6.記憶をたどって
私は彼のことを知っていた。コインランドリーで出会うよりも前から、彼はすでに私と出会っている。
ずっと、忘れていた。初めて会ったと思っていた。どうしてこんなに優しくしてくれるのか、なんで私の過去を聞いてこなかったのか。
それは彼が私の恋人だからだった。
彼は私より二つ年下の大学の後輩だった。当時の私は、一つ上の先輩だった村上くんと同棲をしていた。
飲み会でお酒を飲みすぎて、ふらふら知らない男について行こうとしたときに
「お水飲んでください。あ、すいません……俺が送っていきます」
と言って、勝手に介抱してくれたのが彼だった。
「え、えっと」
「あ、大学一年の水澤瞬です。その……大丈夫ですか?」
そうだ、このときに名前を教えてもらってたんだ。
帰ることになって立ち上がろうとすると、酔いが回りすぎているせいで足元がおぼつかない私を支えてくれた。
「だいじょうぶです」
「……大丈夫じゃないですよ、ほら。僕の腕につかまってください」
そのときだった。私の着ていた服の袖がめくれて、痛々しい青い痣が見えてしまった。今日の朝、村上くんに殴られたんだった……。
「あ」
「…………つかまってください?」
彼はそのときは何も言わずにいてくれた。私の傷には気付いていたけど、生々しくてショックだったのかもしれない。彼の腕から伝わってくる体温が、あたたかかった。
居酒屋を出てから少し歩いたとき、彼は心配した顔で
「大丈夫ですか……?」
と言いだしてくれた。さすがに仲良くなったばかりの人に私情を話すわけにもいかない、と思って咄嗟に
「だいじょうぶだよ」
と返した。すぐに強がって嘘をついてしまうのは私の悪い癖だ。
まんまるに光る満月を見上げながら、私は涙をこらえた。帰ったら、きっとまた怒られる。それでも村上くんは私を殴ったあと、優しく抱きしめてくれる。結局私のことが好きなんだ、と信じていた。
「大丈夫じゃ、ないですよね……」
そんな言葉に驚いて、彼を見上げる。大胆なことを言う人だ、と思った。
「いや、全然、だいじょうぶです」
気が付くと、私は泣いていた。涙で濡れた頬が、時折吹く風に冷やされた。少し困った顔をした彼が、滲んで見える。ごめんね、年上のくせに泣いちゃって。
「強がんなくていいんですよ」
子供のように泣き出してしまった私をみて、彼はそう言ってくれた。酔っていた私は、勢いで彼に抱きついてしまったんだった。それでも、彼は優しく受け止めてくれた。嬉しかった。
「帰るの、辛くないですか」
私の家に着く直前になって、彼はそう言った。終電はとっくに過ぎていた。
「辛いです、ちょっとだけ」
正直な思いを伝えたのは、本当にひさしぶりだった。また泣きそうになってしまう。彼の目は、私を優しく包み込んでくれた。
「そういう意味じゃないんですけど、僕の家に泊まりに来ませんか」
そのとき、ポツ、ポツと雨が降ってきた。次第に雨脚が強くなっていく。周りの音が、雨でいっぱいになっていく。今なら、自由になれる気がした。
「泊まりたいです、雨も降ってきたし」
彼は「そうですね、風邪を引かないうちに」と言って、私を彼の家に案内してくれた。村上くんからの着信が何件も表示されていた。それでも、その夜の私は何も怖くなかった。きっと、彼がいてくれたから。
それから、私は彼の家に居候することになった。服は適当に買い揃えたり、彼の服を借りたりしてしのいだ。村上くんが人脈を駆使して、彼の家を訪ねてきたこともあったけど、押入れのなかに隠れて潜んだりした。
彼は私のことを知らないフリをする演技が上手だった。「美晴さん……俺の友達にはいないですね」と言っているのを聞いて、少し寂しくなったりもした。
たまに甘えて、抱きついたりキスをしてみたりもした。告白はしていないけれど、私は彼のことが好きだったし、彼も嫌がってはいなかった。
「付き合おっか」
そんな言葉も自然に出てきたものだった。彼は驚きもせず、ただ静かに頷いて私を抱きしめた。
そんな毎日を過ごすなか、突然彼が帰ってこなくなった日があった。
「夕方までには帰るからね」
と言って出掛けたのに、夕方になっても、夕飯の時間になっても、寝る時間になっても帰ってこない。連絡をしても、返事どころか既読すらつかなかった。連絡がマメな彼に、何かあったのは間違いないと思った。
不安になって、彼を探しに行った。近くのスーパー、交番、駅の周り、コンビニのなか。どこに行っても、誰に聞いても彼は見つからなかった。
もう時計は深夜の一時を差していた。そろそろ戻っているだろうか。淡い期待を抱きながら帰ろうとしたとき、暗い公園のなかに街頭に照らされた彼を見つけた。
彼はボロボロだった。誰がやったのかはすぐに分かったけど、私が彼に声をかけることは出来なかった。すぐに駆け出したのに、邪魔が入った。
後ろから突然バイクに突っ込まれて、一時的に意識を失ってしまったからだ。
打ちどころが悪かった私は、脳の一部が損傷してしまい、一部の記憶を失ってしまった。
それが、彼の記憶だった。
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