5.頬を伝って
「それじゃあ、またいつか」
部屋の前に着くと、彼はそう言って立ち去ろうとした。素っ気ないなぁ。やっぱり私の勘違いだったのだろうか。
「あの、」
思わず声をかけてしまう。彼は少し驚いた顔をして振り向いた。驚いた顔もかわいいな、なんて。
「こんな時間で、迷惑かもしれないんですけど……お礼がしたいので……少しお茶でも飲んでいきませんか……?」
すると、彼は堪えるように笑いながら
「名前も知らない男を家にあげるなんて、なかなか大胆なんですね」
と言った。確かに、無防備すぎるかもしれない。私は彼の名前も、年齢も、過去も知らない。それでも、彼はなんだか信頼出来る気がしていた。
「あ、いや、それは、その……。名前は、教えて貰えばいいですし」
強がってしまう。泣いたばかりのはずなのに、弱みを見せるのはやっぱり難しいみたいだった。私はそう言って、部屋の鍵を開けて「どうぞ」とドアの前に立つ。
「いいんですか?」
「……はい、なんだか信頼できますし」
すると彼は子犬のように微笑んで「お邪魔します」と、私の部屋に入っていった。こういう人懐っこそうなところも、年下っぽい。
「紅茶か缶チューハイしかないんですけど……」
そう言うと、彼は私を見て「お酒、好きなんですね。紅茶で大丈夫です」と微笑んだ。なんだか恥ずかしい。酒飲みは嫌われるだろうか。ひとつひとつの言動に翻弄されてしまう。
ベッドの横にある机に、私と彼のマグカップが並んでいる。二人で狭いワンルームに並んで座りながら、ふわふわと消えていく湯気を眺めていた。この前買ったばかりのガラスの小さな間接照明が、部屋を包み込むように灯っている。
「あの、今日は助けていただいて本当にありがとうございました」
外から雨の滴る音が聞こえてくる。音が聞こえてくるのに、とても静かに感じた。
「いや、僕が勝手に動いてしまっただけです」
「一人だったら、絶対足がすくんで動けなかったと思うので……」
そこで会話を途切れさせてしまう。
途端に過去の記憶が、どばどばと流れ出してきた。村上くんの貼り付けたような優しい笑顔、上辺だけの甘い声、初めて頬を叩かれたときの痛い音、私を傷付けた刃物のような言葉たち。
「すぐに感じ取ってあげられなくて、ごめんなさい」
彼の震えるような声に驚いて、自然と俯いていた顔を上げてしまう。彼は俯いていて、表情が見えなかった。どんな顔で、どんな気持ちでそんな言葉を言ったのだろう。
「なんで」
喉の奥がきゅうっと閉まって、まぶたの周りが熱くなる。もう、泣いてもいいだろうか。
「なんでそんなに、優しいんですか……」
ボロボロ涙を溢しながら、私は彼に問いかける。どうして。なんで。知り合いで、ただの友達で、お客さんだったはずなのに。
そんな私を見て、彼はまたあたたかい手で私の頬を伝う涙を拭った。「こすったら、腫れちゃいますからね」と優しい声で呟く彼の声は、愛情に満ち溢れている。ずるい。私よりきっと年下のくせに。私に優しくする暇があれば、大学のサークルで可愛い女の子と遊びまくれるくせに。ずるい。こんなの、ずるい。
「僕は、美晴さんの恋人だからです」
その瞬間、ずっと知らなかったはずの彼の名前を思い出した。気付くと私は、彼の腕のなかにいる。彼の頬には、涙が伝っている。
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