2.20歳。彼が好き。高橋春が好き。
元カノにすすめられて買った恋愛小説と、ネット通販サイトで気になった小説大賞受賞作。コミックマーケットで手に入れた成人向けの小冊子と、調理専門学校で使っていた料理関係の教科書。それから、少しずつ集めているシリーズものの少年漫画。
あの人の本棚はほのかな石鹸の香りがした。きっと部屋干しされていた洗濯物の柔軟剤の香りだったのだと、今では気付く。初めてあの人の家にあがったのは20歳の梅雨の夜だった。じめじめとしている季節なのに、どこか浮足立ってあの人のことばかりを考えていた20歳の私を思い出す。
今年で25歳になるあの人の名前は
「あれ、加奈子さんなんか今日おしゃれしてる?」
初めて家にあがったとき、いつもはパンツのくせに、デートっぽい雰囲気にしたくて慣れないひざ丈のスカートを着たらそれを指摘されてすごく恥ずかしかった。彼はよく周りの人を見ている人なのだ。それは恋人でも友達でも変わらず。
「いや、洗濯物間に合わなくて……」
「なるほどね、確かに最近雨ばかりだもんなぁ」
咄嗟に嘘をついた自分が照れ隠しをしていることに気付いて、私は彼のことが好きなのだと気持ちを噛みしめる。私は高橋春が好き。
彼はカーテンの外で静かに降り続けている雨を見つめて
「なんか気持ちが落ち込むよね、雨って」
と呟くと、お茶を淹れるから適当に座って待ってて、と続けて玄関入ってすぐのキッチンの戸棚から小鍋を取り出した。私は彼のベッドの前の少し空いているスペースに座る。緊張で感覚が鋭くなっているのか床がひんやりとして冷たかった。そうだ、スカートをはいていたのだと思い、下着が見えないようにそっと座りなおした。コンロの火がつく乾いた音がした。
「なんか今日静かじゃない? 男の家だから緊張してる?」
何にも考えてなさそうな彼の言葉が頭のうえから降ってきて、え、と声がこぼれる。
「いや、別に。まぁでも確かに男の子の部屋に入ったの初めてかも」
「前に仲良かった先輩には連れ込まれなかったんだ?」
彼は少し意地悪な笑いを浮かべて、私の隣にあぐらをかいて座った。私と違って、きっと彼は余裕があるのだと、緊張なんかしていないのだと少し落ち込む。
連れ込まれる、という言葉を選ぶところがずるい。それじゃあ今、私が彼に連れ込まれているみたいだ。「好き」の一言も、抱きしめてくれることもないくせに。勝手に期待して、勝手に落ち込む。彼は私のことを友達みたいに見ている。
「まぁ先輩は実家暮らしだったし。特に家にあがることもなかったな」
「あー、実家暮らしは確かに難しいか。で、結局すぐ別れちゃったんだっけ」
「別れたっていうか、そもそも付き合ってないから私の勝手なんだけどね」
「あ、あれ付き合ってなかったんだっけ。手繋いだり、ハグまでした! って浮かれた連絡がきてたからてっきり結ばれてたのかと」
「結ばれてない、全然。お湯大丈夫? 沸いてない?」
喋っていて目が合うたびに呼吸が止まりそうなほど苦しくなった。幸せな苦しみ。この心の痛みがずっと続けばどうなってしまうのだろう。泣いてしまうかもしれないな、と思った。
彼が慌ててコンロの火を止めにいき、大きさの違う2つのマグカップにお湯を注ぐ様子を少し離れてみていると、新婚の夫婦になった気分になった。泣きそうになる。彼が好きだ。
「そっちはどうなの、最近」
なんとなく気にしていないそぶりでそう訊くと、彼は紅茶のティーバッグを取り出して
「全然。こっちも別れちゃった、やっぱりマッチングアプリは信用ならないよ」
と苦笑いをした。テレビのコマーシャルの作り笑いみたいだったので、まだ吹っ切れていないんだなと思う。
私が少し前に高校時代の先輩と付き合っていたとき、彼はマッチングアプリで知り合ったという年上の女の人と付き合っていた。お互いに好きな人がいて、お互いに恋の報告をしあっていた。
「そっかぁ」
「このまま生きてたら本当に出会いがないまま死んでいく気がするよね」
神妙な面持ちでそう言う彼の顔を一瞬見て逸らす。私が彼を好きじゃない世界で出会っていたら、もしかすると恋人になれていたかもしれない。二人とも、恋愛は追いかけたいタイプなのだ。今の世界では、どちらも追いつくことがない。
「だね。いい人いないかな~……」
