第二章(4)

 

 

 

 がらがらと引き戸を開けて、店の中に入った。

 よかった。まだほかに客はいない。

 そして美味しそうな匂いが、より濃密に漂って来て、おなかが鳴っちゃいそう。

 店内には四人掛けの卓子たくしが並び、奥にはヒトの腰ほどの高さの仕切り壁があって、その向こうが厨房だ。

 仕切り壁の上には板が取りつけられて、出来上がった料理を給仕に渡すための台になる。庶民的な料理店で地方を問わず見かける造りである。

 しかし厨房は独特で、大きなかまどが三つと、石窯いしがまが一つ並んでいるのが見える。これほど火を使うなら鍛冶屋に負けない大きな煙突が必要なのも理解できる。

 竈のうち二つでは大鍋が火にかけられて、残る一つでは油を張った平鍋で揚げ物をしている。石窯も炭がべられて加熱中である。

 料理人は二人。赤褐色をした濃いひげが口周りとあごと頬まで覆った東方人種の男性で、えらく横幅のある体格が互いによく似ており、親子であろう。息子らしい若いほうが鍋の一つをかき回し、父親らしい年配のほうは揚げ料理の火加減を見ている。

 仕切り壁のこちら、客席側にいる給仕は女性が二人。一人はそこそこ年がいっているけど肉感的な東方人種の美人のおねえさんで、もう一人は人種がよくわからないけど黒い髪をした小柄な娘だ。

 給仕たちは早口な東方の言葉で雑談していたところにボクが入って来たので揃って愛想笑いになりかけたけど、すぐに笑みを引っ込めて、いぶかしげに眉をひそめた。

 なじみの常連客ではなくほとんどハダカみたいな格好の韻紋遣い、それも獣人なんぞが現れたからだろう。

 ボクは、にっこりと愛嬌たっぷりに微笑んでみせた。

 

「ボクひとりですけど、いいですか?」

 

 給仕の姐さんは料理人たちに視線を向ける。

 父親らしい料理人のオジサンが、ちらりとボクを見てから、卓子を手で指し示す仕草をした。

 姐さんは料理人のオジサンにうなずき返してから、ボクに向かって答えた。

 

「空いてる席、どうぞネ」

 

 どの席も空いているのだけど店が混んでいないときの決まり文句だろう。深く考えないことにして、ボクは出入口のすぐ脇の席に着いた。面倒なことが起きたら、すみやかに退散できる位置だ。

 肩に担いで来た雑嚢は足元に置いておく。旅の途中で地面に転がすこともあって綺麗とはいえないから、椅子の上に置くのは申し訳ない。

 姐さんがボクのそばに来て、

 

「先に飲み物の注文どうぞネ」

「東方のお酒はありますか?」

「この街じゃ手に入らないネ。あっても高いヨ」

「じゃあ、葡萄酒で」

「はいヨ」

 

 姐さんが黒髪の娘に東方の言葉で声をかけた。

 娘はうなずいて、仕切り壁の横の通用口から厨房へ入って行き、棚から陶器の杯をとって、樽から葡萄酒を注ぐ。

 そして杯をお盆に載せて、ボクのところへ運んで来た。

 ボクよりも小柄で華奢で子供のような身体つきだけど、顔立ちは大人びた美人で、年齢がよくわからない。

 

『ありがとう』

 

 ボクが東方の言葉で言ってあげると、娘は眼を丸くした。

 

『大帝領の言葉、話せるの?』

『耳がいいんで、言葉を覚えるのは得意なんだよ』

 

 ボクは、にっこりとして言う。

 娘も微笑み、

 

『そのネコの耳がよく聴こえるのね。あたしは、こっちの言葉を覚えるのに一苦労。みんな、もっとゆっくり喋ってほしいわ』

『アタシらの言葉が通じるなら話が早いね。オススメは汁をぶっかけためんだよ』

 

 姐さんが、にこにこしながら口を挟んできた。

 ボクも、にっこりとして、

 

『このいい匂いがそれですか? 東方の麺料理は何度か食べてるけど、これほど美味しそうなのは初めてだなあ』

『うちの店は特別だよ。もとはもっと東のほうから伝わった料理なんだ。シェンカの故郷のね』

『あたしの何代も前のご先祖様の故郷よ。【すなの海】よりも遥かに東の果て』

 

