第4話―ガール&ガール―

 2週間というのは長いようであっという間だ。

 この2週間でバンドのレベルは格段に上がったと感じる。

 音が一体となり、メロディが自然と体から出てくる、そう感じられるほどの成長だ。

「みんな、ここがゴールじゃないからね。これに通って文化祭のステージに立って、私たちの力を見せつけてやるんだから!」

 オーディション会場の生徒会室の前の廊下で順番を待ちながら、みんなを鼓舞する。

「言われなくてもわかってるわよ」

「まぁやるだけやってやるって感じでござるな」

「そうだね。今のボクたちの全力を出すだけだし」

 だが、みんな余裕そうだ。緊張しているのは私だけらしい。

「マリナ。あたしたちは精一杯練習した。だからわかる。あたしたちは絶対通る。ま、あんたが普段通り演奏できれば、だけどね」

 にしし、と凪が挑発的に言う。

「わ、私は大丈夫だし! ちゃんと普段通りできるし!」

 そうだ、普段通りできれば問題ない。無理に頑張ろうとする必要はないのだ。

「次の方、どうぞ」

 生徒会室から声がかかる。ようやく私たちの番だ。

 私は大きく息を吸い込み、扉を睨みつけた。

「行くよ、みんな!」

 みんなに合図して、扉を開く。

 ここから私たちの快進撃が始まるのだ。

 ……そう思っていたのに。

「落選です。帰ってください」

 部屋に入った瞬間、審査員席に座っていた塔山にそう告げられた。

 審査員である他の生徒会メンバーも気まずそうな顔を浮かべながら塔山の言葉に頷く。

「ちょっと待ってよ! 私たちまだ演奏もしてないのに!」

「あたしたちが風紀を乱してるからってその当てつけはよくないと思いますね」

「職権乱用でござる!」

「そ、そうですよ! せめて一曲だけでも」

 私たちのお願いも塔山は冷たい瞳を浮かべ、首を横に振って通さない。

「いいから帰ってください」

「どうして!? その理由を聞くまで帰れないよ!」

 みんなも頷く。塔山は溜め息を吐き、呆れ顔で言った。

「あなたたち、文化祭はいろんな人が来る。それはわかってるでしょう? そこには子供たちも来るし、この学校を受験しようと思っている中学生も来る。そんな人たちにあなたたちを見せられるわけないでしょう? この学校が見世物小屋だと思われてしまう」

 また、だ。また、私たちは普通と違うだけでノケモノにされてしまう。

 やっと手に入れた仲間とロック。それでのし上がろうと決めたのに。

「あなたたちは学校の品位を著しく下げる生徒です。わかっていますか?」

 私は拳を強く握り締めた。爪が食い込み、血が出るくらい強く強く。

 そうしないと今にも塔山に掴みかかりそうだったから。

「どうしてあなたたちみたいなバケモノが入学できたのか不思議ですよ」

「さっきから言わせておけばべらべらと……あたしたちは好きでこんな風になったんじゃない! 何も知らないくせに、言わないでくれ!」

 抑えきれなかったのだろう、口調を荒げた凪が審査員席へと乗り込んでいった。

「凪! だめだよ! そんなことしちゃ!」

「いいや、凪殿は正しいでござる! あーしたちはバケモノじゃないでござる! あーしたちのことを簡単にバケモノ扱いできるあんたらが、バケモノなんでござるよ!」

 純菜も審査員席へと殴り込んでいった。

「ボクも……ボクもこんなこと、おかしいと思います……それに、ボクだってずっと黙ってるわけにはいかないんです!」

「純菜ちゃん! 真弓ちゃん! あぁもう! 我慢してる私がバカみたいじゃない! 塔山! あんたは一度ぶん殴りたいと思ってたの! ううん、一度だけじゃない! 何十、何百と殴らないと気が済まない!」

 私も我慢の限界だった。みんなと一緒に審査員に掴みかかる。

 私たちと生徒会の戦争だ。お互い殴る蹴るの大乱闘。

「やめなさい! なにやってるの!」

 騒ぎを聞きつけた教師に止められるまでそれは続いた。

 一応その場にいた全員たいした怪我もなくて済んだ。

 が、私たち側の心の傷は、深く深く奥底まで食い込み、痛みが止むことはない。

 心から漏れだす血が涙となり、ひりひりと痛む頬に伝っていった。


 私たちには1週間の自宅謹慎が言い渡された。

 一方の塔山たちはお咎めなし。

 教師たちは私たちの言い分を聞かず、塔山の味方をした。大人も信用ならない。

 やはり私たちには味方はいないのだ。

「……家にずっと籠ってられるわけないでしょ」

 自宅謹慎なんてバカらしい。私は家を飛び出し純菜の家へ向かった。

 家でおとなしくしているよりも、楽器を演奏してストレス発散したかったから。

 純菜の家へ着いたが、なんだかいつもと様子が違う。

 入口には二人の男が目をギラギラさせて辺りを睨んでいる。

 どこか緊張感のある空気だ。

「えっと……あの、純菜ちゃんは」

 私は恐る恐る入り口の二人に尋ねてみた。

 しかし彼らは顔をしかめ、声を荒げて言う。

「このガキ! 刺客か!」

「誰に言われてここまで来た? あぁ?」

「い、いや、誰にっていうか……えっと……」

「女だからって手加減しねぇぞおら!」

 凄んでくる男たち。この前彼女の家で見た礼儀正しい組員とは全く違う。

「おい、何騒いでる」

 と、高藤がやってきた。彼は私の顔を見るなり、申し訳なさそうに言った。

「マリナ嬢ですか……すいませんが、今日は何も言わず帰ってください。それと当分、ここには近づかないでください」

「え? なにそれ? 高藤さん、理由を聞かないとわかんないよ」

 高藤は困ったように頭を掻く。考える素振りを見せ、重たい口を開いた。

「今、抗争中なんですよ。相手は弱小の荒木組、たぶん1週間もすれば親父が収めてくれるとは思うんですが……なにぶん向こうには失うものがない。だから鉄砲玉を送り込んできたり、トラックで追突してきたり、恥もプライドもない戦いをするかもしれないんです」