大きく独り言を呟くと、彼が熱々の紅茶を持ってきてくれた。まるで慰めるみたいに「熱いから気を付けて」と肩を優しく叩いてくれた。撫でるみたいに優しいな、と思いつつ、ぼうっとしていて紅茶を普通に飲んでしまった。
「あっつ」
「だから言ったじゃん! 気を付けなよ……」
すぐに机に置いたマグカップの水面がゆらゆら揺れていた。すぐに湯気が水面を隠してしまって寂しくなった。優しいけれど、本心は見せてくれない彼みたいで。
「大丈夫? 火傷したんじゃない?」
「そうかな、そうかも。ちょっとヒリヒリする気がする」
「えー、氷でも舐めとく?」
「そうしようかな」
彼が冷凍庫に氷を取りに行ってくれた。さっきから私は何もしていないな、と思い立ち上がろうとすると「いいよ、座ってな」と察してくれた。
優しい人は、誰に対しても優しい。きっと私以外にも同じ表情で笑っているはずなのに、好きという気持ちが先走るせいで、自分だけに見せてくれている表情があるように感じてしまう。
彼が私の口に入るサイズの小さな氷を探している後ろ姿に、彼と出会った18歳の頃を思い出す。
彼と私は同じアイドルのファンをしていた。名前は「
そんななか、たまたまSNSの繋がりで知り合ったのが彼だった。直接会っていないだけあって、ネットで繋がる友達は切れる縁も数知れない。最初に会話したときは「この人もそんなに長く繋がるようなタイプではないかな」と思っていた。彼も同じことを思っていたらしいけれど、そういう人ほど付き合いが長くなったりするのかもしれないなと今では思う。
加藤モモのファースト写真集が発売され、限定版の特典であるチェキ撮影券を手に入れた私は、イベントに同行してもらう友達を探していた。ネットで知り合った友達のほとんどが既に他の友達と行く約束をしているなか、たまたま予定が空いていて特典を手に入れていたのが彼だった。
モモちゃんに会うために気合を入れたメイク、服、髪を見た彼は「気合い入ってるの伝わる」と頭の先からつま先まで眺めてから私にそう言った。褒めているのか、少しバカにしているのか分からない発言に思わずムッとしたけれど、今になって考えると彼は女の子と話すことが滅多になかったのだと理解する。男兄弟の長男である当時21歳の彼は、片想いを続けた末、人生で一度も恋人が出来たことがない、という人だった。褒めたくても褒め方が分からなかったらしい。
「とりあえずどこかカフェでも寄る? まだチェキ会まで時間あるし」
私のほうもネットで知り合った友達と会うのは二度目で、男の子は初めてだったこともあり少し緊張していた。ぎこちない私の会話に彼は
「いいね、どこがいいかな」
とおもむろにスマホで検索を始めてくれた。それまで付き合ってきた彼氏は「加奈子が行きたいところに行こうよ」と私にすべてを丸投げしてくるタイプだったから、優しさに戸惑いながらも嬉しかった。
結局近くにあったチェーン店のカフェに入ることになった。そこは空気のようにふんわりとしたパンケーキが有名なお店らしく、私と彼の前には一組のカップルが並んでいた。
「意外に並んでた、ね」
彼のほうが一つ年上だけど、ネットでは年齢関係なく話していたから敬語で話すかどうか悩みながら私はそう呟いた。彼は
「奥の席が空きそうだから、すぐに入れると思うよ。窓際の、あそこ」
と私の悩みなんて特に考えていない顔をして、彼は私のブラウスの袖を引っ張った。異性に慣れてない人ほど、変に距離が近かったりする。遠いほうが手に入れたくなるのを分かっている人はきっと駆け引き上手だ。
彼の言う通り、すぐに席は空いて店員に案内された。白を基調とした店内には甘いパンケーキの香りと、軽やかなカフェミュージックがかかっている。店員さんのほとんどが若くて清潔感のある男性で、女性がターゲットにされているのだと感じる。
「ご注文決まりましたら、店内のスタッフまでお声がけください」
店員に軽く会釈をしてメニューを受け取った彼は、私の目を見て「今の店員さんタイプでしょ」と小さな声で言った。
「え、なんでわかるの? かっこいいよね」
「すごい目で追ってたから。目がキラキラしてたよ、面食い?」
ネットで友達だとはいえ、初対面での会話だとは思えない会話に驚きながらも
「かな。アイドル全般好きだし」
と答えた。モモちゃんのイベントまであと一時間はある。ゆっくり喋りながら食べよう。
メニューを開くと、一番初めのページには大きく季節限定のいちごパンケーキがのっていて、次のページにはお店で一番人気のシンプルで何ものせていないパンケーキ、二番人気の抹茶クリームパンケーキ、三番人気のチョコバナナパンケーキ。
「どれにする?」
「季節限定おいしそうじゃない? 加奈子さんは?」
加奈子さん、という聞きなれない自分の呼び方がどうしても気恥ずかしくて、彼の目が見れなかった。こんなに友達なのになんで「さん」を付けるんだろう。
「私はシンプルなのにしようかな」
「いいね、半分こにしてもいいし」
「だね」
パンケーキを頼んでから数分間、彼と私は一度もスマホを出さずに会話をした。私は友達と遊ぶときにスマホを出さない人が好きだ。面白い動画あるから見て、とかはアリだけど。最近の学校関係の話から始まって、モモちゃんの可愛さについて語り、ネットで遊ぶ人はこれで二人目だと話した。彼は私で四人目だと言った。
「お待たせしました」
黒のカフェエプロンを身に付けた背の高い店員が二人分のパンケーキを運んできた。さっきとは違う人だけど、ここの店員はみんな顔が整っている。顔採用なんてにわかには信じたくない話だけれど、本当にあるらしかった。
運ばれてきたパンケーキはどちらもお皿の上でふるふると揺れるほど柔らかく、粉砂糖がかかっていて、添えられた生クリームがパンケーキの熱で少し溶けていた。
「おいしそ、ぺろっといけちゃいそう」
「だね、春くんのいちごの隣にのっかってるやつマスカルポーネクリームだって」
「チーズか」
「そう」
ずっと一緒にいたような気になる会話のテンポが心地よかった。彼はパンケーキに釘付けで、意外だった。甘いものが好きらしい。
「いただきます」
「いただきます」
ほぼ同時にそう言って食べ始めたパンケーキは見た目の軽さに反して、意外とヘビーな食べ応えだった。二枚目はゆっくり食べた。彼は食べるのが早くて「早食いなの?」と聞くと、照れくさそうな顔をして「甘いものだと好きだから早いんだよね」と答えた。三年生の先輩に恋をする一年生女子の顔だった。そんなに甘いものが好きだとは、ネットでは知ることのない表情を知れて少し嬉しくなる。
食べ終わってお店を出るときにエレベーターに乗ろうとしたとき、ドアが閉まりかけた瞬間に乗ってこようとしたカップルがいた。
「あっ」
開、のボタンを連打した私に反して、エレベーターの中の私たちを見るや否や
「いや、やっぱり大丈夫です」
とその彼女さんは優しく微笑んで階段を降りていった。恋人同士だと思って気を遣ってくれたらしい。恋をしていると、心の余裕ができることがあるのだ。逆もまた叱りだけど。
「……カップルって思われたのかな」
気まずくなってエレベーターが動く音だけが響くなか、私がそう訊くと
「まぁ、普通はそう見えるかもね。兄妹っぽくはないし」
変に余裕がありそうな彼が少し羨ましかった。私のほうが意識している。どこにライバル意識を持ち込んだのか、少し悔しくなった。
そのあとの加藤モモちゃんのイベントは楽しかったものの、今になると彼の記憶のほうが濃くてあまり思い出せない。思い出はきちんと美化されて、定期的に思い返しては磨かれた状態で宝箱にしまわれている。これが私と彼の初めて会った記憶だ。
24歳の私と25歳の彼は、いまだに恋人ではなく、しかし友達よりも濃密な関係を続けている。微妙だけど壊したくない。絶妙な距離感を保ったまま大人になると、いまさら恋人になることを通り越して、結婚まで見据えてしまう。気が早いのは百も承知で、ただ周りの同級生たちが次々と結婚し始めていることも事実だった。
「すぐ溶けちゃうか」
口の火傷の心配をする彼に「大丈夫」と伝えると、納得のいかない表情をして彼はまた私の隣に座った。
「加奈子さんはいつも無理するからさ、もっと言っていいんだよ? 甘えていいのに」
甘えたら私のことを好きになってくれるのだろうか。
「ほんとに大丈夫だからさ、無理してないのよ」
「ほんとに? いつでも甘えてくれよ」
低い声で胸を張っておどけた彼を見て、微笑んでしまった。彼のことが好きだ。私は高橋春が好き。
次に彼と会ったのは、六か月も先の、十二月のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます