アオイオチバ

maruo

第1話

 ねえ君は泣いていたの?

 水面に滴の落ちる音が聞こえたから、僕はそう尋ねた。僕は君の背中を見つめていて、うしろから君に話しかけた。

「ないてない」と君は答えた。僕は、きっと嘘だと思った。ないてない、と答えた君の声はうわずって、涙にぬれた声だった。僕は君のことを心配した。君が何で泣いているか分からなかったから。さっきまで楽しそうに遊んでいたのに、急に立ち止まって、そして気がつけば君は泣いていた。

 ――森の中、君は僕らが知っているかぎり森じゅうで一番立派な大木の、地面からうねりを上げて突き出してきた太い根っこの上に立って、さっきから上を向いたままで動かなかった。何を見ているのだろうと思って僕も見上げてみたけれど、そこには大木から伸びた枝が、空を覆いつくして陰になった光景があるだけだった。幾重にも枝葉が重なっているのだ。それらが陽の光を遮るから、昼間でもあまり明るくはならない。もちろん空なんて見えるわけがない。僕はそれくらいのことは知っていた。僕らが住んでいるのは深い森の中で、その中でもひときわ存在感を放つこの大木の下から空を見上げるなんて、そんなことは絶対にできないことだ。視線を上に向けて見えるのは、深く濃い緑色だけ。そんなこと、わざわざ確かめるまでもないことだ。

 それでも君は上を見ていた。それが不思議だった。どこかの枝に動物でもいたのだろうか。僕はあちこちに目を向けて、動物がいないかを確認してみる。動物らしき影はどこにもない。僕は君を見てみる。君はまだ上を見ている。

 僕は下を向いた。水たまりが僕の足元にある。少し下がってからもう一度見つめてみると、ちょうど君が、逆さまに映っている。その天然の鏡の中で、君はこっちを振り向いた。

「私、木の声が聞こえた」と君はいった。へえ、と僕。とつぜん君は木の根っこから飛び降りて、勢いよく地面に足を着いた。ちょうど雨が降った後で、そこら中に水たまりがあった。きっと君が着地したところにもあったのだろうね、四方八方に水が飛び散った。パシャァン! という音。

 どんなふうに聞こえたの? と僕は尋ねた。僕の服は、君の水しぶきのせいで水玉模様になった。

「私たちの言葉とは違った」

 そうだろうね、きっと、と僕は言った。

「すごく広くて深い声だった。とても遠くからの声みたいだけど、でも、すごくはっきり聞こえた」

 君の声は興奮していた。

 それで君は気分がいいんだね、と僕は言った。「うん」と君はいった。「そろそろ帰ろうか」

 そういって、君は大木を後にして歩き始めた。僕は君についていく。

 僕は君の少し後ろを、君と同じ速さで歩いている。この速さにも随分と慣れてしまった。なにせ君とはもうかなり長いこと一緒にいるからさ。君って結構速足なんだ。


「おなか減ったなあ」。

 家に帰ったら、おばさんがご飯を作って待ってくれているよ、と僕は言った。空腹で今にもその場にへたり込んでしまいそうな、絶望的な表情を浮かべている君を慰めたつもりだった。

 君は後ろを振り返って、僕の目を見た。でもすぐに視線を逸らして、また前を向いてしまった。

「そんなことわかってる」と、君は、随分と表情を回復させた声で言った。おなかへったなあ、っていったときはあんなにげんなりとした声だったのに、いま、そんなことわかってる、っていった声は、すごく無表情というか、感情の抜けた声だった。僕があまりにも当たり前のことを言ったから、せっかくの楽しい気分がしらけちゃったじゃない、とでも言いたげな君の態度だった。でも僕はそんなつもりじゃなかった、当たり前だけど。僕が君と話すときには、そんな適当な考えで話したりなんかしない。僕は君のことを心配しただけだった。僕は、君に対してはすごく純粋な気持ちを持っていると思う。今だって、君がすごくおなかが減って、おなかが減りすぎて悲しい、みたいな顔を浮かべているように思えたから、その悲しげな表情を、少しでも元気にしたいと思っただけだった。

 君は裸足で、僕も裸足だった。君は跳ねるようにひょいひょいと岩や木の根っこを次々に乗り越えていく。力は君の方が弱いんだけれど、その分とても軽いから、木の根っこに足を掛けた次の瞬間には既に体が浮き上がっていて、その根っこを乗り越えてしまっているみたいな軽やかな動きだった。僕は男で、君よりも少し体が大きいから、そんなに身軽な移動はできなくて、もうちょっと苦労が要る。木の根っこに足を掛けたら、しっかりと踏ん張って体を持ち上げなくちゃならない。君みたいに軽々とは、岩や根っこを越えていけない。



 こうやって、森を歩いていても、いまでもまだときどき不思議に思うのだけれど、森はどこまでも続いているものではないのだそうだ。森は無限に大きいわけではなく、どこかに端があるらしかった。

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