第4話 もう一度、あの頃の野球を
第四章 もう一度、あの頃の野球を
「お待たせ~。いや~、男子野球部に事情を説明するのに手間取っちゃってごめんなさいね~」
全く悪びれた様子のない軽い口調で謝りながら、ジャージ姿に着替えた沙希が大きな籠を二つ、両手に抱えて校庭に現れた。
その彼女に体操着に着替えるように言われ、すでに校庭の隅で待っていた奈月、陽菜、喜美の三人は、何事かと地面に置かれた籠を覗き込む。
そこにはグローブやヘルメット、キャッチャーのプロテクターなどの野球道具が入っていた。恐らく男子野球部から借りてきたのだろう。
「グラウンドもランニングが終わるまでなら自由に使っていいってさ。けど時間は余りないからさっさと始めるわよ」
「あの……先生。始めるって一体何を……?」
いまいち状況が掴めてない奈月が、恐る恐る右手を挙げながら質問する。
すると沙希はきょとんとした顔で、
「何って……言ったでしょ?タイマン勝負だって。あなたと秋月さんで勝負するの。OK?」
「そ、そんな!私、喧嘩とかそういうのはした事ないですよ⁉」
「……誰が本気で拳で語り合えって言ってるのよ。野球で勝負に決まってるでしょ」
喜美に頭をポカンと軽く叩かれ、奈月が「ふみぃ……」と鳴いた。
「グローブは男子用のだから少し大きいかもしれないけど、まぁ投げるだけなら問題ないでしょ?」
そう言って沙希はサウスポー用のグローブを陽菜へ投げて渡す。反射的にそれを受け取った陽菜だが、
「……私はそんな勝負をするなんて一言も言っていませんが?」
「着替えまでしてるのに今さら何を言ってるの」
「こ、これは先生が無理やり……!」
「じゃあこうしましょう。もしあなたが勝ったら、私達は二度とあなたに関わらないと誓うわ。その代わり奈月が勝ったら入部の件、考え直してくれないかしら?」
「…………」
悪い条件ではなかった。
陽菜は中学時代、強豪校に名を連ねる数多の実力者達と互角以上に渡り合ってきたのだ。その自分が名前も聞いたこともないような打者に負ける気など微塵もしない。
ならばさっさとこの勝負を終わらせ、再び平穏な高校生活に戻るのが最善の選択だろう。
「分かりました。その条件、忘れないで下さい」
「ええ、もちろん」
念を押してくる陽菜に、沙希は不敵な笑みを浮かべながら頷いてみせる。
「あっ、ボールはちゃんと知り合いのところから女子野球用のをパク……借りてきたから心配しないでいいわよ」
そう言って、籠の中から新品のボールを三つ取り出す沙希。
どこかのスポーツ用品店で店番をしている眼鏡の女性がくしゃみをした気がするが、気のせいだろうと沙希は決め込んだ。
「じゃあアップを始めましょ。キャッチャーと審判は私がやるから、秋月さんと組むわね。そっちもしっかり準備しときなさいよ」
言うが早いか、沙希は陽菜を連れてマウンドへと向かって歩いて行ってしまう。
奈月も慌てて布袋から愛用のバットを取り出すと、喜美にストレッチを手伝ってもらってから素振りを始めた。
そのスイングの音を聞いて、沙希とキャッチボールを始めていた陽菜が思わずそちらへと顔を向ける。
「おっ、あれに気づくとは流石ね。どう?なかなか良いスイングをしてるでしょ?」
なかなかどころなものか。あんなスピードでバットを振り抜く打者など中学の全国大会でも見た事がない。もちろん自分がいたチームにもいなかった。
あれほどのスイングが出来る打者なら中学時代に活躍していそうだったし、仮に全国大会に出場していなくても噂くらいは聞こえてきそうなものだが……
「ちょっとは興味を持ってくれたかしら?まぁ見ての通り、舐めてかかると痛い目にあうわよ?」
「……最初から手を抜くつもりはありません」
そうは言うが、明らかに奈月を意識した力のこもったボールが沙希のグローブに返ってくる。
「もうキャッチボールは結構です。投球練習へ移りたいので座ってもらえますか」
「ん?もういいの?」
「私は十球あれば肩を作れますから」
それなら、と言われるまま沙希はその場に腰を下ろすと、キャッチャーミットを正面に構えた。
それを確認してから、陽菜が投球動作に入る。
両手を大きく振りかぶり、続けて持ち上げた右足に勢いをつけて地面を力一杯踏み込ませ、全身の力が伝わった左手からボールを放つ。
スパーン!
次の瞬間、心地よい快音と共に、沙希の構えたキャッチャーミットの中にボールが収まっていた。
「す……凄いです!凄いですよ喜美ちゃん!秋月さんの投げる球、とっても速いです!」
「ありゃ百二十キロは出てるわね……流石は中学No1ピッチャーってところかしら……」
しかし二人の驚きはそれで終わらなかった。
スパーン!スパーン‼
(……良いコントロールね。構えところとほぼ同じところにボールが来てる。けど、それ以上に……)
スパーンッ‼スパーンッッ‼
実際に球を受けている沙希が最も驚きを隠せなかったのは、その球速であった。
女子プロ野球では投手の平均球速は百三十キロ代。百四十以上出せれば速球派と呼ばれ、百五十を超える投手ともなればプロでも右手で数えられるほどしかいない。
陽菜の一球目は、喜美の見立て通り百二十キロちょうどくらいであっただろう。入学したばかりの高校一年生で、コントロールと合わせてこれだけ出せれば十分すぎる。
――そう。それだけも十分驚愕に値するというのに。
スパーンッッッ‼スパーンッッッッ‼
陽菜の真価は、まだ終わりではなかった。
スパーンッッッッッ‼スパーンッッッッッッ‼
陽菜の投げる球がキャッチャーミットに突き刺さる度、音が迫力を増していく。それに比例して球速も。
始めは気のせいかと思ったが間違いない。彼女は一球ごとに、狙って二キロずつスピードを上乗せしてきているのだ。
「ラスト、いきます」
そして最後の一球――
スパーッッンッッッッッッ‼
キャッチャーミットを突き破るのではないかとさえ思わせる轟音は、確実に百四十キロを超えていた。
「いやいやいや……プロの選手ですか、あの子は……」
動揺を隠せない喜美は冷や汗を垂らしながら頬を引きつらせるしかなかった。母校のチームを全国大会準優勝まで導いたエースは伊達ではないと思っていたが、まさかこれほどとは誰が想像できただろうか。
(ごめん奈月……こりゃ早まったかもしれないわ)
沙希でさえ、そう思わざるを得なかった。
しかし――そんな絶望感が漂う空気の中でただ一人。
「凄いです!早くあの球を打ってみたいです!」
奈月だけが、恐れを知らぬ子供のように目をキラキラと輝かせていた。
自分の球を見せつけても怯まない奈月に陽菜は一瞬ムッとした顔をみせたが、打席で黙らせればいいと気持ちを切り替える。
そして一度グローブを外すと、試合で投げる時と同じように長い黒髪を三つ編みに束ねていった。
「じゃあサインは私が出すと八百長を疑われそうだから、好きな球を投げていいわよ。その代わりボールを受ける私にだけ変化球の持ち球を教えておいてくれる?」
奈月達には見えないよう、きちんとグローブで陽菜の口元を隠しながら沙希が尋ねてくる。
しかし陽菜は受け取ったボールを、立てた人差し指の上で器用に回転させながら自分のグローブへ移すと、
「変化球は必要ありません。ストレートだけで十分です」
「あら?手を抜くつもりはなかったんじゃないの?」
「もちろん手を抜くつもりはありません。その上で、ストレートだけで十分と言っているんです」
奈月のスイングを見た上で、それでも自分のストレートは打てないと言い切る傲慢さ。
沙希も同じ投手だったから分かる。こういう負けん気の強さ、誇り高さこそが、投手には何よりも必要な素質なのだと。
「分かったわ。でも、それを負けた時の言い訳にするのはなしよ」
「負けません」
『しない』ではなく、『負けない』とはっきり言い切った陽菜を沙希はさらに気に入ったようで、心底楽しそうに腹を抱えながら笑いだすと、彼女の肩をバシバシと叩く。
「いや~いい!いいわねあなた!ますます女子野球部に欲しくなったわ!」
「だから私は女子野球部には……」
「けど、そんなに肩に力が入ってたら野球は楽しめないわよ」
最後に沙希はグローブを付けたままの左手で陽菜の心臓の上を軽く叩くと、言いたい事だけ言い残して守備についてしまった。
(今さら野球を楽しむ必要なんてない……これが私の最後のマウンドなんだから……)
沙希の言葉を消し去るようにかぶりを振ると、陽菜はピッチャーマウンドの上に立った。
そして、足場を慣らしながら状態を確認すると、顔を上げ、右バッターボックスに入った奈月を睨みつける。
「それじゃ一打席勝負。ヒット性の当たりなら奈月の勝ち。それ以外なら秋月さんの勝ち。お互いそれでいいわね」
「『はい』!」
奈月と陽菜が同時に返事をする。それを合図に沙希は右手を挙げた。
「じゃあ……プレイボール!」
この日、陽菜が投げた球は全部で十球。
だが、そのたった十球が自分の運命を。鶴川女子野球部の未来を大きく変える事になるとは。
この時はまだ、想像すらしていなかった。
陽菜が腕を後ろに引き、頭上で高く振りかぶるワインドアップの投球モーションに入る。
それに合わせ、奈月も左足を上げ、一本足の構えでタイミングを計り始める。
一塁線の外側で喜美が固唾を飲んで見守る一球目。それが陽菜の左腕から放たれた。
スパーンッ!
「ストラーイク!」
奈月が立つ位置から見て最も遠い外角低め。縦長の長方形に区切られたストライクゾーンの左下ギリギリを通過していく球に奈月のバットは空を切った。
「ナイスボールよ、秋月さん」
「ちょ、ちょっと先生!どっちの味方なんですか⁉」
「審判だから中立に決まってるでしょ。でもキャッチャー的には秋月さんの味方かしら」
(ダメだこの人……誰よりも今の状況を一番楽しんでる……)
うきうきしながら再びキャッチャーミットを構える顧問(予定)を見て、喜美は頭を抱えた。
そして二球目。
スパーンッ!
今度は奈月の目の前を通過する内角高め。先程とは対角線上のコースへ放り込まれた球に、今度は奈月のバットは動かなかった。
「ん~……ちょっとだけ高めに外れてるかしらね」
「ボールです」
判定に迷う沙希の言葉を陽菜が肯定する。
「じゃあボールで」
カウント1-1ね、と二人に確認させながら沙希は返球する。
それを受け取り、陽菜は一つ小さく息を吐いた。
(あの子、体が小さいから投げにくいわね……)
ストライクゾーンとは打者の体格によって大きさが決まる。大雑把に言ってしまえば、高さはバッターの肩の辺りから膝の間までとなるのが一般的だ。
奈月のように小柄な打者の場合、その高さも当然低く、そして狭くなる。今の二球目も喜美が打者だったならストライクであっただろう。
「今の、よく見送ったわね」
「あはは……実は手が出なかっただけです……」
沙希へは振り向かないまま、奈月は陽菜を見据えて苦笑いを浮かべる。
外から内。加えて対角線上の配球。セオリー通りだが、だからこそ効果も有る。
これだけストライクゾーンを限界まで広く使われれば、奈月はこの長方形の範囲のどこへ次の球が来るか絞れず、大いに迷っているはずだ。
(私ならもう一球インコースに投げるかしらね……)
その上で沙希はそう予想したが、陽菜が選択したのは――
(ド真ん中⁉)
これには奈月も意表を突かれたのだろう。出遅れたバットは再び空を切った。
(おいおい……ここでこれを投げれるなんてどんな心臓してるのよ……)
失投ではない。明らかに狙って、陽菜はそこへ力ある球を投げ込んできた。
打たれればヒットにされる可能性が最も高いそのコースに、だ。
だが結果は陽菜の狙い通り、奈月の空振り。いくらスイングが凄かろうがバットに当たらなければどうという事はないと言わんばかりの強気の投球には、沙希も思わず舌を巻いた。
「す、すみません!ちょっとタイムをいいですか!」
ここで流石に奈月が待ったをかけ、一度バッターボックスから外れる。
「こう……違います……もっと速かったからこう……こう……?」
すると、ぶつぶつ独りごちながら、何度も素振りを繰り返して何かを確かめようとし始めた。
「奈月……」
その様子を離れた場所から見守るしかない喜美は、歯がゆそうに拳を握りしめた。
奈月が集中しようとしてる今、下手に声をかけるのは逆効果だろう。そもそも陽菜の攻略法を思い浮かばない自分にアドバイス出来る事など一つもない。
(頑張れ……!頑張れ奈月……!)
出来たのは心の中で応援を送る事。それが少しでも幼馴染の力になると信じて。
「……そろそろいい?」
カップラーメンが作れそうな時間が経過してもまだ続けていたので、見かねた陽菜が立てた人差し指の上で球を回転させながら声をかける。
「あっ、はい!お待たせして申し訳ありませんでした!」
奈月は我に返ると、慌ててバッターボックスに戻った。
「じゃあプレイ再開!」
沙希の言葉を合図に、奈月が構え、陽菜が投球動作に入る。
(難しく考えちゃダメです……いつも通り……とにかく来た球を打ち返すつもりで……!)
バットに力を込め、握り直す。
そして放たれた四球目は初球と同じ外角。だがコースは低めではなく高め一杯。
投げた陽菜にも手応えがあった。この球は――あの子では打てない。
――しかし――
キィン
微かな金属音を残し、球は背後に腰を降ろしている沙希の右斜め後ろへ飛んで行った。
「ファールね。カウントは1-2のまま」
立ち上がった沙希が拾った球の状態を確かめてから陽菜に投げる。
それを陽菜は変わらぬ表情でグローブに受けるが、その内心は穏やかではなかった。
(当てられた……?手応えのあった今のボールに……?)
それは中学時代でもあまり経験のない事であった。
陽菜が投げた瞬間に手応えを感じたら、まず高確率で空振りを取れた。
もちろん例外は有る。有るが、それは自分と打者のレベルが同じか、もしくはそれ以上の強打者だった場合のみだ。
(あの子が……それほどの打者だっていうの?)
そこまで考えて、陽菜は小さくかぶりを振った。
有り得ない。そんな事は有り得ないのだ。
自分は全国大会というトップレベルの打者が集う環境で投げてきたのだ。そこで経験し、磨き上げた投球はいくらストレートだけとはいえ、こんな無名の子に打たれるはずがない。
(まぐれは……二度は続かない!)
気を取り直し、投じた五球目。
しかしこれも奈月は辛うじてバットに当て、ファールにしてみせた。
「まだ遅い……もっと速くバットを振り始めないと……」
再びぶつぶつと呟きながら構える奈月の姿を前に、そこで初めて陽菜が動揺を見せた。
あんなに小さかった奈月の体が、いつの間にか大きく見えてきているのだ。
そして陽菜は知っている。これは自分が打たれる予兆である、と。
故に奈月から放たれるこのプレッシャーに屈する訳にはいかなかった。
(まさか……こんな子が無名のまま埋もれていたなんてね……)
陽菜は自分に襲い来るプレッシャーを躱すでもなく、押し返すでもなく、『受け入れる』。
相手は今まで対戦した打者の中でも屈指の強打者と再認識し、奈月の放つプレッシャーを受け入れた上で打ち消し、彼女と同じ立場でマウンドに立つ。
自分では気づかなかったが、いつの間にか陽菜の口端には笑みが零れていた。
強打者と対峙した投手としての本能が、陽菜の全身を悦びで武者震いさせていく。
(ああ……そうだ。私はこういう凄い打者と対戦したくて、投手を選んだんだ)
肌をひりつかせるほどに張り詰めた空気が心地良い。そして、この先に待つ勝利が何よりにも勝る美酒であると陽菜は知っている。
だから負ける訳にはいかない。負けてなどやらない。
六球……七球……八球……さらにギアを上げていく陽菜のピッチングに、それでも奈月は喰らいついてきた。
そして九球目――
カキン!
今までとは違うバットの音。それはボテボテに転がったゴロのファールではあったが、初めて打球が奈月よりも前へ転がっていた。
「い、いけるわよ奈月!タイミングが合ってきてる!」
喜美が興奮して思わず声援を送るが、その声は奈月には。そして陽菜にも聞こえていなかった。
それ程までに二人は集中力を極限まで高めきっていた。
だが、その並外れた集中力も限界を迎えようとしている。
まだ九球しか投げていないのに、陽菜の息は乱れていた。一度間を外し、額の汗を拭う。
それは奈月も同じで、こちらは構えを解かぬまま息を整えようとしていた。
(これは次で決まるわね……)
二人の状態から悟った沙希は、その結末を見逃さないよう己に気合を入れ直してキャッチャーミットを構え直した。
そして――運命の十球目。
陽菜の左腕から放たれたのは今までで一番速く、打者から見て加速してくるように感じられるノビの有る渾身のストレート。
コースはほぼど真ん中。小手先の投球では奈月は打ち取れないと感じた故に、己が持つ全ての力を一球に込めた最高のボールだった。
これに対し、今までと同じタイミングで振りに行った奈月のバットは当然遅れていた。
このままでは陽菜の投げた球が先にストライクゾーンを通過し、バットは目標を捉えられずに空を切る。そう沙希が感じた瞬間だった。
「ふううぅぅぅぅ~~!」
スイング中のバットが加速していく。奈月が込めた気合に応えるように。
この一球に全身全霊を賭けていたのは陽菜だけではない。奈月だって同じであった。
己の内に残る力を一欠けらも残さず出し切ったスイングはさらに速さを増し、ついに陽菜の球に追いつき――捉えた。
「みいいいぃぃぃぃぃぃッッッ‼」
バットの真芯に球が当たった手応え。それを感じ取りながら、奈月はフルスイングで振り抜く!
