第10話  父と子 後編

第十章  父と子 後編



「ここが穂澄さんのお部屋ですわ」


母親がドアを開き、一つ頷いたのを確認すると、陽菜は部屋の中へ入る。


その部屋は一言で表すのなら簡素。きちんと整理された勉強机と勉強道具。それ以外に置かれている物といえば箪笥とベッドだけで、余計な物は何一つ見当たらない。


いかにも穂澄らしい部屋といえば部屋であった。


同時に陽菜が期待していた野球に関する物はどこにもないとすぐに分かり、焦りが生まれる。


「ああ、ちなみに」


そんな陽菜に母親は両手を合わせてパンッと鳴らすと、


「穂澄さん、大切な物は押入れの下の段の奥の方にしまう癖がありますけど、調べては駄目ですからね?」


調べるなよ?絶対調べるなよ?的なノリで言ってくる母親に、流石の陽菜も戸惑ったが、気を取り直してヒントに甘えることにする。


押入れの襖を開け、言われた通り下段に視線を移す。


そこにはプラスチック製の折り畳み式コンテナボックスが四つ。上下二段、左右に二つずつ隙間なく並べていた。


(確か下段の奥のほうって言ってたわよね……)


母親のヒントを思い出しながら、コンテナボックスを取り出していくと、さらに奥も同じような配置で同じ物が置いてあった。


この中のどれかに正解が有るはずだと陽菜が左下のコンテナボックスを引っ張り出した時だった。それが他の物より明らかに軽いと気づく。


気になりその箱を開けてみると、スポーツバッグが一つだけポツンと入っていた。寺子安中学校と書かれているので、学校指定の物なのだろう。


陽菜はそれを取り出すと、さらにファスナーを開けて中を確認する。


「これ……!」


中身を見て、陽菜は思わずガッツポーズをしそうになった。探していた物が、そこにはあった。


「あらあら~、おかしいわ~。どうしてお父上に捨てるように言われた野球道具がこんなところにあるのかしら~」


これ以上ないほど棒読みで言ってくる母親に陽菜は苦笑しながらも、閉めたバッグを持って立ち上がる。


「後片付けは私がしておきますわ。秋月さんは早く穂澄さんのところへ」

「はい。色々とありがとうございました」


母親は微笑むと、丁寧に頭を下げて最後にこう言った。


「穂澄さんのこと、どうかよろしくお願い致します」






そして今、陽菜は穂澄とその父親の前に立っている。


母親から託された想いと、穂澄が残した未練を手にして。


「……どういうことだ、穂澄。私は野球に関わる物を全て処分しろと言ったはずだな?」

「そ、それは……」

「父に嘘をついたのか?」

「…………」


穂澄は何も答えられなかった。父親の顔をまっすぐ見る事もできず、青ざめた顔をうつむかせてしまう。


そんな穂澄を守るように、陽菜は彼女の前に。親子の間に割って入る。


「あなたの本当の気持ちを言ってやればいいのよ。私は剣道よりも野球がしたいですってね」


父親に睨まれるが、陽菜は額から冷や汗を流しながらも、圧に呑まれないよう平静を保つ。


「大丈夫。ここにいるお父さん以外は全員あなたの味方よ。そうでしょ?奈月、喜美」

「は、はい!もちろんで…ふみぃ⁉」


奈月が呼応しようとすると、父親が目で制してきて奈月は怯む。しかし喜美がそっと震える手を繋いできた。


「……正直、私もちびりそうなほど恐いけど、奈月と……皆と一緒なら大丈夫……な気がする!」

