4.からっぽの箱を投げ捨てて。
夕方のマクドナルドはレジの前には二、三人が並んでいた。空いている席がないか確認しにいくと、ポケットに入っているスマホが震えた。彼からだった。戸惑いながら一旦外に出て、受話器のマークをタップすると、優しい声がした。
「ごめん、急にかけて。今大丈夫?」
「え、全然大丈夫だけど、どした?」
彼から電話をかけてくることは片手に数えられるほどだったことに気付き、戸惑う心が加速した。苦しい。なにかはわからないけれど、嫌な予感がした。
「なんていうか、自分から電話することとかほとんどないから変に緊張してるんだけどさ」
彼の声に混じって、微かに女の人の声がした。早く言いなよ。私には聞こえないように、そっと、彼への愛情が滲み出るような女の人の声だった。
「なに、女の子いるの?」
「うん。あのさ」
「うん?」
「俺、結婚することになった」
息を吐くようにすんなりと彼はそう言った。
マクドナルドの自動ドアが、店の前を人が通るたびにセンサーが反応して左右に動くのをただ呆然と見つめた。嘘だ。
「結婚」
「大事な友達だから、一番最初に伝えたくて」
嘘。結婚なんて嘘だ。きっと私は夢を見ているのだ。長くて、二度と覚めない夢。現実に引き戻されたかった。これが夢ならば、私は彼の恋人になれているかもしれないのに。頭のなかで何度もこれは嘘だと反芻した。
「一番最初に伝えてくれたんだ」
振り絞るような私の声に、彼は「うん」と優しく頷いてくれたはずなのに、私の心は張り裂けそうだった。本当につらいときはどうして涙も出ないのだろう。信じたくないからなのかな。
「だから、それだけ。俺は結婚したよ、っていう」
好きだ。私は高橋春が好き。つらいときも、幸せなときもずっと一緒に時間を共有したい。友達じゃなくて、恋人になりたい。恋人じゃなくて、お嫁さんになりたい。
大好きだから幸せになってほしい。
「おめでとう」
私はそう言って電話を切った。急に切れて彼は驚いたかもしれないけれど、涙が出るのを堪えるのに必死でそれしか言葉を残せなかった。ごめんね。
明日、また会えるか連絡しようとしていた私がバカみたいだ。もう彼はだれかの旦那さんなのだ。改めてそう考えてみると涙がこぼれた。
メイクが落ちないように優しくはんかちで涙を拭い、店内に戻ると、ポテトのあがった軽やかなメロディーが鳴っていた。もうコーヒーだけ頼んで帰ろう、と注文をする。奥のカウンターの前でお待ちください、と言われて素直に並んだ。何も頭に浮かばないまま、カウンターの前に突っ立っていると、控えめだけどはっきりとした声で
「コーヒーを頼まれたお客様」
と呼ばれた。制服を着た同い年か、ちょっと下くらいの年齢の男の子は私にコーヒーと紙袋を渡してきた。紙袋からは甘いプチパンケーキの香りがふわっと流れてきた。
「いや、あの、私こっちは頼んでないんですけど……」
涙を流したあとの赤い目を見られるのが恥ずかしくて、少しうつむいていると
「知ってます。なんか、元気だしてほしくて。サービスです」
そう言って、店員の男の子は優しい笑顔でキッチンのほうに戻っていった。いい年して電話越しに泣いているところを見られたことは恥ずかしいけれど、素敵なサービスをしてくれる男の子の優しさに少し心が落ち着いた。ぽっかりとした心の隙間はこれだけでは当たり前に埋まらないけれど、時間が解決してくれるまで待つしかない。
空いている席があったので座りながら小さなパンケーキを一枚、一枚味わって食べていくとあの人との初デートを思い出して、また少し泣いた。おいしかった。
外の景色が暗くなってきて、ネオンが光りだした頃に私はパンケーキの入った箱をゴミ箱に捨てる。背中越しに聞こえるあの店員さんの優しい「ありがとうございました! またお越しくださいませー!」という声が、私をそっと送り出してくれた。
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