第5話 テニスの王女様
第五章 テニスの王女様
物語は秋月陽菜が鶴川女子野球部に正式参加した当日の午前中まで遡る。
四時限目の体育の授業。一年C組と同じくD組の女子は、合同でテニスを行っていた。
とはいえテニスコートとラケットの数には限りがあるので、大半の女子は邪魔にならないところで他の人の試合を見ているか、練習しているかのどちらかである。
奈月と喜美は前者で、テニスコートの隅っこに体育座りで並び、すっかり観戦モードに入っていた。
「そういえば陽菜ちゃん、今日から女子野球部の練習に来てくれるそうですよ」
「へぇ~。お母さん許してくれたんだ。それは良かったわね」
「はい!今から一緒に練習できるのが楽しみです!」
「となると部員は最低でもあと六人か……まだまだ先は長いわねぇ」
部員募集のポスターを貼ってみたものの、今のところ一人の反応もない。
やはりこちらから声をかけて探し回らなくてはダメかと喜美がため息をついた、その時だった。
「貴方達、テニスはおやりになりませんの?」
場によく通る美しい声に、二人は同時に顔を上げた。
そこに立っていたのは、美声に相応しい艶やかな銀髪を顔より下の両側で縦にロールさせた、全身から隠せぬほどの気品を溢れ出させている子であった。
「あ、あの私達……テニスはやった事がないので見てるだけでいいかなって……」
「ならば猶更やるべきですわ。わたくし、テニスには心得が有りますから教えてさしあげます」
言うが早いか銀髪の少女は奈月を立たせると、ラケットを手渡してから背後に回り込む。
そのまま奈月の腕と腰に手を添えると、「まずラケットの持ち方はこう」と基本的な動作を一つずつ、文字通り手取り足取り丁寧に教えていく。
「なかなか筋が宜しいですわね。何かスポーツをなさっているのかしら?」
「あっ、はい。女子野球を……って言っても、まだ正式な部ではないのですけど……」
「そういえばそんなポスターが貼ってありましたわね。そう、あれは貴方でしたの」
「もしかして野球に興味がありますか⁉」
「いえ。わたくし、団体競技には興味ありませんわ」
「ふみぃ……そうですか……」
がっくりと肩を落とす奈月。代わりに喜美が割って入ってきた。
「そう言わずにさ、暇だったら放課後、河川敷に見学しにきてよ。そこであたし達は練習してるからさ」
「ええ、気が向きましたらそうさせて頂きますわ」
だがそれも完全に社交辞令で返すと、そこで少女は何かに気づいたようで、
「わたくしとした事が自己紹介がまだでしたわね。一年D組、風見雅ですわ。以後よしなに」
言って学校指定のジャージのズボンの両端を摘まみ、腰と膝を曲げるカーテシーの挨拶をしてくる少女――雅。
「み、南奈月です!」
「笹川喜美……よ。よ、よしなに?」
それを二人も真似しながら、慣れない自己紹介を返す。
「喜美ちゃん……風見さんってお嬢様なんでしょうか……?」
「さぁ……鶴川はお嬢様が通うような学校じゃないと思うけど……」
「聞こえてましてよ」
こそこそと話していた二人はビクッと体を震わせる。
「我が風見家は風宮家の流れを汲んでいますの。とはいえ今は分家扱いですし、本家との血筋もかなり遠くなってしまっておりますが」
「風宮って……あの風宮⁉」
「知ってるんですか、喜美ちゃん?」
「あんたも風宮銀行くらいは知ってるでしょ?あれを含めた幾つもの大企業を経営をしてるのが日本五大財閥の一つ、風宮グループよ」
なんでそんなとこのお嬢様が鶴川なんかに……と喜美は雅を上から下までまじまじと見直すと、その心の声を読み取ったのか答えが返ってきた。
「先程も申しましたが、今の風見家は分家扱いで本家とは繋がりが希薄になってしまっていますの。そのため風見は風見で独自の立場をとるようになり、
以後、風見家の者は高校までの学業で庶民の生活や思考を学ぶため、一般的な学び舎に通うことにしてますのよ」
「な、なるほど……」
よく分からないが、要は今の風見家は落ちぶれた貴族みたいなものなのだろうか……
流石にその声は読まれる訳にはいかないので、喜美は顔には出さないようにする。
「少し無駄話が過ぎましたわね。では南さん。丁度テニスコートが空きましたし、わたくしのお相手をお願い出来ますかしら?」
「ふみぃ⁉わ、私がですか⁉」
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ。わたくしも手加減いたしますし、遊ぶつもりで楽しんで頂ければ結構ですので」
「わ、分かりました!ご期待にそえるよう頑張ります!」
大きく揺れる胸の前で両拳を握って気合を入れると、「では行ってきます!」と喜美に声をかけてから雅の後を追ってテニスコートへ向かう。
「そう、そのラインより少し後ろでお構えになって」
初心者の奈月にも分かりやすいように指示を飛ばすと、雅はテニスボールを右手と地面の間で二度跳ねさせる。
「ではいきますわよ」
先程した指導の時、奈月は右利きであると雅は気づいていた。
ならばフォアハンドで打ちやすいところへサーブしてあげるべきだろう。そう考えながら、雅は初心者でも打ち返せるように極めてゆっくりなサーブで奈月へとボールを送る。
「わ!わ!来ました!」
それでも奈月は初めてのテニスにあたふたしながら、雅に教えてもらった通りにラケットを両手で握り直す。
「えっと……確かラケットの振り方は……こうです!」
そして構え方を思い出しながら、ラケットの真芯に捉えたテニスボールを――フルスイングで打ち返した。
ビュン!
次の瞬間、比喩ではなく本当に目にも止まらぬ速さで打ち返されたボールが雅の顔の右側をギリギリで通過していき、そのままノーバウンドで背後の金網に直撃した。
「……え……?」
奈月のリターンに全く反応できなかった雅は丸くさせた目をパチクリさせると、何が起こったのか分からぬまま肩越しに背後を振り返る。
するとそこには、確かに奈月が打ち返してきたボールが転がっていた。自分が目で追えないほど速かった、そのボールが。
「こらー奈月ー、野球じゃないんだからワンバンさせないとダメでしょうがー」
「す、すみません風見さん!もう一度お願いします!」
「え、ええ……よろしくてよ」
気を取り直し、雅は拾ったボールをまた右手と地面の間で二度跳ねさせる。
(なんですの……今のありえないスピードのリターンは……このわたくしが反応すらできないなんて……)
奈月達には言う必要がなかったので黙っていたが、雅は中学時代にテニスのシングルスで全国大会を制していた。
なので当然、テニスには相当の自信があった。だが今の奈月のような速い打球を返せる者など、同世代はもちろん、彼女にテニスを教えてくれたコーチですらいなかった。
(とにかく……今のをもう一度見てみたいですわ)
そうなるように先程と同じ球威で、同じ位置へとサーブする。
奈月も先程と同じように構え――
ビュン!
そしてラケットを振り抜いたと思った瞬間には、再び今度は雅の顔の左側ギリギリを猛スピードでボールが過ぎ去っていった。
「だーかーらー、それじゃセンター返しでしょうがー」
「つ、つい癖で……」
二人が騒いでる中、雅は言葉を失い、額から冷や汗を流すしかなかった。
もし奈月が野球でなくテニスをしていたならば。間違いなく自分は全国で一位になどなれなかっただろう。そう確信させるだけの物が、今の二球にはあった。
「南さん!」
「は、はい!すすすすみません!つ、次はちゃんとワンバンさせてみせますぅ!」
ネットを横切り近づいてくる雅に怒られると思った奈月は、ラケットで自分の顔を隠しながら目を瞑る。
しかし続けて聞こえてきたのは、意外な言葉であった。
「貴方、本格的にテニスをやってみるつもりはありませんかしら?南さんなら間違いなく、わたくしの好敵手になりますわ!」
「ふ、ふみぃ……?私がテニスを……ですか……?」
ゆっくりと目を開いて恐る恐る雅の顔を確認すると、そこには怒るのではなく、目をキラキラと輝かせる彼女の姿があった。
「そうですわ!中学時代はわたくしの好敵手と呼べる方はおりませんでしたの。ですから高校はテニス以外の事で日本一を目指そうと思っていましたが……南さん、あなたがテニスをして下さるなら話は別ですわ!