「抗争、ですか……ほんとに映画見たいですね」

 なんだか現実離れしていてそういう感想しか出てこなかった。

「もしかしたらお嬢を人質に取られるかもしれないので、お嬢にはずっと家にいてもらいます。マリナ嬢も、お友達の方々もここには近づかないで。もしお嬢の知り合いだとバレたら誘拐されかねませんから。抗争が終わればまたお嬢と遊んでやってください。ですが今は、もう帰ってください」

「……そうですか」

 高藤は私の身を案じてそう言ってくれている。

 それに私がここにいるのを見られて誘拐でもされれば迷惑をかけてしまう。

 私は高藤に頭を下げ、その場を後にした。

「……真弓ちゃんはどうだろうか?」

 真弓に電話をしてみる。

 しかし彼女は親が心配するから外に出られないと言う。

 残る凪に電話をかけてみた。

「あたし? 暇してるし、家からも出れるわよ。すぐに行くから。この前のモールで待ち合わせましょう。入口で待っていて」

 そういうわけで私は凪と会うことに。

 ショッピングモールの入口で待つこと5分ほど。凪がやってきた。

「はぁ……今日も暑いわね。ほんと嫌になるわ」

 凪は額の汗を拭いながらそう言った。ジミヘンの顔がプリントされたTシャツが汗でぴっちりと張り付いている。

「で、急に呼び出して何?」

「いや、特に用はないんだけど……家でじっとしてるのも違うし」

「ま、そうだよな。あたしもじっとしてられなかった。なんだか最近、あんたたちといないと落ち着かないし」

 彼女は恥ずかしげもなくそう言った。前まではそういうことは口に出さなかったというのに。

「とにかく早く中に入って涼まない? 暑くって嫌になるって」

「あ、そうだね」

 私たちはモールの中に入る。冷房が効いており、外と比べると天国のような居心地だ。

 手近にあったカフェに入り、アイスとジュースを注文する。

「ふぅ……ようやく落ち着けた」

 凪はイスにもたれかかり、ぐっと伸びをした。頬から垂れた汗がつつぅ、と鎖骨を伝い服の中へと消えていく。

「で、あんたさ、諦めてるわけじゃないんでしょう?」

「え?」

 唐突にそう言われるが何のことかわからない。考えてようやく文化祭のステージだと気が付いた。

「う~ん……諦めきれないけど、でもみんな私たちなんて望んでないし」

 そう、いくら演奏したいと望んでも周りが反対する。

 それはいくら頑張ったところで覆ることはないだろう。

「私たちバケモノは、一生ひっそりとしてないといけないんだよ……」

 私の言葉を聞き、凪は冷たい視線を送ってきた。

 しかし彼女はそれ以上何も言わない。ただ、じっと見つめるだけ。

 そんな無言の時間にジュースが運ばれてくる。

 凪はそれを受け取ると、勢いよく吸い込んで空にしてしまった。

 そしてグラスを叩きつけるように置くと、ようやく口を開いた。

「あんた、本気で言ってるのか!?」

「……本気だよ。私たちは人前に出ちゃいけないんだ」

 凪は頭を抱えて溜め息を吐き、また言葉を漏らした。

「あんたには果たさなくちゃいけない責任があるんだよ?」

「責任?」

「あぁ、そうさ! あんたはあたしたちバケモノに光をくれた! ステージに立とうっていう夢をくれた! バケモノでもいいっていう自信をくれた!」

 彼女は周りの目を気にせず、叫ぶように続ける。

「あんたはあたしたちを変えた! 一生を闇の中で過ごすバケモノじゃないって教えてくれたんだ! そうだろ? だったらあんたは責任もって最後まで連れて行ってくれよ! あたしたちを光の下へ連れて行ってくれよ!」

 言い終えると凪はハッと周りを見回し、恥ずかしそうに席へ座った。

 ジュースを飲もうとしたが中身が空だと気付き、私のをひったくり飲み干してしまう。

「……その、さっきはちょっと言い過ぎたかもだけどさ、あたしたちはあんたに期待してるんだ」

「凪ちゃん……」

 そうだった。私がみんなをその気にさせた。

 自分が男だからと引っ込んでしまっていた真弓を。普通じゃないことに苦しんでいた凪を。見た目と生い立ちに悩まされていた純菜を。

 私がバンドに誘い、みんなをステージに引っ張っていこうとした。

「そうだよね……私が諦めたら、みんなの思いを裏切ることになる」

「あぁ、そうさ」

「けどね、凪ちゃん……皆は私たちのことなんて望んでない。私たちが変わっても、皆は変わらないんだよ」

 けれど私たちがどれだけ頑張ろうと周りは私たちを否定するだろう。

「マリナ。ほんと、あんたらしくないね」

 凪は長い溜息を吐き、私を睨んだ。冷たい、けれど奥に炎を宿した強い眼差しで。

「塔山に負けて不貞腐れてる場合じゃない。そうだろう?」

「不貞腐れてはないけど……でも現実は」

「は? そんなこと知らないよ。あたしたちがやりたいからやる、そうだろう?」

「でも……」

「でももなにもないさ。だって他の連中を見なよ? あたしに腕が足りない、それだけで気持ち悪いって言って遠ざけてくる。他のみんなだって気持ち悪いって遠ざけられてる。でもそれってあいつらがやりたいようにやってるだけ。なんで向こうの言い分を全部聞かないといけないのさ」

「それは……」

 反論しようとして言葉が出なくなる。大勢がそう思ってるから、とか言っても多分言い返される気がした。

「普通の連中がやりたいようにやって、あたしたちバケモノがやりたいようにやっちゃダメって言うのはおかしくないか? むしろ抑圧されてるからこそ好き勝手やってもいいんじゃないか?」

「……」

「はぁ……マリナ。あんた、何にビビってるの? 周りの目? 周りからの評価? あんた、そういうの気にするようなタマじゃないでしょ?」

「私たちが無理やりステージに立って、みんながまたひどいこと言われるんじゃないかって思ったら……私は別に何を言われてもいいけど、みんなにはそんな酷いこと、言われてほしくないの」

 私自身何を言われても我慢できる。けれど大切な仲間が酷いことを言われるのは耐えきれない。

 だけどそんな私の心配をあざ笑うかのように、凪は溜め息を吐いた。

「そんなこと、あたしたちにはおせっかいよ。あたしたちはもうそんなこと言われ慣れてる。いまさら何言われたって覚悟はしてるよ。だからあたしたちの心配するっていうなら、ちゃんとステージに立たせなさいよ」

「凪ちゃん……」

 ようやく私は自分のやるべきことを見つけた。みんなをステージまで連れていくのだ。

「わかったよ。私はもう、何があってもみんなをステージに連れていくから」

「へへ、その意気だよ。それでこそマリナだ。わがままで自分勝手で何でもやる、それがあんただからね」

「……それ、褒めてる?」

「う~ん……半分くらい?」

「あはは! なにそれ」

 ようやく話が落ち着いたところでアイスがやってきた。

 ヒートアップした脳を冷やすにはいい刺激だ。

 私たちはアイスに舌鼓を打ちながら、どうやってステージに立てるかを考える。

 しかし良い考えは浮かばなかった。


 その後は暇潰しに買い物をし、凪と歩く夕暮れの帰り道。

 鮮やかな夕焼けに染まる道を歩く途中、ある人物と出会った。

 真弓だ。

 しかし私は一瞬彼女が誰だか分らなかった。隣にいる凪も、だ。

 それもそのはず、彼女が男の服装をしていたから。

「え!? 真弓ちゃん!? どうしたの!?」

 こちらに歩いてきていた真弓に声をかける。彼女はハッとしたように顔を上げ、きょろきょろと何かを探るように見渡す。

 そして顔を下げて、すたすたと踵を返してやり過ごそうとする。

「待って真弓ちゃん!」

「鈴原! どうしたんだ?」

 その様子を見て凪もおかしいと感じたのか、声をかけるが真弓は止まらない。

 どうしたのだろうか、私たちは追いかけて彼女の手首を掴んだ。

「真弓ちゃん……え?」

 私は絶句してしまった。振り向いた彼女の頬に痛々しげにガーゼが貼られていたからだ。

「そのケガ……どうしたの? もしかして塔山とケンカしたとき?」

 しかし真弓は返事をせずにすたすたと歩いて行ってしまう。その顔には私たちが邪魔だとでも言わんばかりの空気が漂っていた。

「おい鈴原! お前もらしくないっての! いったい何があったんだよ!」

 と、凪は強引に彼女の腕を掴んだ。振り払おうとする真弓だが、もともと非力な彼女には難しかった。

 観念したように歩みを止め、こちらを向く。

「あのね、ボク、今マリナさんたちと一緒にいちゃ」

「お~い、真弓君!」

 と、真弓の声を遮るように遠くから男の声が響いた。

「待ってくれ! すたすたと早いよ……」

「お父さん……」

 真弓の後ろから遅れてやってきたのは、彼女の父親だった。温厚そうなおじさん、という感じだ。

 しかし真弓はビクリ、と肩を震わせて私たちと距離を取った。

「真弓君? この子たちは友達かな?」

 ふるふると首を横に振る真弓。それを見て凪が反論した。

「おい、鈴原! それはないだろ?」

「待って、凪ちゃん……なんだかおかしい」

 真弓の様子が普段と違う。私はそう察して凪を制止させる。

「友達じゃないっていうことはただのクラスメイトか何かかな? そうだろうな、真弓君は男だもんな。女の友達なんていないだろう」

 うん、と真弓はうなずき父親と共に歩いていく。

 去り際、父親がこちらを振り返った。その顔に映っていたのは先ほどの温厚さとは違う、まるで敵でも見るかのような冷たい瞳だった。

「マリナ、一体あれ何だったんだ?」

「わからない……けど、真弓ちゃん、助けてほしそうにしてた」

 真弓の瞳が曇っていた。まるで出会った時と同じみたい。

 彼女にはそんな瞳は似合わない。

 何があったか調べなければ。

「バンドなんてやってる暇、無いかもね」

「ま、そうだろうな。あんたはおせっかいだし、バンドより友達を助けるのが優先ってな。いいよ、あたしも付き合う。どうせ暇してるし」

「ありがとう、凪ちゃん」

 凪がいれば幾分か心強い。

 真弓を絶対に助ける。私はそう強く胸に近い家路についた。


 真弓を助けると言ってもまず彼女が何に困っているのか聞かなければ。

