泡の恋人

鞘村ちえ

1.夏目加奈子。24歳。フリーター。

 好きな作家の恋愛小説と、たまたま立ち寄った駅の本屋で気になった話題の小説大賞受賞作。可愛い女の子のアダルト写真集に、応援しているアイドルの雑誌。その横には2017年から書いているスケジュール帳兼日記が4冊。今年のぶんは鞄の中に入れて常に持ち歩いているから置いていない。

 部屋の隅に置いている本棚に並べられたそれらを見ていると、幸せな気持ちになった。本を開いた時の独特な香りも、はらはらとページを捲る音も好きだけれど、やっぱり私は本棚に並べられた本を眺める瞬間が一番好きかもしれない。

 夕方5時を迎えたことを知らせる区内放送が鳴り響き、部屋が薄暗くなっていたことに気付いた。秋になってからの夜は早いな、と思いながら私はリビングに吊るされたアンティークのライトをつけた。手に触れた銀色のチェーンがライトの明かりに照らされながらゆらゆら揺れる。カーテンを閉め、友達との食事に向かうためにメイクをしようとしたとき、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。非通知設定という文字が画面に映る。

「もしもし、夏目なつめさんですか?」

 電話に出た声を聞いた途端、私は深く肩をおろした。よかった、あの人じゃなくて。あの人は、私を呼ぶときには必ず「加奈子かなこさん」と呼ぶから。

「はい、夏目です」

「先日弊社のバイトに応募していただいた件なのですが……」

 その電話は一昨日の夜中にネットで応募したバイトからの電話だった。24歳になった私はいまだに安定した職業には就かず、いつまでもバイトをふらふらしている。そろそろ結婚しだしている友達もいるというのに、私はいつまでこのままの生活を続けるのだろう。SNSで幸せそうな報告を聞くたびに素直に喜べず、焦りを感じながら「おめでとう」の言葉を捻り出そうとするようになってしまった。もう学生気分ではいられないはずなのに、どこか宙に浮いた気持ちで世界をさまよっている。「もう結婚したんだ、早いな」から「もう私も結婚をするような年齢なんだ」に変わり、そのうち結婚も出来なくなってしまうのかと考えるとぞっとする。

 時計を見ると友達と約束した時間までわずかな時間しかない。慌ててメイクを済ませ、家を飛び出した。同性の友達と会うのは久しぶりな気がした。なんだかんだ最近は忙しかったのだ、恋も仕事も。どちらかというと恋のほうが目まぐるしかったけれど、私はあの人の彼女になることはなかった。少し前に辞めたバイト先でセクハラがあったときも、あの人が「好きだよ」と言ってくれたときも。

 好きだ、などと言って気を持たせるくせに結局付き合ってくれない男の人は星の数ほどいるものだ。ということを私は20歳のときに知った。どうして両想いになれるのか、街を歩く幸せそうなカップルをみて思う。私は彼氏が欲しいのではなく、あの人の彼女になりたいのだ。たとえ一瞬だとしても、世界にたった一人しかいないあの人の彼女として生きたい。


 約束の時間、待ち合わせていた駅前のファミレスに友達は少し遅れてやってきた。昔から彼女は遅刻癖があったので、そんな予感はしていた。彼女は高校からの友達で、なんだかんだ定期的にこうして会って話す機会をつくっている。お互いの近況報告はいつも恋愛の話題で持ちきりだ。

「ごめんね加奈子、好きなもの頼んでいいよ」

 私はメニューのなかからチーズインハンバーグのセットを頼もうとすると、彼女は懐かしそうな顔をして「加奈子は変わらないね」と言った。どういうことか気になって聞いてみると、一番最初に二人でファミレスに行ったときも同じものを頼んでいたらしかった。彼女は時折すごく昔のことを覚えている。こういうところが恋愛にもうまく生かされているのか、彼女の恋愛は寄せては返す波のように途絶えることがない。彼女は店員を呼んで私のチーズインハンバーグと彼女のおろしハンバーグのセットを頼むと、お手拭きの袋を開けた。

「最近はどう?」

と聞くと、彼女は涼しげな一重瞼をゆっくりと開いて

「いいかな~って思う人はいる、けど」

と言いながら入念に手を拭いた。ちなみに今まで彼女に「いいかな~って思う人」がいなかったという記憶がない。彼女はいつも恋愛の蜜を舐め、底を尽かすとすぐに新品の瓶を開けているのだ。私は恋愛の蜜を舐めたかと思えば、途端に相手に瓶をひっくり返されてしまう。正直言って彼女の楽観的な恋愛は羨ましいと思うことがたくさんあった。

「え、どんな人だっけ」

「前に言ってた人とは違うんだけどさ、K大卒のイケメンで。普通に会社員してるみたいなんだけど、親が結構持ってるらしくて」

 彼女は指でオッケーのマークをつくり、それを逆さにして、口角をきゅっと上げた。彼女はいつもお金持ちの人を探しているな、と思う。前は医者、そのさらに前は弁護士だった。最初は一体どこでそんな人たちと出会っているのかと不思議に思ったが、彼女はさまざまな合コンで人懐っこい性格を武器に頑張っているらしかった。

