4.月明かりに照らされて

「本当に良かったんですか」

 街頭に照らされた私と彼の影が、ゆっくりとマンションに向かう。彼は居酒屋を出て少し歩いてから、ふと溢すように呟いた。

「嫌だったらとっくに断ってます」

 私は思わず笑ってしまう。そんなに心配するなら、誘わなければいいのにな。意気地なし。やっぱり年下だ。何歳なんだろう。

 自分よりずっと高い身長の彼を見上げると、彼も私を見ていた。目が合ってしまい、お互いに恥ずかしくなって目をそらす。

「名前、なんて言うんですか」

 ずっと聞いてみたかった。一緒に帰る仲なのに、名前も知らないなんて変だ。

「あ、言ってなかったですよね。僕の名前は」


 そのときだった。見覚えのあるスーツ姿の男の人が反対方向に向かって歩いてきた。なんでこんなところに。彼の名前も頭に入ってこないまま、話しかけられる。

「ひさしぶり、美晴」

「ひさしぶり、だね。村上むらかみくん……」

 少し足取りが遅くなってしまう。それに気付いたのか、彼は戸惑いながら私と村上くんを交互に見て

「美晴さん、大丈夫ですか?」

と小さな声で聞いてくる。驚いたまま、私は黙っていると村上くんが口を開いた。

「美晴が元気にしてそうでよかったよ」

 村上くんは一年前のあの日と同じ不自然なほど優しい声で、そう言った。

「……うん」

「君は……」

 私は彼を見上げる。彼の眼差しはさっきよりも少し鋭くなっていて、村上くんを見つめていた。なんて答えてくれるんだろう。

「美晴さんの友達です」

 さっきまで知り合いだったのが、友達に変わっている。まだ私は彼の名前も知らないのに。

「へぇ。美晴はバイト帰り?」

「うん、そうだけど……。な、なに?」

 忘れたい記憶が、ズルズルと引っ張り出されてしまう。やめてほしい。もう二度と会いたくなかったのに。

「いや、なんとなく仕事がこのへんであったから、美晴の顔でも見たいな〜と思って」

「……そう、なんだ」

「美晴さん、帰りましょう」

 そう言われて、私は彼の服の裾を震えながら握っていたことに気付いた。



「大丈夫、ですか?」

 村上くんから逃げるように立ち去って、もうマンションが目の前になったときにそう言われた。優しいな。

「大丈夫です……ありがとうございました」

 年下の男の子の前で、泣くわけにはいかない。弱い女なんて頼れない、ときっと残念がられてしまう。

「……大丈夫じゃないですよね」

 なんてこと言うんだ。真っ向から否定するなんて。

「……大丈夫です」

 次に口を開いたら、涙が溢れてしまう。涙を抑えようとすると、喉がきゅうっと閉まった。

「強がんなくていいんですよ」

 彼の優しい声に、黙ってうなずく。

「部屋まで送ります、嫌だったら断ってください」

 ほら、そんなに優しくされたら涙が溢れてしまう。ゆっくりと顔を上げると、月明かりに照らされた頬に涙が伝った。止めようとしても、涙は流れ続けてしまう。手で拭っても、すぐにまた溢れてしまう。彼はそんな私に驚きもせず、そっと細い指先で涙を拭ってくれる。あたたかい。

 涙でぼんやりと見える彼が、彼氏だったら抱きしめてくれるのだろうか。私が彼女だったら、キスをして慰めてくれるのだろうか。

 そんなことを考えていると、彼は立ち止まってから空を見上げて

「今日、満月らしいです。綺麗ですよね」

と呟いた。彼は、私の気持ちに気付いているのだろうか。

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