わたくしと共にテニスの高みを目指しませんこと⁉」
「あ、あの……申し訳ないのですが、私は野球以外はやるつもりはないので……」
ですからすみません!と奈月は深々と頭を下げた。それを聞いた雅は心底がっかりした様子で、
「そうですの……。せっかく私を本気で燃えさせて下さる相手と巡り会えたと思いましたのに……」
「あっ、だったら風見さんが野球をやってみませんか?私の打球なんかよりもずっと速い球を投げれる凄い人がいるんですよ!」
「あれよりも……速い球を?」
雅の眉がピクッと動く。団体競技である野球には興味はないが、奈月が言うその速い球とやらには興味があった。
(いやいやいや。流石に陽菜でもあんな速い球は無理だと思うけど……)
喜美は心の中で訂正を入れるが、空気を読んで口には出さずにいた。
「はい!秋月陽菜ちゃんっていう私達と同じ一年生なんですけど……」
「面白いですわ」
奈月の言葉を遮り、雅はニヤリと不敵に笑って見せる。
「では、その方が投げる球を一度拝見させて頂けないかしら?」
「はい!でしたら放課後、河川敷に来て下さい!そこで私達は練習していますから!」
「分かりましたわ。では、そのお時間にお伺いさせて頂きます」
それでは失礼致しますわ、と最後まで礼儀正しく挨拶を残すと、雅は髪をかきあげて、今度は他のクラスメイトにテニスを教えていく。なんだかんだで面倒見がいいタイプのようだ。
「やったじゃない奈月!もしかしたら風見さん、女子野球部に入ってくれるかもよ⁉」
「はい!そうなってくれたら嬉しいです!」
二人は両手でハイタッチを交わすと、早く放課後にならないかと今からワクワクが止まらなかった。
そして時間は現在に戻り――放課後。
「……これは一体なにをしてますの?」
言われた通りに河川敷に来てみれば子供達と鬼ごっこをしている奈月達を半目で見つめながら、雅は呆れた口調で呟いた。
「あっ!風見さん!」
それに気づいた奈月が駆け寄ってくる。そのまま雅の両手を握り締めると、
「来てくれたんですね!嬉しいです!」
「ま、まぁ……約束でしたから……」
純度百パーセントの真っすぐな好意を向けられる事に慣れていない雅は、照れながら視線を逸らす。
「それより例の件ですけど」
「はい!陽菜ちゃ~ん、ちょっといいですか~」
鬼の形相で自分を貧乳呼ばわりした子供を追いかけていた陽菜が気づくと、捕まえられなかった事を悔しがりながらこちらへ歩いてきた。
「こちらが秋月陽菜ちゃん。私達のチームのピッチャーです」
「はじめまして。風見雅ですわ。よしなに」
「……秋月陽菜よ。それで奈月、この人は?」
よしなにってどういう意味かしら、と頭の上に『?』を浮かべながら陽菜が尋ねる。
「はい。実は風見さんが陽菜ちゃんのピッチングを見たいそうでして」
「私の……?」
意味が分からず怪訝そうに眉をひそめる陽菜に、雅が代わって自分から説明する。
「わたくし、自慢ではありませんが中学時代はテニスのシングルスで日本一になった事がありますの。けれどそのテニスのサーブよりも速い球を投げる方がいらっしゃると聞いて、お伺いした次第ですわ」
「ふみぃ⁉風見さんってテニスで日本一の人だったんですか⁉」
「ええ。あくまで中学生での話ですが」
「……それで?私の球を見てどうしたいの?」
「率直に申し上げれば、テニスよりも速い球が有るのなら見てみたい。そしてそれが私を燃えさせて下さるほどの物であるのなら、是非打ってみたいと思いましたの」
髪をかきあげながら自信に満ち溢れた立ち振る舞いで語った雅の言葉に、陽菜の眉が不機嫌そうにピクンと跳ね上がる。
どうやらこの素人は自分の球を打てると思っているらしい。
確かに奈月には打たれたが、彼女以外にそう何度も打たれるつもりはさらさらない。
プライドを刺激された陽菜の顔が、みるみる本気モードへと変わっていく。
「ふむふむ。なかなか面白そうな話をしてるじゃない」
「ふみぃ⁉せ、先生!いつの間にいたんですか⁉」
と、いつの間にか傍で話を立ち聞きしていた沙希が割って入ってきた。
「いいじゃない。投げてあげなさいよ、陽菜」
「私は始めからそのつもりです」
「なら話は決まりね。あっ、奈月。今回はあんたがキャッチャーをやってみなさい」
