3.十二月。20歳と24歳。
スーパーにみかんが並ぶようになり、正月用のお餅が積み上げられるようになった。冬を感じつつ、彼とはもう6か月も会っていないのだと20歳の夏目加奈子は悲しくなる。会えない期間が長くなるほど、恋する気持ちは加速してゆく。
「クリスマスケーキの予約はお早めに! 当店では二種類のケーキをご用意しております!」
彼はクリスマスに誰と過ごすのだろう。彼のSNSは更新されていないし、かと言って自分から連絡するのは少し怖かった。期待するくせに臆病な自分が嫌になる。友達だと思っていたときは気軽に誘えていたのに、好きになると動けなくなるのだ。いっそ嫌いになりたいとも思ったけれど、嫌いになりたいと思った時点で好意が存在していて無理だった。
レジに並んでいると、幼稚園に通うほどの小さな子どもが母親にクリスマス用のシャンメリーをねだっていた。私のかごにはシャンパンが入っていて、自分は大人になったのだと感じる。成人を迎えてからというもの、何かあるごとにお酒を飲むようになってしまった。彼は私よりも一つ上だから去年から飲んでいたけれど、アルコールに弱く、あまり飲んでいないようだったことを思い出す。私も飲めるようになったから、サシ飲みしたいな。クリスマスイブに誘うなんて恋人みたいだろうか。恋人になりたいけど。イブの夜なんて、恋人の特権だから許されないだろうか。
帰り道の途中、彼に『クリスマスイブ空いてる?』とメールをした。自分から連絡しない限り、連絡はこないのだ。忙しいらしい。大学に入って二年が経ち、彼は女の子とよく付き合うようになった。意外と目鼻立ちがはっきりしていて、整っていないこともない彼の顔は一般的に女受けが良い。変な女の子に絡まれていないか、少し心配だった。特段可愛いわけでもなく、恋人でもないのだから彼にどうこう言うことも出来ないけれど。
メールの返事がきたのは3日後の夜だった。忙しいのだ。彼のスケジュールは微塵も把握していなかったけれど、私は忙しそうにしている彼も好きだった。いつも余裕のあった彼が、切羽詰まった表情をしていると少しギャップを感じるのだ。
『空いてるよ、ひさしぶりに会おうか』
吉祥寺駅の駅前にあるアイスクリーム屋の近くで待ち合わせをして、クリスマスイブの午後から会うことになった。寒さから身を寄せ合うカップルが行き交うなか、彼と私は手が当たるか当たらないかの距離を保って歩いた。
「カップルしかいないね」
「そりゃクリスマスだから」
「いつからクリスマスってカップルのイベントになっちゃったんだろ」
「それは分からないけれど、加奈子さん手繋ぐ? カップルみたいに見えるかもよ」
ポケットからそっと手を出すと、強引に指を絡められて手を繋いだ。恋人みたいだ。涙が出そうになった。彼のあたたかい手が私の心まで包んでくれるようだった。
「冷たっ。加奈子さん冷え性? もっと温めなきゃ」
彼が絡めた手をさっきよりも強く握った。余裕のある彼の顔を見ると、きっと大学に入ってからこういうことを他の女の子ともしたのだろう。私も強く握り返した。
「冬だから。
「熱い性ってなにそれ、変なの」
大きく口を開けて笑う彼を久しぶりに見た気がする。6か月ぶりの笑顔に、心の張りつめた線が少し緩んだ。
商店街のなかにある地下の喫茶店に入り、冬季限定のラム酒入りココアを2つと、焼きリンゴを1つ頼んだ。少し暗めの店内にはゆったりとしたピアノジャズがかかっていて、空気は温かい珈琲の香りを纏っていた。彼は限定メニューに弱いらしい。
「何か月ぶりだっけ。すごい久しぶりに会った気がする」
冬の空気で乾いた手を擦り合わせる彼は小動物みたいだ。私は温かいおしぼりで手を拭いた。この店はこういう細かな気遣いがあるから好きだ。
「多分六か月ぶり、かな? 久しぶりだもん。忙しくしてた?」
