第8話 戦争のはじめかた②

 ―――時節は、ほんの少しばかり遡る。

 アンファウグリア旅団の閲兵式が行われた、星暦八七六年七月四日。

 閲兵式会場を出たその一台の馬車は、旅団が後日になって国王官邸の警護衛兵交代に使うようになる経路をほぼそのまま辿って、新市街のフュクシュテルン大通りへと出て、デュートネ戦争戦勝凱旋門と大通りを挟み合うオルクセン国軍グローサー・参謀本部ゲネラルスタブ前に停車した。

 馬車は、豪奢であった。

 四頭曳き。

 ヴェーガ馬車製造会社製のヤールフンダート七四年型。

 基本的な設計はオーク族の使用を考慮していて、車体は大きい。

 ヤールフンダートは、オルクセン最大の馬車製造会社であるヴェーガ社にとって最高級型であり、一台一台が顧客の発注内容に応じて製造される、実質的な一点製作ものだ。

 車両色、車両燈といった外装、そしてもちろん壁紙や詰め物などの内装。何もかもがヴェーガから惜しみなく注がれた技術と、同社契約先である国内の最高級職工たちの手によって仕上げられ、顧客の好みを満たす。

 板バネは精緻にして精工で、頼まなくとも定期的にヴェーガ社からやってくる整備技士たちに任せておけば、軋み一つたてない。

 参謀本部前に乗り付けたその一台の色は、非常に派手な薄桃色だった。

 グロワール風の、王侯貴族もかくやと思われる真鍮製の装飾も施されており、落ち着いた色彩やあしらいを好む者が多いこの国の民からすれば、そっと眉をひそめるほどのもの。

 やはり非常に派手な復古調の揃いの衣装を着た従者の手により、扉が開けられ―――

 降り立った者こそが、いちばん周囲の目を惹いた。

 フリルや刺繍を多用した、派手な薄桃色の衣装。

 白鳥の羽根飾りのついた、鍔の大きな牝帽子。

 中身は、コボルト族としては大きなロヴァルナ・ウルフハウンド種。長く艶やかな、丁寧にブラッシングされた白い体毛のそこかしこには、衣装と同じ色のリボンがあった。

 同種族の執事に日傘をかけさせ、秘書を伴い、国軍参謀本部正面の大階段を登ると、パンテオン式の大円列柱下へと進み、受付には典雅な態度と仕草でそっと頷くだけ。

 彼女の姿に、もうとっくに慣れてしまっている当直士官は内心の呆れをおくびにも出さす、慇懃な態度でただちに案内役の兵をつけ、奥へと通した。

 彼女が通されたのは、国軍参謀本部の三階。その一室。この建物に幾つかある同様の部屋のなかでは、最奥に近いものである。

 そこで彼女はちょっと片眉を上げた。

 いつもより格式が一つ、この建物を支配する牡たちにとって最重要に近い場所だったからだ。

 ―――国軍参謀本部次長室だった。

「やあ、ファーレンス夫人。いらっしゃいませ。今日はまたいちだんとお美しいですな」

 参謀本部次長兼作戦局長でオーク族のエーリッヒ・グレーベン少将が出迎え、

「まあ珍しい、少将。おまけに、お褒めのお言葉まで。何か恐いお話でなければいいのですけれど」

 くすくすと笑いながら、この国最大の総合商社ファーレンス商会を率いるイザベラ・ファーレンスは応じた。

 イザベラは、いつもは彼女を出迎えている参謀本部兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将もまた、グレーベンの隣に巨躯を並べているのを見てとって、頷く。

「ローテンベルガー少将も。かの新編旅団の閲兵式には出席なさいませんでしたの? たいへん結構なものでございましたよ」

「まぁ、我らは視察しようと思えばいつでもできますから」

 ローテンベルガーは苦笑する。

 内心ではそっと、相変わらず派手な会長だ、そのように思っている。

 ―――ちなみに。

 この国には、牡が牝を出迎えた際などに、手の甲に口づけの真似をするような習慣はない。

 とくに、異種族間では。

 オルクセン諸種族統一後には、外交のためもあって人間族の習慣や儀礼を見習おうと取り入れる試みがなされたことはあるのだが、オークがそのような真似をすると他種族からは食われるのか襲われるのかと誤解され、恐怖され、失禁すら招きかねない行為であったため、あっという間に廃れた。

