随想録12 かの地に平穏を

 ―――こいつは、どんな奴なのだろうか。

 ヴィルトシュヴァイン刑事警察警視カール・ローマンは、もう何度も想像を巡らせていた。

 おそらく国王グスタフ陛下を標的とした、想像するだに恐ろしい重大な犯罪をやろうとしている、まだ顔も見ぬ相手についてである。

 知恵があり、狡猾で、自信たっぷりな奴であることは間違いない。おかしなところは多々あるが、少なくとも売名欲に駆られた模倣犯などではないことは確かだ。

 武器は何だろう?

 小銃や、猟銃だろうか。

 いや、あり得ない。そんな大きな得物を携えていたのなら、いままで目撃されているはずなのだ。

 マックス・ヘンデルのように拳銃だろうか。

 こちらは可能性があった。許可さえ得れば、国内の銃器店でさえ購える。この点は猟銃なども同じだったが、拳銃は更に容易だ。

 しかし、外国人となると―――

 難しい。「足」がつく。誰かを買いにやらせるという方法はなくもないが。

「・・・拳銃の持ち込みですか?」

「そう。どうやったのかは分からんが。海外からではないか」

 すぐに調べにやらせます、と助手のマルヒは内務省国家憲兵隊国境警備局に連絡をやった。銃器を持ち込んだ人間族となると、これはもう、うんと記録も限られることだ。すぐに見つかるものと彼にも思わせた。

 しかし、無駄なことかもしれない。

 ローマンは自戒する。

「私も老いたね。もっと早く気付いていれば。もっと・・・」

 陸軍記念日の前日になって思いつくことではなかった。

 それに恐らく、容疑者はセバスチャン・モラン名義の偽造旅券を使っていたころだろう。記録が分かったところで、とくに目新しい何かが分かるわけではなかった。

 ―――拳銃。

 ローマンは震えた。

 こいつは、おそらく捨て身だ。動機から察するに、最初から生還や逃亡を期していまい。

 そこが、その点こそが恐ろしいのだ・・・

 陸軍記念日の朝、首都警察の誇る四〇名の腕利き刑事たちは、武器課から拳銃の支給を受けた。陸軍の将校たちが使っているのと同じ、黒色火薬金属薬莢を使った口径一〇・六ミリの拳銃弾をおさめる六連発シリンダーと、堅牢なフレームを持った強力なやつだ。

 列商各国に先駆けて採用した動作機構のおかげで、いちいち撃鉄を起こさなくとも引鉄をひくだけで発射できる。

 刑事たちのうち何名かは、使命感とともに空恐ろしさを覚えていた。

 ふだんヴィルトシュヴァイン刑事警察の警察官たちは、拳銃を携えていない。制服警官たちはサーベルを腰に吊っているだけだったし、刑事たちは丸腰だ。

 武器課の専用ロッカーから、一丁一丁に刻印された製造番号を確認しながら拳銃の支給を受けるということは、これはたいへんな異常事態なのだと認識を新たにさせるに充分なことなのだ。

 彼らはホテル・ヴァーグナーのあるじ夫婦から聴き取られて配布された被疑者の特徴を記憶に刻み込んだうえで、人間族全体を警戒すべく配置についた。

 ローマンもまた、助手のマルヒを連れてまだ早朝のうちにフュクシュテルン大通りの陸軍省前に陣取る。

 既に見物客が集まり始めていた。

 たいへんな数だ。

 フロックコートやドレス姿の者。

 またこの日は、大通り沿道での街頭商は控えるよう通達が出ていたから、ふだんはその経営者なのだろう、ヴルスト売りやコーヒースタンドの主のような姿をした庶民まで。

 オーク族。コボルト族。ドワーフ族。そして、数こそ少ないが人間族の姿もあった。

 大通りの歩道は、うんと幅が広い。それだけで並の街道ほどある。

 この両側の歩道を含めた通り全体の幅は、約七〇メートル。遠く西側に、デュートネ戦争凱旋門の巨大な大理石造りの威容が見えた。

 あの凱旋門から、ヴィルトシュヴァイン警察もあるミルヒシュトラーセ川の中州まで、約二キロ。

 これがフュクシュテルン大通りだ。

 沿道には中央省庁、国立歌劇場、国有汽船社などの大企業本社、高級ホテル、高級品店舗。

 中央に、市電の軌条が二本。しかし今日は、パレードに合わせて運休されている。

 内務大臣ボーニン大将は、出来得る限りの警戒態勢を敷いていた。

 それは、国家における治安維持機構の強大さを感じさせるものだ。

 大通りの歩車道の境界には、かつてないほどの数の国家憲兵隊員や陸軍第一擲弾兵師団の兵、それに制服警官が、着剣した小銃を帯び、車道側に背を向けて立哨している。

 およそ三メートルに一名という濃密な配置であり、交差点や建物の前といった要所を含めて約一四〇〇名近い。彼らは自らの巨躯を使い「壁」として沿道の観客を制止する役目を負っていた。

 仮に飛び出すような不埒者があれば、容赦なく銃剣やサーベルで制止し、発砲する許可も下りている。

 閲兵台となる、陸軍省前の歩道に設えられた雛段周囲は更に厳重だ。

 式典を彩る役目も負いつつ、陸軍第一擲弾兵師団の兵が周囲に立哨し、招待者出入り口と国王グスタフが立つことになる式台の周囲にはアンファウグリア旅団の兵士が―――正確にいえば国王警護隊のダークエルフ族兵八名が目を光らせていた。

 ローマンはこの出入り口付近の歩道側、陸軍省の正面階段近くに立った。陸軍省の大階段前にも立哨がいたが、ちらりと身分証を見せ、通してもらう。二段ほど登って、視界を確保する。

 隣には第一擲弾兵師団軍楽隊用の仮設演奏台もあり、ときおり管楽器の試し吹きが短く響くなか、徐々に観客の数が増していく。

 午前九時を回ったあたりで、続々と貴賓たちの馬車がやってきた。

 産業連盟の新会長にして北オルク汽船の会長。ヴィッセル社の会長。ファーレンス商会の会長といった国内関係者。

 フロックコート姿の、キャメロット公使。ロヴァルナ公使。グロワール公使など外交関係者。その夫人たち。グロワール公使の慇懃な態度に潜んだ表情はちょっとした見もので、これは正式には陸軍記念日として呼称されているこの式典が、デュートネ戦争戦勝記念日であるから止むを得ないところだ。

 彼らは、出入り口で胸元に赤い造花つきのリボンを配布された。きっと歓待を意味するものと外交関係者たちは気にも留めなかったが、これは「清掃済み」を示す識別の役割も兼ね備えた密かな警備手段のひとつである。

 陸軍関係者たちも参集してきた。

 国軍参謀本部総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将や陸軍大臣のローン大将。ローマンも戦時中に新聞記事で精密報道画を見たことのある、参謀次長兼作戦部長の何とかという少将。

 彼らは、招待者や各国公使、陸軍関係者たちと挨拶を交わし、談笑しつつ、オルクセン国旗の国色の横断幕で彩られた閲兵台についた。

 ―――午前九時四五分。

 この時刻になると、太陽は素晴らしく煌めくようになってきた。

 初夏を先取りしたかのような日であり、日中は汗ばむことすら覚えそうな気配である。

 軍楽隊が小気味よくドラムを連打するなか、陸軍省裏から、サーベルのきっさきを肩にかけた指揮官に率いられた第一師団所属の儀仗隊が閲兵台前にやってきた。

 行進も、号令を受け立ち止まる様も、ライフルの銃尾と軍靴の踵を石畳に鳴らして向き直る様も、瞠目を覚えるほど揃っている。

 西の方角、つまりデュートネ戦争凱旋門の方向から、歓声が響いた。 

 ローマンの位置から最初に見えたのは、アンファウグリア騎兵のもつ小旗付き騎槍の連なりだった。

 たくさんの騎兵、そして二頭の巨狼を両脇に従えた無蓋馬車。

 ―――国王夫妻だ。

 ローマンは緊張を覚えた。

 まさにそのとき、近くの沿道にいた人間族の男がひとり、両腕をヴィルトシュヴァイン刑事警察の私服刑事に掴まれ、抱えられるようにして観客列から引っ張り出された。男は片腕をフロックコートの内側に突っ込んでいる格好だった。