「喜美ちゃん……!」


ぎゅっとお互いに繋いだ手を握り締めると、二人は今度こそ父親をまっすぐ見据えた。


「秋月殿……南殿……笹川殿……」

「それと、あなたのお母さんもね」

「え……?」

「これが隠してあった場所をお母さんが私に教えてくれたのよ。あなたのこと、よろしくって」

「母上が……」

「……なるほど。あれの差し金か」


父親は合点がいったように呟くと、再び視線を穂澄に向ける。


「中学の時もそうであったな。自分では何も言えず、他者に頼るなどまるで成長しておらん」


そう言うと右手に持った竹刀をブンッ!と振るう。


「言いたい事があるのなら己が口で!己が剣で語ってみせんか!」

「……っ!」


穂澄は唇を噛み締め、拳を固く握り締めると、自分の荷物置き場から竹刀を持って戻ってくる。


「そうだ。それでいい。もしお前が私に一打でも当てられたら話を聞いてやろう」

「……二言はございませぬな?」

「無論。この剣に誓って」


穂澄は奈月達に顔を向けると、力強く一つ頷いてみせる。


それを見た三人も頷き返すと、勝負の邪魔にならないよう道場の隅へと移動した。


一瞬にして緊張感が張り詰める道場の中央で、穂澄と父親は膝を曲げて腰を下ろす蹲踞の姿勢で竹刀を向け合う。


そして立ち上がり……勝負が始まった。


「てえぇぇぇぇっっっィィィッッッ!」


交差した竹刀の切っ先で父親が間合いを計り始めようとした瞬間、穂澄がいきなり仕掛ける。


父親との勝負は剣道を始めてから一度も勝ったことがない。それ故、正攻法では勝てないと判断した上での奇襲であった。


しかし父親はそれをなんなく竹刀で受け止めると、そのまま力を込めて押し返す。


(やはりそう甘くはないか……だが父上といえど人間……数を打ち込み続ければ必ず勝機はある!)


奇襲は失敗したが、穂澄は構わず再び自ら攻勢に出た。


声を出し自らの心を奮い立たせ、集中させた力を竹刀に込めて連続で打ち込む。


常人なら目にも止まらぬ速さで繰り出される穂澄の竹刀を、しかし父親は同じく竹刀を縦に、横に、斜めにと変幻自在に操って受け流す。


そして小手部分を狙いきた剣筋を逆に下から強引にすくい上げると、穂澄の竹刀を持つ両腕が大きく上へと跳ねあがった。


(まずい……!胴ががら空きに……!)


慌てて両腕を下げて、来るであろう父の一打に備える。が、父親の狙いはそこではなかった。


胴を意識しすぎたせいで、今度は穂澄の両腕と竹刀は下がりきっていた。結果、上段がわずかに無防備になる。


その一瞬の隙を父親は見逃さなかった。


「キィエエエエエェェェェッッッッ‼」


咆哮一閃。穂澄の頭部めがけて竹刀が振り下ろされる。


その軌道を穂澄は直感だけで避けようと首を体ごと捻り、文字通り紙一重のところで躱した。だが次の瞬間、左肩に激痛が疾る。


「ぐぅっ……!」


竹刀を落としそうになるのを必死に堪え、慌てて数歩退がる。竹刀とはいえ防具無し、しかも達人である父の一撃となれば、最早それは鈍器で殴られたに等しい。


ズギズキと響く痛みに耐えながらなんとか態勢を立て直そうとしたその瞬間、今度は父親が攻めに転じてきた。


「くっ……!」


執拗な上段への攻撃に穂澄は防戦一方になってしまう。だが、打ち込まれているのが上段だけなのでなんとか凌いでいられた。


(おかしい……父上がこんな単調な攻め方をするはずが……)


