第4話


「うち行く前にドラッグストアよってね。こないだ使ったのでもうないから。お忘れなく」


 足元も覚束ないほどべろべろに酔った後輩は周囲に響くほどの声を出した。僕の身体が強張ったのには気づいていないようだ。


「あとコンビニで明日のごはんとデザートも買わなきゃ。なににしようかなあ。ねえ、なにがいい? なににする? なにかおいしいの残ってるかな〜」


 なにも答えない僕にご機嫌な様子で話を振る。

 先程から僕は後輩を引き剥がそうとしているが、絡みついた両腕がしきりに追ってきて振りほどけないでいた。

 僕らがいるのは信号もない交差点。道路の向こう側にいる彼女にも会話は聞こえているだろう。彼女はすべてを察したような顔をした。

 状況からみて、酔いつぶれた後輩を送る役割を任された、と取り繕ったところで誤魔化せるか怪しいところだ。


「わかったから、声落として。迷惑だよ」


 僕はとりあえず後輩を黙らせようとした。


「はーい、わかりました〜。静かにしま〜す」


 これまた大きな声で言って後輩は素直に応じた。かと思うと僕の手に指を絡めてくる。

 僕がやめさせようとしている間にも彼女は近づいてきた。

 この場ではたかれるか、問い詰められるだろう。

 僕はゴクリとつばを飲んで身構えた。


 しかし──

 予想した事態は起こらなかった。


 彼女は無言で僕の脇を通りすぎ、その歩みにあわせてコツコツとヒールの音も遠ざかっていく。

 その音が小さくなっても僕は振り返れなかった。

 振り返ってもし彼女がこちらを見ていたら。そう思うと恐ろしくて、寄りかかってくる後輩を支えながらひたすら足を前に進める。

 ポケットのスマホは沈黙したまま。それがかえって僕を落ち着かなくさせた。






 数日たっても彼女からの連絡はなかった。

 きっと嫌気がさしたのだろう。いまの状態が続けば彼女とは自然消滅になりそうだ。

 それも仕方がない。僕は二股をかけたのだから。

 もちろん僕から連絡を入れることはできる。けれど詰られたり泣かれたりすることを想像すると手がとまった。

 もともと住む世界が違ったのだ。このあたりが潮時だろう。

 そんなふうに自分を納得させ、彼女との関係を割り切ろうとしていたその日の午後、メッセージが届いた。


 ──今週はいつ会える?


 恨みも悲しみも読み取れない短い文。

 僕は少し迷ってから空いている日を返信した。

 いまさら弁明したところで僕らの関係が修復できるとも思えないが、話し合いの場くらいは持つべきだろうと考えた。







 約束の日、僕は予定より早く彼女の部屋を訪れた。彼女とじっくり話す時間を設けるためではない。早く結論がほしかったからだ。

 せっかちな僕はどっちつかずの曖昧な状況が苦手で、結果がいいにせよ悪いにせよ早く片付けてしまいたかった。


「いらっしゃい」


 僕を出迎えた彼女は少し疲れたような顔をしていた。先日のやり取りでは彼女の感情を推し量れなかったが、こうして対面するとひどく落ち込んでいるのがわかる。

 それでもテーブルには二人分の食事が準備されていた。


「座って」


 彼女に促され、僕はいつもの椅子に座った。


「今日はなににする?」

「任せるよ」


 彼女が持ってきたのは赤ワインだった。それを互いのグラスに注ぎ、なんに対する乾杯かわからないまま僕らはグラスを持ち上げた。

 食事をはじめてからも彼女はあの夜の出来事に触れてこなかった。話題は最近のニュースや僕の仕事についてなど当たり障りのないものばかり。

 これは浮気を不問に付すという彼女からの合図だろうか。それとも言い出せずにいるのか。

 彼女の真意が読めないまま、ずるずると時間を消費する気にはなれず、僕は食事の手をとめた。


「どうしてなにも言わないだ?」

「……気づいてたの?」


 明るく振るまっていた彼女の表情が陰った。


「いくら夜でもあの距離ならね。君はあの日、僕を見て気づいたんだろう。僕が君とあまり会わなくなった理由に」


 彼女は少し間をおいて「ああ」と小さくこぼした。


「……そうね……」


 それきり口をつぐんでしまう。しばらくたっても黙ったままなので、また僕のほうから口を開いた。


「怒ってるんだろ」


 でなければこんなに連絡があくことはなかったはずだ。しかし、彼女は静かに首を振った。


「いいえ、怒ってない」

「なら悲しんでる?」


 これにも彼女は首を横に振った。


「じゃあどう思ってるんだ? 僕に対してなにか思うところがあるんだろ。だから連絡だってしてこなかった。正直に言ってくれ」

「……どうも思ってない。本当よ……」


 端から見ても沈んでいるのに彼女はそれを認めようとしなかった。

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