 目ざとくこの光景を見逃さなかったローマンとマルヒも、駆け寄った。マルヒはラウンジスーツのポケットに忍ばせてある拳銃に手をやり、引鉄に指もかけている。

 歩道の隅で、私服刑事のひとりが男の片腕を慎重に、かつ無理矢理引き出すと、掴んだままの煙草入れが出てきた。

「・・・・・・」

 ローマンは、安堵と落胆の混淆した吐息をついた。

 憤慨し、抗議をやっている人間族は、まるで無実のグロワールの新聞記者であることも分かった。

 適当な詫びを述べつつも、刑事たちはその実は意に介さず、彼を解放した。冷静になって見れば、手配書の特徴ともまるで合わない男だ。小柄である。

 緊張しきった場面では有り得ることだったし、無事に済んだのなら喜ぶべきことだ。

 ローマンたちはまだ報告を受けていなかったが、こんな光景が全長二キロの沿道のあちこちで繰り返されていた。

 少しでも怪しい素振りをした者、オーク族の巨体のなかで好奇心に駆られただ覗き込もうと背伸びをしただけの者、あるいは人間族の男というだけで、捜査員たちに一時拘束されたり、職務質問を受ける者が続出していた。

「・・・心臓に悪いね、まったく。マルヒ―――」

「はい?」 

「私は、この事件に無事解決を迎えることが出来たら、きっと引退するよ。こんな真似はもうこりごりだ」

 彼の背後で、騎兵の集団が蹄鉄で石畳を進む響きと、馬車の車輪の音がし、儀仗隊指揮官の、

「捧げぇぇぇ銃!」

 号令が聞こえ、儀仗兵隊が一斉に揃った所作をし、オルクセン国歌の演奏が始まった。

 グスタフ王が到着したのだ。



 エドワード・ロンズデールは、この前夜、ホテル・ヴァインモナトでの最後の夕食を摂った。

 どういうわけかオムレツが食べたくなり、それを頼んだ。卵三つに、たっぷりとしたバター。少々の塩。

 柔らかく、丁寧に仕上げられており、申し分なかった。

 だが―――

 ロンズデールの妻だった白エルフ族の作る卵料理には負ける。

 あれは、優しい女だった。

 ロンズデールが、卵料理を―――とくに朝食にスクランブルドエッグを好むと知ると、よく拵えてくれたものだ。

 彼はノアトゥンではそれなりに成功した貿易商だったので、家には料理人も雇っていた。それも食には拘るほうだったので、一級の腕を持った者を、だ。

 だが、その料理人でさえ、妻の卵料理には敵わなかった。

 妻の方も、そればかりは譲れないと、ロンズデールのために朝早く台所に降りた。

 あれの作るスクランブルエッグは、絶品だった。

 一度見せてもらったことがあるが、作り方からして変わっていたように思う。

 フライパンで炒めるのではなく、湯煎鍋で作るのだ。古いエルフィンドのやり方だといい、しかも事前に溶き混ぜたものを使うのではなく、バターを熱しておいたこの鍋のなかで溶く。

 卵はたっぷりと六個使う。

 木のさじをつかって、丁寧に丁寧に溶き混ぜ、空気を含ませる。焦りは禁物、弱火に相当する熱量で、じっくりと。

 適切な固さになったところで、小分けにしておいたバターと、お好みで調味料などをさっと溶き合わせる。ロンズデールの嗜好に合わせて、妻は塩をほんの一つまみ加えてくれていた。

 出来上がったものは、まるで黄金色に輝くクリームだった。柔らかく、繊細である。

 あの舌触り。

 とろみ。

 あんな素晴らしい卵料理は、未だ他所ではお目にかかったことがない―――

 ここ数日、その妻は現れてくれなくなった。

 とうとう幻像にさえ見放されたか、と思う。

 ただ、世の全ての女はあいつの面影を持っている。エルフ族かどうかも関係がない。ロビーや、レストランで見かけける人間族の女という女、その微笑み、笑顔、眉、鼻、瞳、唇。みな、心優しかった妻に見える。

 だからロンズデールは早々に自室に引き揚げ、熱い風呂に入ってから、眠った。

 その夜は、酒も必要とせず、かつてないほどにぐっすりと眠ることが出来た。

 朝、目覚めたときには爽快ですらあり、成そうとしている選択はやはり間違っていなかったのだと思う。昨夜引き上げる前、フロントにコーヒーを頼んでおいたから、朝八時にボーイがそれを持ってきてくれた。濃いものを、砂糖も何もなしで二杯飲んだ。それでもう充分だった。

