第33話 戦争のおわらせかた① 成算と誤算

 オルクセン総軍作戦参謀エーリッヒ・グレーベン少将は、なかなか多忙な状態にある。

 あれこれと善後策を考えなければならない。

 それも早急に。

 だが、ある箇所から討議や思考を進めるにあたって、どうしても確かめておかねばならない部分が出来た。

 迂遠な手法にも思えたが、躓いた問題が短期的に解決するものなのか、あるいは長期にわたって改善がみられないものなのかで、今後のことの進めようが違っている。

 グレーベンはその件について調査を依頼した相手を訪れることにした。

 ファルマリアから、ネブラス中央駅のプラットホーム及び駅舎へと専用列車で移動した総軍司令部にとって、その相手はすぐ近くにいる。

「おう、よく来たな」

「陛下。お手を煩わせまして申し訳ございません」

 大本営専用列車メシャム号の国王居室兼執務室車で、グレーベンはオルクセン国王グスタフ・ファルケンハインに謁見を受けた。

 謁見などといっても、事前に用向きを国王副官部のダンヴィッツ少佐に伝えるくらいで、さほど堅苦しくない。

 グレーベンほど不遜な牡でも敬愛して止まないこの国王は、まったく気さくで、飾らない性格である。気心の知れた相手とは謁見というよりまるで雑談の席のようであるのが常で、このときも既に彼のための椅子や茶菓も用意してあった。

 いまは総軍司令部として、この国―――エルフィンドの食糧生産の異常にも思える低調、その原因調査を依頼した相手、ということになる。

「なに、私なんぞで役に立てるならいいさ。お前こそ、大丈夫か? 随分と忙しそうだが」

「こうもエルフィンドの食糧問題に足を引っ張られては、私としても気になりまして」

「そうか。ただ、いまのところ解明できたのはあくまで概略だぞ。かなり複雑でな」

「ほう。如何ほどです?」

「そうだな・・・“エルフィンド式農業の崩壊”とでも名付けた、論文が書けそうなほどだ」

「・・・それほどですか」

 今日の王は、いつものように朗らかに笑いつつも、学究的な気配を漂わせていた。

 彼の一面のひとつ、農学者としての能力を求められているからだろう。

 グレーベンの生家は、音楽家である。それも名もない、という程度。

 農業については、とんと分からぬ。

 だから国王が祖国の食糧生産量を引き上げた本元だとは知っていても、農事試験場での独学をもとにその道を探求し、農学者としての肩書まで有していたことは、ごく最近までまるで忘れていた。

 失礼にあたるとは思ったが、すこし調べさせてもらった。

 国内はおろか、星欧中、いや世界の農学会全体を見てもかなりの功績を有しているのだそうだ。

 王の著した農業書の、概略だけは農家の出の参謀から聞いた。

 グレーベンは、農業書というのは、例えばライ麦やエンドウ豆といった作物の具体的育て方やら、牛の乳の絞り方といったものばかりが書かれているのだと思っていた。

 実際には、まるで異なるという。

 むろんそういった内容も含まれてはいるが、どうすれば採算に合うか、その経理のつけ方、適切な肥料を施すための土壌の判定、規模にあった農具の選定、効率的な収穫法などが記されている、という。部下曰く、まるで一種の戦術教本だ、と。

 基礎編、経営農法論、土壌論、施肥論、耕作・土壌改良論、作物生産、畜産の全七編四冊。各三〇〇頁以上。「オルクセンにおける合理的農業の原理」と題され、諸外国を含めた農学史的には輪栽式農業の利点を学術的に説いた一種の経典扱いされている。ちなみにグレーベンが想像していた内容は、最後の二編でしかない。

 それほどのものを、王はなんとデュートネ戦争中に書き、出版した。

 そのような、農業学の泰斗ともいうべき王を催促する格好になってしまったが、王は占領地のあちこちを見て回って、概略だけは何とか掴めたという有難い答えを寄越してくれた。

「それで、原因はいったい?」

「・・・うむ。エルフィンドの歴史そのものと言ってもいいな」

 勿体ぶっているのではなく、王は言葉を編んでいるようだった。

 彼としてはグレーベンら参謀たちが多忙なことは知っていたし、学究としてはどうしても言葉が多くなって時間をとらせてしまう。

 そこを懸念したようだった。

 グレーベンは、長くなっても構いません、具体的にひとつと自ら願い出た。

 グスタフは笑って、後悔するぞといい、告げた。

「つまりだな・・・・エルフィンドがやってきたのが三圃式農業で、エルフ系種族が生殖行為からは生まれないため家族という概念を持ちにくく、もともとは森や樹々や大地を愛す種族であり、大鷲とダークエルフ族を駆逐し、残存ダークエルフを農奴にしなきゃならんほど小作農がいて、うちの国と断交状態だったうえに、消費畜肉は牛肉が中心で、物価に変動を与えるほど牛乳や乳製品を好んで、生物としては完璧で清楚だからだな」