そう言って、とあるスポーツ用品店からパク……もとい。借りてきたキャッチャーミットとプロテクター一式を手渡す。
「えっ⁉私がですか⁉」
「大丈夫。陽菜はコントロールがいいから、あなたは構えてるだけでいいはずよ」
「で、でも……」
「女は度胸!なんでもやってみるものよ!」
自信なさげな奈月の背中をバシンと叩くと、じゃあ練習ついでに肩を作ってらっしゃいと二人を送り出す。
そして残った雅に振り向くと、
「えっと……風見さんだっけ?あなた、野球の経験は?」
「いえ。見た事ならありますが、嗜んだ事はありませんわ」
「そう。なら私がバットの振り方を教えてあげるわね。あっ、私は鶴川高校の教師で立花沙希。一応、女子野球部の顧問をやる予定になってるわ。よろしくね」
「風見雅ですわ。よしなに、立花先生」
「それじゃ、いっちょやってみますかー」
そう言うと沙希は金属バットを雅に手渡し、右手の親指を立ててみせた。
「それじゃいくわよ」
「は、はい!」
軽くキャッチボールを済ませた後、陽菜にプロテクターを着けるのを手伝ってもらった奈月は、新品の――だが手の大きさにぴったりのキャッチャーミットを目線より少し下のところで構えた。
ビュッ!
そこに目掛けて、陽菜の投げたボールが飛んでくる。
慣れない光景に奈月は少し驚きながらも、それをなんとか捕球してみせた。
(わっ!凄いです!本当に構えたところにボールが来ました!)
沙希の言う通り、陽菜のコントロールはかなり良かった。次々と投げ込まれてくる球も、ほとんどミットの位置を動かさないで捕球できてしまう。
「慣れてきたみたいだから少しずつ速くするわね」
そして奈月との勝負の前に肩を作っていた時と同じように、二キロずつ球速を上げていく陽菜。
それに対しても奈月は順調に対応していき、ついに最後の球――
バシーン!
百四十キロを越えるストレートが、快音を響かせて奈月のミットに収まった。
同時にそれを見ていた子供達から一斉に歓声が上がる。
「すげー!はえー!」
「お姉ちゃんすごーい!」
「やっぱ貧乳だと投げやす……ぐえっ!」
最後の一人は言葉を言い終える前に、猛スピードで飛んできたボールを太ももに受けて悶絶した。
「ごめん、手が滑ったわ」
((……絶対わざとだ……))
子供達は心の中で声を合わせ、とりあえず陽菜に対して貧乳と言うのは止めようと誓った。
「じゃあ次、変化球いくわよ」
「ふみっ⁉」
すっかり油断していたところに再び陽菜が投球動作に入ったのを見て、奈月は慌ててミットを構え直す。
今までと同じ投球フォーム。しかしその球の軌道は、奈月が構えた場所から真横へボール三つ分ほど外れていた。
コントロールミスかと思い、それに合わせようと奈月がミットを動かそうとした――その瞬間だった。
ストレートよりも少し遅いスピードで飛んできていた球は突然その進行方向を変え、真横へと空気のテーブルを滑るように曲がると、まるで意思を持つかのように奈月が始めから構えていた場所へと見事な着地を決めてみせた。
「す、凄いです陽菜ちゃん!ボールがギュン!って真横に曲がりました!」
「うん、今日は調子が良いわ。じゃあ次は縦ね」
「縦⁉」
なんの事かさっぱり分からなかったが、その意味を奈月は身をもってすぐに理解した。
これもストレートよりは遅い球速。だが今度は横ではなく、縦にボールが変化する『落ちる球』だったのだ。
コースも今までとは違い、構えていたところよりもさらに下へ向かう球を奈月は反射的にこのままでは捕球できないと判断すると、手首を回転させミットの向きを縦にし、下からすくうようにしてその球を捕まえてみせた。
「ナイスキャッチ」
無事捕球できて安堵の息をついていた奈月に向かって、陽菜がグローブを軽く叩き、ポンッと音を鳴らしながら言ってくる。
陽菜自身、まさか初見で自分の変化球を後ろへ逸らさず捕球できるとは思ってもいなかった。しかも内緒だが、コントロールをミスした球をである。
(やっぱり奈月の動体視力と反射神経はズバ抜けてるわね。先生もそれを見込んでキャッチャーをやらせたのだと思うけど)
なんにせよ捕手がしっかりしていなければ投手は力を出し切る事ができない。だが奈月が相棒ならその心配はなさそうだと陽菜は今の投球練習で確信した。
