第2話
僕らはワインで乾杯した。
「この間、会社の後輩が君のこと美人って褒めてたよ。なにか秘訣でもあるのかって」
実際、彼女は僕が付き合ってきた女性の中でいちばん美人だった。
「そうねえ……、社交辞令かもしれないけど、答えておきます」
彼女は改まった口調で言ってから、ふっと目元をやわらげた。
「十分な睡眠とストレスの少ない生活。あとは美味しい食事かしら」
その言葉どおり彼女はよく寝たし、経済面でも精神面でも余裕があり、会社勤めの僕が抱える心労とは無縁にみえた。
そして料理がとても上手だった。
「おいしい」
僕は素直な感想をもらした。ほどよく味のきいた鴨肉はワインとよく合う。
「よかった。この鴨、今日のために取りよせたの」
「高そうだね」
「安くはない。でも食事はおいしい方がいいでしょう」
「うん、旨い」
どんなに上等な食材を使用しても、それを活かせるかは料理人の腕にかかっている。彼女は十分な腕前だった。
「これもワインとすごく合う」
自分ではまず購入しないデンマーク産のブルーチーズが、苦味をもたらしながら口内でとろけていく。その隣の生ハムも絶妙な味わいだ。
うまい料理は酒も進む。明日は仕事が休みということもあり、自然とペースがあがった。
「次はなにする?」
僕のグラスが空になると、彼女は静かにフォークをおいた。
「じゃあ白で」
「白ね。わかった」
今度のは比較的新しい。辛口のそのワインは僕の好きな銘柄だった。
「こんなにおいしいものばかりだと、いくらでもいけちゃうな」
この半年の間に彼女は僕の嗜好を把握したようだ。出てくるものすべてが僕の好みで、僕は腹だけでなく心まで満たされた。
「たくさんあるから、たくさん食べてたくさん飲んで」
ほろ酔いの僕に彼女は柔らかな眼差しを向ける。
美人で優しくて料理上手で金回りまでいい、僕の彼女。
意地の悪い人間なら身分違い、と揶揄しそうな彼女と僕が出会ったのは、まだ肌寒い季節の昼下がりだった。
その日、急遽呼び出された僕は取引先に急いでいた。移動の時間さえ惜しく、スマホで不具合の内容を確認しながら人混みをすり抜けていく。
平日だというのに街は人であふれている。しかも時間を持て余すようにその足取りは遅い。
のんびりと前を歩く三人組を追い越し、歩く速度を上げる。歩行者信号が青にかわり、さらに足を速めた僕は交差点の手前でタクシー待ちをしていた彼女の肩にぶつかった。
「きゃ……」
短い悲鳴にはっとして振り返ると、彼女の足元に紙袋が落ちていた。袋の口からは細長い箱が半分ほど出てきている。
「すみません!」
僕は慌てて紙袋を拾った。
見た目より重い。袋と箱の装丁から中身はおそらく酒で、彼女の身なりから値の張るものだと推測できた。
「いえ……」
彼女はわずかに柳眉をひそめ、紙袋を受けとった。
「いま、これしかなくて……。足りなかったら、連絡してください!」
次の青まで待てなかった僕は、手持ちの一万円札と名刺を彼女に押しつけるように渡し、ちかちかと人のマークが点滅している道路を無理やり横断した。
数日後、知らない番号から着信があった。
「先日、✕✕で名刺と一万円をいただいたものですが」
彼女だ。箱の中身は無事だったので金を返したい、と言う。彼女は僕の非礼をまったく気にしていなかった。
正直、金が戻るのは嬉しい。けれど名刺まで渡しておいて返金をうけるのは格好がつかない。
「大事にはいたらなかったようですが、こちらの不注意でぶつかったことにかわりはありませんので、金は好きに使ってください」
「でも私自身に怪我はありませんし、箱の中身も無事でしたのでいただくわけには……。どうかお返しさせてください」
同じようなやり取りが何度か続いた。
見栄のために断ろうとする僕を、そいういうわけにはいかないと彼女は切々と説き伏せ、僕らはひとまず会うことになった。
そして約束の金曜日。僕らはレストランで待ち合わせ、そこから彼女との交際がはじまった。
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