「・・・・・・は?」

「だからな、全部だ。全部。全てが原因なんだ。これが長い時間をかけて、エルフィンドの大地を歪ませたんだな」

「・・・ひとつ、私なぞでも理解できる程度でご解説をお願い致します」

 自ら願い出たこととはいえ、予想もしていなかったほど広範な内容だったのだ。

 農業という枠内に収まっていないようにすら思える。

「うん。まず、もともと三圃式という農法は星欧では北方であるほど向いていない。こいつは耕作をやりつつ休耕地を利用し、そこで放牧をおこなって地力を回復させる仕組みなんだが―――」

「はい」

「冬場になるほど、家畜用の栽培飼料が不足する欠点があるんだ。日照時間は短いし、寒いからな。傾向的には、一戸の農家で複数の土地を持たないと収穫量を増やせないほど、耕作面積を小分けしてしまう農法でもある。ところが本来なら冬季も、牛などには干し草や干し藁だけでなく、青草も欲しい。すると小規模農家では育てられる家畜の頭数に限りが出てくる」

「なるほど、道理ですな」

「うむ。一方で彼女たちは牛肉を食うし、牛乳や乳製品を好むだろう? すると何が起こるかというと、農村では放牧地の共有をやるようになり、畜肉や牛乳は消費期限も早いから大消費地である都市部近くや都市内に産業としては集約されて、大規模化、専業化していくんだ。耕作と畜産や酪農の分離といってもいいな。アルトリアで激戦地になった大規模農場などはこれだな」

「なるほど」

「するとまあ、この流れが何を引き起こすと思う?」

「・・・放牧用地が固定化していくんですか」

 軍隊で兵科が分かれてしまったようなものかとグレーベンは推測した。

 それならば、もう混ざったりしない。

 多少の転科はあるが、流動化はしないだろう―――

「そう、流石だ。正解だよ。固定化した場合に問題なのは、自然に家畜がやってくれていた施肥が、耕作地に行かなくなるんだ。放牧地用に飼料作物の一部を連作すると、とんでもない栄養分が必要になるしな。そちらで堆肥をほぼ使いきってしまう傾向になる」

「・・・耕作地が肥料不足になる、と」

「そのとおり。根幹部分で、三圃式が三圃式ではなくなる。おそらく休耕と、農耕馬による施肥だけになっているだろう。牧羊は、あれは基本的には専業でやるから、また別のものだしな」

「牛がいなくなっても、馬じゃいかんのですか?」

「めんどうな話だから細かな説明は省いて乱暴な解説になるが、牛糞には牛糞の、馬糞には馬糞の、それぞれに向いている用途というものがあってだな。土壌改良には牛が良いんだ」

「鶏を飼ってるところは多いですよね? 鶏ではいかんのですか?」

「いいところに目を付けたな。鶏糞はかなり優秀な肥料だ。しかし小規模農家が自家消費用に飼ってるような数じゃ耕作地全ては賄えないし、そちらはそちらで都市の鶏卵消費需要のためには産業としては大規模化していく」

「・・・なるほど」

 砲弾の種類も、それぞれ向き不向きがあるものな。

「むしろ大規模化した農場に、休耕地で飼料作物を育てて売り飛ばしている農家もいるみたいだしな。牛のほうに来てもらうか、混ぜ込んで耕作すればまだいいんだが」

「・・・・・・」

「また、肥料が不足するなら、そういった集約した大規模農場から堆肥として分けてもらうなり売ってもらえばいいのだが、ここで面倒な問題が出てくる。エルフ系種族が生物としては完璧に過ぎるということだ」

「・・・・・・?」

「肥料を、触りたがらないんだよ。忌避感が我々より強い。エルフィンドの大規模農家や土地所有者が小作農や農奴を使いたがるのは、主にそこが原因らしい」

「・・・・ああ」

 例の、エルフ系種族特有の、生物的特徴の話か。

「最初にこの国での三圃式を考え普及させた奴、つまり神話伝承上の三代目女王なる存在を擁護してやるなら、そのあたりの忌避感を解決したかったんだろうなぁ。小規模耕作には確かに合った農法だし、本来なら施肥は自然に家畜がやってくれるからな」

「なるほど・・・陛下の進められた、あー、なんでしたか、農法」

「輪栽式か?」

「ええ。それをやるわけにはいかなかったのですかね?」

「あれはな、労働者数を確保する必要があって、そのため採算がとれる程度には耕作地が広くて実りを豊かにしないと、やれない農法なんだよ。うちの国の歴史上の不作は天候異常が主な原因で、そいつを私の例のあれでどうにかしてやれば、元々の地力はあったし、各家族に頭数がいて、公営農場は軍隊を突っ込めたからな。あとは肥料と、どちらかといえば拒否反応があったジャガイモ栽培の普及を考えてやればよかった」

「・・・エルフは家族単位で物事考えませんからな。どうしても個別主義的なところがあります。氏族単位でやれているところはあるようですが」

「そう。エルフィンドだとそのうえに、有力氏族や新興富豪から大規模土地所有者が出て、小作農制度が生まれてしまったのも不味いな」

「ほう」

「小作農というのは、我が国のような収穫期などに活躍する農業労働者とは根本的に異なる。賃金ではなく領主から貸し出された土地での収穫が報酬だからな。せっかく大規模に土地を有しても、妙なところでまた細切れになってしまう。小作農自身は、金をだして肥料を買う余裕なんて無くなるしな。目先の効いた有力氏族でも、肥料まで小作料扱いで買わせるといったところか。そんなことをやれば、とうぜん小作農は経済的には疲弊していく」

「・・・悪循環ですな」

「その通り。結果として、農地は肥料不足。ただこいつは、農地に必要な要素のうちひとつだけ、窒素の話だ」

「・・・まだあるんですか?」

「ああ。大雑把に言っても、作物成長には三大栄養分というものがあってだな。農地には窒素の他に、リンとカリウムが必要になる。これは耕作を続けるほど、どんどん農地からは失われるから基本的には何らかの肥料を放り込んで補っていくしかないのだが―――」

「はい」

「リンとカリウムの肥料はいまや化学的に作れるようになっていて、うちの国をはじめ星欧各国ではほぼ問題にならないんだ。ところが、こいつの特許を持ってるのが―――」

「・・・・・・」

「どちらも、うちの国なんだ」

「・・・は?」

「正確にいえば、私が作らせた。原始的な手法から初めて、化学的な製造手法にまで進化したのはここ三〇年ほど以降のことだが」

「・・・我が国の農業生産量が多いのは、陛下の御恩恵だとは伺っておりましたが。そういうことですか」

「ああ、もっと私を敬え。戦後を睨んだ内需拡大政策のなかに化学工業への投資が入っているのは、これらの増産と、まだ何年かかかるだろうが、本当の意味で商業利用可能な窒素の化学肥料も開発させようとしているからだぞ?」

「ふふふふ。はい、敬しておりますとも。そこで断交状態が絡んでくる、と?」

「うむ。エルフィンドは当然、うちの国から特許権を買ったりは出来ないよな。仮に国交があっても、オーク族が考え出した方法というだけで小馬鹿にしただろうしな」

「でしょうな・・・」

「カリウムに関していえば、星欧最大にして唯一のカリウム含有鉱物の産出地もうちの国でな。いまのところ他の有望鉱床はどこからも見つかっていない。つまり市場占有率もほぼ我が国で独占だ」

「リンは?」

「リンは、最初は骨粉を原料に硫酸を使って作っていたのだがな。いまはリン鉱石を輸入して生産しているな。なにしろ、こちらも産出地が限られていてな。うちの国の場合、ファーレンスが資本出資までしている南センチュリースターの鉱山産が大半で、すこしばかりグロワールの海外領からだ。こいつは大規模にやらんと採算が合わん」

「・・・なるほど」

「すこし脇道に逸れて悪いが、このリンの輸入体制と大量製造能力は、軍も恩恵を受けているのだぞ?」

「・・・白リン弾ですか。照明弾用の。他国が羨むほど大量生産してますな」

「正解です。こちらの未開封カルヴァドスを差し上げましょう。あとで、皆で飲め」

「ふふふふ、ありがとうございます。とうぜん、製造権的にも原材料的にも、エルフィンドは自国生産できませんな?」

「ああ。それでも製造権や販売権をうちから買っているキャメロットの商人が、骨粉から現地で作ろうとしたり、輸入肥料を転売しようとしたらしいのだが―――」

「・・・・・・」

「彼女たちは、聖なる森と樹々の大地に“何か妙なもの”を混ぜるわけにはいかないと、拒否反応を示したらしいんだ」

「・・・なんと」

「小作農が肥料を買えない構造は、こちらも同じだしな。結果、リンとカリウムも大地から失われていくばかり。土地が痩せるのも道理だ」

「うちの軍の占領地ほど作成りが増えているという報告は、いったいどうしてですか?」

「そこまでは解明できていないなぁ。厠と調理屑の埋設で養分が少しは補填できたのが原因じゃないかとは思っているんだが、本来、自然肥料というものは発酵させなきゃいかんのだ」

「ほう」

「そうでないとむしろ弊害も出る。細菌も増えるから、生野菜は食えなくなる畑も出る。掘削孔が深いから有毒物の浸透沈下と、土中温度による発酵を促したのか、そのような未熟成状態でも作成りが増えるほど土地が痩せているのかといったところだ。各師団に精肉中隊がいるだろう? その廃棄骨が影響を及ぼした可能性もあるな」