「じゃあサインを決めましょうか。とりあえず今はその場しのぎの簡単な物でいいから」
「サイン……。陽菜ちゃんの投げた球はストレートと横と縦に曲がる変化球でしたから、全部で三つでいいんですよね?」
「ええ、そうよ。ちなみに変化球は横スライダーと縦スライダーって名前ね」
「なるほど……。ではこういうのはどうでしょうか?グーがストレート。チョキが横スライダーで、パーが縦スライダー。それなら頭の悪い私でも覚えやすいですし」
奈月の提案に陽菜は頷く。
「それでいいわ。あとはリードもお願いね」
「そ、それは無理ですよ!私はキャッチャーをやるのなんて初めてですし、陽菜ちゃんの投げたい球を投げて下さい!」
「難しく考える必要はないわよ。もしバッターが奈月自身だったら、どこへどの球を投げられると打ち辛いか想像しながらサインを出せばいいだけ」
「ふみぃ……でも本当に、私なんかにできるでしょうか……」
「全国制覇を目指すならキャッチャーがリード出来なくてどうするの。安心しなさい、今日はどんなリードでも私は首を振らないから」
「わ、分かりました!自信は全然ありませんがやってみます!」
奈月が胸の前で拳を並べて作ってみせると、陽菜も「頼んだわよ」と自分も作った左拳でタッチするようにそれをポンっと叩いてみせる。
それはまるで信頼の証のようにも思えて、奈月は嬉しさのあまり、だらしなく顔を緩ませた。
そんな風に着々と急造バッテリーが完成へと近づいている一方で、沙希は雅にバッティングの指導を始めていた。
「まず打席は右と左に分かれてるんだけど、風見さんはどっちのほうが打ちやすそう?」
「そうですわね……やはりフォアハンドの方が力を込めてスイングできますわね」
両手で持ったバットをテニスラケットのように振りながら確認する雅。
「なら右打席ね。で、肝心のフォームなんだけど……」
そこまで言って沙希は少し考え込む。バッティングフォームというものは打者の数だけ存在すると言っても過言ではなく、仮にオーソドックスな構えを教えたとしてもそれが雅に合うとは限らない。
それに彼女は未経験者だ。ならばまずは型にはめるより、本人がやりやすい形でバットを振らせたほうがいいかもしれない。
「とりあえず向こうからまっすぐボールが来ると想定して、バットを振ってみてもらえる?」
「分かりましたわ」
雅は言われた通り沙希が指さした方向に体を正面に向けると、テニスで相手のサーブを待ち受ける時のように、腰を少し落として体のほぼ中心でバットを構える。そしてそのまま、フォアハンドのフォームで器用に振り抜いてみせた。
「OK。じゃあ顔の向きはそのままで、首から下だけを右へ九十度ずらしてみて」
沙希の指示に従うと、見た目は先程よりもずっと野球のフォームらしくなった。
そのままもう一度スイングすると、雅は何かを掴んだようで、
「なるほど。テニスよりもゴルフのスイングに近いのですわね」
納得したように頷き、そこから自分なりに考え、修正したフォームで三度目のバットを振る。
「お~、いいじゃない。流石はテニス界のチャンプ、筋がいいわね」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「じゃあ後は実際にボールを打ってみましょう。喜美、ボールと防球ネットを持ってきて」
言われた通りに喜美が走って一式を持ってくると、沙希は雅の立っている位置から歩数を数えながら歩き出す。
そしてちょうどバッターとピッチャーの対戦距離まで行くと「ここら辺かしらね」と地面の土に印を付け、そこへL字型の防球ネットを設置する。
「じゃあ実際に私がボールを投げるから打ってみてちょうだい」
「え⁉先生が投げるんですか⁉」
「まぁ初心者用の山なりボールだけどね」
それでも奈月が見たら間違いなく感激して泣くに違いない。そう思い幼馴染のほうに視線を向けるが、あちらはあちらで初めてのキャッチャー練習でそれどころではなさそうだった。
「じゃ、いくわよ~」
沙希はボールを持った右手を高く掲げて合図すると、慣れた動作でキャッチボールよりもさらに遅い、本当に初心者用のゆっくりな山なりの球を投げる。
それを雅は構えながらタイミングを計り、飛んでくるボールにバットを当てるイメージを頭の中で描きながら振り抜く。
カキーン!
