第3話 あなた達、ちょっと表でタイマン勝負しなさい
第三章 あなた達、ちょっと表でタイマン勝負しなさい
「……どう?……いた?」
「ふみぃ……ここからではよく中が見えないですぅ……」
奈月が陽菜と再会を果たしたその日の放課後。
とりあえず、まずは顧問の件をなんとかするべく奈月と喜美は職員室の前まで訪れていた。
少し空いた入口のドアから中を覗くが、探し人は見当たらない。さらに奥まで見ようと、顔だけを中へ伸ばしてみようとすると――
「なにしてるの?あなた達」
突然、背後からかけられた声に、二人は心臓が止まりそうになった。
「すすすすすみません!わ、私達、立花先生を探していまして!」
慌てて軍隊ばりにビシッと姿勢を正すと、声がした背後へと回れ右をする。
するとそこには……
「私を?ってあなた達、昨日の……」
そこにいたのは、まさに今探している真っ最中の立花沙希であった。
「ふみぃ⁉お姉ちゃ……じゃなかった!立花先生⁉」
「もしかして女子野球部の顧問の件かしら?」
「は、はい!昨日は失礼をしてすみませんでした!」
喜美が深々と頭を下げたのに倣って、奈月も「す、すみませんでした!」とそれに続く。
「別に気にしてないわよ。いきなり泣かれたのには驚いたけどね」
「ふみぃ……すみません……」
「まぁ立ち話もなんだし中に入りなさい」
そう言うと職員室に入る沙希に続き、二人も「失礼します!」と緊張した面持ちで彼女に続いた。
沙希は持っていた荷物を自分の机の上に置くと、空いてる両隣の職員の椅子を二人の前へと持ってくる。
「とりあえず座りなさいな。ええと……ちゃんとした自己紹介はまだだったわよね」
沙希も自身の椅子に座りながら言葉を続ける。
「私は立花沙希。今は二年生の国語を教えているわ。改めて宜しくね」
「み、南奈月です!一年C組です!」
「さ、笹川喜美です!同じく一年C組です!」
「そんなに緊張しなくてもいいわよ。別にとって食べようって訳じゃないんだから」
沙希は苦笑すると、机の引き出しに隠しておいた小分けのチョコレートを取り出して、二人に一つずつ手渡す。
自身もそれを一つ口に放り込むと、「食べないと溶けるわよ?」と二人にも勧める。奈月と喜美は顔を見合わせると、とりあえずご馳走になる事にした。
「で、女子野球部の顧問の件だけど……」
食べ終えてから、沙希は本題を切り出してきた。
「私なんかで良ければ、やってみようと思ってるの」
「ほ、本当ですか⁉」
「ただし条件があるわ」
パァーと顔を輝かせた奈月の目の前で、沙希は人差し指を立てて見せた。
「部員は五人じゃなくて、ちゃんと試合ができる人数。つまり最低九人は揃える事。それが、私が顧問になる条件よ」
「えっと……それだけ……ですか?」
もっと厳しい条件を出されるのではないかと身構えていた喜美が、拍子抜けした声で尋ねる。
だが沙希は立てていた人差し指を自分の顔の前に持ってきて、くるくると回すと、
「やる以上はちゃんと試合もしたいし、大会にも出たいからね。ちなみに二人はどのくらいのレベルの部活にしたいか考えてるの?」
「はい!全国大会で優勝したいです!」
迷いも無く言い切った奈月に、沙希は思わず顔をきょとんとさせる。
「……全国制覇?……県大会優勝じゃなくて?」
「はい!全国で一番のチームになりたいです!」
ちなみに相棒は……と喜美へと視線を移すと、彼女は苦笑しながらも同意見だと頷いてみせた。
「……本気?」
「はい!もちろん本気です!」
相変わらず奈月の答えには一切の迷いが無い。
「そっかぁ……本気で全国制覇を目指すかぁ……」
沙希は誰にでもなく呟くと、椅子の背もたれに体を預けながら天井を仰ぎ、そのままの姿勢で器用にもう一つチョコレートを取り出して口に入れた。