違和感を覚え、それが父の張っている罠だと気づいた瞬間。


上へと気を取られ、対応が疎かになっていた胴を目掛けて竹刀が飛んできた。


「ごふっ……」


脇腹を竹刀が食い込むほど抉られ、穂澄の息が詰まる。今度は耐えられずに竹刀を落とすと、そのまま体をくの字にして膝をついた


「千葉さん⁉」


奈月が悲鳴にも似た声をあげ、それがなんとか遠のく穂澄の意識を繋ぎ止めた。前のめりに倒れるのだけは耐え、容赦なく痛む右腹に手を当てる。


「どうした。もう終わりか」


構えを解かぬまま言ってくる父。穂澄は必死に息を整えると、竹刀を拾ってよろよろと立ち上がる。


「まだ……まだぁ……!」


そして構える。その目にまだ闘志が宿っているのを確認すると、父親は再び穂澄を攻め立てた。


そこからはもう一方的であった。


父親の攻撃を可能な限り防ぎ、しかし最後には必ず有効打を喰らわされる。その繰り返し。


その度に穂澄の肉体と精神は確実に消耗していき……ついに限界を迎えた。


「ち、千葉さん!」


崩れ落ちるように仰向けに倒れた穂澄に奈月達が駆け寄る。


穂澄は全身で荒い息を繰り返しながら、光を失った虚ろな両目でただ視界に入る天井を見つめると、


「……これほどまでに……」


ポツリ……と呟く。


「これほどまでに……私と父上では差があるのか……」


実力差は認識していた。それでも一打くらいなら……と甘く考えていた。


「幼少の頃から鍛錬を重ねても……まだ足元にすら届かぬというのか……」


だが、今日初めて本気の父と対峙して、はっきりと分かった。偶然や奇跡が起ころうとも勝てる相手ではないと。


それほどまでに、剣士としての才はかけ離れているのだと。


「皆……すまない……。私は……私は……」


敗北を認めた穂澄の目から涙が流れる。父に勝てなかった悔しさよりも、友がくれたチャンスを無駄にしてしまった事。


友の期待に応えられなかった事が、何よりも悔しくて……情けなくて仕方なかった。


「どうやら仕舞いのようだな」


穂澄の心が折れたのを見届けると、父親は構えを解き、竹刀を下ろしていく。


――その時だった。


「まだ私達がいます」


陽菜はスカートを動きやすくなるよう結ぶと、穂澄の竹刀を拾いあげる。


「野球は剣道と違ってチームスポーツです。誰かが苦しい時は他の全員でフォローする。なら穂澄さんと同じチームの私にも挑戦する権利はありますよね?」


剣道の勝負にも関わらず野球の事情を持ち込む陽菜。本人も無茶苦茶なことを言っているのは重々承知の上であったが、元より穂澄から野球に関わる全てを断ち切るつもりであった父親は、その提案をすんなりと受け入れた。


「よかろう。全員の気が済むまで相手をしてやる」


言って、竹刀を再び構える。


「む、無茶だ……秋月殿……!私ですら手も足も出なかったのに……貴殿が父上に敵うはずが……!」

「まぁまぁ、千葉さん」

「後は私達に任せて、今はゆっくり休んでいて下さい!」


喜美と奈月は穂澄に肩を貸して安全な場所まで連れて行くと、先ほど稽古で使った竹刀をそれぞれ手にして陽菜の左右にそれぞれ並ぶ。


「あたし達は素人ですし、三対一でもまさか卑怯とは言わないですよねぇ?」

「ふみぃ……。喜美ちゃん、それだとなんだか悪者っぽいです……」


目の前に立ち塞がる三人を父親は一瞥すると、嘲笑うようにフンと鼻を鳴らし、


「私は一向に構わん。こちらからは手を出さぬから全員まとめてかかってくるといい」


全身に闘気を纏わせ、臨戦態勢に入った。


三人は陽菜を中心にして、父親を三角形の形で囲むように動き始める。いかに達人とはいえ、三方向から同時に攻撃すれば捌ききれないだろうという作戦だ。


陽菜が目で左右の二人へ合図を送ると、奈月と喜美は同時に頷く。そして次の瞬間、一斉に父親へと向かって突進を始めた。


それに対し父親はまず喜美へと体を向け、殺気を飛ばす。


「ひっ⁉」


殺気は喜美に幻覚を見せ、まるで本当に竹刀を打ち込まれたかのように錯覚させる。思わず喜美が足を竦ませ、止まったのを確認すると、背後から振り下ろされた奈月の竹刀を振り向きざまに受け止める。