 その夜、SNSに連絡を入れてみたが返事がない。電話しても応答しない。

「う~ん……家に直接行ってみる? でも真弓ちゃん出てくるかな……」

 それにあの父親だ、私のことを睨んできた。

 多分問題は父親だろう。

 ならば父親のいない時間を狙えばいい。

 翌日、私は凪を連れて真弓の家を張り込んだ。

「えっと……あたしも張り込み、いる? 逆に目立たない?」

「一人の方が逆に怪しくない?」

 私たちは真弓の家から近いコンビニの前でアイスを食べながら監視をする。

「あの父親が出てきたら真弓ちゃんの家に乗り込むから」

「そもそも父親が出てくるっていう確証はないわけでしょ? もし今日出てこなかったらどうする気?」

「そしたら……明日も張り込む」

「バカらしい……ま、暇だから付き合うけど。学校も行けないし」

「なんだかんだ凪ちゃんって優しいよね」

「うるせぇ」

 と、はじめのうちは楽しそうに話していたのだが、30分を超えたあたりから限界は訪れた。

 暑さで視界がとろけて、汗で肌がべたべたと不快だ。アイスみたいに溶けて無くなってしまいそう。

「これ……死ぬかも……」

「あんたが言い出したんでしょ? なんか対策とかしてないわけ?」

「ジュース飲む。アイス食べる」

「はぁ……まったく……」

 ジュースとアイスで凌ぎながらさらに30分たった頃、ようやく父親が出てきた。

 買い物だろうか、車でどこかへ行ってしまった。

「よし! 今のうちに!」

 車が見えなくなってすぐに私たちは真弓の家へ向かい、インターフォンを鳴らした。

「真弓ちゃん! 私だよ! 入れて!」

「え……? でも……」

「お父さんいないんでしょ!? 相談に乗りに来たの!」

「……わかった。入って」

 一拍の間をおいて真弓はそう言った。

 真弓の許可を得ると私たちは転がるように彼女の家の中へ。中は大変クーラーが効いており、天国とも思える心地だ。

「うわぁ……二人とも、すごい汗……どうしたの?」

「いや、なんでも……真弓ちゃんこそ、長袖で暑くないの?」

 やってきた真弓はなぜか男物の長袖だ。それを指摘され、彼女は片手で自分の腕をぎゅっと掴んだ。

「あの……ボク、寒がりだから……」

「ふぅん」

 納得しかけた私。だが、凪はそれに食って掛かった。

「マリナ。あたしは鈴原が寒がりだって言うのは一言も聞いたことないよ。練習中もクーラーガンガン付けてたけど、そういう素振りはなかった。で、こういう場合たいていは……」

 凪は真弓の袖を掴み、それを引っ張り上げてみせた。

 するとそこにあったのは、真っ白な肌に浮かんだ青紫の大きなアザだった。

「はぁ、やっぱりか……あんた、あの父親にやられてるね」

 凪は真弓を見据えた。しかし彼女は目を逸らして凪の瞳から逃れる。

「鈴原。あたしたちはあんたを助けに来た。何があったか、話して。でないと」

 凪はスマホを取り出して言う。

「警察に連絡する。虐待も立派な犯罪だ」

 そう言われて真弓は観念したように息を吐いた。

「わかった……全部話す……だから、ボクの部屋に」

 私たちは真弓の部屋へ案内される。

 彼女の部屋は勉強机に本棚とギター、あとは小さな棚がちらほらとシンプルなデザインだ。

 女の子らしい可愛いデザインかと思っていたので意外だ。

「その、さ……話す前に一つ聞いておきたいんだけど、マリナさんたちはボクをどうするの?」

「どうするって……そりゃ助けるに決まってるよ。虐待、されてるんでしょう?」

「ボクが助けてほしいって思ってなくても、助けるわけ?」

「それは……」

「違うわよ」

 と、返事に困っていた私に変わり、凪が言った。

「痛みを耐えるのは幸せじゃない。あたしはそれを知ってる。だからあんたも気付いて。自分が我慢すれば全部幸せに解決する、それじゃあ違うの。あたしたちは、好き勝手生きていいんだから」

「凪さん……わかった。じゃあ、話すよ。ボクのことを」

 そして真弓はぽつぽつと、重い口を開きながら言葉を溢した。

「ボクのお父さんはお父さんじゃないんだ。血は繋がってるけど、離婚してるからもうお父さんじゃない。離婚の原因はボク。お母さんはボクが女の子だって言うのを変だって言わない。けどお父さんは違った。ボクが女の子だって言うのは変だって、男らしくしろって。それで昔から何度も殴られた。だからお母さんはそんなお父さんと離婚したんだ」

「……でも、今お父さんはこの家にいる」

「うん。離婚したからってお母さんはお父さんのことを嫌いになってない。だから半年に1回くらい、こうして帰ってくる。それでお父さんはお母さんに見つからないようにボクを殴った。男らしくなれって。この服だってお父さんが勝手に買ってきて、お父さんがいる間はずっと着てなくちゃいけない……ボクが我慢して何も言わなかったらお母さんも幸せなのに……でももう、我慢できないよ……」