「あ、あの……立花先生……」
呆れられただろうか。心配になって奈月が声をかけるが、
「あーっはっはっはっ!いいわねぇ!ゼロからのスタートで全国制覇!昔を思い出したわ!」
突然ゲラゲラと笑いだした沙希に驚いた奈月と喜美は思わずビクッと身体を震わせた。
「っと……失礼しましたぁ……」
沙希も周囲の視線に気づくと、耳まで顔を真っ赤にしてコホンと咳ばらいをする。
「いいわ。私がどのくらい力になれるかは分からないけど、あなた達がそうしたいって言うなら全力で手伝ってあげる。ただし……私の練習メニューはきついわよ?」
「は、はい!ご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願いします!」
奈月は勢いよく立ち上がると、嬉しそうに深々と頭を下げた。
「でも、そうなると練習場所をどうするかよねぇ……今は校庭を男子野球部にソフトボール部、あとはサッカー部と陸上部も使ってて新設の部が使わせてもらえるスペースなんてないし……」
目を閉じ、前髪を立てた人差し指でくるくる巻きながらぶつぶつと呟く沙希。どうやらそれが考え事をする時の癖のようだ。
「となると……やっぱあそこしかないかぁ……。よし、とりあえずその件はなんとかなるかもしれないから、ちょっと私について来なさい」
「えっ?今からですか⁉」
「全国制覇を目指すなら一日だって無駄にできないわ。さぁさぁ行くわよ!」
言うが早いか沙希は立ち上がり、鼻歌を口ずさみながら先陣を切って歩き出す。
これがかつて鶴川女子野球部を全国大会まで導いた行動力かと奈月と喜美は驚きながらも、慌ててその後姿を追いかけた。
沙希に連れられるまま学校のある丘を降り、街中を抜けて歩くこと二十分ほど。
辿り着いたのは河川敷にある、綺麗に整備された場所であった。
「おっ、やっぱりまだやってたわね。すみませーん」
そこで野球をしていた小学生達の中で、唯一の大人である初老の女性に沙希は声をかける。
「……ん?どちらさんだい?どっかで見た覚えのある顔な気もするが……」
「ええ。十年前にここで一緒に練習させてもらっていた立花ですけど……憶えてます?」
沙希が名乗ると、女性は驚いたように目を大きく見開き、
「立花……?立花沙希のお嬢ちゃんかい⁉」
「お嬢ちゃんは止めて下さいよ。もうそんな歳じゃないですから」
「いや~懐かしいな。確かに大人にはなったが、あの頃のお嬢ちゃんがそのまま大きくなった感じだわ」
「ご無沙汰してました。権藤のおば様も相変わらずお元気そうで」
どうやら二人は知り合いらしく、あっという間に昔話に花を咲かせ始める。
その様子をすっかり置いてきぼりをくらっていた奈月と喜美は、ぽかーんと眺めるしかなかった。
「そうかい。今は母校で先生をやってるのかい」
「ええ。それで権藤さんにお願いがあるんですけど……」
そこでやっと沙希は後ろの二人に振り返り、
「紹介するわね。こちらは権藤珠代さん。ここで昔から小学生相手に野球を教えてる方よ」
突然紹介され、二人は慌てて頭を下げて挨拶をする。
「で、こっちの小さい子が南さんでその隣の子が笹川さん。実はこの子達が女子野球部を創りたいと言ってましてね。またここで一緒に練習させてもらえませんか?」
「つ、鶴川にまた女子野球部を⁉って事は、もしかして監督は……」
「一応、私が引き受けるつもりです」
「うおおおおおぉぉぉっっ⁉鶴川に再び女子野球部が出来て⁉その監督をあの立花沙希が⁉これは鶴川の奇跡をもう一度って事だな⁉そういう事なんだな⁉」
血圧が心配になるほど鼻息を荒く興奮した珠代は沙希に向かって身を乗り出し、捲し立てるように言う。
「あはは……あの頃みたく上手くいくとは限りませんけどね。部員もまだこの子ら二人だけですし」