「今です!陽菜ちゃん!」


奈月が父親の竹刀を押さえつけて封じ、無防備なところを陽菜が横から決める――はずであった。


「甘いわ!」

「ふみぃ⁉」


竹刀が交差していた箇所からまるで衝撃波のように伝わってきた力に、奈月が後方へ吹き飛ばされた。


しかし陽菜は構わず走り込みながら上段で構えていた竹刀を振り下ろす。


だが、それすらも父親は上半身を反らしながら後ろへ退がって躱すと、目標を失った陽菜の竹刀は空を切り、勢い余ってそのまま前のめりに転んでしまう。


「ご、ごめん二人とも……あたしがビビっちゃったから……」

「問題ないわ。一発で決められるとは始めから思っていないもの」

「そうです!誰かが当てられるまで皆で頑張りましょう!」


陽菜と奈月は立ち上がって竹刀を構え直す。連携が崩れても後一歩だったのだ。それが手応えとなり、二人の表情にも表れている。


喜美も二人に頷いて気合を入れ直すと、再び父親を三角形で囲み始めた。


そして再び挑む。パターンを、タイミングを、常に違った攻め方で自分達の竹刀が届くまで挑み続ける。


しかし父親はそれらを時には壁のように硬く受け止め、時には柳のように柔らかく受け流し、そして時には霞のように消えて避けていく。


そうするうちに時間だけが過ぎていき、結果が出ぬまま息切れした喜美が――陽菜が続けて膝をついていく。


最後に残った奈月は孤軍奮闘を続けていたが、ずば抜けた体力を持つ彼女ですら、やがて父親より先に竹刀を持つ手とふくらはぎをプルプルと震わせていた。


「ふぅ……ふぅ……ふぅ……!」


誰が見てもとうに限界を越えていた奈月だったが、それでも諦めず、果敢に一人で父親へ立ち向かっていく。


だがその剣筋は最早精彩を欠き、簡単に避けられてしまう。ならばと上半身を捻り、その勢いを利用して体の向きを父親へと転換させようとしたが、疲労しきった足がその動きに耐えられずもつれて転んでしまう。


体の右側からろくに受け身もとれぬまま倒れると、そのまま奈月はピクリとも動かなくなってしまった。


「た、体力お化けの奈月が先にバテるなんて……どんだけ化物なのよ……」


しかも自分達の前には穂澄と戦い、消耗していたはずである。それでも父親は、肩で息をしながらも、未だ無傷のまま立ち続けている。


(やはり無理だったのだ……父上に勝とうなど……)


穂澄が唇を噛み締め、目を閉じていく。


だが。


それでも。


その視界が真っ暗になる直前に――


「……ありがと……奈月。おかげでゆっくり休めたわ……」


よろよろとおぼつかない両足で陽菜が立ち上がる。


「……陽菜が立つんなら、一番最初にバテたあたしが座ってる訳にもいかないわよね……」


それよりも疲弊した様子で、喜美も竹刀を杖代わりにしてなんとか立ち上がってみせた。


満身創痍になりながらも、それでも諦めようとしない二人を穂澄は理解できなかった。


理解できずとも、とにかく彼女達がこれ以上ボロボロになる姿は見たくなかった。


「もういい……もう止めてくれ……」


ポツリ……と穂澄が呟く。


「何故そこまでする……。別に私などいなくても、他に部員は集められるであろう……⁉」


だからもう十分だ。そう穂澄が口にしようとしたその前に、


「……確かにただ野球をやるだけならそれでいいわ……。けどね、私はあなたに野球をやってほしいのよ……」

「私が戦力として必要だからか……?」

「それもあるわ……。けど、それだけじゃない。あなたは私なのよ……」

「どういう……ことだ……?」


問う穂澄に、陽菜は背を向けたまま答えを返す。


「私も一度野球を辞めて、お母さんに迷惑をかけたわ……。母子家庭で生活も決して楽じゃないはずなのに、埼玉の中学で寮生活を続けるのを許してくれた……。

でも、そのお母さんの期待を私は自分の都合で裏切った……。そして高校で奈月達と出会って、また野球がしたくなった私の我儘をお母さんは許してくれたわ……。

けど、もしかしたらそうならなかった可能性だってあった……」


母が許してくれなかったら、陽菜も今の穂澄のように野球を諦めていただろう。


「だから許された私だけが、似た境遇のあなたを見捨ててのうのうと野球をする訳にはいかないのよ……!」

「それだけじゃ……ないです……」


そこで息を吹き返した奈月が、立ち上がりながら陽菜に続く。


「陽菜ちゃんから聞きました……。千葉さんは野球を続けたかったと言っていたって……。野球が好きでやりたい人が、野球を出来ないなんて悲しい事は……私は絶対に嫌です……!」

「まっ、あたしも奈月と同意見ね……!」

「皆……」


穂澄は顔をうつむかせると、爪が食い込むほど強く両拳を握りしめた。


(私は……私は一体何をしているのだ……!友がここまで私の事を想ってくれているというのに、私だけが勝手に諦めて……。それで歩む道が本当に正しいと胸を張れるのか……⁉)