 そう言って微笑む娘は、シェンカという名前らしい。

 

『イリャフィねえさんの言う通り、汁かけ麺はホントにオススメ。それと牛焼肉のぎ落としをおつまみに頼んで、何切れか汁に入れると相性バツグンよ』

『じゃあ、そのオススメ二つでお願いします』

『はいよー。汁ぶっかけ麺に、削ぎ落としねー』

 

 本当に姐さんと呼ばれていたイリャフィ姐さんが厨房に呼びかけ、料理人の親子が声を揃えて応えた。

 

『あいよー』

 

 そちらを見ると、眼が合った料理人の父子おやこが微笑んでくれる。言葉が通じるおかげで、すっかり打ち解けた感じ。

 イリャフィ姐さんは厨房との仕切り壁の前の定位置に戻って行ったけど、シェンカはボクのそばに残って話しかけてきた。

 

『獣人の韻紋遣いって珍しいわね。もしかして身体の毛は剃ってるの?』

『毛の薄さは生まれつきさ。普通の獣人なら剃ったところですぐ生えてきちゃうよ』

 

 ボクは、くすくすと笑って答える。

 

『イリャフィ姐さんは料理人の大将の奥さんで、若いほうの料理人が息子さんってところ?』

『それで正解。ちなみに、あたしは使用人。大将のアイバフおじさんの実家が【大帝都だいていと】にある食堂で、最初はそちらで働いていたの』

『双塔の街に暮らしてみての感想は?』

『いいところよ。街の名前の由来の割に唯一神くさいところなんてないし。朝晩の鐘の音だけ我慢すれば』

『鳴ったところで一つきりだものね』

 

 ボクが言うと、シェンカも『ええ』と笑い、

 

『あたしは獣人なのに韻紋遣いをしているあなたに興味があるのだけど、あなたは、あたしのことを知りたがっているみたい』

『差し支えなければ、どうして東方料理のお店で、君のご先祖様の故郷の異国料理を出してるのか知りたいんだ』

『なんだ、興味はあたしよりも料理のほうね』

 

 シェンカは笑って、

 

『あたしが教えてあげたのよ、ご先祖様から受け継いだ秘伝の調理法を。最初はアイバフおじさんのお兄さんに教えて大帝都で評判になってね』

『君は自分では作らないの?』

『だって面倒だもの。麺を打つのは疲れるし、専門の料理人に任せたほうが手間を惜しまず美味しく出来るの』

『そっか』

 

 ボクも笑ってしまう。

 

『その麺料理が評判になってるのなら、ただの使用人ってことでもないね』

『こうして、あなたとおしゃべりしていても怒られない程度にはね』

 

 シェンカは悪戯っぽく、ぱちりと片眼をつむり、

 

『ついでに、ご先祖様からあたしまで麺料理の秘伝が受け継がれた物語も聴きたいかしら?』

『お願いします』

 

 ボクが頭を下げると、シェンカは胸を張った。

 

『よろしい。うちのご先祖様はその昔、一族こぞって砂の海を渡って来て、その西のほとりに泉を見つけて村を築いたの。どうして東の果ての故郷を離れたのかは、いろいろ矛盾する言い伝えがあって真実はわからないけど』

『一族揃ってだから、よほどの事情かな』

 

 ボクは言って、葡萄酒の杯を傾ける。まあまあ、普通のお酒だね。

 シェンカは、うなずいて、

 

『それから村は砂の海を行き交う隊商の経由地としてそれなりに栄えたけど、やがて大帝領が勢力を広げて、村もその支配下に入ったの。でも村の生活は、故郷で信じていた神々を捨てて絶対神を崇めるようになったのと、隊商から通行税を取り立てるための代官所の設置を受け入れたほかは、ほとんど変わらなかった』

『村の人たちは税金は取られなかったの?』

 

 ボクがたずねると、シェンカは微笑み、

 