「いいね、お金は大事だからね」

と相槌を打つと、彼女は深く頷いた。そう言ってみたものの私はどちらかというと真逆の性格で、恋愛には精神的な刺激を求めるタイプだ。経済力だってもちろん大事なのは知っているけれど、感情の波が寄せない恋なんてつまらない。

「加奈子は?」

 彼女がそう言ったところで、店員が食事を運んできた。ファミレスの店員は客の会話を聞いてないふりをして聞いているんだよな、という思いが頭をよぎりながら「ありがとうございます」と店員に対して軽く会釈をした。

 運ばれてきたチーズインハンバーグから湯気がふわふわと漂っては消えていて、食欲をかきたてられる。彼女は「いただきます」と呟いて、セットについてきたサラダを食べだした。セットのサラダは先に出てくるものだと思っていたが、どうやらさっきの店員が新人で間違えたようだ。厨房のほうを見ると、さっきの店員が一瞬こちらをちらりと見て、少し凹んだような顔をした。

「いただきます」

 私も彼女に続いてサラダを食べることにした。「加奈子は?」と振られた話題にいまさら答えるべきなのか迷っていると、彼女はもう一度確かめるように

「で、加奈子はどうなの」

と訊いた。私は一瞬、わかるかわからないかほどの微妙な間があいてから

「私はあの人と別れることにした。もう一生会うことはないと思う」

と言った。彼女はそれほど興味がないのか「ふーん」とフォークでお皿に残ったキャベツを一生懸命刺そうとしていたが、なかなか刺さらないのでお皿のふちを使ってフォークの背にのせて口に運んだ。

「まぁなんだかんだ沼になったらヤバそうだったし、別れて正解かもね」

 いとも簡単にあっさりとそう言ってくれる彼女のこういうところが好きだ。女同士の嫌なところがそぎ落とされているような言葉選びが心地よい。変に気を遣われるよりも、多少本音で話せる友達のほうが楽だと教えてくれたのは彼女のような気がする。

「やっぱりそう思う?」

「うん、でもだいぶ加奈子が相手のこと好きそうだったから別れるって言いだしたのは意外かも。あっちが別れを切り出さない限り、加奈子は縁切れないタイプだと思ってた」

 その通りだった。女の勘は本当に鋭い、と思いハンバーグにナイフを入れる。じんわりと染み出してきた肉汁を眺めながら、彼女でもないのに「別れる」なんて勝手だなと考える。胸が苦しくなるようなあの人との思い出まで次々と流れ出てきそうになって、慌ててハンバーグを口に運んだ。

「まぁ私ももう24だし、そろそろ自分から動かなきゃいけないかなーとか」

 彼女はハンバーグの上にのっていた大根おろしの下の大葉だけを食べ、窓の外を眺める。街頭に照らされた夜を歩く人たちが行き交っている。夜の駅前は会社帰りのサラリーマンと、こんな時間に外にいていいのかと訊きたくなる甘い学生のカップルで賑わっている。私も学生時代に戻って、あの人に会わない人生を生きてみたい。そしたら苦い想いを抱くことはなかったのだろうか。

「結婚も考える年齢になっちゃったもんねぇ」

 胸が締め付けられるような言葉だと思いながら、私はハンバーグを噛みしめる。ひさしぶりのチーズインハンバーグはおいしいはずなのに、物凄くチープな味がした。昔食べたファミレスのご飯は思い出補正がかかっていたことに気付く。

「だね。……結婚かぁ」

 ふと彼女のお皿をみると既にハンバーグは無くなっていた。いつの間に食べたのだろう。結婚だって、いつの間にかみんな結婚しているのである。この前まで学生だったはずなのに、この前まで一緒に恋愛にもがき苦しんでいたのに。そんな時間は気付くと過去のこととなり、そのうち子どもが生まれ、あっという間に親として生きるようになってゆく。彼女もいつか結婚報告をするのだろうか。そうしたらこんな風にファミレスでゆっくり語ることも減るのだろう。独身の友達は独身と、既婚の友達は既婚としか通じ合わなくなっていく。同じような状況に置かれているから仲良くなるのが女というものである。窓の外を見つめる彼女を見ていたら、自分だけ置いて行かれないか、少し心配になった。


 その夜、ファミレスを出たのは夜の時計が10時を過ぎた頃だった。駅で彼女と別れ、ひとり家まで歩いていく。空にはぽつんと月が浮かんでいて、満月よりも少し欠けた変な形で私を見つめていた。

 夜道は暗くて危険だから歩かないで、といつも家まで迎えに来てくれるあの人はもういない。二週間に一度はくれていた連絡も、ぱったりと途絶えた。不安になって何度か連絡をしてみたけれど、返ってくることはなかった。いっそ死んでしまったのだと思いたいほどだ。共通の友達からの風の噂であの人の話を聞いたとき、こぼれそうだった苦しさがどっと津波のように押し寄せてきて、幸せも未来も、何もかもを飲み込んで奪い去られたような気がした。

 いまさら考えたところで戻ってくるわけがないのに、終わってしまったことのほうが思い詰めてしまう。目が覚めたら過去に戻ってほしい、なんて言ったらあの人は冷たいのに見放すことのないあの眼差しで、私を見つめて「ごめんね」と言うのだろう。ずるい。そのたった四文字に私の愛情は殺されなければいけないのだ。





 去年の冬、あの人は結婚をした。

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