カキーーンッッ!
金属音とは思えぬ美しい音色を響かせ、バットから打ち返された白球が陽菜の頭上へ――さらに高く舞い上がり、遥か彼方まで飛んでいく。
打球の角度。スピード。それらを見ただけで陽菜には結果が分かってしまった。
だから背後は振り返らず、驚きで見開いていた目をゆっくりと閉じていく。その直後、校庭と校舎とを遮る金網に打球が突き刺さる音が聞こえてきた。
(あれを打たれた……か……)
文句のつけようがない完璧なホームランであった。打たれた悔しさはもちろんあるが、けれどそれ以上にどこか清々しい気持ちであった。
あの日……全国大会決勝の最後とは違い、失投ではなく全力を出し切って打たれたのだ。
悔しいが、悔いはない。
「す、凄いです!球がビュンッ!って加速してグンッ!て伸びてきました!あんな凄い球を見たのは初めてです!やっぱり秋月さんは凄いピッチャーだったんですね!」
感傷に浸っていた陽菜を、興奮しまくっている奈月の声が現実に引き戻した。
いつの間にかバットを両手で握りしめたまま自分の目の前まで走って来ており、その猪突猛進な勢いに思わず陽菜はたじろぐ。
「もう一回!もう一回やりましょう!お願いします秋月さん!」
そして何故か勝者から泣きのもう一回発言。
悪気は一切ないのだろうが、敗者を前に勝者がはしゃぐ姿に陽菜は軽くイラっとしていた。
「……勝負はあなたの勝ち。だったらもうやる意味はないでしょ」
そのため奈月から視線を外し、少しきつめの口調で言ってしまう。
しかし奈月は意味が分からないといった、きょとんとした顔で、
「だって、もの凄く楽しかったじゃないですか。秋月さんは……今の勝負、楽しくなかったですか?」
奈月の言葉に、陽菜はハッとしながら視線を彼女へと戻した。
そして思い出す。今の奈月との勝負を。その最中、確かに自分は楽しんでいた事を。
チームの勝敗を背負う訳でなく。
チームの想いを背負う訳でもなく。
ただ一人の投手として、相手をねじ伏せる事だけを考えて投げたのなんていつ以来だろうか。
――それは忘れていた野球への気持ち。どうして自分が野球を始め、続けていたかの原点。
(そうだ……野球を始めた頃の私は……ただボールを投げる事が楽しくて……)
それがいつの間にか多くの物を背負ってしまい、押しつぶされ、結果……今の自分がいる。
「……楽しかった……」
ポツリ……と陽菜が呟く。
「楽しかったわよ!けどやっぱり私は……それ以上に野球が怖い……もうあんな想いをするのは嫌なの……!」
「秋月さん……」
やはり野球が好きだという感情と、知ってしまった野球の怖さを忘れられない二つ感情が混ざり合い、制御できなくなった己の気持ちを吐き出し、奈月にぶつける。
奈月にとっては自分の過去などどうでもいいはずである。ただ女子野球部の戦力としか見られていないと陽菜は思っていた。
だからこんな事を彼女に言ったところでなんの意味も成さない。
そう、思っていた。
けれど――
「私はまだ試合をした事がないので、秋月さんが言う野球が怖いという気持ちが分かりません……。でも誰かと一緒にやる野球は楽しいものだっていうのは喜美ちゃんが。今も秋月さんが教えてくれました」
だから、奈月は言葉を紡ぐ。
「私と秋月さんと喜美ちゃん。それに立花先生も一緒に野球をすれば、恐さなんて忘れてしまえるほど、きっともっと楽しくなると思うんです。
例え試合で負けてしまっても、楽しかったとみんなで言えるような野球を……そんな楽しい野球を、私達と一緒にしませんか?」
「負けた試合でも……楽しかったと言える野球……」
差し出された奈月の右手を見つめながら、その言葉を胸の中でもう一度繰り返す。
そうだ……いつからそんな事すら忘れてしまっていたのだろう……
試合で勝つのが当たり前になって。
試合に勝つ事だけが目的になっていて。
本当はただ、みんなで野球を楽しんでいたいだけのはずだったのに……
(そうか……私はきっと、あの時もそう言ってほしかっただけだったんだ……)
慰めの言葉でも、同情の言葉でもない。ましてや自分が望んでいた罵りの言葉でもない。
一緒に野球がやれて楽しかった。
