3.知り合い
「いらっしゃいませ〜」
赤い暖簾をくぐってきた常連のおじさんに笑顔を向ける。
「
「はい!」
「こんな時間までよく頑張るねぇ〜! じゃ、とりあえず生ビールお願い!」
「は〜い」
狭めの店内の卓をすいすいとすり抜け、厨房のほうに置いてあるビールサーバーでビールを注ぐ。泡の比率を確かめながら、慎重に、スピーディーに。
今日は閉店までシフトが入っている。面倒だけど、今日は雨だから客も少ない。
それに、店長がいるから、きっと早く締めてくれる。店長はいつも店を早く締めたがる。最近生まれたばかりの娘を溺愛していて、今すぐにでも帰って娘の顔を見たいらしい。
大学を卒業して、就職したはいいもののすぐに会社を辞めてしまった。それからずっとこの居酒屋で働いている。
24歳、独身、フリーター。それが私の今の肩書きだ。
「どうぞ〜」
「ありがとう」
並々と注がれたビールを常連さんの座る一番奥の卓まで運ぶ。
厨房に戻ると、店長がサービスの唐揚げを揚げていた。カリッと揚がった唐揚げを見つめていると
「……いる?」
と聞かれた。そんなに顔に出ていただろうか。
「いいんですか?」
「いいよ、今日はお客さんも少ないし」
そう言って、店長は小皿に二個ほど唐揚げを分けてくれた。おいしそう。思わず口角が上がっていると、また新しくお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ〜、何名様でしょ……え……」
そこには雨の日になると出会う、同じマンションの彼が立っていた。
「あ、えっ、ここで働かれてるん……ですね」
茶髪だったはずの髪が、濡れて黒っぽくなっている彼は、なんだか色っぽく感じてしまう。
「はい……一名様で?」
「はい、一名様です」
近くに住んでいるんだから、そりゃこの居酒屋も来る可能性だってあるし、と動揺を必死に抑えようとしているところで常連さんと目が合った。嫌な予感だ。
「やるねぇ、美晴ちゃん」
まだ何もやってないって。全力で否定したい気持ちを抑えて、苦笑いを向ける。っていうか、まだ、ってなんだ。まだ、って。期待すんな、私。
「ここ、座っていいですか?」
なんだか緊張してしまい接客を忘れて黙っていると、彼はカウンター席を指差した。
「あ、どうぞ。何飲まれますか?」
「あ〜、じゃあ生で」
「わ、分かりました〜」
慌ててビールを注ぎに厨房に戻ると、店長がニヤニヤしながら待っていた。
「なになに、恋人?」
小声でそう聞いてくる店長に「違います」とキレ気味に答えると、たっぷりと泡が乗った黄金比率のビールジョッキを彼のもとに持っていく。
「ありがとうございます」
そんな、優しく微笑まれたら。
「あの、だし巻き卵、頼んでもいいですか?」
「あっ、はい!」
思わず声が上ずってしまい、顔が熱くなる。
「だし巻きひとつ〜」
「はいよ〜」
なんでこんな。厨房に戻るとき、ちらりと彼のほうを振り返ると一瞬だけ目が合った。綺麗な横顔も、微笑んだ顔も。
「すいません」
また、声をかけられる。お客さんらしく、黙って一人で飲んでいたら意識しなくていいのに。なんて馬鹿なことを考えてしまう。
「はい!」
気持ちを悟られないように、精一杯の笑顔で返事をすると彼は持っていたジョッキを置いて
「なんか、すいません」
と軽く頭を下げて謝ってきた。
「えっ、いや、私別に何もされてないですし、謝んないで下さい」
思わず肩を片手でとんとん、と叩いて頭を上げてもらおうとする。服が少しだけ、濡れていた。彼に触れた指先からお互いの体温が伝わってしまって、また顔が熱くなる。
「知り合いにバイト先で会うのって、なんか嫌かな〜……みたいな」
知り合い。そうだ、私と彼は知り合い。ただの近所付き合い。彼にとっても、私にとっても。
「全然大丈夫ですよ〜、むしろ新しいお客さんが増えて嬉しいです」
「それなら、良かったんですけど」
彼は安心したようにぐびっとビールを飲み、私を見つめる。酔ってるのかな。
「……美晴さん」
「えっ」
突然自分の名前を呼ばれて驚く。名前を呼ばれただけなのに、鼓動がトクトクトク、とどんどん早くなっている。どうして名前を知ってるんだろう。名乗ったことなんて、一度も……。
「呼ばれてますよ? 店長さんに」
はっ、と気付く。完全に彼のことだけを考えていた。だし巻き卵だ。忘れていた。
「あっ、すいません! ほんと、すいません……」
厨房に行くと、店長が呆れたような、嬉しそうな表情でだし巻き卵の乗ったお皿を持っていた。
「大丈夫? 恋は盲目、ってやつかな?」
「ちがっ、大丈夫です! そんなんじゃ、ないです」
彼のところにだし巻き卵を持っていく。ちょっと冷めちゃったかな。
「ありがとうございます、あの」
「はい! なんでしょうか……」
意識しすぎだ。そんなの一番、私が分かっている。
「ここの閉店時間って何時ですか?」
ほら、ただのお客さん。期待しちゃ駄目だって、分かってるのに。
「え〜っと、23時半なんで、あと三十分くらいです」
「それなら、バイトが終わったら一緒に帰りませんか?」
ずるい。お客さんなのに。知り合いなのに。
「……嫌だったら、全然断ってください。強要はしたくないんで」
きっともうすぐ、知り合いだと思えなくなってしまう。
「……いいですよ、同じマンションですし」
「あ、まぁ、そうなんですけど……嫌じゃないならよかったです」
彼はまた安心したような顔をして微笑んだ。笑うと目の横にシワが寄って、くしゃっとなる。可愛いな。
「嫌じゃない、です」
ふと、そう呟いてしまう。心の声が漏れてしまい、自分で驚いていると、彼も一瞬驚いたのか少し間を置いてから
「僕は、嬉しい、です。とっても」
と言った。きっと酔っている。
「私も」
そう言うと、私は途端に恥ずかしくなって厨房に戻った。
「美晴ちゃん、お会計」
常連のおじさんにそう呼ばれ、お会計をする。レジを打っていると、おじさんが口に手を添えて、こっそり話すようにして
「彼と、仲良くね」
と言ってきた。悪気はないのは分かっているが、少し声が大きくてハラハラしてしまう。ちらりと彼のほうを見ると、厨房のほうを見ていた。よかった、聞かれてないかも。
「ありがとうございました〜」
おじさんを見送ると、厨房では閉店の準備をする店長がいた。
「今日は客も来ないし、色々あるみたいだし、早く締めちゃおう」
「あっ、はい」
私も皿洗いを手伝ったり、すっかり冷めた唐揚げを食べたりする。お腹が空いていたからか、頬張っていると店長に
「今日はもう帰っていいよ〜」
と言われた。嬉しいのに、緊張が高まってしまう。
「お疲れ様です!」
エプロンを外し、急いで帰る支度を済ませた。手を繋いだりするかな、と思い念の為石鹸で丁寧に手を洗った。ばかみたいだ。ただの知り合いって言われたのに。
「お疲れ様です、帰りますか」
お会計を済ませた彼にそう見つめられる。カウンター席から立ち上がった彼が、思ったよりも身長が高くてびっくりする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます