた責任はちゃんと取る。弥栄が一人前の鬼になれるまで面倒は見る」
十兵衛はにっと笑い、弥栄を見る。
その瞬間弥栄の心臓がどくり、と大きく鳴った。
「わ、わかりました……」
自然と赤くなる顔を十兵衛に見られまい、と弥栄は俯いてそう言う。
空が次第に夕焼に染まる。
自分の顔が熱くなっているのは夕日のせいだ、弥栄は心にそう言い聞かせた。
「お疲れ様、二人とも。今回の活躍、見事だったよ。将軍様も褒めてたよ」
弥栄たちが城に戻ったころにはすっかり夜も更け、空に満月が浮かんでいた。
輝が彼女たちに労いの言葉をかける。
弥栄は背中のジェットパックを下ろして肩をぐるりと回す。重いジェットパックが外され、肩が嬉しそうにポキポキ、と音を上げた。
「ジェットパックはどうだったかな? 何か不具合があったとかはないかな?」
「いや、快適そのものだ。なぁ、弥栄?」
「快適かどうかはともかく……すごく戦いやすかった。すごいね、これ」
「江戸の技術は日の本一だからね。でもこれで完成じゃないから。今回の戦闘データを見直してもっと使いやすくするから」
輝は嬉しそうにそう言ってジェットパックを抱えてどこかへ行ってしまった。
きっと研究室にこもるのだろう。
「私たちも戻ろうか、弥栄」
「そう……ですね……」
「どうした、弥栄? そわそわとして」
「ほっとしたらなんだか体が熱くなってきて……血を飲んだせい……?」
「まだ鬼の血に完全に馴染んでないからだな……私の血を飲めば落ち着くだろう」
十兵衛はギュッと唇を噛み、血を滲ませる。血は口元から顎先に垂れ、地面にポタリ、ポタリ、と落ちていく。
弥栄はそれを見て、ゴクリ、と喉を鳴らす。
「ま、待って! ここじゃ誰かに見られるかもしれませんし……部屋に戻ってからで」
「私は気にしないのだが……弥栄がそう言うならば仕方ない」
こうして二人は部屋に戻る。
部屋へ戻る廊下を、弥栄は無意識に早足で歩いていた。
「待て、弥栄。早いぞ」
「そ、そうですか? 自分では気付きませんでした」
そう言いながらも弥栄の足は緩まない。
一秒でも早く十兵衛の血をもらいたい、弥栄の身体がそう叫んでいるせいだ。
あまりにも長いと感じていた廊下を抜けて部屋へたどり着いた瞬間、弥栄は十兵衛を押し倒していた。
「や、弥栄……?」
十兵衛は抵抗しようとするが、人の血を吸った弥栄の力には勝てなかった。
「十兵衛殿……」
弥栄の瞳が真っ赤に染まり、それと同じくらい頬が上気している。
吐く息も熱く湿り、理性が吹き飛んでしまったよう。
「いただきます、十兵衛殿」
弥栄が十兵衛の唇に噛みついた。ピリッと走る痛みに十兵衛は一瞬顔をしかめた。
が、弥栄にはそんな彼女のことなど映っていない。唇から漏れ出た血を吸うのに必死だ。
「十兵衛殿……ちゅる……ちゅっ……十兵衛殿……ンちゅっ……」
「弥栄……そんなに……がっつくな……んっ」
唇に貪りつき血を吸っていた弥栄だが、彼女の欲求を満たすには血だけでは足りなかった。
弥栄は舌で十兵衛の唇をこじ開け、舌を口内に挿入する。
「んむっ!?」
驚きビクリ、と肩を硬直させた十兵衛。しかしそれも弥栄の舌が口内で蠢くたびに快楽で緩んでいく。
弥栄は夢中で十兵衛の口内に舌を這わせていく。十兵衛の尖った八重歯を舌で撫ぜたり、舌同士を絡ませてみたり、互いの唾液を交換したり。
「はぁはぁ……十兵衛殿……ちゅる……ちゅぴ……ちゅぷぷ……十兵衛殿……」
されるがままの十兵衛の口元からは唾液が溢れ出し、頬を伝って床に小さな水たまりを作っていく。
いったいどれだけの時間そうしていただろうか、弥栄に口内を犯され続けた十兵衛はとろんとした瞳で、息も絶え絶えだ。
「はぁ……十兵衛殿……」
一方弥栄は満足したように十兵衛の唇から離れた。
舌に絡まった互いの唾液がつつぅ、と離れたくないとでもいうようにアーチを作る。
宙できらりと輝くそれは、やがてプツン、と切れ落ちてしまう。
「十兵衛殿……すごかったよぉ……」
弥栄の瞳から赤が消えたと同時、彼女の身体がガクリと大きく揺れ、十兵衛の胸元に沈みこんだ。
「弥栄? ……眠ってしまったか……はぁ……本当に、自分勝手な奴だ……」
十兵衛は弥栄を起こさないようにそっと布団へ運ぶ。
十兵衛の身体は快楽にやられ思うように力が出ない。それでも何とか奥底から力を振り絞り弥栄を布団に寝転がせた。
「ふぅ……責任取って面倒みると言ったが……これはなかなか……」
彼女は溜め息を吐き、自分の口元を指で拭った。
指にねっとりと唾液が絡みつく。彼女はそれを指で少し弄んだ後、服で拭った。
「私も眠るか……」
ごろり、と横になると疲労が襲い掛かる。
彼女は疲労に身を任せ、眼を閉じた。
「やはり眠れん……」
十兵衛はパチリ、目を開けて寝返りをうつ。
気持ちよさそうに眠る弥栄を見て、もう一度寝返りをうった。
「本でも読むか……」
蝶華から借りた本を読むが、内容が頭に入ってこず、すぐに閉じた。
「それもこれも弥栄のせいだ……中途半端に弄びおって……」
十兵衛の身体には確かに疲労が蓄積されている。だがそれ以上に快楽が蓄積され、眠れなくなるくらい彼女の身体をくすぐっていた。
弥栄は満足していたが、十兵衛は不完全燃焼なのだ。
「こんな快楽ごときに負けるわけにはいかん……少し頭を冷やしてくるか」
と言って城下を散歩する十兵衛だが、気が付けば足は遊郭のほうへ向かっていた。
「ハッ……私はまたここに……」
彼女は頭を振り、パチンと頬を叩いた。一瞬理性が蘇るが、辺りの店の妖艶なネオンにあてられてまた快楽が走り抜ける。
「私はこんなにふしだらな女ではないぞ……ん? 水の音……近くに川があるのか? 水浴びで体の火照りを冷ますか」
水音に誘われるかのように彼女は歩きだす。
やがて彼女が辿り着いたのは、急こう配な堀だった。堀の下には川が流れ、その向こうには江戸を守る壁が築かれている。
「なるほど。もし壁を越えられてもこの堀で押し返すことができると言うわけか。天然の防壁だな」
と、感心しながら辺りを見渡し堀の下に降りる道を探る。
階段があったが100メートルは離れている。
「滑り降りたほうが早いな」
彼女は傾斜に身を任せて堀を下っていく。
ずしゃぁ、と勢いよく下っているとふと子供時代のことが頭をよぎっていく。故郷の山でこうして斜面を下って遊んでいたな、と。
「あの頃は何も知らぬ子供だったな……」
昔の自分は戦争も知らない無垢な子供だった。そんなことを考えながら川の水で顔を洗う。
キリリと冷えた水のおかげで体の熱が下がっていくのを感じる。
「気持ちいいな……少し浸かってみるか」
彼女は下駄を脱ぎ水面に足を浸す。そのままずんずんと進んでいくと、突然目の前にばしゃぁと何かが水から飛び出してきた。
水しぶきが十兵衛を襲い、思わず彼女は目を瞑った。
はじめ彼女はそれが巨大な魚が跳ねたものだと思った。
だが目を開けて確認すると違った。
飛び出してきたのは女だった。
月光に照らされた一糸纏わぬ細雪のようなキレイな肌がぼやぁと輝いて見える。
それに何より十兵衛の目を引いたのは真白な長髪がキラキラと散る水しぶきを纏いながら宙に舞うところだった。
「ちょ、蝶華……!?」
「え!? 十兵衛様!?」
飛び出した蝶華は驚きと恥ずかしさで固まってしまっている。
一方の十兵衛も恥ずかしさで蝶華のことを見ることができない。
蝶華の体つきは豊満かつ妖艶で女でも見惚れてしまいそうなほど美しく官能的だったせいだ。
「蝶華……その……服を……」
「あ! ふ、服は岸で……その……」
蝶華は顔を真っ赤にして、身体を肩まで水の中に沈ませた。
普段客に裸を見せている彼女だが、このようなオフの時に裸を見られるのは恥ずかしいし、また十兵衛のあまりにも初心な反応が彼女にも伝播してさらに羞恥してしまったのだ。
「十兵衛様、着替えましたからこちらを見ても大丈夫ですよ」
「そうか、すまないな蝶華……ぶふっ!?」
振り返った十兵衛は蝶華の姿に思わずむせてしまった。
急いでいたせいだろうか、身体に残っていた水のせいで真っ白な袴が彼女の肌に張り付き、裸の時よりも妖艶に感じてしまう。
「どうしました、十兵衛様?」
「いや、その……服が張り付いて……そう! そのままでは風邪をひいてしまうぞ?」
「十兵衛様は優しいんですね。あたしの店はそこですから、大丈夫ですよ。それに十兵衛様も濡れてしまっていますよ?」
蝶華に言われて自分の服が濡れていることに気付く。蝶華が飛び出してきたときに濡れたものだ。
「あたしの店で乾かしていきましょう」
「いや、大丈夫だ。このくらいなら問題ない」
「お菓子もありますよ?」
「いや、だいじょ」
大丈夫、そう言おうとした言葉が腹の虫でかき消されてしまう。
「フフッ、やっぱり十兵衛様は食いしん坊ですね。一緒にお菓子食べましょう」
十兵衛はお菓子の魅力に負け、蝶華についていくことに。
「そう言えば十兵衛様はなぜ川に?」
蝶華の店へ行く道中、彼女はそう尋ねる。十兵衛はごまかすように答える。
「暑くて寝苦しくてな。散歩がてら体を冷まそうと思って」
「あたしと同じですね。あたしも暑くて寝苦しい時はよく水浴びするんです」
「その……裸で水浴びして、不用心ではないか? 誰かに見られたりでもしたら」
「あたしがこっちに来た頃はよく人がいたのですが、何でも長髪の老婆の霊が出るらしく……そのせいで誰も来なくなりましたから。思い切って脱いじゃったんです」
「長髪の老婆の霊……」
それは蝶華のことではないか、十兵衛は喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこんだ。
彼女の白い髪は老婆のよう、後姿を見た誰かが霊と勘違いしたのだろう。
そこから他愛ない会話を繰り返していると、すぐに蝶華の店へ着く。
蝶華の店の中はほんのり温かく、濡れたせいで少し冷えた肌が徐々に熱を取り戻していく。
「お待たせしました、十兵衛様」
濡れた服を着替えた蝶華がお皿片手にやってくる。
「今日のお菓子はチョコレートですよ」
「ちょ、ちょこれぇと?」
「あれ? 十兵衛様はチョコを知らないのですか?」
「え、えっと……い、今まで田舎にいてな……そこでは饅頭と煎餅くらいしかなくて」
自分が時間を超えてきた、と蝶華に言うわけにはいかない。十兵衛は適当にごまかした。
蝶華はそれを信じたみたいで、楽しそうに小さく笑う。
「あたしも同じです。こっちに来るまでこんなにおいしいお菓子知りませんでした」
そう言って彼女は十兵衛の前に皿を置いた。皿の上には黒くて丸いチョコがいくつも並んでいる。
「これ、ボンボンって言うチョコなんですって。最近流行ってるみたいで気になってたんです」
十兵衛はそれを口に放り込み、がりがりと噛み砕く。そして今まで体験したことのない味に目を輝かせた。
「んっ!? なんだこの味は!? 甘い! いや、少し酸味があるが……甘い! うまい!」
「よかった、十兵衛様のお口にあって。でもね、十兵衛様。チョコは噛み砕くのではなく口の中で溶かしながら食べるんですよ」
蝶華はひょいっとチョコを口へ放り込み、口の中でそれを転がしていく。
口内でチョコが溶けるに従って彼女の顔に幸せそうな笑みが浮かんでいく。