「さ、どうぞ」

 イザベラは席を勧められ、コーヒーと茶菓も出た。

 秘書からは既に彼が携えていた鍵付き書類鞄を受け取り、執事とともに表で控えさせてある。

「軍の皆様は、面倒な前置きなどお好みに合いませんでしょうから。さっそく―――」

 イザベラは、鞄から四つ折り革装丁で丁寧に閉じられた、分厚い書類を取り出す。

「いつものもの、ですわ」

 ローテンベルガーがそれを受け取り、無言のまま、まず一頁に纏められた更新内容を眺め、幾らか頁を捲り、確認。

 そして書類をグレーベンへと回した。

 グレーベンは最初から知りたい何かがあったらしく、とある頁を広げ、熱心に読み込みはじめ、その様子はもう室内の他者のことなど眼中にないようだった。

「いつもながら大変結構な資料です」

「どういたしまして」

 ローテンベルガーはコーヒーを啜る。

 彼の率いる参謀本部兵要地誌局は、参謀本部にあって六番目に作られた部局であり、国軍参謀グローサー・本部兵要地誌局ゲネラルスタブⅥ―――GGSⅥゲーゲーエスゼクスと呼称されることもある。

 兵要地誌局は、軍の地図を作り、各地の気候、風土、町の規模、経済状況といったものを兵要地誌に纏めるという部局だが。

 実は地図や兵要地誌の作成以外にもう一つ役目があり、いまではそちらが本業のようになっている。

 国内のみならず、この星欧各国の兵要地誌情報を集めているうちに果たすようになった役割―――軍諜報機関としての機能だ。

 街道。鉄道。橋。町。港。

 衛戍地、要塞の位置。その数。構造。

 食糧生産はどれほどあるか。

 そういった類のものは、その全てが軍事情報と成り得る。いや、それそのものと言っていい。国外ともなれば、尚更のことだ。

 ローテンベルガーは元々工兵科の出身だったが、そういった仄暗い仕事を受け持つ才に己が恵まれていることに、この職を拝命してから気づいた。

 彼は、出身兵科ゆえに、若いころからいつの間にか頭の中で詳細な立体地図を想像することが出来た。

 山並み。平野の起伏。その高さ。

 河川の幅、長さ、蛇行の具合、水量。

 橋の長さ、強度、構造―――

 実にありありと想像できた。

 そんな能力を、情報というあやふやな代物を精緻に組み上げていく過程にも応用できるのだとわかったとき、彼の軍情報機関の長としての役割は比重を増した。

 東のロヴァルナ。

 西のグロワール。

 アルビニー。

 更に海を挟んだ隣国のキャメロット。

 南のアスカニア。

 オスタリッチ。

 そのまた南の、聖星教教皇領と、エトルリア。

 そんな人間族の国々が、人間族の国々であるがゆえに、その全てが魔種族の国オルクセンの潜在的敵国であると言えた。

 なかでもグロワールとアスカニア、オスタリッチ、教皇領は、歴史的経緯ゆえにかなりの警戒を要する。

 各地の駐在武官を中心に、ローテンベルガーはこの星欧大陸ほぼ全てに対して、膨大な諜報網を築いてきた―――

 いまや参謀本部内で見回しても、作戦局の次に予算と人員を割かれているのは彼の部局になっている。つまり、あの、兵站局以上に(もちろん、部局そのものとしての予算だ)。

 なにしろ、諜報という代物には金がかかる。

 大きな何かを掴みかけた者に、すかさず、即断的に、ぽんっと一〇万ラングほどを会計無しで渡すような必要さえあったから、本部総長公認の裏金まで備えてあった。

 そんな彼にとって、まるで想像力を働かすことの出来なかった国が、この星欧にただひとつだけ存在した。

 ―――エルフィンド。

 オルクセンとは国交が無く、個の交流さえ絶え、隣国でありながら情報量としては世界でもっとも遠い国。

 それでいながら、オルクセン最大の仮想敵国―――

 調べようにも、オークにも、コボルトにも、ドワーフにも、巨狼や大鷲たちでさえもはや立ち入れない。

 彼らがあの半島から追い出されたときの情報は、もう年月を経て、古ぼけ、まるでとまでは言わないが多くの点において役に立たなくなってしまっていた。大鷲はいまでも飛ばそうと思えば飛ばせたが、過度な刺激を避けるために控えるようにと命令されている。

 ごく最近になって、かの国の国境部から、集団でこの国へと亡命してきたひとつの種族があり、おまけにその種族―――ダークエルフ族は祖国への憎悪の念を燃やしていて、彼女たちからは新鮮な情報の数々を集めることが出来たが。

