第5話

「いいや。君は普段どおりに振る舞っているつもりかもしれないけど、態度にでてる。浮気をしたことは悪かった。それは謝る」


 僕は頭を下げた。信じてもらえないかもしれないが、本気で悪かったと思っている。

 そのまま数十秒下げ続けてから僕は顔を上げた。


「そのことで溜め込んでるものがあるなら、いまここで吐き出してほしい。都合のいいことを言うけど、あとで蒸し返されるのは嫌なんだ」


 僕の気迫に押されてか彼女は困惑顔で僕を見た。


「……わたしは気にしてないから、あなたも気にしないで。一時的な気の迷い、なんでしょう」


 これが彼女の本心ならこの問題は解決する。けれど、そうではないと僕にはわかっていた。

 普段の彼女はもっと幸せそうに食事をする。本当に美味しそうに、嬉しそうに食べる。それが今日は味がしない様子で、無理に飲み込んでいるように見えるのだ。


「君が気を遣ってくれるのはうれしいよ。でもこういうのを曖昧にしておくのは後々よくない。なにかあるんだろ。だから連絡もあいたし、いまだって辛そうにしてる。言ってくれ、思ってること全部」


 彼女の瞳が戸惑うように揺れる。やはりなにかあるのだ。

 彼女は少し躊躇うようにしてから口を開いた。


「いなくなったの、急に……」

「いなくなった?」

「今月きた子……、どこにも姿が見えないのよ。家中探しても見つからなくて、近所も、もっと先まで範囲を広げて探してもいないの。どこにも……」

「今月きたって……猫?」


 ええ、と彼女が小さく頷く。

 僕は呆気にとられた。

 彼女が塞いでいた原因は僕の浮気ではなく猫の失踪──その事実は僕のプライドを傷つけた。


 僕の浮気と猫の安否。この二つを天秤にかけるのは間違っているのかもしれない。あの猫はまだ小さかったし、車やバイクにはねられたらそれこそ命に関わる。彼女が心配するのも無理はない。

 問題はそこじゃない。

 彼女ははっきりと口にした。僕の浮気について気にしてない、と。

 それは裏を返せば、あなたは信頼に値しない人間で、期待もしていないので浮気くらいで驚かない、という意味ではないか。

 もちろん好きだから許すという意味にもとれる。けれど僕には彼女から愛されているという自信がなかった。

 いまだって自分から家に誘っておいて、彼女の意識は目の前の僕を素通りし、ここにはいない猫に向かっている。


 思い返せば、彼女は恋愛に関して淡白だった。デートをして手料理を振る舞い、夜を共にしても、彼女はどこか他人行儀だった。

 けっして無理を言わないし、僕を甘やかしはしても自分から甘えてはこない。

 僕はそれを彼女の優しさだと思っていた。僕が大事だから、負担をかけないようにしてくれているのだと。

 だが、おそらくそうではない。

 僕の浮気現場を目撃した日、彼女はたしかにこちらを見た。僕と後輩の関係にもすぐに気づいただろう。

 それなのに彼女の意識は次の瞬間にはいなくなった猫に移った。目の前で浮気している僕のことなど思考の隅に追いやって──。


 彼女にとって僕は二の次にできる存在なのだ。


 抉れた心に、ずんと鉛のような重しまでがのしかかってくる。

 空調のせいではなく背筋が震えた。恐怖ではない、別の感情により視界が赤く染まり、かたかたと指先に震えが走る。


「──別れよう」


 いても立ってもいられなくなり、僕は勢い込んで立ち上がった。ガタッ、と椅子が大きな音をたてる。


「どうして……?」


 驚いた顔をする彼女に、僕はわざと冷たく言い放った。


「知ってるだろ、他に女がいるんだ。君とはもう終わりだ」

「そのことなら気にしないで。ちっとも怒ってないから。だからこれまで通りでいましょう」


 なにもわかってない彼女が腹立たしくて、僕は声を荒らげた。


「無理だ! これまで通りでいられるわけないだろ」


 しんと短い沈黙が落ちる。

 彼女は戸惑いの表情を浮かべて僕を見た。


「……わたしとは続けられない、ということ?」

「ああ」

「あの夜の人と付き合うの?」

「君には関係ない」


 冷めた声で苛立ちのまま突き放すと、彼女は複雑そうに眉をよせ、諦めまじりの言葉をこぼした。


「……わかった……、なら、お友達ね」

「友達?」


 僕は腹の中で嗤った。この状況でなお、別れたあと友達でいられると思える彼女の思考が僕には理解できなかった。


「僕がこの部屋を出た瞬間から君とは赤の他人だ。もう二度と関わることはない」


 揺るぎない意思を示すよう強い語調で言うと、彼女の瞳が切なげに揺れた。


「……どうして、そんなことを言うの?」

「どうしてでもだ。理由を説明してもたぶん君には理解できない」


 ひどい言葉だと思いながら、それでも僕は口にした。

 君は僕より猫が大切なんだろう。という言葉を飲み込んで。

 もし僕がそう言ったら、彼女はそんなことない、と否定するだろう。だがその言葉を僕は素直に受け止められない。なぜなら僕自身が、彼女は僕より猫が大切だと感じているから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る