「十兵衛様が言ったように確かに少し酸味がありますね。でもこの酸味がより甘さを引き出していますね。それにくせになってしまいそう」
蝶華はもう一つ口へ運ぶ。十兵衛は自分も負けていられない、とひょいと口へ放り込んだ。
今度は噛み砕くのではなく、ゆっくりと舌で丁寧に転がして溶かしていく。
じんわりと口の中に甘みが広がり、彼女の顔にも笑顔が零れた。
「ん~! うまい! 甘さが全身に染み渡るみたいだ! こんなに小さいと永遠に食べていられるぞ」
十兵衛はチョコを次々と口へ運んでいく。
次第に体がぼぉっと熱くなってくるのがわかったが、部屋が暖かいせいだと思った。
しかし10個も平らげたころには頭がぼやぁと歪み、身体もかっかと火照っていた。
「ちょうか~、ちょこがもう1個しかないぞぉ~うぇひひ」
十兵衛の言葉は呂律が回っておらず、笑い方もおかしい。
不思議に思った蝶華はチョコが入っていた箱を確認する。
「十兵衛様、これお酒が入ってました。あ、でもちょっとだけですね……もしかして十兵衛様はお酒に弱い?」
「酒なんかには負け~ん、かはは」
「思いっきり負けてるじゃないですか……十兵衛様、お水飲みましょうね、持ってきますから」
「嫌! 私はチョコを食べる! あ~でもあと1個……これを食べたらおしまい……悲しい」
十兵衛は虚ろな瞳でじっと蝶華を見つめた。
「チョコは蝶華が持っていたから、最後の1個は蝶華が食べるべき……? でも私も食べたい……半分こにしよう!」
「何言ってるんですか、十兵衛様? チョコはもうおしまい、お水飲んで落ち着いて」
そう言って立ち上がろうとした蝶華を、十兵衛は肩を掴み無理やり座らせた。
そうして十兵衛は唇でチョコを挟み、蝶華の口へと運ぶ。
「蝶華……一緒に食べよ……」
十兵衛は舌を使い蝶華の口内へチョコを入れる。自分の舌も蝶華の中に挿し入れ、チョコを転がしていく。
蝶華の口いっぱいにチョコの甘さが広がっていく。それと同時に蠢く十兵衛の舌により快楽も体中へ広がっていった。
「蝶華も……食べさせて……」
十兵衛の言葉に応えるように蝶華が舌を使い、彼女の口へチョコを放り込む。
そして十兵衛がやったみたいに舌でチョコを転がした。
「おいしいな、蝶華……ちゅる……」
互いの口内にチョコが行き来する。お互いの口元には溶けたチョコと唾液がべったりと張り付いている。
「蝶華……」
チョコが溶けてなくなっても二人の口付けは続いた。火照る身体がお互いの身体を求めてさらに熱く燃え上がる。
「十兵衛様……あたし、ここまでくると歯止めが効きませんからね……」
蝶華は十兵衛を押し倒し、服を脱がせた。
服を脱いだ瞬間、火照り続けた身体からむわっと熱が溢れ出る。
十兵衛の肌に伝う汗を蝶華は舌を這わせ、舐め取った。
「蝶華……私は、もう我慢できない……体が火照って仕方ないんだ……」
「大丈夫ですよ、あたしがちゃんと静めてあげますから……」
蝶華も服を脱ぎ、十兵衛に覆い被さった。二人の肌は風邪を引いた時みたく熱を帯びている。
その熱がお互いを欲する証だ。
「十兵衛様……」
蝶華が十兵衛の唇にキスをして、彼女の顔を見つめた。
十兵衛のとろりととろけた子供みたいな瞳が彼女を見返して、ほほ笑んだ。
「蝶華の唇……甘い」
「十兵衛様の唇も、甘いですよ……」
(でもなんで……なんで十兵衛様の唇から、血の味がするの……?)
蝶華のそんな疑問も快楽の波に攫われてどこかへ消えていく。
二人はぼやける頭でむさぼるようにお互いを求めあった。
そう、まるで獣みたいに。一晩中、ずっと。
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