 それまではずっと、エルフィンドの情報は目の前の牝―――イザベラ・ファーレンスただひとりを経由して収集されてきた。

 なぜか。

 彼女にだけはそれが、巧妙に、密かに、しかも組織だって、やれたのだ。

 イザベラの率いる商会は、総合商社であり、輸出入を行う貿易商で、金融業も営み、国内では電信機や電纜の製造会社まで持ち、まさにオルクセン最大。

 そうして得た莫大な富を、あちらに投資し、こちらに融資し、とある会社を買収し、またある会社を担保として譲り受け―――

 そんなことをやっているうちに、海外にまで勢力を伸ばすようになった。

 特に、隣国キャメロットへの進出が著しい。

 おもに金融業で端緒をつけ、キャメロットが得意とする海運業と貿易業、その方面の保険業社らの、更にもう一つ大きなくくりの商取引を引き受けることで急速に浸透した。

 科学が進展したこんにちにおいても、まだまだ珍しいものではない大きな海難事故があったとき、キャメロットの海運及び貿易関連業者にのしかかる賠償金の一時負担額や、海運保険会社が支払う保険金は当然膨大なものになる。

 彼女の会社が扱っているのは、海運業者や貿易会社からあらかじめ担保となるものを預かっておいて当座支払能力の保証をしてやる、あるいは保険会社から更にその社そのものにとっての保険を請け負う、という仕事だ。

 上手い商売だ。

 金払いがよく、信用のおける大会社ばかりが取引先で、一契約取引あたりの価格も高額。利鞘だけで、ちいさな町なら一年は飽食できるほどになる。

 リスクももちろんあったが、彼女はそこに巧妙な仕組みを持ち込んでいた。

 ―――格付け制。

 相手会社の資本規模。収支状況。保有資産。

 事故が頻発する海域のものか、そうでないか。

 船の性能、くたびれ具合はどうか。

 荷はどれほどの価値のものなのか―――

 そういったもの全てを審査した上で、ある種の基準のもとに評価し、取引を成立させるかどうか判断しているのだ。

 なにしろ、ファーレンスは本業のひとつとして金融業を営んでいる。

 コボルトたちは魔術通信が使えるため、人間族が想像もつかないようなむかしから情報を迅速にやりとりし、相場に強かったのだ。

 金融業者にとって取引相手の信用度を見極めることは当然のことで、冷静に、冷徹に、そんな情報を収集する経験値と手法も、既に積み重ねていた。

 いまでは彼女の会社のつける格付けが、そのままキャメロットの海運及び貿易会社や保険会社にとっての対外信用度のひとつになり、海運価格の相場にまで影響を与えている始末だ。

 あちらの資本を中心に商売仇も当然存在したが、キャメロットの二重保険市場におけるファーレンス商会の占有規模は、ただ一社だけで三割二分ほどにまで到達していた。これは一社で占めている割合としては、最大のものになる。

 そのような企業運営を行っているうちに、キャメロットの海運業社や貿易業者のいくつかを、直接的に支配下に置くようになった。担保として差し出されたものが中心だった。

 つまり彼女は、魔族種の国オルクセンにおけるコボルト族でありながら、商業の世界で、他国の人間族の一部をも気ままに差配できるまでになっていた。

 そのなかには―――

 も存在したのだ。

 エルフィンドは事実上、過去の様々な歴史的経緯からキャメロットとしか国交がない。キャメロット商人のなかにはエルフィンドと取引のある企業がいて当然だ。

 そして。

 ファーレンス商会は、それよりずっと以前から、

 もともと彼女の商会の出自は、北部地方におけるたった一個の擲弾兵連隊の、連隊酒保の運営を請け負う小間物商だった。それも、一度は別地で潰れて再起したという、小さな店。

 それがデュートネ戦争の勃発で連隊兵站作業の実務を請け負い、会計を担当し、連隊から旅団が取引相手になり、さらに旅団から師団、師団から軍団へ―――

 あの星欧中を巻き込んだ大戦争が終わったときには、当時出征した北部軍の、グロワールにおける兵站業務の全てを請け負うまでに成長していた。

 戦後、国軍参謀本部の兵站局に、もっともよく顔を出す商人はイザベラ・ファーレンスになった。ついには一地方軍ではなく、国軍中枢からの委託業務を請け負うようになっていたのだ。