 ミルラ入り歯磨き粉で歯を磨き、髪をロランド印の整髪油を使って丁寧に後ろに流す。

 紳士用コンビネーション下着のうえに高級シャツを着て、別留めの公的な場のための糊の効いた立て襟カラーとカフスを着け、例のフロックコート姿に身支度を整えた。

 それから、トランクから例の木箱を取り出し、何よりも必要な作業を始めた。

 アルビニーの銃職人の仕事は、完璧だった。

 全長が八インチ以内に―――大陸風に言えば二〇センチほどになるように造ってくれという注文をしっかりと果たしてくれている。

 決闘用の銃を装うには少しばかり小型だったが、違和感を持たれない程度であり、護身用というほどには小さくない。つまり、火薬の威力全てを発揮しえないほど銃身は短くなかった。

 後装式になっている装填側の留め金を外し、弾を込めた。

 この弾がたいへん特殊なもので、純粋な鉛より硬い鉛合金製で出来ている。口径は拳銃弾としては大きな部類の一一・五ミリ。先端はドングリの実のように緩やかに尖っている。最大の特徴はその胴の部分で、ねじれた六角柱のような形状をしていた。

 これが、やはりライフリングとしてはかなり特殊な、螺旋を描く六角形の銃腔に吻合するわけである。二〇年ほど前、彼の母国の技師が軍用銃のために考案した方法だった。

 この仕組みが、強烈な威力を齎すはずだ。魔種族でも葬り去れるほどに。

 ケースは巧くできており、銃弾の頭だけ出してすっぽり収めることでぱっと見には決闘用の球形弾に見える。素晴らしい仕事だ。

 洋梨の形をした火薬入れから、黒色火薬も詰める。オルクセンや各国が使っている将校用拳銃の金属製薬莢の装薬などより、多い。二〇グレインほど。

 反動も強くなるから撃ち方に工夫がいるが、アルビニーの銃工が紹介してくれた射撃場で試射も済ませてあった。

「こいつは儂の最高傑作のひとつだよ。これほど小型でありながら、ご要望通り“猛獣撃ち”さ」

 職人の言葉を思い出す。

 あとは、撃鉄を起こし、火門のところに雷管をつければいい。同じ行為を二丁ともに施す。それで準備は終わりだった。

 そしてこの全長二〇センチの凶悪な代物は、長身であるロンズデールのフロックコートの両胸の内側に仕込んだ大きなポケットに、すっぽりと収まるのである。

 ちかごろは、かつてと違ってフロックコートの腰を絞ったりしない。

 むしろ体の線が見えないほどゆったりとした作りが良しとされていて、上手くシルエットを紛らわせてくれることも確認済みだった。

 引鉄を重くしてもらったから、簡単なことでは撃鉄は落ちない。この状態で移動しても暴発をさせない、安全装置代わりだ。

 全ての準備を整えたときには、午前九時近くになっていた。

 ロンズデールは、それからゆっくりと紙巻タバコを立て続けに二本吸った。それからトップハットとステッキ、手袋を手に取り、二度と戻るつもりのない部屋を出た。

 ―――あと二時間だ。



 アンファウグリア騎兵第二連隊第六中隊リネイセル軍曹は、紛れもなく歴戦の士と言えた。

 ダークエルフ族脱出行、シルヴァン川渡河及び橋頭堡拡大、ファルマリア港攻略戦、ファスリン峠の戦い、リヴィル湖畔の戦い、ネニング平原会戦―――

 忌まわしき民族浄化以来、懸命にあの戦争を戦い抜いた。ヴィハネスコウ大鉄橋襲撃にも参加していて、上官の中隊長と先任軍曹を喪っている。

 リネイセル軍曹自身は馬術技量に優れ、サーベルを操ることに長けていた。馬上姿勢を保持する能力が高く、腿と右腕の筋肉が発達している。

 そのためだろうか―――

 旅団が騎槍を取り込み、訓練を始めたとき、適正があると判断された。

 国王馬車警護の六名が選抜された際には、筆頭に名が挙げられていたほどである。

 だから陸軍記念日のこのとき、仮設閲兵席の脇に同僚たちとともに騎列のまま控えていた。護衛の騎兵一個小隊の一部として。傍目にはまるで見分けがつかないが、国王警護隊の騎乗護衛も同様の位置にいる。国王夫妻の乗って来た無蓋馬車は、いったん脇道に入って陸軍省裏門付近で待機していた。