「いやいや何を言う!年甲斐もなく今から血が騒いで仕方ないわ!あい分かった!そうとなればこの権藤珠代、惜しまず協力させてもらおうじゃないか!」
何やら勝手にとんとん拍子で話が進んでいくのを、奈月と喜美が相変わらず蚊帳の外で眺めていると、いつの間にか二人の傍に練習をしていた子供達が集まってきていた。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん達、中学生?」
「ばっか違うよ。この制服は鶴川の高校のだよ、俺の姉ちゃんがそこに通ってるから知ってるし」
「お姉ちゃんも一緒に野球するの?ってか、そんなにおっぱい大きくて野球できるの?」
周囲をぐるっと子供達に囲まれ、さらには徐々に狭められつつ質問責めにあい、奈月は「あわわ……」と何故か両手をホールドアップさせていた。
と、そこで目ざとい子供が奈月の担いでいた縦長の布袋に気づいた。
「もしかしてそれバット?どんなの使ってるの?見せて見せて~!」
言うが早いか奈月から布袋を奪いさる子供。
「あっ!か、返して下さい!それはとても大切な物なんです!」
「いいじゃん!別に壊したりしないからさ~!どれどれ~」
布袋を外し、中から出てきたのは一目でかなり使い込まれているのが分かる、古い金属バットだった。
何よりも目を惹いたのは、そのバットに黒の油性ペンらしきもので手描きされた五つの星印。
「なんだこれ変なの~!バットにお星様の落書きがしてある~!」
他の子達に見せつけるようにバットを高く掲げると、今度はその子の周りに輪が出来てしまい、奈月はそれを取り返せなくなってしまう。
そうこうしてるうちに、その場に相応しくない驚きに満ちた声が聞こえてきた。
「ちょっと待って……そのバットって……」
声の主は沙希だ。彼女は子供達の輪をかき分け中心まで近寄ると「ちょっと貸して」とバットを取り上げる。
「なんだよー!返せよー!」
子供の非難の声など聞く耳も貸さず――否。そんな言葉など聞こえなくなるほど沙希は驚いた顔で、それを見つめていた。
「間違いない……この星……私が描いたやつ……」
呟いた瞬間、当時の記憶がフラッシュバックした。
「ん?沙希、あんたバットに何描いてるのよ?」
「んふふ~。これ?これはね~、勝利の星印なのさ!」
「は?なにそれ?」
「公式戦で勝ったら星を一つづつ描いていくの。どう?かっこいいでしょ?」
「はぁ~……。撃墜マークじゃないんだから……。ってか高校生にもなってバットに落書きとか何やってんのよ、あんたは」
「なによ~!この浪漫が久美には分からないの?これから皆で勝ちまくって、卒業する頃にはバットを星だらけにするというこの壮大な浪漫が!」
「だったらそうするためにまず次の試合に勝つ方法を考えるのが先でしょ。さっ、アホな事してないでミーティングするわよ」
「うぅ~…この冷血リアリストめ~…」
それは確かに自分が現役時代に愛用していたバット。
星が五個なのは……そう。県大会の決勝戦で勝った後、これをある女の子にあげたからだ。
十年前。自分みたいな野球選手になりたいと言ってくれた小さな女の子。その子にあげたバット。
そして今――鶴川で女子野球部を創りたいと言い出した女子生徒。
沙希の頭の中で全てが繋がっていく。
「南さん……あなた、もしかして……」
「はい……十年前の県大会の決勝戦の後……立花先生にそのバットを頂きました……」
もはや隠し通すのは不可能と悟った奈月は、沙希から目を逸らしながらも正直に答えた。
だが隠していた事を沙希は咎めるでもなく、再びバットに視線を戻すと「そっか……」と小さく呟いた。
『きっと神様が言ってるのよ。チャンスをやるから、ちゃんと野球と向き合って過去を清算しろってね』
親友が言っていた言葉を思い出す。
ああ……そうだ。確かにその通りだ。
ここまでお膳立てされていたのだ。これを運命と言わずなんと言うというのか。
(私はあの日から……十年間ずっと野球から逃げ続けてきた……けど、その間に南さんは私なんかが言った言葉を信じて、このバットを振り続けてきたのよね……)
そう思うと奈月への申し訳ない気持ちと、己への情けない気持ちで一杯であった。
今さら奈月が憧れた立花沙希へは戻れないかもしれない。けれど、まだ奈月が自分なんかを憧れ続けてくれているのであれば。信じ続けてくれているのであれば。
出来るだけ彼女の望む立花沙希であってやりたい。
心の中でそう誓うと、沙希は目を閉じて静かに、しかし力強くバットを両手で握りしめた。
「ありがとう、奈月。このバットを見ればあなたが今までこの子をどれほど大事にしてくれたか。それと同じくらいこの子を振り続けてきたか分かるわ」
「おねえ……立花先生……」
優しくかけられた言葉に、奈月の目から涙が溢れ出す。
そして沙希は逆手に持ち直したバットを今の持ち主に手渡すと、
「ちょっとそれ振ってみせてよ。私も奈月の今の実力を見ておきたいからさ」
「は、はい!」
いつの間にか呼び方が奈月になっていたが、本人はそれに気づく余裕などなく、言われたままに子供達から離れた場所に荷物を置く。
そして足場を均し――構えていく。
まず左手で垂直に立てて持ったバットを両目の間に置き、大きく深呼吸をする。
次に両手で持ち直すと、そのまま一度肩に担いでから今度は逆方向へバットが斜め上を向くように構え、左足をゆっくりと上げていく。
(あの動作……それにあのバッティングフォーム……!)
沙希はそのいずれに見覚えがあった。
忘れるはずもない。何しろそれは、かつての自分のものと寸分たがわぬものであったのだから。
一本足打法。
別名フラミンゴ打法とも呼ばれる、軸足だけで立つ美しい構えを取ると、奈月はフルスイングでバットを振り抜いた。
その瞬間――風が、吹いた。
バットによる風圧だ。それはまるで荒れ狂う風の刃が如く、離れて見ていた沙希の元まで届き、その前髪を跳ね上げた。
(なんて体重の乗った力強いスイング……!それ以上になんてヘッドスピードなの……⁉)
自分と同じ物と思ったがとんでもない。あの頃の自分などとは比べ物にならないものが、そこにはあった。
それは子供達にも少なからず伝わったようで、
「すげー!振ったバットが全然見えなかった!」
「お姉ちゃんやるな!おっぱいでかいのに!」
などと次々と称賛の声を上げていた。
「いやはや……これは驚いたな。あれだけのヘッドスピード、プロでもそうそうお目にかかれんぞ」
「ええ……私もまさかこんな凄い子だったとは……」
指導者二人から見ても、間違いなく奈月は天武の才を持つ逸材であった。
当の本人は我に返った瞬間に恥ずかしさで赤面し、「今の教えてー」と自分を囲んでくる子供達にあたふたとしていたが。
「奈月、あなた中学での打率は?」
「あっ、あたし達、中学に女子野球部がなかったから試合はやってないんですよ」
子供達の波に飲み込まれた奈月に代わり、喜美が答える。途中で「ふみぃー⁉」とか「お、おっぱいは触っちゃダメです~!」とか聞こえてきた気がするが沙希は無視した。
「練習であたしが投げて奈月が打ったりはしてましたけどね……って立花先生?」
喜美の説明に、沙希はごくりと唾を飲んだ。
試合経験がないというのはマイナス要素でもあるが、逆を言えばそれだけまだ伸びしろがあるとも言える。
あのバッティング技術に経験が加わればどれほどの怪物になるのか……それはかつて、そう呼ばれていた沙希にさえも想像がつかなかった。