 真弓の瞳から雫がぽたぽたと溢れ出す。今までずっと耐えてきたのだろう。

「痛いのも嫌だけど、お父さんに否定される方がもっと嫌……ボクだってお父さんが好きなのに……」

「そっか……話してくれてありがとう、真弓ちゃん」

 私はまた真弓を抱きしめた。彼女の震える肩を抱きしめ、背中をさすってやる。

 彼女はずっと耐えてきた。実の父親に認めてもらえない痛みを。

「ねぇ、鈴原。あんたの父さん、いつ帰ってくる? この件、あたしが片を付ける」

「え……? 凪さんが?」

「大丈夫、凪ちゃん? 殴り合いのケンカとかしないでしょうね?」

「はっ。そんなのしないっての。あたしはね、子供を普通じゃないって思ってる親が大嫌いなの。ほんと嫌だね、親って。選べないし」

 凪はそう言って自嘲気味に笑う。

「ま、あたしに任せてよ。殴り合いとかそういうのは絶対ないから」

「って言ってるけど、どうする、真弓ちゃん?」

 真弓は少し考えてから、首を縦に振った。

「わかった。ボクは凪さんを信じる」

「ありがと。けどね、鈴原。戦うのはあたしだけじゃない。あんたもだからね」

「え? ボクも?」

「そう! だから……」

 凪はクローゼットに近づき、ばっと扉を開けた。中には可愛らしい服がたくさん吊るしてあった。まるでファンシーな服屋さんみたい。

「まずはあんたの好きな服に着替えなさい。話はそれからよ」


 それから2時間ほどして父親の乗る車が帰ってきた。

 私たちは玄関で父親を待つ。真弓は少し不安そうな顔だが、凪は自信に満ちた表情を浮かべている。

 対する私は今回は出番も無く、ただ見守るのみだ。

「凪ちゃん……くれぐれも手荒な真似はだめだからね?」

「わかってるって。大船に乗ったつもりで任せて」

「ボクは信頼してるから」

 真弓と凪は顔を合わせ、小さく笑った。

 その瞬間、玄関の扉が開き父親が帰ってきた。

 彼は普段通り女装した真弓と、その隣に立つ私たちを交互に見て怒りに顔を赤らめる。

「おい、真弓君! これはどういうことだ?」

 非常に静かな声、しかし怒りが漏れているのは誰が聞いても明らかだ。

「真弓君は男だろう? なんでそんな格好してるんだ? それにこの人たちは……女の友達がいるのか?」

「お父さん……ボクが好きな格好して、何が悪いの? 女の子と友達になって、何が悪いの?」

「何が悪いだと? お前は男なんだ! 男らしくしないとだめだろう!」

 父親が手のひらを振りかぶり、思い切り真弓へと解き放った。

 ばちん! と、大きな音が響く。

 が、それは真弓の頬から発せられたものではない。彼女の前に立ち塞がった凪の頬から発せられたのだ。

「いってぇ……あんた、こんな強く自分の娘叩いてるのかよ……」

「な、なんだお前は……」

 誰か知らない女の子を殴ってしまった、彼はうろたえる。それくらいの常識は持ち合わせていたらしい。

「あたし? あたしは鈴原、いや、真弓のバンド仲間だよ」

「バンド仲間が何の用だ。これは家の問題だ」

「じゃあおせっかいで言ってやる。あんたは間違ってる」

 凪は父親にビシッと指をさし、そう言い放った。

 彼はもう怒り心頭だ。今までの優しい声音を捨て、厳しい口調で叫ぶ。

「何も間違っていない! 自分の息子がしっかりとした男に育つように教育して何が悪い!」

「そこから間違ってるんだよ! 男がみんな男らしくしろっていうのは誰が決めた?」

「そんなこと常識だ! 真弓君は普通じゃないんだよ!」

「それはあんたにとってだろう? でも真弓にとっての普通は、今みたいな女の子の格好して、あたしたちと一緒にいることだ。何でもかんでも自分の普通の尺度で物事測ってんじゃねぇ!」

 凪に続いて真弓も口を開いた。

「お父さん……これが本当のボクなの……だから、ボクを認めてよ!」

「黙れ! 認めないぞ……自分の息子が女装趣味だったなんて、そんなこと……」

 父親はふるふると肩を震わせ、拳を強く握りしめる。

「なぁ、あんた。何も全部受け入れろとは言わない。あたしだって受け入れられないものもある。けれど、認めてはやってくれよ。自分の息子だろ? 普通じゃない趣味くらい、親なら認めてやってくれよ」

「そんなこと、認められるわけ、無いだろ」

「なんで人ってのは認められないんだろうな。自分には理解できないものを拒否してさ。真弓は女装が好き、それは理解できない、だから否定するってのは違うと思うんだ。理解できなくても、否定しちゃいけない。認めてあげなくちゃいけないんだ」

「ねぇ、お父さん……ボク、これ以上お父さんを嫌いになりたくないよ……でも、自分のことも大事にしたい……お父さん、まだボクたちが幸せになれる方法はあるよ……ねぇ、お願い……ボクを否定しないで……ボクを、認めてよ」