「大鷲やダークエルフ族はどう絡んでくるんです?」

「そいつもまた、自然な道理でな。狩猟をやっていた連中がいなくなったら、野性の獣が増えるだろ?」

「はい」

「とくにこの国にはヘラ鹿や鹿が異様に多い。鹿は増えやすいからなぁ。観戦武官団と狩りをやってみた際、獲物に困らなかったくらいだ」

「・・・ああ」

「わかってきたな? 増えすぎた獣が農耕地に損害を与える。これはまた別問題だが」

「・・・・・・酷いものですな」

「ああ。一朝一夕には解決がつかんぞ、これは。占領地政策もあるから、何か考える」

「よろしくお願い致します」

「うむ。そんな雑事は私に任せておいてくれ。ただこの話には、さしあたっての戦術面で役に立てそうな部分もあるぞ」

「ほう?」

「兵站部あたりは気づいているかもしれないが、エルフィンドでは、農家や農村を抑えるより、大規模農場を抑えてしまったほうが現地調達に効果があるということだ。アルトリアで、エルフィンドの連中も向きになって奪還しようとしただろう?」

「なるほど。これは助かります。それにどうやら私の知りたかったこともわかりましたので」

「ふむ?」

「この問題は、一朝一夕には解決がつかない。つまり長期問題だということです」



 ―――星暦八七七年一月末。

 のち、「ネニング平原の対峙戦」と呼ばれることになる戦局が、既に両軍において始まっている。

 オルクセン陸軍第一軍がエルフィンド東部沿岸諸都市を占領すべく北上したとき、彼らがまず驚いたのは、それまでと違ってエルフィンド軍が組織的な遅滞戦闘を演じたことだった。

 精鋭マルローリエン旅団によるこの戦術行動は橋梁破壊を主体にしたもので、大規模な橋梁こそなかったから致命的な遅延は起きなかったものの、合計して八個所で実施されており、鉄道中隊や工兵隊の投入を要した。

 オルクセン軍の架橋能力は高く、街道橋梁にしても鉄道橋梁にしても早期に復旧させたから、むしろエルフィンド軍側を戸惑わせたかもしれない。彼らは工兵隊の架橋器材や、鉄道中隊による枕木材を大量使用した簡易工法でそれを成し、沿岸諸都市に到達した。

 この沿岸諸都市に到達したとき、どの街からも備蓄食糧のうち余裕分が失われていたことが、次にオルクセン軍を驚かせた。

 アルトリア攻略戦による第三軍の兵站危機も起きていて、どうやらエルフィンドの食糧生産能力が想定以上に低いようだとわかるのはこのころのことだが、短期的にいえば東部沿岸諸都市の余裕食糧の欠乏は、エルフィンド軍の手によりこれもまた組織的に行われた戦術行動である。

 どの街も無防備都市宣言を出していたから短期間に、無傷で手に入れることが出来たが、このため各市の市民を養っていかねばならなくもなった。

 ネブラス市、八万。

 エヴェンマール市、一五万。

 タスレン市、六万。

 周辺村落もある。

 遅滞戦闘の一環であり、これは兵站を重視するオルクセン軍相手には効果的であった。諸外国の手前、占領地に対し無茶な真似も出来ない。

 このような戦術の数々には、近代的には前例があった。

 デュートネ戦争中、その一局面として南星欧で起きた半島ペニンシュラ戦争だ。イザべリア半島でデュートネ率いるグロワールに侵攻を受けた勇敢で熱狂的な人間族国家は、自らの犠牲を厭うことなく、そのたいへんな戦法を採って抵抗をした。

 緒戦の衝撃から立ち直り、動員にも成功したエルフィンドは、この先例を参考にしたのである。

 ―――焦土戦術という。

 これを使うよう進言したのはあのダリエンド・マルリアン大将で、彼女はデュートネ戦争半島戦役を支援したキャメロットの戦史書を参考にした。

 むしろ先例と比べればまだまだ大人しいほうで、本来なら自らの手による国土の破壊、物資の引き上げなどを、もっと徹底的に行う戦術になる。

 都市部の食糧を文字通り根こそぎ持っていかなかったのは、各市が中央の命令によって無防備都市宣言を出す際、各地の有力系氏族から任命されていた市長たちがせめて市民のための幾ばくかの食糧を残せと激しい抗議をやった結果であり、将来の捲土重来を思うなら、中央としても無茶は出来なかったからだ。

 エルフィンドという国家が持っていた、前時代的な習慣や慣例、統治機構が裏目に出た。

 かてて加えて、前例が少しばかり足りず、エルフィンド中枢が非情な決断に徹しきれなかったという影響もあった。

 デュートネ戦争半島戦役の際、この行動を知ったロヴァルナなどはおおいに参考とし、その軍幹部らは、もしデュートネがロヴァルナまで攻め込んできたら自国の広大な領土を使ってこれを徹底的に、無慈悲に、大規模に行うつもりだったとされている。

 ところがオルクセンが懸命な抵抗をやってデュートネ軍を押し返してしまったため、ついにアルベール・デュートネはロヴァルナまで侵略することはなかった。

 この結果生じた先例の不足が、エルフィンド中枢に躊躇いを生じさせた。

 焦土戦術の採用より先行して行われたマルローリエン旅団による遅滞戦闘が、決死の苦闘を行わなければならかったことからもわかる通り、準備や実施を徹底する時間も足らなかった。