真芯でボールを捉えることは出来なかったが、それでも十分に強い打球が地面を跳ねながら、沙希の前に設置された防球ネットへと当たった。
「お~!ナイスバッティング!初めてにしちゃ上出来よ」
褒められたが雅は納得がいっていないようで、しきりにバットを持つ位置などを変えたりしていた。
「やはりラケットやゴルフクラブとは勝手が違いますわね。けど、真芯に当てて打つというのは同じですわ」
頭の中でイメージと実際に自分が行ったスイングの違いを修正してから、雅は再び構える。
「もう一球お願いしますわ」
「はいよ」
そして二球目。
今度はゴロではなくライナー性の打球が防球ネットに突き刺さった。
打球が投手のいる正面に向かって飛ぶというのは、それだけバットがボールに当たった時のタイミングが合っているという証拠である。
さらに弾道が浮いたのは一回目よりもバットの真芯近くで捉えた証。
以上の事を踏まえれば、雅の修正が正解に近づいたのは間違いなかった。
「大体分かりましたわ。もう結構でしてよ」
「ん?もういいの?」
「ええ。あまり遅い球で打ち慣れてしまうと、あれは打てそうにありませんので」
言って雅は、投球練習を続ける陽菜へと顔を向けた。
そこではちょうどストレートの調整が終わったところで、自慢の速球が奈月のミットに吸い込まれていた。
「あ~……、私も肩を壊す前ならあのくらいの球は投げれたんだけどねぇ。喜美、あなた投げてみる?」
「あ、あたしだって無理ですよ!あんな球速、奈月しか出せませんって!」
だよね~と沙希が同意していると、どうやら変化球の確認も終わったようだ。
最後にサインの打ち合わせでもしてるのか、何やら奈月が陽菜の前で一人じゃんけんをしながら頷き合っている。
「よし、向こうも終わったみたいだしそろそろ始めますか」
沙希の言葉に、雅は力強く頷いてみせた。
「じゃあ一打席勝負。ただし風見さんは初心者なので、カウントがボールだった場合はストライクカウントを一つ減らすハンデを付けるわね」
「つまり0-1のカウントだった場合、次がボールだったら0-0の振り出しに戻るって事ですか?」
奈月の確認に沙希は「イグザクトリィ!」と立てた人差しを向けてきた。
「それぐらいはいいわよね、陽菜」
「私は構いません。初めから三球で終わらすつもりでしたから」
「わたくしもハンデなど結構ですわ」
「まぁまぁ。そう言わずに貰える物は貰っておきなさい」
雅のプライドを傷つけないように沙希がなだめると、渋々だがそれを承諾した。
「じゃあ……プレイボール!」
そして沙希の合図と同時に、ピッチャーマウンドとバッターボックスの間の空気が張り詰める。
奈月はその緊張感に呑み込まれないようにしながら、冷静に陽菜の言葉を思い出していた。
(えっと……もし自分がバッターだったら嫌なところ……)
少し考えてから、奈月はしゃがんだ両足の間に陽菜と決めたサインを出す。
そして蟹のような動きで身体を少し横へとずらし、投げて欲しいところへミットを構える。
それを見て陽菜は一つ頷くと、ワインドアップからの投球モーションに入った。
雅がバットを持つ両手に力を込め直す。
そして初球。バッテリーが選択したのは内角高めへのストレート。球は要求された場所へ、寸分の狂いもなく百四十キロを超える速さで疾り抜けて行った。
スパーン!