 真弓は父親に手を差し伸べた。

 今まで彼女が胸の奥に秘めていた思いを全て吐き出して、だ。

 その表情はとても穏やかでキレイだった。

「真弓君……」

「お願い、お父さん……お父さんならボクのこと、わかってくれるって信じてるから……」

 父親は差し伸べられた手を、ためらいがちにだが掴んだ。

 そして、ぎゅっとその手を握り締める。力強い父親の手で、優しくだ。

「ごめんな、真弓……そうだったんだな……真弓の中ではこれが普通で、認めてほしかったんだな……」

「うん、ごめんね、お父さん……ボク、お父さんが言う男らしい自分って言うのにはなれないかもしれない……でも、お父さんがそういうボクがいいって言うのも認める……」

「あんたたちには話し合う時間が足りなかった。それだけだよ。さ、マリナ、帰ろうか。あとは家族水入らずだ」

 凪の言葉に頷き、私たちは家を出る。

「マリナさん、凪さん、待って!」

 と、真弓に引き留められ振り返る。彼女が嬉しそうに、それでいて恥ずかしそうに笑っていた。

「ありがとう、二人とも、助けてくれて。ボク、すっごく嬉しい。それにね、凪さん……やっとボクの名前呼んでくれて、嬉しかった!」

「なっ!?」

 凪はぼっと顔を赤くし、私の手を引いてそそくさと玄関から出てしまう。

「凪ちゃんってば照れてる」

「うっせぇ」

 こんな風に照れたり、友達のために体を張ったり、凪は着実に変わっていた。

 私はそんな凪を、眩しいと思った。


「まぁ後は真弓次第だな。あたしたちにはもうできることなんてないよ」

「そうだね」

 真弓の家から出た後、私たちはファミレスでおやつタイムだ。そこでゆっくりとしながら真弓がどうなったかを想像する。

「多分良い方向に転んでるよ。それも凪ちゃんのおかげ」

「あたしは言いたいこと言っただけだ」

 また恥ずかしそうにする凪。赤らめた頬をポリポリと掻いている。

「それにさ、あんたがいてくれたからいろいろ言えたんだ。マリナといるとさ、なんか強くなった気がする」

 私も気恥ずかしくなってしまい、思わず話を逸らした。

「ねぇ、凪ちゃん。あんなにいろいろ言えるなら、自分の両親にも言ってみたら? ほら、前にも言ってたでしょう? 自分が普通じゃないって思ってほしくないって」

 私がそう言うと彼女はつまらなさそうに、あぁ、と呟いた。

「あたしの親には何言っても無駄さ。何回かああいうこと言ってはみたけど、ごめんね、って泣くだけだ。もっと可哀そうな奴扱いされる。たまったもんじゃないっての」

 彼女もいろいろと苦労してきたのだろう。遠い瞳の奥に悲しみが混じっていた。

「そういえばさ、凪ちゃんって出会った頃と全然違うよね? なんか前は近寄るな、仲間扱いするなって感じだったのに、今じゃ真弓ちゃんのために怒ったりもして、すごいよ、ほんと」

「だからそういうこと言うなって……」

 彼女は恥ずかしさを紛らわせるためか、お冷をグイっと飲み干した。

「ま、そうだな……確かに前のあたしならこういうことに首突っ込むのもしなかった。あんたのせいだからな、マリナ」

「え? 私?」

「あぁ、そうだよ。あんたがあたしに好きになることを教えてくれた。だからさ、いろんなものを好きになろうって、思い始めたんだよ」

 彼女はその後、ぐっと口をつぐんでしまった。

 何かを言おうかどうかを迷っている感じだ。

 そして意を決したように頷くと、口を開いた。

「それでさ、あたし、最近気づいたんだよ……あたしはさ、あんたのことが好きだって」

「嬉しいな。私も凪ちゃんのことが好きだよ」

 はぁ、と息を吐き彼女は頭を掻いた。

 私の答えに満足していないよう。

 いったいどういうことだろうか。

「違うっての……あんたが言ってる好きとあたしが言ってる好きの意味がさ、その……あぁもうじれったい!」

 彼女はグイっとテーブルから身を乗り出し、私に顔を近づけてきた。

 お互いの呼吸が感じられるほどの距離、視線がぶつかり合う。

 彼女の大きな鋭い瞳に見つめられ、私の鼓動はドクン、と高鳴った。

「あたしはあんたが好き! 女の子同士でおかしいかもしれないけど、恋人になってほしい!」

 私は言葉の意味を一瞬飲み込めなかった。

 脳がじわじわと理解してきて、完全にわかった瞬間、顔から火が噴き出るのがわかった。

 それと同時に、目の前にいた凪がとても愛おしい存在のように思えて仕方なくなる。

「えっと……その……」

 私が言葉に迷っている間も、凪は私を見つめ続ける。

 その瞳は、よく見ると静かに潤んでいた。そう、懇願でもするかのように。

 あぁ、そうか、彼女は怖がっているのだ。

 断られたらどうしよう、元には戻れない、そうした思いが今、彼女を支配しているのだろう。

 決死の告白に、私は……

「……いいよ、凪ちゃん。付き合っちゃおうか、私たち」

 了承した。

 私は彼女を受け入れたのだ。

 私の言葉を聞いた凪は、力を無くしたみたいに背もたれに身を預け、はぁ、と大きな息を吐いた。

「はぁ……断られるかと思った……でも、どうして?」

「う~ん……凪ちゃんさ、最近変わろうとしててかっこいいなって思って。それでそんな頑張ってる凪ちゃん見てるとそばで支えてあげたくなったの」

「でも女の子同士……」

「女の子同士で付き合うのはダメって誰が決めたの? それもみんなが言ってる常識だよね? それにそもそも女の子同士だけどって告白してきたの凪ちゃんだし」

「はは、確かにそうだ。あたしたちはバケモノ。世間の常識なんて通用しない!」

 彼女はひとしきり笑った後、頬を染めてこちらを向いた。

「じゃ、じゃあ……改めてよろしくな、マリナ」

「う、うん……凪ちゃん」

 改めて恋人同士になったと意識するとどうにも頬が熱くなってしまう。

 だが不快ではない。とても幸せな温かさだった。


 真夏の日差しが眩い。ギラギラと輝く太陽にアスファルトが熱され茹っている。

 空にはまだ太陽が高く昇っており、帰るには惜しい時間だ。

 そんな日差しに負けないくらい、隣にいる凪が眩しく見える。

 今まで一緒にいたのに、今までの彼女じゃないみたいで、直視なんてできたものじゃない。

 これが恋人になるということだろうか。

「マリナ」

「え!? な、なにかな?」

 突然声をかけられ、ビクリ、と肩を震わせてしまう。

「あのさ、恋人同士って……何したらいいわけ?」

「……え?」

 思わぬ質問に、今まで緊張していたのがバカらしく思えてしまう。

「あたしも勢いで告白したから何も考えてないんだけどさ……恋人同士って普通何するの?」

「まぁ、普通はデートとかでしょ。水族館とか行ったり、一緒に映画見たりとか。あと一緒にご飯食べたりとか」

「ふ~ん……じゃあ、あたしの家でご飯食べる? あたしさ、今日の夜家に誰もいなくて、一人でご飯なんだよね」

「へぇ、じゃあ……」

 いや、待て。これは俗にいう私も食べられてしまうパターンでは?