覚えていないふりをしているけれど、しっかり日記を読んで確認している。今日でちょうど、前回会ってから6か月。半年も会っていなかったのに、私ばかり楽しみにしていたような気がして寂しく思った。期待しすぎだ。
「忙しかった、バイトもサークルもやってるからさ。サークルの先輩にも今日誘われてたんだけど、加奈子さんのほうが先に誘ってくれてたから断っちゃった」
「モテモテじゃん」
「そんなことはないけど、まぁそれなりに楽しんでるよ。加奈子さんだってモテモテでしょう」
「全然。あの先輩と別れてから一生付き合ってない」
彼が私の目をゆっくりと見つめて「一生」と呟いたと同時に、ベージュ色のカフェエプロンを着けた店員が柔らかなシナモンの香りを漂わせながら焼きリンゴとココアを運んできた。どちらも火傷してしまいそうなほど熱々で「また火傷しないようにね」と彼は静かにフォークを渡してくれた。
「ありがとう」
「いいえ。あ、ラム酒と言えば加奈子さん
薄暗いライトの下に浮かぶ彼の瞳が私を見つめてそう言った。
「覚えてくれてたんだ、ありがとう。これで一緒にお酒飲めるね」
「俺は弱いからあんまり飲めないけど……。加奈子さんは飲めるほう?」
「春くんよりは飲めるかな」
ゆっくりとフォークを入れて、リンゴを半分にするとシナモンの強い香りが湯気とともに広がった。ラム酒入りのココアは思ったよりもビターで、大人の味がした。二十歳が大人だと思っていたけれど、味覚はまだ子どもだ。すぐに中身が変わるわけでもないのに、大人の境界線を引かれるのは困ってしまう。
「さっきの話、なんだっけ」
「先輩と別れてから一生付き合ってない、って話だったかな。加奈子さん一途だもんね」
私は彼に一途だというのに、彼はまったく気付いていないのか、それとも気付いていないフリをしているのか、目線が合わなくなった。気持ちが伝わらないように逃げられているようで寂しくなる。
「いい人いないんだもん。出会いがないよ」
「俺がいるじゃん?」
「うーん」
戸惑いを隠すために焼きリンゴを口に入れると、ほんのりバターの味がしておいしい。もう一口追加で食べると「これ好き? たくさんお食べ」と彼は焼きリンゴのお皿を私のほうへずらした。
「まぁ、俺はそんなに顔もよくないし? 頭もさほど良くないけど。優しいし、加奈子さんのことをよく理解してるほうだと思う」
「素でいられるほうだとは思うけど」
彼は一瞬驚いた表情をして私を見たけれど、すぐにココアのほうへ目線を落とした。
「加奈子さん、素のほうが可愛いじゃん。好きな人の前でも素でいればいいのに」
「緊張しちゃわない?」
「男はそういうところが可愛いって思うの」
「ふうん」
そんなに私を褒めてくれるなら、私を恋人にしてくれればいいのに。クリスマスにこんな会話をすると自惚れてしまう。別に私より好きじゃなくてもいいから、私を好きになってほしい。
喫茶店を出た頃には既に空が暗くなっていて、冬は日が短いことを思い出した。彼と一緒にいられる時間が短くなるのは嫌だ、と思いながらプリクラを取りに行くことにした。彼は「俺も加奈子さんも女子高生じゃないし」と恥ずかしがっていたけれど、無理やり連れていった。思い出を記憶だけでなくて、写真にも残したいのだ。
ゲームセンターのなかは太鼓を叩く音やメダルゲームの音でごった返していて、お互いの喋る声が聞きづらくて自然と距離が近くなった。
「プリクラ撮るの久しぶりな気がするな」
「撮ったことあるんだ? 意外」
「前の彼女とね」
機械に小銭を入れて、気まずさから黙ってタッチパネルを操作した。
「なに、嫉妬ですか? お嬢さん」
「加奈子さんでいいじゃん」
やけになった私が否定せずにいると、膨らませた頬をつんつんとつついてきた。
「加奈子さん? 嫉妬は認めるんだ」
「認めてないけど」
プリクラ機の中は意外と広い。自分から誘ったわりにいざ撮るとなると恥ずかしくて、少し距離をあけていると袖を引っ張られ、同時に抱きしめられた。流行りのアイドルソングが大音量で流れている。
「えっ」
「うん? はい、ピースして。加奈子さん」
本当は付き合っているのだろうか。もしかして、言っていないだけで彼と私は恋人同士なのかもしれないと思った。幸せなこの時間がいつまでも続けばいい。
「キスしてあげようか」
後ろから抱きしめられているのに、そんな言葉を言われたら熱が出てしまう。顔に熱が集まるのを感じながら後ろへ振り向こうとすると
「カメラのほう見なきゃ、ほら」
と頭を前に向けさせられた。微かに耳に当たっている手があたたかい。
「嘘だからそんなに顔赤くしないの。加奈子さん照れすぎだよ」
本当ならいいのに。
「よくないよ。よくない、こういうの」
「どうして」
「恋人じゃないから」
すると彼は静かに息を吸ってこう言った。
「じゃあクリスマスだけの恋人になってよ」
その夜、彼と私は駅裏にあるホテルで一夜を過ごした。安いホテルの部屋には以前泊まっていた人の煙草の香りが染みついていて、少し気持ちが悪くなった。だけど、それよりもずっと幸せのほうが勝っていて
「このまま死んでもいいかもしれない」
と思った。彼は捲れたシーツを私にそっとかけた。
「加奈子さん死んじゃうの?」
「どうする? 死んじゃったら」
彼が困った顔をしたけれど、私はもう微睡の中にいて彼のそんな表情まで愛おしく思えた。
「……加奈子さんはもっと幸せになるべきだから、死ぬべきじゃないよ」
私が眠りにつく寸前、瞼が閉じているときに彼はそう呟いた。薄っすらと目を開けると、時計の針は2時を指していた。恋人ごっこは終わっているはずなのに、彼はそんなことを言って私よりも先に深く沈むような眠りについた。
あれから4年の月日が経ち、彼と私は変わらず恋人になることはなかった。周りの友達からは「そんな人やめときなって」「加奈子、絶対キープにされてるよ」と怪訝な顔をされたけれど、私はいまだに彼のことが好きで好きでたまらなかった。変だと言われても、恋心というのは簡単に変わるものではない。嫌いになれるのなら、嫌いになりたかった。
彼との連絡頻度は以前よりも格段に減り、2か月か3ヵ月に1回、私から連絡をすると一行ほどの文章が返ってくるだけのシンプルな関係にはなっていた。付き合いも長いし、これくらいでも心地いい関係だと思ってくれるのであれば、いつまでも友達でいたいと思った。欲を言えば恋人にでもお嫁さんにでもなりたいけれど、そんなことは到底難しいようだった。彼はいつも忙しいらしい。
前回飲みに行ったのが4か月前だと気付いたのはつい昨日のことで、寂しさを紛らわせるために日記を読み返していたら家計簿代わりにべたべたと貼り付けているなかに4か月前のレシートを見つけたのである。最初は彼が払ってくれていた飲み代も、次第に割り勘になり、ついには私が奢るようになっていたことに気付き喉が渇く。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、流し込むように飲んだ。すべてを泡にして、忘れたかった。
『ね、久しぶりに会わない?』
近頃は飲むことも減っていて、すぐに酔いが回りながらそんな文字をスマホの画面に打ち込む。送信ボタンを押そうと思ったけれど、お酒の入った思考回路は危ないと思い電源を切った。
一人暮らしの狭い部屋にひとり、敷いたままの布団に寝転がり、静かに眠りにつく。冷蔵庫の機械音だけが静寂を邪魔するように唸っていた。
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