 オルクセン軍では―――

 このような占領地に対し、将来的な領土の併合を目指している以上、無茶も出来ない。

 都市部からも、周辺村落からも、住民のなかには何処かに逃げ散ってしまっている例などもあったが、多くは残留していた。行くあての無さや、エルフ系種族が生まれ故郷の白銀樹の側からはあまり離れたがらない者が多いからだと思われた。

 彼女たちを養っていかなければならない。

「船舶輸送をやるしかありませんな」

 対処策は、占領地行政という観点から事前検討されてはいた。

 戦前、オルクセン国有汽船社をはじめとする船舶の徴用が作戦計画に組み込まれ、また戦時となってこれが実際に行われると、もっとも懸念されたのは民需用海上輸送能力への圧迫である。

 そこで、徴用したのと少なくも同じトン数だけ、戦時予算を使って各国から同規模クラスの中古商船を買い入れることになった。

 これは開戦とほぼ同時に総軍司令部から稟議が図られ、グスタフ王の裁可を得て、既に実行に移されていた。仮装巡洋艦隊が通商破壊戦によって拿捕した、元エルフィンド商船もある。戦後の商船保有量の飛躍を狙った計画でもあった。

 このような船舶から更に徴用をして占領地用に割り当て、これによって生じる不足分は第二次購入を図ることとされた。

 幸い、沿岸諸都市にはファルマリアには劣るものの、港もある。主眼はあくまでファルマリアへの荷揚げ、同地からの鉄道輸送という流れに置かれたが、そのような占領諸都市諸港湾も活用できた。

 このころ、オルクセンでは国内における物資の統制すらほぼ行われていなかった。

 オルクセンの国民数三五〇〇万に対し、出征及び後方動員、他国に備えた後備兵力の動員総数は最大で一五〇万である。

 単純に言って、兵士一名あたりを国民二二名で支えている計算になる。

 これはのちの時代に人間族の国家同士で起こった諸戦争と比べるなら、相当に余裕のある状態だった。

 長年にわたって構築された体制による穀物類の備蓄はうんとあり、またその生産も後備兵まで投入して継続していて、牛や豚といった一部畜肉やその加工肉、嗜好品の消費、民間の鉄道や船舶の利用などに制限がかかっていた程度である。

「第一軍側は、こう言っては何だが、どうとでもなる」

 船舶輸送という、効率のよい輸送手段が軍を支え得る―――

 第三軍側で兵站危機問題が大きくなってしまったのは、アルトリアの住民数が多かったことと、戦史上稀有といってもいい捕虜の膨大さ、想定以上のエルフィンド国内食糧事情の悪さといった問題が一挙に第三軍へ負担をかけたうえに、エルフィンドの貧弱な鉄道路のみによる輸送力では、これほど膨大な国力の生み出す物資を一挙には運びきれないからだ。

 第一軍は、驚きはしたが、占領地維持をやれると踏んだ。

 であるから、その彼らをもっとも戸惑わせたのは、むしろエルフィンド軍が行った根こそぎ動員による兵力数の多さだった。

 沿岸諸都市などからの食糧の持ち出しは、エルフィンドがネニング平原中央部から西部にかけて集結させた自らの決戦兵力に食糧を供給するためでもあった。

 その兵力が、どうやら戦前の予測を遥かに超えているらしいことが、オルクセン総軍司令部にいちばんの衝撃を与えた。

 約二四万。

 アルトリアから脱出した四万を加えているのだとしても、元々アルトリアの兵力はネニング方面から増強されていたから計算上これが戻っただけで、オルクセン軍はやはりエルフィンド側の動員力を見誤っていたことになる。

 俘虜尋問などから、その正体は朧気ながら理解できた。

 国民義勇兵や、都市防衛兵、果ては警官などまで、半島北部からも根こそぎ集めたらしい。

 この巨大な兵力を、ネニング平原中央にあるエルフィンド第三の都市ディアネンを中心として集結させている。

 マルローリン旅団の戦闘は、この兵力集結のための時間稼ぎであった側面が大きい。

 第一軍の総兵力は、一六万七〇〇〇である。

 オルクセン軍のドクトリンとしては、敵より多い兵力で機動戦をやり、包囲して、火力で決着をつけたい。

 だがこれほど兵力差があっては、どうにもならない。

 また、ベレリアンド半島の気候が彼らを躊躇わせた。

 この半島中部以南の特徴である西風が、この平原では七メートル前後になった。向かい風である。積雪までには至っていないが、雪まで混じり始めている―――

 参謀たちは善後策を協議した。

「ファルマリアの後備第一旅団、それに本国の総軍予備兵力から第四軍団を北上させて我らに合流させる。これで二一万あたりまでは持っていける。ただ―――」

「はい?」

「こいつは、ちょっと弱ったことになったぞ。我がオルクセンの海上輸送能力といえども、これだけの市民を養いながら一方面で兵力増員も図るとなると・・・負担がかかり過ぎる。兵の頭数に頼った動員はこの辺りが限界だろう。ネニングの南北展開正面も狭いからな」