「ストラーイク!」
白球がミットに収まる音に続いて、奈月の後ろで球審を務める沙希が判定を告げる。
「ほらほら、バットは振らないと当たらないわよ」
「わ、分かっていますわ」
ヘルメットの位置を直し、雅が再び構える。
正直に言えば振らなかったのではなく、振れなかったのだ。
陽菜の球は遠目で見るのと実際打席に立って見るのでは全くの別物で、自分の顔近くに迫り来るそのスピードと迫力に思わず腰が引けてしまったのだ。
続く二球目。今度は外角、しかも初球の対角線上である低めへのコースへ。
「くっ……!」
初球のイメージを強烈に焼きつけられた雅には、それはとても遠くに感じられた。それでもなんとか球に喰らいつこうと体を泳がせながら腕を伸ばしてバットを振るが、虚しく空を切ったのはワンテンポどころか奈月のミットにボールが収まってからであった。
「ストライク・ツー!」
完全な振り遅れに、雅は呆然と奈月のミットの中にある球を見つめていた。
(速いとは思っていましたが……まさかこれほどとは……)
そもそも野球はテニスのサーブと違い、ボールを投げる側と打ち返す側の距離が五メートルほど近い。
さらに球速にも差がある。陽菜が投げる百四十キロの球に対し、テニスのサーブはアマチュアの女子で平均九十キロと言われている。
雅をコーチしてくれていた人でも精々百二十キロ程度だ。この二つの要素が生み出す大きな差に、雅が戸惑うのも無理はなかった。
(けれど……わたくしにも意地がありましてよ!)
こちらは中学の女子テニスを極めてきた上に、自ら勝負を申し込んだのだ。
そこに賭けた誇りは、決して安い物などではない。
再び両目に闘志を宿し、雅が構える。
その様子を後ろから観察しながら、奈月は陽菜にサインを送った。
マウンド上でそのサインを受け取った陽菜は、グローブで隠していた口元を思わず緩めた。
それは、彼女も次に投げるとすればこれだと思っていた球であった。
陽菜が三振を狙いにいく時、決め球としていた縦のスライダー。
しかし、それは中学のあの試合――最後に投げ損ねた忌まわしい球でもあった。
だからどうしても投げる前にはあの時の記憶が脳裏をちらつく。先程の投球練習でも、唯一この球だけが狙ったところへと投げれなかったのはそのせいだ。
だが、それでも奈月はしっかりとキャッチしてくれた。
(大丈夫……私はもうこの球を恐れずに投げられる……)
この球ならば雅を打ち取れる。そう奈月が信頼して出してくれたサインだ。その信頼に、私も応えたい。
陽菜もまた両目に闘志を宿すと、大きく振りかぶり――勝負の一球を投じた。
(先程よりも少し遅い……!これなら……!)
一か八かで早めにスイングを開始していた雅は、バットに当てられるイメージを頭の中で描きながら球を捉えに行く。
だが、彼女のバットがイメージ通りに球を捉えたと思われた瞬間――
スッ……
まるで手品のように、そこにあったはずの球は姿を消し、雅には見えなくなっていた。
そして、目標を見失ったバットがまたしても空を切る。
スパーン!