『大帝領では税金は異教徒が払うものなの。その代わり絶対神信仰に改宗した男たちには兵役が課せられたけど、それも同じ村の中での代官所の警備だったし、ちゃんと給金も出たし、悪いことではなかった。うちの村は辺境すぎて、他国との戦争に駆り出されはしなかったのよ』

『はい、削ぎ落とし、お待ちー』

 

 イリャフィ姐さんが牛焼肉の削ぎ落としを運んで来た。

 それは適当な厚さに切った牛肉を何枚も重ねて大きな串に刺し、ひとかたまりにして焼いたものを薄く削いだ料理である。東方では定番で、ボクもこれまで何度か食べたことがある。

 多少質の落ちる硬い肉でも食べやすくなるのが売りだけど、この店で出て来たのはあぶらが乗って、かなり美味しそうなお肉だ。

 

『いただきまーす』

 

 ボクは、さっそく頂くことにした。

 うん!

 

『美味しい!』

 

 満面の笑みになってしまっているのが自分でもわかる。

 イリャフィ姐さんも笑って、

 

『うちの店の料理は最高だろ? 汁ぶっかけ麺も期待しておくれ。もうすぐ上がるからね』

『はい!』

 

 にっこりとするボクに、シェンカが『あはっ!』と手を打って、

 

『あなた本当に美味しそうに食べてくれるから、こっちも嬉しくなる。それでまあ、あたしの生まれた村は大帝領になっても何ごともなく、遥か東の民の血を引く一族が集まって、ご先祖様から伝えられた料理を毎日作っては食べているというわけ。麺料理も実は秘伝というより、あたしたちにとっては日常的なものよ』

『そっか。日常的にこんないい匂いのごちそうを食べてるなら、いい村なんだろうねえ』

 

 ボクが言うと、シェンカは微笑み、

 

『いい村だけど、あたしにはちょっと退屈だった。だから村を離れて大帝都に出て、それからこの双塔の街までやって来たというわけ』

『そっか……』

 

 ボクがうなずいたところで、がらりと戸が開いて、がやがやぞろぞろと六人ばかりヒトが入って来た。

 仕事を終えた職人たち──では、なかった。

 仕立てのいい服を着て、彫金細工の美しい鞘に収めた剣を腰に帯びた若者たちだ。

 

「はい、いらっしゃい……」

 

 この店では知られた顔なのか、イリャフィ姐さんが笑みを引っ込め、かたちだけ挨拶した。あまり歓迎される客ではないらしい。

 若者たちは勝手を知った様子で店の真ん中の卓子二つに三人ずつ分かれて席を占め、

 

「ぶっかけ麺と削ぎ落とし」

「オレも同じやつ」

「こっちは、ぶっかけ麺に肉団子の揚げたやつ」

「ぶっかけ麺と肉野菜炒め」

「ぶっかけ麺大盛り」

「一緒で。あと、麦酒ばくしゅを人数分、急いでくれな」

 

 イリャフィ姐さんの固い表情など気にもせず、口々に注文する。

 それから、若者のひとりがボクの姿に気づいて、声をひそめて仲間たちに何かを言った。

 仲間たちも、ちらりとボクを見てから、

 

「あのさあ……」

 

 と、そのひとりがイリャフィ姐さんを手招きして、ひそひそ声で何やら告げる。

 イリャフィ姐さんが首を振ると、最初にボクを見つけた若者が脅すように乱暴に卓子を叩いた。金色の髪に綺麗な顔立ちの、しかし悪意に歪んだ表情が全てを台無しにしている生意気クンだ。

 するとイリャフィ姐さんは眉を吊り上げ、

 

『言いたいなら直接言いな! 向こうは韻紋遣い様だ! あんたらの手に負える相手と思うならね!』

 

 怒鳴りつけたけど東方の言葉なので、若者たちには伝わらない。

 しかし罵倒であることは理解できた若者たちは剣呑けんのんな顔になり、生意気クンを含む五人ばかりが立ち上がって腰の剣に手をかけた。

 やれやれ。まだ汁ぶっかけ麺を食べてないのにめごとは勘弁してほしい。

 仕方なく足元の雑嚢の中を素早く探り、財布から金貨を一枚とり出して握りしめながら、ボクは立ち上がる。

 シェンカが慌てて、

 

『ちょっと待って、ここで喧嘩は……』

『大丈夫。迷惑はかけないよ』

 

 にっこりとシェンカに笑いかけてから、ボクは若者たちに近づいて行った。

 

「ひどいなあ、こんなに可愛いニャンコを追い出そうとするなんて」

 

 にこにこと友好的にボクが呼びかけると、生意気クンが、ぎろりとボクをにらんだ。

 

「汚らしいケモノモドキが、ニンゲン様の食い物屋に入って来るんじゃねえよ」

「えーっ、ボク綺麗だけどなあ。いつもお風呂に入ったり水浴びしてるし。こんなにお肌すべすべでムダ毛もないし」

 

 ボクは悩ましげに身をくねらせて、自分の胸の下から、おへその脇までの肌を撫で下ろしてみせる。

 下唇をんで上目遣いに甘えるように生意気クンの顔を見て、

 

「汁かけ麺を食べたら、すぐに帰るから。ダメ?」

「ふざけんなッ、色目を遣うんじゃねえよサカったメスネコがッ!」

 

 生意気クンがわめいた。

 うーん、色仕掛は通じないか。獣人といってもニャンコの耳と尻尾が生えてるだけで、ボクはそれなりの容姿だと思うんだけど。

 あと、全身韻紋だらけなのも気にしないでもらえれば。

 もちろん、からかうつもりでやってるんだけど。調子に乗った若造どもに追い払われて大人しく去ったのでは韻紋遣いの名折れなのである。

 すると、ひとりだけ座ったままだった若者が立ち上がり、生意気クンの肩に手を置きながらボクに言った。

 

「すまない。友人たちはネコが近づくと、くしゃみが出る体質なんだ。僕らは街の自警団でね。昼間の見回りを終えて、おなかを空かせたところで、なじみの店に来たらネコがいたんで気が立ってるんだ。ここは地元の僕らに譲ってもらえないだろうか」

 

 鮮やかにあかい髪を女の子みたいに頭の後ろで束ね、金の首飾りと腕輪を着けたオシャレ君である。

 下手したてに出ているように見せかけながら、ここが自分たちの地元であることを強調して、揉めごとになればこちらが不利になるのだと、ほのめかしている。どうやら頭も悪くないらしい。

 イキがった若者の六人くらい一瞬で片付けられるけど、そうすればボクは、この街で「おたずね者」になる。

 相手から売られた喧嘩だと言っても通じないだろう。彼らが身に着けているものからして、よほど裕福な家の子弟である。自警団などと称しているし、街を支配する市会に議席を持った有力商人たちの道楽息子というところ。

 市会には職人の親方たちもいるけど、そちらの身内ではないな。ひ弱な感じだし。

 可愛いお坊ちゃまをぶちのめした、よそ者の獣人の言い分など誰が聞いてくれよう。

 やだよ面倒くさいよ。ボクの首に賞金でもけられたら、賞金稼ぎとか暗殺者に狙われることになる。

 戦ってもそうそう負ける気はしないけど、こっちは勝っても何のトクにもならないんだから。

 

「汁かけ麺は、そのうち大帝都で頂くことにするよ。向こうはニャンコにも寛容だし」

 

 ボクは言って、すぐ横で見守っていたイリャフィ姐さんの手に金貨を一枚、押しつけた。

 汁かけ麺と牛焼肉の削ぎ落としでいくらになるのか聞かなかったけど、職人街の店である。充分お釣りが出るだろう。

 イリャフィ姐さんは金貨を見て眼を丸くして、

 

「こんなにいらないネ」

「お掃除代だよ。ニャンコの毛を落としちゃったかもしれないからね」

「でも」

「ごちそうさま。削ぎ落とし、美味しかったです」

 

 気まずい顔でこちらを見ているアイバフおじさんと息子さん、それにシェンカに微笑みかけて、ボクは最初にいた席の下から雑嚢を拾い、店を出た。

 後ろ手に戸を締めて、ため息をつく。

 はぁ……

 ……くっ。

 くそおっ!

 食べ物のうらみは怖いんだぞ! いつか晴らしてやるからな!

 

 

 

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