「すると?」

「第三軍だな。必勝を期すなら、第三軍の兵站状況改善を待って北上させる。それまでは第一軍はここで冬営を兼ねた対峙戦をやるしかあるまい」

 痛し痒しといった判断だった。

 兵站に比較的余裕のある第一軍が、それでも攻勢には出られないから兵站状況の悪い第三軍を待つという、何ともいえない善後策だ。

「これだけではいかんな」

 参謀たちは、何か別の、もう一手が必要だと考えていた―――



 ディアネン市に司令部を置くエルフィンド軍の決戦兵力は、サエルウェン・クーランディアという元帥が指揮を執っていた。

 短めにした褐色の髪型。

 碧眼の目元には気骨の気配がある。

 かなりの年齢なのだが、エルフ族の常でその見た目は若々しく、二〇代ほどに見えた。

 エルフィンドとしては、彼女の声望に縋るような思いで任命した。

 一二〇年前のロザリンド会戦における、当時のエルフィンド軍の総指揮官だったのだ。

 クーランディア元帥曰く、

「結局、ロザリンド世代ばかりが頼りになってしまったな」

 現状の軍主流派将軍たちは、現政府とのコネや、有力氏族であるかどうか、処世術などによって出世した連中で、いま一つ頼りにならない。

 クーランディア自身もそのような空気に嫌気が差し、戦前にはエルフィンド唯一の元帥として、その実際は半ば名誉職的に与えられた執務室の自席を温めるばかりだった。

 この段階になって決戦兵力の総司令官に任じられたのは、氏族間政治闘争や責任回避の観点から人事の推挙をいつまでも行わない政府及び陸軍首脳に業を煮やしたエルフィンド女王が、クーランディアの人柄をとくにこれと見込んだからだった。元帥は女王にとって、かつての教育係であった。

 当初、元帥は強く辞去をした。

 彼女自身は、己をデュートネ戦争時代までの知識しかない骨董品だと思っており、とても近代戦の指揮を執る自信がなかったのだ。

 しかしながらこの熟練の将は、かつての己の片腕であったダリエンド・マルリアン大将がアルトリアでたいへんな苦戦をやりきり、俘虜となると、俄な人事を引き受けた。

「あのマルリアンがな・・・」

 もはや戦局は、一私人としての我儘を言っていられないと腹を固めたのである。

 総司令官就任にあたってクーランディアが女王の信任を背にしてエルフィンド中枢に要求したのは、軍令面のみならず、野戦昇進の人事権や軍政面にまで及ぶ完全に自由な裁量権だった。事実上、残存エルフィンド陸軍に関する全ての権限を寄越せと言っているに等しい。

 政府首脳らは、こんなことなら己が氏族から総司令官を推挙、任命するのだったと鼻白んだが、もはやあとの祭りである。

 彼女たちがすっかり大人しい骨董品だと思っていたクーランディアは、長い微睡みから目覚めた猛獣のようであった。自らの要求が入れられるまで、自身や副官による夜討ち朝駆けで政府首脳や軍幹部を追い詰めた。

 彼女たちは、渋々ながら元帥の要求を認めた。

 そうしてクーランディアは、まずかつての片腕マルリアンが必死に残してくれたといっていいアルトリア軍の残存兵力を、一切の責任追及なく自軍に糾合した。

 彼女にしてみれば、貴重な実戦経験を積んだ得難い精鋭たちであった。指揮官のコルトリア一等少将を中将に昇進させ、決戦兵力の一翼を担わせる決断も下している。

 コルトリア将軍は、マルリアン大将が残してくれたいま一つの貴重なもの―――アルトリア戦の戦訓と、これに基づく対オルクセン軍用の戦術提言の数々も齎してくれた。

「・・・なるほど。なるほどな、焦土戦術か」

 こうして彼女が採用した最初の一手が、徹底させきることまでは出来なかったものの、敵第一軍方面における都市備蓄食糧の引き上げであった。いずれにしても決戦兵力のためには食糧が必要だったから、これは自然な流れでもあった。

 彼女は、ネニング方面軍と呼ばれることになった決戦兵力の全てに陣地構築を命じつつ、二月上旬、首都ティリオンから来客を迎えた。

「おお、ファラサール大将。この度はご足労をおかけしました」

「なんの、なんの」

 ディアネン市に訪れたのは、意外な立場にある者だった。

 トゥイリン・ファラサール海軍大将。

 いまや指揮下の艦艇ほぼ全てを喪失したため、侍従武官長を兼任している海軍総司令官だ。前任の侍従武官長は、開戦以来の心労のあまり倒れ、後を継いでいた。

 戦前、エルフィンド海軍の近代化を成し遂げた一種の傑物である。

「来いというお手紙を頂戴しましたので」

 彼女は、以前から知己のあるクーランディアにむかって微笑んだ。

「まぁ、まずは食事でも」

 乏しい食糧から、コックたちが真心を込めて用意してくれた夕食が出た。

 混ざり気なしのライ麦パン、ジャガイモに岩塩をほんのり効かせたグラタンと、骨抜き丸鶏のパテ入りロースト。

「これは、これは。ちかごろは滅多に見ない馳走ですな」

 ファラザールは戸惑う。

 昨今のエルフィンド国内では、農村部はともかく都市部においては、脱穀殻や雑穀入りのパンが流通している。

 肉類は、ほそぼそと続けられている沿岸捕鯨の鯨肉が主軸に移りかけているほどだ。

「国民や兵たちには申し訳がないですが。こんなときに食欲の出せない者は、戦に勝てはしません」

「まさしく」

「・・・その、代用でないコーヒーも。これは小官の持ち込みですが、のちほど」

「なんと。少しあとが怖いですな」

 そういえばこの方は健啖家だったなと苦笑するファラサール大将だったが、デザートの段階になってクーランディアが語った内容は、流石に彼女を驚かせた。

「・・・陛下の御出馬」

「ええ」

 クーランディアは、エルフィンド女王が首都ティリオンからディアネン市へと赴き、ネニング方面軍を親卒のかたちにすることを望んだ。むろん、実際の指揮はクーランディアが執る。

「畏れ多くも、臣下にも悖る願いだとは自覚しております。ですが、これ以上の士気鼓舞手段はありますまい」

「・・・・・・」

「どの道、この軍が敗れればもはや我が国は終わりです。首都を守り切ることも出来ないでしょう。この一戦が全てなのです」

「・・・道理ではありますが―――」

 ファサラールは、政府の連中を説得するためには、何らかの必勝策のような見解の表明が必要だろうと指摘した。ただ防戦に努めるというだけでは、国力の差からも敗戦に陥る可能性が高いと、これはもはやエルフィンドの中枢に座る者たちですら自覚している。

 クーランディアは強く頷いた。

「ええ。これは、マルリアン大将が残してくれた策なのですが―――」

「はい」

「我らにしか為し得ぬ方法で、敵の最大の弱点を突こうと思っております。それは―――」

 ファサラール大将は、そのあまりの壮絶な内容に息を飲んだ。



「火力増強か」

 グスタフ・ファルケンハインは、カール・ヘルムート・ゼーベック総軍総参謀長の手により提出された作戦案を眺め、呟いた。

「はい。グレーベンは歩兵の数より、火力を増強して備えたい、と」

「野戦重砲旅団二個、それに攻城重砲旅団一個、本国で作られたグラックストン機関砲のほぼ全て―――」

「・・・まさか、野戦で二八センチ砲を使うことになろうとは思いもよりませんでした」

「まあ、うちの国で曲がりなりにも野戦運用出来る最大の火砲だからな」

「これで、第三軍の北上を待って敵を軍規模で包囲。でかい戦になります」

「攻勢予定時期は、三月以降」

「第三軍の北上も待ち、季節風の収まる時期となりますと。それまではネニング平原東部の北から南に並べた我が軍で、陣地を構築して冬営、敵の不意の攻勢に備えます」

「ふむ」

「グレーベンは、これで返って奴らの尻に火がつかないか、と申しています。何しろエルフィンドは既に最大の穀倉地を失っております。食糧生産量の乏しさが、今度はこの国自身の仇になります」

「道理だな」

「待てば待つほどエルフィンドの国力疲弊は酷くなるうえに第三軍は北上を再開する、かといって第一軍へ攻勢に出れば防禦に徹したこちらの火力に叩き返される、と。我らがネニングに展開した時点で、もう第三軍側にも進めません。我らに脇腹を突かれてしまいます。どちらにしてもこの国にはもう亡ぶしか道は無くなる、と」

 ―――なるほど。

 それでグレーベンの奴は、エルフィンドの食糧問題が短期的なものか長期的なものか知りたがっていたのか。

 いやはや。

「相変わらず、作戦の天才だな。頼もしい限りだ、敵の戦術を逆手に取るとは。うちの兵站に負担をかけて対抗してきたつもりの敵に、国家規模で負担を仕掛け返すわけか。ふふふ、なるほど。うん。わかった、裁可する」

 グスタフは署名した。

「ただな、ゼーベック」

「はい、陛下?」

「これは総軍司令部というより、大本営としての所管範囲なのだか―――」

 グスタフはかなり迷った様子のあと、告げた。

 本来、軍の作戦に介入はしたくないと自覚したうえでの発言だった。

「はい、我が王」

 付き合いの長いゼーベックは、そのあたりの王の心の機微はすぐに察した。

 ならばこそ、よほどの何かだろうと、耳を傾ける。

「外交上、ちょっとばかり面倒なことになっていてな」

「と、いいますと?」

「この戦局膠着を好機だと思ったのだろう。キャメロットが、また和平の周旋に動いてきた」

「・・・なんと」

「今度は、キャメロット女王から私あての親書になっている。あの国の外交文書としてはいちばん格の高い、最後の切り札みたいなものだ。既にオルクセンにおかれては世界に武威を示された、ここらで鉾を収められてはどうか、と。和平を成せるのは貴方様だけなのですと、殺し文句つきだ」

「面倒ですな・・・」

「まあ、あそこの王家は、神話伝承上、エルフィンドとちょっと繋がりがあるからな。もう直系ではないが、遡るとエルフの血が入っていることになっている」

「それで、陛下はなんと?」

「案ずるな。キャメロット女王のお心遣いには感謝する、ご宸襟を悩ませ申し訳が無いと慇懃な前文をつけて、領土を割譲しろと要求されたのはこちらだ、エルフィンドに責任があると、従来通り突っぱねた」

「・・・つまり、こちらの継戦意思を示す一戦、戦局は停滞なぞしていないと示す一戦を何処かでやることが望ましい、と」

「・・・うん、王としてはそれが望ましい。しかしこんなときだ、軍に無茶をさせたくもない」

「なんの。そのための我らです。お任せを」

「うん」

「我が国としては、半端なかたちでこの戦争が終わることがいちばん困ります」

「うん。私としてもその軸をぶらせるつもりは毛頭ない」

「ありがたきお言葉です、我が王」

「一応、外交上もうひとつ手はあるんだが、こいつは劇薬に近い。いずれにしても公表しなくちゃいかんのだが」

「はい?」

 グスタフは、一通の書簡を机上に広げた。

 国際赤星十字社の透かしが入っていた。

「エルフィンド政府の、レーラズの森事件への最終回答書だ。さきごろ返ってきた。こいつを事件の詳細と合わせて全面公表する。もはや教皇領を含む何処の政府も奴らを擁護できなくなり、和平交渉介入もやれず、うちの背後を突くあらゆる道徳的大儀名分も消え失せる。皮肉なものだ、自国民に犠牲を強いる焦土戦術すら、奴らの悪逆非道さを強調する結果になる」

「つまり・・・」

「ああ。野蛮な魔種族国家だったはずのオルクセンが、なんと正義の味方とやらになるんだ。いやはや、ありがたいことだな。最大で一五〇万の兵力、我が国力。必要なら全て突っ込めるようになる」

「エルフィンドはどうあがいても終わりですな」

「ああ」



 両軍の前線各所では―――

 誰も気づかないうちに、近代戦術史上における、重大な変化が起きようとしていた。

 防禦を図り、厳しい風の吹く冬営に備え、陣地を構築する過程で、その動きは急速に進化し、広まっていた。

 火力戦とともに運動戦も重視するオルクセン軍がそれまで多用していた散兵壕は、伏射や膝射を目的にしたもので、地形なども利用して、掘削としてはかなり浅い、言ってみれば一時的に利用するための陣地だった。一夜ほどの野営には耐えられても、これでは永続的に眠れなどしない。

 暖を求めるためもあり、ずっと深い壕が掘られるようになった。

 立射が出来るほどにもなる、たいへんな深さだ。

 まるで稜堡式要塞時代の、攻城用の壕のようだった。本来なら、野戦で掘るようなものではなかった。

 そこまで深く掘ってしまうと、崩れを防ぐための補強も行なわなければならない。土嚢や、木材、板などを使ってどんどんと構築は立派になっていった。雪溶けによる湿気や、稀に僅かな雨もあったから、底には排水溝を掘って、その上に板を敷く。

 寒さや風雪を凌ぐため、そのような壕のうえには、壕幅の半分ほどを覆う天蓋も作られた。支柱入りの板屋根を作り、更に土砂を敷いて厚くした。

 天井の下や、更に広げた待機壕のなかに、寝床を作る。

 そのような、以前より遥かに念入りな壕は、正面防禦に使われ、側面に広がり、予備隊用も用意された。

 これでやっと少しは快適になったと、オーク族の兵たちは泥だらけの顔を綻ばせたものだった。

 このような代物は、エルフィンド軍側でも作られた。

 自然条件は同じであったから目的はほぼオルクセン軍側と一致したが、彼女たちは元より陣地構築を重視する。

 より明確に、

「オルクセン軍の火力と相対するには、少しでも深く頑丈な壕がいる」

 と、主張した一団もあった。

 アルトリア戦の生き残りたちだ。

 とくにその前哨戦で壕がどれほどの効果を発揮したのか、どれほど己たちを生き残らせてくれたのか、彼女たちは身に染みて知っていた。

 両軍の兵士も、これに陣地構築を命じた上官も、それぞれの司令部も。その行為がいったい何を意味するのか、近代戦においてどのような戦術上の変化を齎すことになるのか、まだまるで気づいていなかった。

 このような代物を。

 ―――塹壕という。



(続)

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