バットに球が当たる音の代わりに聞こえてきたのは、白球がキャッチャーミットに収まる音。
空振りした姿勢のまま雅がゆっくり振り返ると、そこにはバットが通過した高さよりも遥か下で捕球している奈月の姿があった。
「ストライーク!バッターアウト!」
沙希が雅の敗北を宣言する。それを外から眺めていた喜美は、
「うわぁ~……初心者相手に変化球とかえげつな~……」
「それは違うわよ、喜美。獅子は兎を狩る時も全力を尽くすものなの」
ドン引きしながら呟いた言葉をしっかり聞いていた陽菜が、マウンドを降りながら言ってきた。
「もっとも、今はまだ兎でもこの先は別の何かに化けるかもしれないけどね」
手を抜くのは真剣勝負を望む雅に対して失礼という想いもあったが、それ以上に今の対戦で雅が秘める可能性を陽菜は感じとっていた。故に手を抜かなかった。
その事を雅の横を通り過ぎながら伝えると、奈月とハイタッチを交わす。
「フフ……。わたくしの完敗ですわね……」
前へ崩れそうになっていた体をバットで支え、顔をうつむかせたまま自嘲の笑みを浮かべ雅が言う。
文句のつけようがないほどの完敗だ。もはや笑うしかなかった。
「……秋月さん。高校女子野球には貴方のような投手が他にもいらっしゃるのかしら?」
「ええ。私なんかよりも優れた投手なんて、全国を探せばいくらでもいるはずよ」
「そう……ですの」
「あ、あの風見さん……。本当の野球はもっと楽しいものでして、風見さんも練習すればきっとその楽しさが分かると……」
すっかり消沈したように見えた雅に対し、奈月が慌ててフォローを入れるが、
「フフフ……面白い!女子野球、実に面白そうですわ!」
勝手に復活した雅は、これまた勝手に目を輝かせて一人で盛り上がる。
「是が非でも極めてみたくなりましたわ、この女子野球という世界を。ですので南さん!」
「は、はい!」
「わたくしもお仲間に加えていただけませんかしら?」
「えっ……それって…」
「ええ、この風見雅。今日この時を持ちまして女子野球部へ入部させていただきますわ」
「ほ、本当ですか⁉」
ヤッター!と同時に万歳をしてから奈月と喜美は抱き合い、その場でぴょんぴょん跳ねながら喜びを爆発させる。
その様子を陽菜は、自分も加わりたそうな目で眺めていた。
「あっ……。でもいいんですか?風見さんは団体競技には興味なかったんじゃ……」
「確かに野球はチームスポーツですが、投手と打者の勝負に関しては個人スポーツのようなものですわ。それに興味がなかったのは先程までのわたくしですし、何も問題ありませんわ」
「都合のいい解釈ね……」
喜美は苦笑するが、なんにせよちゃんと野球に興味を持って入部してくれるのは嬉しかった。
「ところでずっと気になっていましたのですけど、部員はまだこれだけですの?」
「はい……。でも風見さんで四人目ですから、あと一人で創部の申請は出来るようになります!」
なるほど……と雅は腕を組みながら女子野球部の現状を把握すると、
「では微力ながら、わたくしも部員集めに協力いたしましょう」
そう言って、指をパチンと鳴らす。
すると彼女の背後――誰もいなかったはずのその場所に、雅よりも少し年上のメイド服を着た女性が音もなく現れた。
「ふみぃ⁉」
驚いた奈月が思わず隣の喜美に抱きつく。その様子を陽菜はやはり羨ましそうな視線で眺めていた。
「わたくしの専属使用人で望月ですわ。望月、皆様に挨拶を」
「望月千代です。お見知りおきを」
まるで忍者のように現れ、必要最低限の気配しか感じさせないメイド――望月千代の挨拶に、奈月達は「あっ、はい」と答えるしかなかった。
「望月。鶴川高校で野球経験の有る女子生徒をリストアップなさい。期限は三日以内にまで。可能かしら?」
「ご命令とあらば」
「では頼みましたわ」
「畏まりました。お嬢様」
千代は主人に対し、一切の無駄のない動きで礼儀正しく頭を下げると、登場時と同じく、音もなく一瞬でその場から姿を消した。
「わたくしも今日のところはこれで失礼させていただきますわ。では皆様、明日からご指導のほどよろしくお願いいたしますわね」
縦ロールの銀髪をかきあげ、その場に似合わぬ優雅さで去っていく雅に、ポカーンと口を開いたままの一同はもう一度「あっ、はい」と答えるしかなかった。
【続く】
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