否。断じて否。


血が滲むほど唇を噛み締め、穂澄は顔を上げた。そこにもう迷いはなかった。


立ち上がり、前へ向かって踏み出す。そして陽菜の正面に立ち、


「皆、済まなかった。ここから先はもう一度、私に任せて頂けないであろうか」

「……やっと目が覚めたみたいね。いいわ、今度こそちゃんと自分でお父さんに気持ちを伝えてきなさい」


陽菜から自分の竹刀を受け取ると、穂澄は力強く頷いてみせた。


「千葉さん!ファイトです!」

「応援しか出来ないけど、あたし達も一緒に戦ってるから!」

「忝い。貴殿らの心、どのような助力にも勝る」


奈月達が場外まで退がったのを背中越しに確認すると、穂澄は右手に持っていた竹刀を両手で持ち直し、静かに――しかし激しく燃え上がる気合を背負って構えた。


「参ります」

「来い」


短く確認し合うと、二人は同時に臨戦態勢に入った。


穂澄は先程とは違い、いきなり攻めかかりはせず、慎重に父親との間合いを計っていく。


それは相手も同じで、傍から見ると二人が全く動かないまま時間だけが過ぎていくようにも見えた。


だが実際は一センチ、いや一ミリ単位で間合いを詰め、離れを繰り返しているのだ。


(小手先の技でどうにかなる相手ではないのは十分すぎるほど分かった……。ならば私に出来る事はただ一つ)


己が持つ力と技の全てを一撃に込める。


そのために必要な必殺の間合いを慎重に、しかし決して臆病にならぬようジリジリと詰めていく。


腕のリーチが長い分、踏み込みに必要な間合いには父親のほうが早く達する。穂澄はその間合いの外ギリギリから一瞬で内へ入り込み、さらには相手より早く踏み込む必要があった。


(集中しろ……全ての神経を研ぎ澄ませ……)


いつ訪れるか分からない『その時』のために、穂澄は肉体と精神を極限まで同調させていく。


永遠に続くかのような二人の対峙を、奈月達も固唾を呑んで見守っていた。


そして父親の竹刀の先端が僅かに揺れた――その瞬間だった。


穂澄が動いた。まるで浮いているかのように肉体の重さを感じさせぬノーモーションの足捌きで一気に自分の間合いへと移動すると、そのまま力強く床を蹴り、前方へ向けて飛び跳ねる。


「メエエエェェェェンンンッッッッッッッッ‼」


穂澄の声が聞こえた時には、目にも止まらぬ神速の動きから振り下ろされた竹刀は父親の頭上を捉えていた。


それに対し父親は――


一歩も――動かなかった。


パシイイィィィィィンンッッッッ!!


竹刀が父親の正面有効打を打ち、穂澄は着地と同時に後ろへ飛び、心を残さないように再び構える。


「い、今……当たったわよね……?」

「多分……ね」


速すぎた一連の動きに喜美と陽菜は自信なさげに確認し合う。


「はい!確かにおでこの少し上にバシンッ!って当たってました!」


そんな中、唯一目で追えていた奈月だけは、穂澄の有効打が決まった事を宣言した。


「って事は……」

「千葉さんの勝ちです!」


奈月と喜美はその場で飛び上がって喜び、陽菜も小さくガッツポーズを作って穂澄の勝利を祝福する。


しかし当の本人の穂澄だけは喜びではなく、自らの勝利を解せぬといった複雑な表情を浮かべていた。


「父上……どうして……」


自分の打ち込みに対して、一切動こうとしなかった父に真意を問いかけようとするが、


「……どうしてそれが始めから出来ん。馬鹿者が」


静かに叱責され、試合を終える礼をする父に、慌てて穂澄も礼をする。


そして答えを待つ穂澄に対し、逆に問いを投げかけてきた。


「穂澄。一つだけ聞かせろ。剣道と野球、どちらが好きだ」

「そ、それは……」


正直、比べられる物などではなかった。


だからと言って答えられないという選択肢は許されない。だから穂澄は今の心をそのまま口にした。


「剣道は好きです……。父上の稽古はいつも厳しかったですが、それ以上に成長できる自分が楽しくありました……。ですが私は野球をもっと好きになってしまいました……!大好きな剣道以上に、もっと野球を大好きになってしまったのです!」