 リネイセルの位置からは、一段高くなった閲兵台の専用席に立つ国王の背が見えた。

 すぐそば、左斜め後ろに王妃。

 国王は、陸軍の礼装に軍用兜。王妃は、アンファウグリア旅団のものと意匠を同じくする黒上衣に騎乗用スカート。ふたりとも、オルクセンでは王族を示すオレンジ色のサッシュを左肩から右腰に通している。

 王は到着したとき、無蓋馬車からまず自身が降り立ったあと、さっと作法通り王妃の手を取っていた。そうしてふたりで国軍参謀本部総長と次長の出迎えを受け、閲兵台の方へと向き直り、儀仗隊の中央で体格のよいオーク族兵が掲げるオルクセン国旗に敬礼し、国歌「オルクセンの栄光」の吹奏が流れる間、不動の姿勢でいた―――

 指揮官の号令が再びかかり、儀仗隊は閲兵台の向かって右側、つまり東側へと移動した。陸軍省近くの観衆のうち多くは、その練度や軍装の華やかさに見惚れつつ、しかしこれでは国王の姿が殆ど見えないことに気づいた。それもそのはず、儀仗隊は「盾」の役目を果たせるよう、故意にそのような位置におかれたのだ。

 その点、西側にある軍楽隊の席も、リネイセルらアンファウグリア騎兵と国王警護隊騎乗隊も、同様の役目を負っているわけだ。

 国王馬車の、車体反対側から降り立って夫妻の背後両側面についた国王警護隊の二名は、もっと目立たなかった。これは国王警護隊長リトヴァミア大尉と同隊のイルヴァネス曹長で、その姿を覗うことの出来た観衆たちの一部は、てっきり彼女たちのことを儀礼的な供奉役だと思い込んでいた。

 アンファウグリア旅団騎兵と見分けのつかない彼女たちが、腰に帯びた革製拳銃嚢の蓋を閉じていないことに気づいた者はまるでいなかった。

 国王車列の両側を駆走してやってきた巨狼二頭に至っては、観衆はおろか閲兵台の人間族招待者にとっても瞠目しかない。だが、これほど強力な警護役もいないだろう。

 ―――午前一〇時。

 軍楽隊がドラムと鼓笛で巧く間をもたせるなか、受閲部隊の指揮官役でもある第一擲弾兵師団長が騎乗で現れた。リネイセルらアンファウグリア旅団将兵にとっては、ベレリアンド戦争中に後備第一旅団を率いていた将軍と言ったほうが未だ通りがいい。

 彼が現れるとともに、軍楽隊が「ああ、我が王」を奏で始めた。

 将軍の背後には、陸軍士官学校の生徒隊、第一擲弾兵師団隷下の第一擲弾兵連隊、アンファウグリア旅団騎兵第一連隊、陸軍の野砲や重砲などが長大な隊列を組んで続いている。

 大鷲軍団も軍団長の少将直率の編隊を組み、低空飛行する手筈だ。

「頭ぁぁぁ右ぃぃ!」

 生徒隊が、デュートネ戦争時代を思わせる大時代的なシャコー帽、白絹の胸元飾りつきダブルブレストの黒色制服、それにサーベルを肩にあてた姿で通過する瞬間まで、リネイセルは装飾の小旗付き騎槍を立てたまま、そっと向かいの沿道を観察していた。

 ―――おかしな奴などいない。

 少なくとも、視界に入る範囲には。

 人間族も幾らかいたが、彼らの目を見ればわかる。

 目。目。目。

 昏い感情を抱えた奴は、まずそこが違う。どう、とは上手く言えないが。

 もしそんな奴がいれば、きっとこの場ではひどく浮いて見えるはず。

 そのような者は誰ひとりいなかった。

 嫌になるほど―――本当に嫌になるほど実戦経験を積んだリネイセルには、それが分かったのである。



 カール・ローマン警視は、昼を迎えるころには何度かハンカチを使っていた。

 ―――何も起こらない。

 緊張と安堵が何度も交互に繰り返されるなか、助手のマルヒを連れ、フュクシュテルン大通りの沿道を陸軍省前からホテル・ヴァインモナト前まで移動してきたのだ、無理もなかった。

 喉が渇いて仕方ない。

 このころ陸軍省近くでは、国王夫妻を見送り、閲兵式が無事完了したことに多くの治安関係者が、ほっと胸を撫でおろしていた。

 国家憲兵隊長官ディートリヒ大将など、

「奴は逃げちまったのさ。きっとそうに違いない」

 早くも、周囲との昼食会の内容へと話題を移していた。

 楽観ではあったかもしれないが、現場の警備陣たちにとっても同感であった。そうあって欲しかった、というべきか。少なくとも己たちの受け持ち場所で「何か」が起こるなど、真っ平御免である。

 緊張に包まれたままであったのは、アンファウグリア旅団関係者―――なかでも国王警護班だ。彼女たちにしてみれば、本当に式典の全てが完了し、国王夫妻を官邸に送り届けてこそ警護は完了する。

 後年と比べると、まだまだ警護のやり方が未熟、あるいはそう言って悪ければ、未発達でもあった。

 国王警護隊が、直接警護班と事前情報収集班に分かれた系統立った運用になり、警護対象に覆いかぶさり自ら盾となる覚悟とともに、しかしそれはあくまで最終手段とし、危険回避を第一儀であるとするのはまだずっと後のことだ。

 直接警護は三名を基本形に、四名つけることを理想として、対群衆警備では六名以上が望ましいといった隊形護衛手法を確立させるのも、この日を含む経験値と年月とを更に重ねてからのことである―――

 このような未熟は、オルクセン当局側のどの官庁にも共通していたと言える。

 エドワード・ロンズデールは、ホテル・ヴァインモナト前で海外招待者たちが造花付きリボンを受け取っているのを見ると、これはまるで想定していないことだったから、ちょっと驚いた。

 だがさっと考えを巡らせ、堂々と待機列に加わった。彼はそれをやれる、と踏んだ。

 陸軍省前の閲兵台でも、この叙勲式場でも、出入り口でリボンの配布を受け持っていたのは外務省儀典局の官吏たちである。

 彼らは、気が利きすぎた。この時代のどんな式典でも、公使本人やその夫人はともかく、随員の人数が当日になって前後することはある。そこで、多めにリボンを用意していたのだ。

 それに、まさか凶悪で邪な企みを抱く者が、外交官に化けるなどといった大胆なことをしてのけているとは、誰も思いもつかなかった。

 ロンズデールは、愛想よく笑みを浮かべる儀典局職員へ礼儀よく頷くだけで、リボンを手に入れた。そうして来賓席の後ろのほうに座った。

 閲兵式と比べるとオルクセン陸軍身内の儀式と言える叙勲式に臨むのは、各国ともに一段劣る書記官クラスであった影響もある。

 ロンズデールの前にいたエトルリア公使館の者たちは、彼を後ろのロヴァルナ公使館の人間だろうと思っていたし、ロヴァルナ公使館の連中は気にも留めていなかった。

 目的の時刻が近づくと、ロンズデールは席を立った。雛壇を出て、

「すみませんが、水を。水を一杯いただけませんかな」

 応対した外務省職員は、この暑さだものな、来年は冷却系刻印魔術板を用意しなければ、などと得心も得てただちに応接したし、この近くにいた首都第一師団の兵士は、ロンズデールの胸にあるリボンを見て来賓だとしか思わなかった。