 マンガで何度か見たことがある。

 それを恋人になった初日から体験することになるとは……

 心の準備ができない。その証拠に私の心臓は先ほどからドクドクと嫌に激しく脈打っている。

「ねぇ、どうするの、マリナ? あたしと一緒にご飯、食べない?」

 凪はそういうことを考えてまで言っているのか、真意が読み取れない。

 私は悩んだ末、彼女の家へ行くことに。

 私だってそういうことに興味がないわけではない。

 ドキドキとわずかな期待と不安を孕みながら、凪の家へと向かった。


 日は夕に傾きつつある頃、ようやく凪の家へ辿り着いた。

 彼女の家はどこにでもあるアパートの一室だった。

 室内もキレイに保たれていて、いかにも普通の部屋だ。

 しかしそこら中に凪の匂いが満ちていて、さらにドキドキが加速してしまいそう。

「何食べたい? 好きなの言っていいから」

 そう言って凪が差し出してきたのはいろんな店のメニューだった。

 ピザ屋からファミレスまで、配達できる近隣の店はほとんど揃っていた。

「え……? 食事って……」

「は? あたしが作ると思ってたわけ? あたし、手料理なんて一言も言ってないって。それにあたしの腕見てそういうこと言え」

 確かに凪は手料理とは一言も言っていない。

 少し期待していた自分が恥ずかしい。

「1万あるから好きなだけ頼もう」

「う~ん……注文してもいいけど……ここは私が腕を見せましょうか!」

 凪の手料理が食べられないのならば、私が凪に手料理をふるまえばいい。

 なんという逆転の発想だ。

「食材、好きに使ってもいいよね?」

「まぁ、いいと思う」

「じゃあ……」

 それから30分ほど後、料理が完成した。

「へぇ、ハンバーグ、おいしそう」

「さらにこれを食パンでサラダと一緒に挟んで……ハンバーグサンド!」

「なるほど……なかなかおしゃれだな」

「これなら片手でも食べやすいでしょ?」

「別にあたしの腕に気を遣わなくてもいいのに」

「恋人なんだからそういうの気にするの」

 そう、お互いもう恋人同士なのだ。互いが互いを支えあう、そういうのが私の理想だ。

「ふぅん、そういうものか? ま、いいや。いただきます」

 凪はそう言ってハンバーグサンドを口に運んだ。

 大きく口を開けてむしゃむしゃと食べていく。

「うん……あ、うまいな、これ!」

「お口に合ったみたいで何より」

 私はほっと胸をなでおろし、自分の分を食べ始める。

 うん、確かにおいしくできている。

 凪は子供みたいに無邪気な顔を浮かべ、パクパクと食べていく。

 そんなに嬉しそうにしてくれると作ったこちらも嬉しいというものだ。

「あ、凪ちゃん、口元にソース付いてるよ」

 凪の口元のソースをティッシュで拭いてやる。

「凪ちゃんってば子供みたい」

「うるせぇ」

 新しく見えた凪の子供っぽさ、そんなところも愛おしく思えてしまう。

 これが恋人になったということなのか。知れば知るほど彼女の深みにハマっていくよう。

「ふぅ、おいしかった」

 あっという間に凪は料理を平らげてしまった。

 私も自分の分を食べ終え、食後のまったりとした時間を共に過ごす。

「あたしさ、いろいろ持ってるあんたが羨ましかった」

 と、唐突に凪は言った。

 急にどうしたと彼女を見ると、真剣な面持ちで私を見ていた。

「あんたはあたしにないものをたくさん持ってる。腕も、幸せも、他にもいろいろな。あたしはあんたに憧れて、あんたみたいになりたいと思った。でも、本当は違うかったんだ。あたしはあんたになりたかったんじゃない、あんたが欲しかったんだ」

 瞳に若干の愁いを帯びて彼女は言う。

「眩しすぎるあんたをさ、この手で掴みたい、そう思った」

「凪ちゃん……」

「だからさ、あたしはあんたを完全に自分の物にしたい。先にお風呂入って、部屋で待ってるから。あんたもお風呂入って、あとから来なよ」

「それって……」

 しかし彼女は私の言葉に何も返さず、すたすたとお風呂へ行ってしまった。

 だが何も言わなくてもわかる。

「それって、そういうことだよね……」

 凪と私はもう恋人同士になった。だからやることと言えば一つしかない。

 凪がシャワーを浴びている音が、部屋に大きく響いているような気がした。

 それと同時に私の心臓もやけに高鳴っている。ドグドグとマグマが沸騰する音みたい。

 頬も熱い。この後のことを想像するだけで体の奥底がじゅっと焦げるよう。

 喉もすごい勢いで乾いてきた。

「凪ちゃん……私は……」

 私は冷蔵庫からお茶を取り出して、コップに注いだ。そしてそれを一気に飲み干す。

 しかし喉の渇きはより一層加速してしまう。もう一度お茶を注ぎ、飲み干した。

「どうしよう……」

 コップを持つ手が震えていた。私はビビっているのか。

 このまま凪の家を逃げるように出ていければどれだけ楽だろうか。

 しかし本能が逃走を拒んでいる。体はもう凪を受け入れるために動き始めてしまっているのだ。

「本当にいいの?」

 恋人になって1日もたたずに、それも女の子同士で体を重ねるなんて、本当にいいのだろうか。

 私は、いいや、凪は、それで後悔しないのだろうか。

 凪の自嘲的な笑みが脳裏に浮かんだ。そしてあの日、凪がしたキスも思い出される。

 まさかあの時みたいに無理に自分を傷つけているのではないか。

「それだと後悔するのは凪ちゃんだよ……」

 私が逡巡している間に、凪はお風呂から出てきていた。

 お風呂上りに上気した顔を手のひらで仰ぎながら彼女は私のいる台所に来る。

「お茶、飲みたいんだけど」

「あ、はい」

 持っていたコップにお茶を注いで凪に手渡した。彼女はそれを一気に飲み干した。

「あたしのパジャマ、お風呂場に置いてるからそれ着ていいよ。下着はサイズ合わないし、ごめんだけど我慢して」

「わ、わかった……」

「早く入ってね。冷めちゃうともったいないから」

 まるで釘を打つかのように凪はそう言って部屋へ行ってしまった。

 結局私はそれに従って、すぐにお風呂へ入った。


「ついにこの時が来てしまった……」

 私は凪の部屋の前に立ち、小さくそう呟いた。

 お風呂に入っていた30分間、それは永遠にも似た長さ、それでいて一瞬とも思える短さだった。

 ドキドキと緊張しすぎて時間の尺度がおかしくなってしまっている。

 お風呂に入ったばかりなのに背にも、手のひらにも汗がびっしょりと浮かんできていた。

 乾く喉を潤すように、大きく唾を飲む。その音が静かな廊下に嫌に大きく響いた。

「はぁ……」

 私は大きく息を吐いた。この扉一枚隔てて今、凪が私を待っている。

 そして数分もたたぬうちに私たちは、一線を越える。

「凪ちゃん、入るからね!」

 私は自分を鼓舞するように大きくそう言い、ドアノブに手をかけて部屋へ入った。

 部屋の中は真っ暗。唯一の明かりは窓から差し込む街の明かりと、丸々と太った満月の明かりのみ。

 窓ガラスから漏れるそれらの光を一身に浴びるように、彼女はベッドの上にちょこん、と座っていた。

 そして私を見るなり、いじらしく顔を歪めた。

 にんまりと浮かぶ口元の三日月、子供でもあやすみたいに愛おしさに笑んだ瞳が私を捉えて離さない。

「待ってたよ、マリナ」

 凪は優しくそう言い、一本しかない腕をこちらに差し出した。

 私の足は自然と動き、彼女の元へ歩いていく。

 そしてゆっくりとその手を取った。

「凪ちゃん……」

 私は凪の手を取ったまま、彼女と向かい合うようにベッドに座った。

 窓から差し込む光が、暗い部屋、私たちだけを照らし上げる。そう、それはスポットライトのように。

 今から始まる恋人たちの演舞を映し出す、鮮やかな照明だ。

「マリナ、あたし、マリナが好きだよ。マリナは?」

 彼女の無垢な瞳が私を捉えた。

「わ、私も……好き……」

 改めて好きというのは気恥ずかしかった。しかし彼女は私に好きと言ってもらい、さぞ嬉しそうに頬を緩める。

 あぁ、なんと愛らしいことか。

「マリナ、大好き」

「凪ちゃん、大好き」

「好き」

「好き」

 お互いの気持ちを確かめ合うように、好き、と言いあう。

 好き、たった二つの文字、それが私の鼓膜を震わせるたびに体を熱くさせる。

「ねぇ、マリナ……キス、しよう……」

 凪が手を繋いだままこちらに迫ってくる。

 心の準備が中途半端だった私は、それから逃れるみたく後退り、どん、とベッドに倒れこんでしまった。

 私の上に凪が被さる。まるで押し倒されたみたい。

「マリナ……」

 凪の顔がだんだんと近づいてくる。

 このキスを受け入れてしまえば、そこから情事は始まってしまう。

 私はきゅっと目を閉じて、凪のキスを待った。

 唇に凪の呼吸がかかる。鼻孔に石鹸の良い匂いが漂ってくる。

 凪との距離が近い証拠だ。

「……凪ちゃん」

 私は彼女の名を小さく呟いて、キスを待った。

 しかし一向に彼女はキスしてこない。それどころか、凪との距離が離れていく。

「凪ちゃん?」

 私はゆっくりと目を開けて、凪を見た。すると彼女は申し訳なさそうに顔を歪めて、私を見ていた。

「どうしたの?」

「なんか、違うなって……」

「え?」

 彼女はそう言うと私の頬を指さした。私はゆっくりと頬を触る。

 いつのまにか暖かな液体で濡れていた。

「マリナを泣かせてまですることじゃないよな……ごめん、変に焦っちゃって」

「そ、そんな……私は凪ちゃんを」

「ううん、マリナは無理してる。わかるよ。体も怯えるみたいに震えてたし。そうやって無理やりしても、お互い傷つくだけだ」

 彼女はそう言うと、私の横にごろり、と寝転がった。

「だから今日は何もしない。マリナがしてもいいって、ちゃんと考えて決めた時にする」

「凪ちゃん……」

「それに、なんか急いでマリナの全部をもらっても、それはそれで面白くないし」

「……ありがと、凪ちゃん」

 凪の優しさが胸に染みた。心の奥底がぽかぽかとする。

 恋人に思ってもらう嬉しさとはきっとこういうことなのだろう。

 だから私は彼女の頬に優しくキスをする。

「優しい凪ちゃん、好きだよ」

 私は凪ににっこりと笑んで見せた。

 彼女はそれを見て、にっと微笑み返してくれた。

 そうだ、私たちはまだ焦らなくていい。

 ゆっくりと好きを成長させていけばいいのだ。


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