「……そうか」


父親はそれだけ言うと、穂澄から竹刀を取り上げた。


「今を持ってお前を破門とする。以後、道場の敷居を跨ぐことは許さぬ。剣道部にも私から退部の旨を伝えておく」

「…………ッ!」


穂澄は空になった両手を握りしめると、きつく瞼を閉じて「はい……」と脇を通り過ぎていく父親に返事をする。


父の不興を買ったのだ。親子の縁を切られなかっただけでもありがたいと受け取らねばならない。


そう……思っていたが。


「自分で選んだ道だ。必ず極めてみせよ」

「――――!」


背後から聞こえた、父なりの不器用な激励に穂澄が目を見開いて振り返った時には、すでに彼は渡り廊下へと続く扉を開けていた。


そして最後に、


「最後の一打。お前の心が現れた……良い一打であった」


何故動かなかったのか。穂澄の問いに答えを示すと、静かに扉を閉めた。


「父上……申し訳ございません……!ありがとうございます……!」


姿の見えなくなった父親に穂澄は一礼すると、謝罪と感謝の気持ちを述べ、止まらない涙を床に零し続けた。






渡り廊下に出ると、すぐそこに妻が待ち構えていた。


「あれで宜しかったのですか?」

「フン……。思惑通りになっておきながら、よくもぬけぬけと言う」

「あらあら、バレてました?」


妻が悪びれた様子もなく舌をぺろっと出すと、夫は小さくため息をついてみせた。


「千葉の鬼小町も甘くなったものよ」

「あら、そんな私に惚れて婿入りしてきたのはどこのどなたでしたっけ?」

「む……」


彼女の剣道と同じく、鋭い切り替えしに父親は言葉を詰まらせる。


「私も日々成長しておりますもの。穂澄さんを産んでからは、あの子と一緒に。それはあなたも同じだから、あの子に野球を許してさしあげたのでしょ?」

「……穂澄め、初めて私の目を見て己が心を伝えてきよったわ。いつも私の顔色を伺い、決して逆らおうとしなかったあいつが……な。子が親に対して、初めて口にした我儘だ。ならば聞き届けてやりたいと思ってしまったのも、親としては当然の心情なのであろう」


そう言った父親の目は優しく、どこか寂しげでもあった。そして妻に頭を下げると、


「千葉の剣は私の代で潰える。すまぬ」

「あらあら、諦めるのはまだ早いと思いますわよ?」


予想もしていなかった妻の言葉に、夫は「ん……?」と顔を上げた。すると彼女はこれ以上ないほどの楽しそうな微笑みを浮かべて、


「後継者がいなくなったのなら、また育てればいいではありませんか。前々から私、もう一人くらい子供が欲しいと思っていましたの。いい機会ですし、今度は男の子を産みますわね」