 彼はホテル・ヴァインモナトの連中が用意していていた給水を受ける態で、観衆に紛れ込んだ。

 ローマン警視は、タッチの差でこの男とすれ違っている。

 警視はさっと身分証を見せ、外務省の職員に尋ねた。

「何か、おかしなことはないかね?」

「はい。大丈夫です」



 国王夫妻馬車列は、ホテル・ヴァインモナトに到着した。

 会場にいた国王副官ダンヴィッツ中佐が扉を開け、陸軍省次官のアルベディル少将とともにさっと敬礼した。

 伝統に則って出迎え役を務めたのは、ホテル経営者コボルト族のフリッツ・ベルグマンだ。

 叙勲を受ける一〇名ほどの陸軍関係者が、式典関係者に促され、礼装やフロックコート姿で路上に待機していた。

 喇叭手と軍用小太鼓手が小気味良い演奏をやるなか、アルベディル少将が受勲者たちの名をひとりずつ読み上げ、国王がその胸に勲章をつけてやり、王妃も握手を交わす―――

 そんな形式だ。

 盛大な銃声が響いたのは、ふたり目にあたった佐官に叙勲が行われているときであった。

 来賓席の雛段脇から飛び出したロンズデールが、例の拳銃を王妃の真裏三メートルの距離でぶっ放したのである。

 誰しもが茫然とした。

 ―――一丁目の拳銃を握ったままの、も。

 射撃は命中しなかった。

 彼の狙い通りに発射された銃弾、アルビニーの銃職人の精緻な技術で作り上げられた拳銃から放たれた特殊な弾は、本来ならディネルースの頭部に命中しただろう。

 だがディネルースは、受勲者と握手するために大きく上半身を屈めたところだった。

 相手の佐官は、これはまったくの偶然だったが、ドワーフ族だったのだ。

 長身のディネルースからすれば、まるで背の小さな相手である。彼女の半分ほどしかなかった。

 そんな、人間族でいえばまるで子供のような身長の者が受勲の対象になるなど、キャメロット人のロンズデールには全く想像のつかなかったことで、しかも警備と群衆と国王の巨躯に視界をほぼ遮られたまま飛び出した彼には、様子が見えていなかったのである。

 ロンズデールが二発目を発射しようと胸ポケットに腕を突っ込んだとき、最初の反応を示すことが出来たのは、ディネルースの近くにいた巨狼族ウェンドラだった。あの、アドヴィンの伴侶に選ばれた巨狼だ。彼女は、アドヴィンとともに警護役に就いていた。

 この肩高一メートル近い灰色の美しい巨狼は剣呑極まる唸り声と、一吠えをあげ、二丁目の銃を取り出そうとしていたロンズデールの腕に、巨大な顎で噛みついた。

 そのころには、国王と王妃には国王警護班の連中が覆いかぶさり、例えロンズデールが二丁目を取り出すことに成功していたとしても、狙い撃つことを不可能にしていた。

 群衆から怒号や悲鳴が上がり、警備の兵が小銃を構え、辺り一帯全てが騒然とするなか、ロンズデールに留めを刺したのは、アンファウグリア旅団のリネイセル軍曹だ。

 軍曹はこの人間族の男の凶行を目にするなり、愛馬に拍車をかけ、助走をつけ、渾身の力で騎槍を突き刺した―――



「・・・国籍不明。氏名不詳。所持品から過激政治思想の徒と思われる、か」

 首都南方郊外。

 共同墓地の一角。

 埋葬されようとしている人間族の棺を見つめ、ローマンは呟いた。

 参列者は誰もいない。共同墓地の墓堀人たちが、義務的に作業を進めているだけだ。

 孔と棺は二つあった。

 昨日―――陸軍記念日の事件から二日目に刑が執行された、マックス・ヘンデルのものだ。

 マックス・ヘンデルもまた過激思想に染まった者で、その背後には国籍不明の人間族の男がいたらしい、という報道が流されている。

 内務省と外務省と、この男の母国と、名を語られた国と、そして国王の間でそんな妥結が成されたという。

 何故か。

「これは、警視」

 ローマンとマルヒは振り向いた。

 陸軍の将校と何ら変わることない、ただし右腕に緑の腕章を巻いた制服を着たオーク族の牡が、いつの間にかやって来ていた。

 胸には、ベレリアンド戦争従軍徽章。

 階級は中佐。

 ローマンはその牡を知っている。

 内務省国家憲兵隊首都管区司令エミール・グラウだ。治安維持及び国王警護関係者の会議の席にいた。確か、戦争中は第三軍の方面に野戦憲兵として従軍していたとか。

「・・・これは中佐」

 ローマンの声は、少しばかり平坦に響いた。

 今回の事件でいちばん上手く立ち回ったのは、この中佐だと思っている。

 この騒動が起きて、今後似たような事件があれば各自治体レベルで管轄が区切られている刑事警察では荷が重い、このようなケースには全土を捜査出来る国家憲兵隊が主導権を握るべきだというレポートを作り、内務大臣に提出した。

 そしてこれは通った。

 治安維持関係の法が、改正されることになるだろう。

 それも、今までは国王の民衆観に基づき、他国よりも極めて緩かった過激思想面の取締りを強化したものに。

「この男も、本望でしょう」

 グラウ中佐は、タバコに火をつけつつ、告げた。

「・・・本望?」

「ええ。いずれ、ベレリアンド半島統治のためにも国家憲兵隊関連の法は改正を必要としていた。この男は、言ってみれば望みの通りに―――」

 中佐は棺を顎でしゃくる。

「ベレリアンド半島に平穏をもたらす、礎になれたんですよ」



(続)

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