ただ、仲間達にそう言って欲しかっただけなのだと。
奈月の言葉が光となって、陽菜の心を覆っていた暗闇を晴らしていく。
それはまるで、道に迷い昇り方を忘れた太陽を導く月の明かりの様に。
とても優しく、とても心地よかった。
「みんなで楽しむ野球……か。……そうね。あなたとなら多分……ううん、きっとそんな野球が出来る気がするわ」
差し伸べられた奈月の手を握り返し、陽菜は静かに微笑む。
もう一度信じてみよう。
野球が好きだった自分を。純粋に野球を楽しんでいた自分を。
彼女となら、それが出来るのだと。
「どこまで期待に応えられるかは分からないけど、これからよろしくね。ええと…」
「奈月です!南奈月です!こちらこそよろしくお願いします、秋月さん!」
「陽菜でいいわ。その代わり私も奈月って呼ぶから」
「はい!陽菜さん!」
「……陽菜」
「ひ、陽菜ちゃん……?」
「陽菜」
「ひひ、ひひひ……ひ…な……ひな…ちゃん……」
なぜ呼び捨てにするだけでそこまで困る必要があるのか。
奈月がそういう子なのだとはまだ理解できていない陽菜はため息をついた。
「もうそれでいいわ。とにかくよろしくね、奈月」
「はい!陽菜ちゃん!」
その様子を少し離れた場所から見守っていた沙希は満足気にうんうんと頷き、
「よっしゃ!エースの一本釣り成功ね!」
「先生……せっかく良い雰囲気なんですから、ブチ壊すような発言は控えて下さい……」
こちらはこちらで、喜美が深いため息をついていた。
だが、沙希がそう言いたくなる気持ちも分からなくもない。
試合において勝敗を大きく左右する事になる、絶対的なエース投手。
そこに秋月陽菜が加わったのは、間違いなく鶴川女子野球部にとって大きな一歩であった。
けれど陽菜には、入部届を出す前に解決しておかなければならない問題がもう一つあった。
母親の許可である。
我儘を言って女子野球の強豪校である埼玉の浦和学園中等部に寮生活の費用まで出してもらって通わせてもらっていたのに、それをまた自分の我儘でリタイアし、実家へと戻ってきた。
けれど母親は何も言わず、ただ優しく傷ついていた陽菜を迎え入れてくれた。
なのに今さらまた野球をやりたいなど言えるはずがない。それに野球道具を再び揃えるとなると、それだけでも結構な額になってしまう問題もあった。
ただでさえ父親を交通事故でなくし、女手一つで自分を育ててくれているのだ。金銭的にもこれ以上の苦労と迷惑をかけるのは、流石に心苦しかった。
「ただいま~」
そんな事を考えているうちに、帰宅を知らせる母親の声で陽菜は我に返った。
同時に自分が料理中であった事も思い出す。慌てて経過を確認するが、どうやら大丈夫そうだと一安心する。
「お、お帰りなさい……お母さん」
「ん~、いい匂い。今日は肉じゃがかしら?」
「うん。すぐに出来るから」
「やったぁ♪お母さん、陽菜の肉じゃが大好き♪」
「なによそれ……お母さんに教わった通りのレシピなんだから味は違わないでしょ?」
「違うわよぉ。隠し味に陽菜の愛情がたっぷり入ってるものぉ♪」
そう言うと母親は陽菜に抱きつき、頬ずりしてきた。
「ちょ、ちょっとお母さん!やめてってば!」
恥ずかしくて慌てて引き剥がす陽菜。すると母親は露骨に肩をがっくりさせ、
「陽菜に嫌われた……お母さんもう生きていけない……」
(もう……面倒くさいな、この人は……)
心の中ではそう思っても、陽菜は決して悪い気はしていなかった。
それは一つ一つの言動に、確かな母親の愛情を感じるから。……感じさせすぎな気もするが。
「それより陽菜、なにか良い事でもあった?」
「えっ⁉ど、どうして⁉」
「ん~……いつもより七十五陽菜くらい元気な気がするのよね」
七十五陽菜ってなんだ。というか一陽菜はどんな単位なんだ。
それはともかく流石は母親、鋭い。陽菜はなんとか平静さを装いながら、
「き、気のせいよ。それより早く着替えてきちゃえば?」
「そうね、そうするわ。ふんふふ~ん♪今日は陽菜のにっくじゃが~♪」
鼻歌を歌いながら自分の部屋に入っていく母親の姿を見届けてから、陽菜はこっそりとため息をついた。
「あ、あのね……お母さん……」
「ん?どうしたの?急に改まって」
夕食が済んだ後、陽菜は意を決して女子野球部の話をしようとしたが……
「う、ううん……やっぱりなんでもない……」
「なによ~、気になるじゃない」
「ほ、ほんとに大した事じゃないから!食器、片づけちゃうね!」
結局は言い出せず、逃げるように後片付けを始めるだけであった。
(このままじゃいけない……やっぱりちゃんと言わないと……)
皿を洗いながら、居間でテレビを見ている母親を肩越しに確認する。
(これを洗い終わったら言おう。絶対に言う……私なら言える……絶対言える……)
最後の方はもはや自己暗示のように己に強く言い聞かせる。
そして最後の皿を拭き終わったところで、陽菜は一つ大きく深呼吸をしてから両手で握り拳を作り意を固めると、ついに行動へ移した。
「あ、あのねお母さん!ちょっと話があるの!」
そして振り向くが……居間にいたはずの母親はテレビを付けたまま、いつの間にか姿を消していた。
肩透かしにあったのと、言わずに済んだ安堵で陽菜はまた大きな息をつく。
すると母親が自分の部屋から何やら大き目のダンボールを抱き抱えながら、こちらへ戻ってきた。
「お、お母さん……それ……なに?」
「陽菜への届け物よ。まぁ宛名は私になってたから勝手に一度、中を見ちゃったんだけどね」
開けてごらんなさい、と言われ、テーブルの上に置かれたダンボールを恐る恐る開封していく。
「! これ……⁉」
そこには野球のグローブとスパイクが入っていた。どちらもかなり使い古された物だ。
そして、その二つに陽菜は見覚えがあった。
「これ……私が中学の時に使ってたやつ……」
見間違えるはずがない。それは中学を卒業する時、もう自分には必要ないからと千紗と杏子にあげてしまったはずの物であった。
「なんで……これがここに……」
「一緒に入ってた私宛の手紙にはこう書いてあったわ。きっといつかまた陽菜が必要にする時がきますから、大事にとっておいてあげて下さいってね。名前は確か……早坂さんと牧さんだったかしら」
「千紗と……杏子が……」
そこで陽菜は、野球道具の下にも何か入っているのに気づいた。
最後の県大会で優勝した時に撮ったチームの集合写真と、一枚の色紙だ。それを陽菜は取り出す。
色紙には全国大会まで共に戦ったチームメイト、監督、コーチからの寄せ書きでびっしりと文字が埋め尽くされていた。
また一緒に野球をやろう。元気出せ。決勝戦でもっと援護してあげられなくてごめん。仲間達による思い思いの、けれど嘘偽りのない言葉。
その中でも最も目を惹いたのは、ど真ん中にでかでかと書かれた『一緒に野球をやれて楽しかった!』という、全員の気持ちを示した言葉であった。
「あ……」
陽菜の目から、涙が流れた。
同時に恥じる。なんて自分は愚かだったのだろうと。
誰も理解してくれないと自分で勝手に心を閉ざし、本当はこんなにも繋がっていたはずの、仲間達が差し伸べてくれていた手を自ら放し、裏切った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……みんな……」
今さら後悔したところで自己満足でしかない。いくら謝ったところで許してもらえるとも思わない。
それでも陽菜は……涙を溢れさせ、今はもう離れ離れになってしまった仲間達に謝り続けるしかなかった。
どれくらい泣いていただろうか。
嗚咽が徐々に小さくなっていき、陽菜が冷静さを取り戻しつつあった頃だった。
「陽菜。あなた、また野球がやりたくなったんでしょ?」
母親の言葉に、陽菜はゆっくりと驚かせた顔を上げた。
「なんで……それを……」
「分かるわよ。だって私は陽菜のお母さんだもの」
年甲斐もなく目元でVサインを横にしたポーズを決めてみるが、陽菜の反応は皆無であった。
「陽菜の前でスベった……お母さんもう死にたい……」
と両手で顔を覆い本当に今にも死にそうな声で言うが、「まぁそれは置いておいて」と切り替える。
「で、どうなの?」
問われて、陽菜はまたうつむいてしまう。
「うん……」
言うべき言葉を探す。伝えるべき気持ちを確かめる。
そして最後に陽菜の背中を後押ししたのは――奈月の笑顔だった。
「お母さん……私、また野球がしたいの……」