「ちょ、ちょっと待て。どうしていきなりそういう発想になる⁉」


本能が危険を察し、思わず後ずさるが、母親は細い目を開くと信じられないスピードで間合いを詰めてきた。


「そうと決まればさっそく子作りいたしましょう。さぁさぁ、寝室へ参りますわよ」

「待て待て待て!まだ穂澄の友人がおるし、せめて陽が落ちてから……あんッ💛」






扉の奥から聞こえてきた、何やら聞いてはいけない会話に、意味が分からずにいる奈月以外の三人が顔を赤らめていると、


「と、とりあえず……あっちの外で話そうか……」


渡り廊下用の扉とは正反対にある、外へと繋がる入口の扉を指さして喜美が提案してきたので、迷わずそれに乗っかることにした。


「あ~~涼しいぃ~~」


喜美が扉を開けると、爽やかな春風がまだ熱気の残る道場の中に入ってきた。


「火照った体にまだ少し冷たい春の風がスゥー……と効いて……これは、ありがたい……」

「なんのCMよ、それ……」


珍しい陽菜のツッコミに皆で笑い合っていると、外へ追い出されていた門下生が気づき、ぞろぞろと集まってきた。


「ほ、穂澄ちゃん!なんか先生と揉めてたみたいだけど大丈夫だったの⁉」

「先生のあんな本気な声なんて久しぶりに聞いたわ……よく生きてたねぇ」


ほとんどが穂澄より年上の門下生達が、奈月達を押しのけて彼女を中心に輪を作っていく。


その全員がこぞって穂澄を心配している辺り、彼女がこの道場でいかに愛されているかを示していた。


穂澄は自分が剣道を辞める事を。それを父が許し、破門された事を。今、道場で起きた事を全て説明した。


すると門下生達は「そっか……穂澄ちゃんは剣道を辞めちゃうのか……」と残念がったが、同時に女子野球へ転向するのを快く応援してくれた。


「それはそうと、そうなると今日の稽古は……」

「あ、ああ……。父は私の我儘に付き合って疲れております故、今日はもう休ませてあげてはもらえませぬか?」

「まぁ、そういう事なら仕方ないな。じゃあ今日はこれで解散すっべ」


一番年長者と思われる門下生が仕切ると、まだ道場に残していた自分達の荷物をまとめ、引き揚げていく。


それを穂澄は一人一人に頭を下げて見送る。そして最後の一人が見えなくなった時、


「まっ、お父さんが本当に疲れるのはこれからなんだけどね」

「ブッ!」


不意にブチ込んできた喜美の下ネタに、陽菜は顔を横にして吹き出した。そのまま口を手で押えて必死に笑いを堪えている辺り、意外とそういうのが好きなのかもしれない。


穂澄も苦笑していたが、急に真面目な顔になって、今度は三人に対して深々と頭を下げた。


「今日は本当に忝かった。この大恩、全てを報いきれるとは思わぬが、少しでも野球で返していく所存だ」

「あ~、ダメダメ。そういうのはあたし達いらないから。ね、陽菜」


喜美の言葉に陽菜は頷く。


「さっきも言ったけど野球は剣道と違ってチームスポーツよ。だから穂澄が苦しい時に私達でフォローした。もう同じチームなんだから、それは当たり前で恩とか感じる必要なんてないわ」

「そうです!それより千葉さんが野球を楽しんでくれたほうが、私達はずっと嬉しいです!」

「皆……ありがとう……」


穂澄は顔を上げると、目に涙を浮かべながら笑ってみせた。それこそが、奈月達にとって最高の報酬であった。


と、そこで奈月のスマホが鳴った。それを取り出してみると、雅からの着信だ。


「もしもし?はい、私です。はい!こっちは上手くいきました!松本さんのほうは……そうですか!それは良かったです!」


声を弾ます奈月の様子を見て、喜美と陽菜は雅のほうも首尾は上々なのだと理解した。


「わかりました!それではすぐにそちらへ行きますね!」


奈月は通話を切ると、雅から聞いた事を皆に伝える。


「松本さんも女子野球部に入ってくれるそうです!」

「それは良かったわね。流石は雅、自信満々だっただけはあるわ」

「千葉さん……あっ、あたしも陽菜みたく穂澄って呼んでいい?」

「うむ。もちろん構わぬ」

「じゃあ穂澄も入れて、これで六人……いよいよチームの完成が見えてきたわね」

「はい!早く皆で試合がしたいです!」

「ところで……」


盛り上がる三人に、穂澄は申し訳なさそうに右手をおずおずと挙げて、


「すまぬが、松本殿とはどなたであろうか……?」

「あっ、そういえば穂澄はまだ松本さんに会ってないんだっけ」

「ちなみに私も写真で見ただけで実際にはまだ会ってないわ」

「あたし達と同じ一年生で女子野球の経験者よ。まぁ……ちょっと訳有りで二年ほどブランクがあるんだけど」


喜美のボカした説明に、穂澄は「なるほど」と納得する。


「なら今から千葉さんも一緒に河川敷へ行きましょう!ちょうど風見さんと松本さん、それに先生もいるそうです!」

「そうね。それに穂澄も女子野球部の練習場がどこか知っておいたほうがいいものね」

「ならば少し待ってもらえぬか。今、部屋で着替えて……」

そこまで言って、穂澄は今頃自宅のどこかで両親が『事』に及んでいるのを思い出した。

それに気づいた喜美と陽菜も顔を赤らめると、


「ま、まぁ……そのままでもいいんじゃない?電車に乗るとちょっと浮くかもしれないけどさ……」

「そ、そうね……邪魔したら悪いものね……」

「心遣い……申し訳ない……」


最後に穂澄も我が事の恥ずかしさのように顔を真っ赤にすると、消え入りそうな声で言った。


「でも千葉さんにはその姿がとってもよく似合ってると思います!」


状況がよく分かっていない奈月が素でフォローを入れると、穂澄は目を丸くしたが、すぐに微笑む。


「そうだな……。無理に自分を演じる必要はないと貴殿らが教えてくれたのだ。ならば私は私のまま堂々と行こう」


そう言うと穂澄は素足のまま、庭用の草履を履いて歩き出した。


その足取りにはもう迷いは無い。鶴川女子野球部員としての、千葉穂澄の歩き方であった。



【続く】

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