第3話

 ふっ、ふーん。ふふ、ふーん。ふふふーん。

 ふっ、ふーん。ふふ、ふーん。ふふふーん。


 彼女はたまに鼻歌を口ずさんだ。こういうときはきまって機嫌がいい。


「その歌、お気にいりだね」


 僕が指摘すると、彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「つい唄っちゃうの。はしたないわよね」

「そんなことないよ」


 僕は洗い物をしている彼女を後ろから抱きしめた。彼女の身体は僕より小さく、僕よりずっと柔らかい。艷やかな黒髪に鼻先を埋めて白いうなじに口づけると、薄っすらと甘い匂いがした。

 強い香りが苦手で、デパートの化粧品売り場を避けて通る僕が、どういうわけかその香りは平気だった。とれたての甘酸っぱい果実のようで、いくらでも嗅いでいられる。


「それ、まだ時間かかる?」


 シンクには洗い物が残っているとわかっていて僕は訊ねた。


「もう少し。お風呂いれるから先に入って」


 彼女はゴム手袋についた泡を流し、僕の腕をすり抜けて壁の給湯パネルを操作した。シャランと軽やかな電子音がなり、向こうで水音が聞こえてくる。


「わかった」


 戻ってきた彼女の肩を軽く抱いてから僕は椅子に戻った。さっきの続きをしたい気持ちはあったが、それは後にとっておく。

 時間ならたっぷりある。焦ることはない。それに機嫌がいいのは僕も同じだ。

 風呂がわくまでの間、僕はスマホゲームで時間を潰した。






 互いに風呂をすませた僕らは当然のようにベッドに沈んだ。まだあたたかい彼女の身体は甘い香りが増していて、僕は蜜を集める蜂のように彼女の肌を吸った。

 二重まぶたの大きな瞳。形のいい眉。高すぎない鼻に小さな顔。

 長い髪はサラサラで、艶のある唇の隙間から絡みついてくる舌は柔らかくて温かい。

 なだらかな曲線を描くふくよかな胸。細い腰。

 白い肌はしっとりとしていて、思わず歯を立てたくなるほどつるんとしている。なんだか食べ物のようで僕は思わず噛みついた。


「痛っ」


 彼女が美しい顔を歪める。けれどすぐに穏やかな顔に戻り、幼い子供に言い聞かせるようにたしなめた。


「ダメよ、噛んだら」

「ごめん」


 僕は歯型のついた部分をいたわるように舐めた。

 優しい彼女は僕が多少ハメを外しても受けとめてくれる。食事の後、僕が片付けを中断させ、欲望のままことを進めても彼女ならきっと許してくれた。それくらい彼女は僕に甘いのだ。




 このところの僕は仕事も恋愛も順調。いままでにないほど充実した毎日を送っている。それなのに──いや、そのせいか──欲がでた。

 他にもっと自分にあう女がいるんじゃないかって。






 彼女は僕が恋人に求める条件を満たしていたが、不満がなかったといえば嘘になる。

 第一に、彼女は落ち着きすぎていた。

 彼女の心は秘境にある湖のように穏やかで、めったなことでは波立たない。たとえば僕が突然約束をキャンセルしても、話の流れで僕が別の女性を褒めても、彼女は腹を立てないし、嫉妬もしない。

 寛容なのは有り難いが、ちっとも執着されていないようで物足りなさを感じる。


 第二に、僕は雇われの身で彼女は自由という事実。

 立場の違いは仕方がないと理解していても面目が立たないというか、やはり面白くなく、彼女といるとときどき惨めな気分を味わった。

 そんな不満をいい訳に、僕は会社の後輩と浮気した。


「いいんですか、彼女いるのにこんなことして」


 上目遣いの後輩が僕を見る。その口調は愉しげだ。


「そっちこそ。彼女のいる男とこんなことしていいの」


 僕が言われたままを返すと、目の前の唇がいたずらっぽく持ち上がる。


「じゃあ今度、お寿司おごってくださいね」


 後輩は彼女より若く、感情を素直に表した。嫉妬もするし、平気で僕に怒りをぶつけもする。我がままで、気分屋で、料理だってろくにしない。

 デート代だってほとんど僕持ち。可愛い容姿をしているが、彼女ほどではなく、彼女を上回る要素はほとんどない。

 それでも僕は後輩を優先した。明るくて元気で歯に衣着せない後輩は彼女から得られなかった刺激を与えてくれる。

 それが心地よくて、次第に後輩といる時間が長くなった。


 そしてある夜、酔った後輩と腕を組んで歩いていた僕は運悪く彼女に出くわした。

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