顔を上げ、真っすぐに母の目を見据えて言葉を紡いでいく。
「我儘を言ってるのは分かってる……そんな事を言える立場じゃない事も分かってる……」
「うん」
「でも……今の高校で一緒に野球をしようって言ってくれた子が……一緒に野球をしたいって思える子に出会えたの……」
「うん」
陽菜の言葉を、母も目を逸らさぬまま静かに頷きながら聞いていた。
「家事も今まで通り私が全部するし、お小遣いもいらない……だから……だからお願いします!私にもう一度、野球をやらせて下さい!」
「うん、いいわよー」
必死の嘆願に対して返ってきたのは、気が抜けるほど軽い返事であった。
「家事はしなくていいし、お小遣いも今まで通りにあげる。陽菜がやりたいようにやりなさい。お母さんはそれを全部手伝ってあげるから」
「いいの……本当に……?」
「もちろんよ。子供の良い我儘は全部叶えてあげるのが親の仕事なんだから。陽菜もいずれ親になる日が来るんだからよく覚えておきなさい」
それに……と母は目を細めると、居間の隅にある仏壇に飾られた写真へ視線を移した。
「陽菜が野球をやっていたほうがお父さんも喜ぶわ。あの人、野球をやってる陽菜が本当に大好きだったもの」
「お母さん……」
止まったはずの涙が再びこみ上げてくる。
「ありがとう……お母さん……ありがとぉ………」
「んもー、せっかく泣き止んだのにまた泣かないの。ほら、お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
「うん……」
言われるまま、浴場へ向かう。その途中で陽菜は母へ振り返り、
「お母さん」
「んー?なーに?」
「私……お母さんの子供で本当によかった」
「私も陽菜が子供でよかったから一緒ね」
そう言うと母は、またも目元で横Vサインのポーズを決めてドヤ顔をしてみせた。
それを見て陽菜は泣きながらも、笑ってみせた。
その日。眠りにつく前に、陽菜は中学を卒業してから初めて千紗と杏子にメールを送った。
件名は『ありがとう』
野球道具と寄せ書きを送ってくれた感謝の気持ち。卒業式の日まで、みんなの気持ちを理解しようともせず、自分勝手な振る舞いをしてしまった事を詫びる気持ち。
つたない文章ながらも、ありのままの今の心を一つ一つ文字にしていく。
最後に『鶴川でまた一から野球を始めてみる』と書き、文章を締めくくると、少し躊躇してから送信ボタンを押した。
時計を見れば、いつの間にか日付が変わっていた。
陽菜はスマホを片付けると、布団の中へと潜り込む。
そしてその日から――
陽菜があの悪夢を見る事は、二度と無くなった。
「え~。という訳で、今日からまた新しいお姉さんが仲間になります。じゃあ陽菜、みんなに挨拶して」
「は、はい」
沙希に促させ、奈月と喜美、それに少年野球チームの子供達が並ぶ前に陽菜が一歩進み出る。
「秋月陽菜……です。これから宜しくお願いします」
当たり障りのない自己紹介を済ますと、奈月がいの一番で誰よりも大きな拍手をしてくれた。
それに続いて子供達も拍手をしながら、
「おねーちゃん、ポジションはどこなのー?」
「背ぇおっきいね~」
「でもおっぱいは小さいね~」
次々と陽菜への感想を述べてみせた。
「胸が……なんですって……?」
だがその中に地雷が投げ込まれていた事を、陽菜は聞き逃さなかった。
顔は笑みを浮かべていたが、その額にははっきりと青筋が立っている。
「ま、まぁまぁ陽菜ちゃん、子供の言う事ですから……」
「ダメよ奈月。子供だからこそ、ちゃんと叱って躾ないと」
「わ~!貧乳が怒った~!逃げろ~‼」
「誰が貧乳ですって⁉」
「あ~、面倒だからそのままランニングも兼ねて鬼ごっこね。怪我だけはするんじゃないわよ~」
(なんて適当なんだ……この人は……)
本当に顧問を任せても大丈夫なのだろうかと不安になりつつも、仕方ないので鬼ごっこに加わる喜美。
春の河川敷に子供達の楽し気な声が響き渡る。
その輪の中心で、陽菜も子供のように笑っていた。
【続く】
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