期待に胸が膨らむとはまさにこの事だろう。沙希は自分でも知らず知らずのうちに身を震わせ、顔を紅潮させていた。
「ふ、ふみぃ……喜美ちゃん……助けてくださいぃ……」
やっと子供達から解放された奈月がバットを守るように抱きしめながら戻ってくると、乱れた制服を喜美は手直ししてやる。
と、そこで奈月は、視線の先である事に気づいた。
「あれ……秋月さんじゃないですか?」
河川敷の天端を歩く、自分と同じ学生服を着た少女を指さす。それを喜美も「ん~……?」と目を細めながら追いかけ、
「あっ、ほんとだ。あんた、この距離でよく分かったわね」
「視力には自信がありますから!」
えっへんと豊満すぎる胸を張る幼馴染を、眼鏡をかけた喜美は色々な意味で羨ましいと思いながらため息をつく。
「ん?奈月達の知り合い?」
「はい!秋月陽菜さんといって、去年の中学女子野球の全国大会でピッチャーとして試合に出てたそうです」
「へ?なんでそんな凄い子がうちなんかにいるの?ってか即戦力じゃない超欲しい」
「まぁ彼女にも色々あったみたいでして……」
どこかでやったやり取りだと思いつつ、喜美が苦笑しながら答える。
そうこうしてるうちにどこかへ行ってしまいそうな陽菜に向かって奈月は、
「秋月さーーんっ‼」
その小さな身体のどこから出したのか不思議なほど大きく、場に通る声で彼女に呼びかけた。
そこで初めて陽菜もこちらに気づいたようだ。
振り向いて奈月と隣に喜美もいるのを確認すると、露骨に嫌悪感を顔に出して足早に去っていってしまう。
「ふみぃ……行ってしまいました……」
「やっぱり女子野球部に誘うのは無理かもね……」
がっくりと肩を落とす二人を見ながら、事情を知らない沙希は、
「なに?女子野球部に入るの断られたの?」
「はい……野球は大嫌いだと言われてしまいまして……」
「ふ~ん……なにやら訳有りみたいねぇ」
そもそもそんな野球エリートが女子野球部のない鶴川に来ているのだ。その時点でなんとなく沙希にも察しはついた。
「秋月陽菜さん……ね。まぁ彼女の事は私もちょっと調べてみるわ」
「よろしくお願いします……」
「まっ、それより今日は」
二人の肩をポンと叩くと沙希はニィと笑い、
「鶴川女子野球部と小学生野球チームの交流を深めるため頑張ってきなさい。みんなー!今日はこのお姉さん達が一緒遊んでくれるわよー!」
そう言うと背中を押して、子供達の中へと二人を送り出した。
「ふみぃ⁉でも私、運動服を持ってきていないんですけど……」
「制服のままでも野球は出来るでしょ」
「いやいやいや、それだとパンツが見えたりしちゃいますし……」
「すでにおっぱいを揉まれたのにそんな小さな事は気にしない!」
いや揉まれたのは奈月だけなんだけど……と喜美は心の中で突っ込むが、何を言ってもこの人には無駄そうなので諦めた。
というか、隣で目を輝かせている幼馴染を見て完全に諦めた。
「き、喜美ちゃん!私、こんな大勢で野球をするのは初めてです!」
「奇遇ね……あたしもよ」
すっかり野球を楽しむモードに切り替えが終わっている奈月に喜美は深いため息をついた。
「仕方ない。やる以上はしっかりあたし達の格ってもんを教えてあげますか」
「はい!やりましょう喜美ちゃん!」
多分、この幼馴染は格付けの意味を分かっていない。まぁそれはそれで奈月らしいと思いながら、喜美は奈月と一緒に子供達の輪の中へと加わっていった。
「ただいま……」
家に戻り、陽菜が帰宅の言葉を述べるが返事は無い。当たり前だ。この時間、母親はまだ仕事中なのだから。
「……はぁ……」
自分の部屋に入るなり、陽菜は不機嫌さをため息と共に吐き出し、ベッドの上に鞄を放り投げた。
その横に自身も仰向けになって身を投げ出し、制服のまま寝転がる。
全くもって最悪な一日だった。それもこれもあの二人のせいだ。
ふとその顔を思い出しそうになって、陽菜は顔をブンブンと左右に振った。
「何が野球よ……私にはもう関係ないんだから……」
右腕で両目を覆い、自分へ言い聞かせるように呟く。
そう……もう二度と野球には関わらないと決めたのだから……
ブブブブ……ブブブブ……
そこでマナーモードにしたままのスマホがポケットの中で震える。完全な不意打ちに、陽菜は思わず声をあげそうになった。
誰からだろうとスマホを取り出すと、メールが一件届いていた。
差出人は早坂千紗。件名には『高校も女子野球部に入ったぞ!』と書かれていた。
中学を卒業しても、千紗と杏子だけは変わらず、何度もメールを送ってくれていた。
しかし陽菜が送られてきたメールを読む事は一度もなかった。件名だけ確認して、返事も出さずそのまま削除していた。
そして今日も同じ。
無表情で千沙からのメールを削除すると、スマホを鞄の近くへ無造作に放り投げる。
「……いい加減にしてよね……」
さらに気分が悪くなり、このまま不貞寝してしまいたい気分だったが、そういう訳にもいかない。
「夕食の支度……しなくちゃ……」
自分のしなくてはならない仕事を思い出した陽菜は気だるそうに体を起こすと制服を脱ぎ、着替え始めた。
翌日の放課後。
陽菜は帰り支度をしながら、今日はどの道を使って家に帰るか考えていた。
とりあえず昨日、試しに通ってみた道は二度と行かないようにしよう。
あの二人に会う可能性が有るだけでなく、子供達が楽しそうに野球をしている姿を見る事になる。
それを目にするのは今の自分には辛い。心が苦しくなって張り裂けそうになる。
そうだ。夕食の買い物がてらに商店街に寄っていこう。
そう決めて、椅子から立ち上がった瞬間だった。
ピンポンパンポーン♪
『え~、一年B組の秋月陽菜さん。国語科教師の立花が用がありますので家庭科室にまで来てくださ~い』
突然の呼び出しに、陽菜は怪訝な表情をしてみせた。
立花なんて名前の教師は知らないし心当たりはない。しかも呼び出された場所が職員室ではなく家庭科室ともなれば猶更不可解だ。
だが、教師の呼び出しとなれば無視する訳にもいかない。
なにより、今の呼び出しのせいでクラス中の視線が自分に集まっている。やましい事は何一つないが、居心地が悪くさっさとここから立ち去りたいのは間違いなかった。
(なんで私ばかりこんな目に……)
陽菜は小さくため息をつくと、鞄を手に取り足早に教室を抜け出した。
そして家庭科室で陽菜を待っていたのは――
「おっ、来たわね」
「ど、どうも……」
「こ、こんにちはー……」
自分を呼び出した教師と思われる見知らぬ女性と、二度と顔も見たくないと思っていた二人組であった。
「まずは自己紹介するわね。私は立花沙希、国語教師よ。あなた達はもう自己紹介済ましてるんだっけ?」
「は、はい……一応は……」
非常に気まずそうに奈月が答える。
そのやり取りを見ながら全てを悟った陽菜は、入口のドアを開けたまま中に入らず、三人に聞こえるようにわざと大きなため息をついてみせた。
「女子野球部関連のお話ですか?だったら私は帰らせてもらいます」
「まぁまぁそう言わずに。とりあえず座って一緒にお茶でもどう?」
まるでナンパでもするように軽薄な口調で沙希が言うと、それが癇に障ったのか陽菜は苛立った声で、
「二度と私に関わらないでって言ったでしょ!」
怒鳴り、奈月を睨みつけた。彼女が申し訳なさそうにした眉を下げた顔を俯かせると、陽菜も思わず怒鳴ってしまった居心地の悪さから顔を背ける。
「この件は私の独断よ。奈月達は私が無理にお願いしてここにいてもらってるだけ」
「……とにかくお話する事は何もありません。失礼します」
「逃げるの?」
沙希がそれまでとは違う真面目な声色で言うと、ドアを閉めようとした陽菜の手が止まる。
「あなたには失礼だと思ったけど、浦和学園の女子野球部の監督さんから色々と話を聞かせてもらったわ。あなたが女子野球部に顔を見せなくなったいきさつも、その理由も。推測の域で……だけどね」
「……だったらもう分かっていますよね……。私が二度と野球をしたくない理由」
「ええ、私も投手をやってたしあなたの気持ちは少なからず理解できてるつもりよ。けど、それ以上に私は、あなたが野球から逃げたくなった気持ちのほうがよく理解できてると思う」
「え……?」
意外な言葉に、陽菜は思わず背けていた顔を沙希に向けた。
「やっと私の顔を見てくれたわね。さっ、立ち話もなんだしこっちへいらっしゃい。同じ負け犬の投手同士、腹を割って話しましょう」
「…………」
正直に言えば沙希の誘いに乗る理由などどこにもなかった。
けれど沙希が言った、野球から逃げたくなった気持ちのほうがよく理解できているという言葉が、まるで喉奥に刺さった小骨のように気になり、陽菜をその場に留まらせていた。
どうするべきか迷っていた陽菜であったが、やがて意を決すると一つ深呼吸をしてから、ついに家庭科室に足を踏み入れた。
そのまま三人が座ってる卓から一番遠く、入ってきたドアには一番近い席に腰を下ろす。
「そんなとこじゃなくて、もっとこっちにいらっしゃいな」
「ここで結構です」
これが互いの今の距離間なのだと言わんばかりに、にべもなく沙希の誘いを断ると、
「……それで?同じ負け犬同士とはどういう意味ですか?」
それ以上、余計な話をされないうちに自ら本題を問う。
「言葉通りの意味よ。私も野球から逃げていたの。つい先日まではね」
手元にある自分用の湯呑を手に取り、淹れておいた緑茶を一口飲んでから沙希は話を続ける。
「秋月さんは十年前、この学校に女子野球部があったのは知ってるかしら?」
「……鶴川の奇跡。亡くなった父が当時の女子野球部のファンでしたので、子供の頃に試合の動画は見せてもらいました」
「……ちなみにそれって県大会の決勝も……」
「特に父のお気に入りの試合でしたので何度も」
「オウ……」
沙希は右手で目を覆うと、椅子の上でふらふらとよろめく。
「せ、先生⁉どうしたんですか⁉」
「若気の至りでやった事とはいえ、『あれ』を知ってる子が身近にまた一人増えたかと思うと……ね」
「だ、大丈夫です!なんの事かよく分かりませんけど、先生はどの試合でも格好よかったです!」
「あ……ありがとう奈月……でもその褒め方はボディーブローみたく地味に効きてくるから止めて……」
「ふ、ふみぃ……?」
何やら脱線したやり取りを目の前で繰り広げられ、陽菜が不機嫌そうに片眉を釣りあげるが、とりあえず分かった事もあった。
立花沙希。どこかで聞いたことがある名前だと思っていたが、今の話からすると彼女が『あの』立花沙希、本人なのであろう。
「と、とにかく……それなら全国大会の準決勝で私達が負けたのも知ってるわね?」
「はい。そして先生はその試合を最後に、二度とマウンドに立つことはなかった」
陽菜の言葉に沙希は小さく頷く。
「理由は肩の怪我って事になってるけどね、本当は違うのよ……。あの試合、私は自分と同じ一年生の四番バッターに完膚なきまで打ち込まれた。
五打席対戦して四本のホームラン。最後の打席だけは三振を取れたんだけど、正直なんでそれが出来たのか今でも分からないし、ラッキーだったからとしか言いようがなかったわ」
目を瞑りながらその時の光景を思い出しつつ、沙希は続ける。湯呑を包んでいる両手が小さく震えている事だけは悟らせないようにしながら。
「確かに試合が始まる前から、すでに肩の違和感はあった。けれど途中まではいつも通り全力だったわ。それでも私の球は完璧に打たれた……。
そして怪我が治っても今まで通り投げれないと気づいた時、こう思っちゃったのよ。百パーセントの状態で挑んで勝てなかった相手に、それ以下で勝てるはずがないってね……」
そこで一口、お茶を飲み込む。自身の心を整理させるように、ゆっくりと。
「正直、あの頃の私は自分には野球の才能が有るって自惚れてさえいたわ。けれど、そんなふうに高くなっていた鼻をあの試合でへし折られて思い知ったわ。
自分は井の中の蛙でしかなかったんだって。本物の天才っていうのは、ああいう子の事を言うんだってね」
そして静かに目を開いていき、誰もいない空間を遠い目で見つめる。
「それに気づいた時、あれだけ楽しかった野球が急に恐怖しか感じられない物になってしまったわ。……だから私は野球を辞めて逃げた。都合よく怪我を理由にして……ね」
「先生……」
「がっかりしたでしょ?憧れてた立花沙希がこんなヘタレだったなんて」
「そ、そんな事はありません!お姉ちゃ…先生は最後の負けた試合だって最後まで投げ抜いて、格好よくて!今でも私のヒーローで……!」
「もう……なんであなたが泣くのよ……」
「だって……だってぇ……」
何やら事情があるらしい二人には申し訳ないが、そのやり取りは今の陽菜には関係がない。なのでわざと空気を読まずに話に切り込む。
「それが、先生が自分を負け犬と卑下する理由ですか?」
「……そうよ。野球が怖くなって、逃げて、逃げ続けて……気がついたら十年が経ってた。正直言うとね、女子野球部の顧問の話も最初は断ろうと思っていたの。
けど親友に相談したら、いつまで野球から逃げてるつもりだって怒られちゃってね……」
「逃げて……逃げ続けて何が悪いんですか……?」
「何も悪くはないわ。けれど心のどこかで野球に対する後ろめたさがいつまでも残ってしまう。当時のチームメイトへの罪悪感。自分を育ててくれた人、支えてくれた人、応援してくれた人……
野球で関わった全ての人達への申し訳ない気持ち。それはどんなに目を逸らそうとしても無意味で、必ず形となって心を蝕んでいく。あなたにも覚えがあるんじゃないかしら?」
「…………」
毎日見る悪夢が、陽菜にとってまさにそれであった。故に否定できなかった。
「確かに時間が経てば傷は小さくなって、気づかないふりが出来るようになるわ。けれど私はあなたに同じ道を辿ってほしくない。生徒を導く教師としても、野球の先輩としてもね」
沙希は優しく諭すように、言葉を続ける。
「結局のところ、グラウンドに残してきた借りはグラウンドでしか返せないのよ。ありがたい事に、私にはそこへ戻ってやり直すチャンスをくれた人達がいた」
チラリとまだべそをかいている奈月を見る。
「そして秋月さん。あなたにもそういった子達がここにいるわ」
「それが……その二人だと言うんですか?」
「この二人の目標、なんだと思う?全国制覇よ?笑っちゃうでしょ、まだ部員も揃ってないっていうのに」
確かにそれは絵に描いた餅くらい滑稽だと陽菜は胸中で同意した。
「でもね、そんな馬鹿げた夢を本気で目指せる子達がやる野球が、面白くないはずがない。そしてそんな楽しい野球こそ、今のあなたに必要なものじゃないかしら?」
「楽しい……野球……」
「そう。だからね」
そこまで言うと沙希は悪巧みを全く隠す気のない不敵な笑みを浮かべ、陽菜を呼び出した本当の目的を明かした。
「あなた達、ちょっと表でタイマン勝負しなさい」
【続く】
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