 ―――そうして、兵要地誌局と出会った。

 彼女は、兵要地誌局にエルフィンドの情報をもたらすようになった。

 イザベラとファーレンス商会にだけはそれがやれた。

 その支配下の、とあるキャメロットの海運業者は、エルフィンドにおける港湾施設を調査した。

 またある貿易商は、取引の傍ら観光地図の数々を手に入れ、街並みのスケッチをとった。

 とある鉄道技師の男など、高額な報酬に目がくらみ、エルフィンドで建設を担った鉄道敷設図を一路線丸ごと寄越した。

 またある商人は、破産寸前のところをイザベラに救ってもらったことを一生の恩義に感じ、取引先の町から町へと移動する際、レールの継ぎ目の音を寝ずに数え、そこから距離を計算し、鉄橋やトンネルの位置、あるいは鉄道車両そのものの速度を記録するという大事業を成し遂げ、その全てを彼女に献上した―――

 イザベラは、それら全てを克明に、精緻に、一朶の漏れもなくまとめ、定期的に兵要地誌局へと提供した。

 定期的であったのは、例えかつて調査したことのある場所や事象だったとしても、時間を経れば変化していたり、より詳細に機微を掴めることもあったからである。情報更新だ。

 そうやって集められた情報の数々は、蓄積され、分析され、纏め上げられ―――

 ついには、エルフィンド国内で、ローテンベルガーに想像できぬ場所はほぼ無くなった。

 ローテンベルガー配下の、ある口さがない参謀など、こんなことを嘯いたことがある。

「俺たちはきっと、エルフィンドの将校たちよりエルフィンド国内に詳しいぜ」

 これは傲慢ではあっても事実でもあると断言できるところにまで、もはやエルフィンドの情報は集積されている。

 五年ほど前―――参謀本部が、最初の組織的で系統立った対エルフィンド侵攻作戦計画を作り上げたころからだ。

 この諜報作業―――

 とくに緘口令など敷かずとも、参謀本部に勤める者のうち、事情を知らぬ者たちはたいへん都合のよい早合点をしてくれた。

「あの会長、また来てるな」

「商売に豆なことだなぁ。また兵站局だろう?」

 実際のところ、イザベラは情報提供の見返りとして、軍が払い下げた輜重馬車の市場放出や、旧式兵器の輸出をほぼ一手に請け負うようになっていたから、当たらずも遠からずというところだ。

 軍のほうでも、ファーレンスとの関係を利用している。

 採用から四年が経ち、あの優秀極まるヴィッセル社のモリム鋼製火砲の性能を聞きつけ、輸入を希望する国が幾つかあったが、ヴィッセル社には基本設計をそのままに通常の鋼鉄製とした輸出用モデルを作らせ、イザベラの商会に仲介させることで機密の管理をし、輸出させる―――そんな真似までやっていた。

 ただ、今日は少しばかりいつもとは事情が異なる。

 ふだんは彼女のほうが集めた情報を寄こすばかりなのだが、非常に珍しいことに、参謀本部次長兼作戦局長のグレーベン少将が、どうあっても追加で調査したい場所があると言い出し、イザベラとファーレンス商会へと依頼し、その成果を中心に提出してもらったのだ。

 だからグレーベンがいる。

「いやはや、見事です。夫人の国家への忠節奉公、小官などでは足元にも及びませんな」

 頁を繰り、何かを読み込んでいたグレーベンはやがて口元の笑みを大きくし、顔を上げ、告げた。

「お気に召しまして?」

「たいへん結構です。夫人の大事業のでしょう」

「あら。それはうれしいことです」

 イザベラは、グレーベンの言葉を誤解しなかった。

 ―――エルフィンドとの戦争は近い。

 は、前へ進むということだ。

「ただ、ご希望の謝礼につきましては今しばらく協議させていただきたい」

「・・・と、いいますと?」

「現状の、エルフィンドにおけるキャメロットの既得権益については、例え我らがかの地を攻め、これに勝ち、治めるようになっても保護せよ―――これは国王陛下の、強いご沙汰です」

「・・・・・・ふむ」

 イザベラは考え込むしぐさをした。

 彼女はそれをに望んでいるのだ。

 商人である以上、投資は回収させてもらう―――というわけだ。

「いやいや、ご心配には及びません。キャメロットの既得権益といっても、元々の貿易量はそう大したものでzはないでしょう? 何しろエルフィンドは国是から、あまり貿易取引には積極的ではない。かの国からは薬草、毛皮、一部の木材、鱈や鮭類といった漁業加工品。キャメロットからは日用品、鉄鋼材、鉄道車両、軍艦や銃といった兵器。そんなところだ。しかも貴方の手元にわたるはずだったのは、前者のみ」

「―――ええ」

が始まれば、軍として依頼するお仕事もございますし―――」

 対エルフィンド作戦における兵站物資調達の業務委託。

 それを匂わせている。

「ちゃんと代案も用意してございます。旧式化するGew六一小銃。その全てはもちろんお渡しできませんが。七万丁ばかりで如何です? 道洋ではいまでも高額の、人気商品であるとか。現地末端価格は一丁六〇ラングといったところですか。総額四二〇〇万ラングにはなる。払い下げですから、そのうちの利益は些少でしょうが・・・さしあたってはそれでご留飲を下げていただくということで、ひとつ―――」

 ―――軍人さんは単純ね。

 幾らか不満顔の演技をしつつ、まぁのちのことはまたお話しましょう、などと告げて国軍参謀本部を辞し馬車に乗り込んでから、イザベラ・ファーレンスは苦笑せざるを得ない。

 あの次長。

 軍の作戦立案では天才だという評判だけれど。軍の者以外を小馬鹿にしたようなところがある。

 あの顔。

 ―――いい取引でしょう? もったいないほどだ。

 まるでそんな様子だった。

 彼はわかっていない。

 いえ、その点に関していえばあの紳士で誠実で有能なローテンベルガー少将も。

 彼らは、私が商売目当てで諜報こんなことをしてきたと思っている。

 まぁ、そう思われて当然。

 そのように振舞ってきたから。

「・・・待っててね。あなた。もうすぐよ」

 車窓から流れゆく街並みを眺めるともせず、イザベラは独りごちた。

 ―――私の愛しいひと。たったひとりの旦那様。

 あの優しい、誠実で、懸命に働くばかりの小間物商だった、私の貴方。

 それをあのエルフィンドは。

 白エルフたちは。 

 他のコボルト商人たちと同じく、商売鑑札を取り上げ、首を括らせた!

 私からあのひとを奪った!

 あのひとが懸命に守ったちいさな店を潰した!

 ここまで来るのに、何年、何十年かかったと思っているの。

 エルフィンドなんて。

 ―――必ず滅ぼしてみせる。

 これは私の戦争。

 商人の戦争なのよ。

「奥様、なにか?」

 秘書が怪訝な顔をしていた。

「なんでもありません。このあとの予定は? 産業連盟で会議だったわね?」



 国軍参謀本部次長兼作戦局長エーレッヒ・グレーベン少将は、紛れもない天才だった。

 とくに、作戦の類を考案するとき、その才を発揮した。

 どうしてそのような真似が出来るようになったのかは、おそらく彼の幼少期に起因する。

 彼の両親は、非常に教育熱心で、しかもそれは学校での成績を気にしたり家庭教師をつけるといった型通りのものではなく、例え周囲からどれほど奔放に思えても我が子の興味赴くままに必ず希望を叶えてやるというかたちの、愛情に満ち、慈悲と許容に溢れるものだった。

 グレーベンの幼少期―――といっても総じて長命長寿不老ゆえに幼少期は成長が遅い魔種族だから、もう二〇歳は超えていたころ、あのデュートネ戦争があった。

 グレーベンは、大人たちや、子供たち同士のうわさで胸を高鳴らせて語られる、祖国の勝利の数々に魅入られた。

 そして、町の玩具店に並んでいた精工な金属製の兵隊人形を欲した。

 職工がひとつひとつ手作りした、歩兵や、騎兵や、砲兵といったものが揃いになったたいへんに高価なものだったが、両親はこれを買い与えた。

 当時のオルクセンは、グロワールに攻め込まれこれを押し返した直後で、まだまだ混乱の極みにあったうえ、彼の両親はとくに豊かというわけでもなかったから、これは相当に思いきった真似だった。

 グレーベンは、これを自宅の裏庭に持ち込み、自らの手で砂や生垣の枝を使って小さな平野や森をつくり、兵や砲を並べ、戦争ごっこをした。

 あの戦場、この会戦。あちらの要塞戦、こちらの包囲戦―――

 国家制義務教育の半ばを過ぎたころには、デュートネ戦争の数々の戦場を諳んじて、再現できるまでになっていた。

 忠実に再現するだけでなく、自らが将軍や参謀になったとしたら、どんな風に戦況をひっくり返すか、そんなことをよく想像した。

 彼が虜になったのは、軍隊や戦術という存在だけではなかった。

 ―――世の中の答えは、一つではない。

 ―――また、答えを導き出す方法も、一つではない。

 そんな思考法そのものだ。

 だから彼の学校における成績―――とくに数学におけるそれは急上昇した。

 面白みを覚えた思考法のままに、どうやって教師たちが説く方法以外で答えに辿り着いてやろうか。打ち負かしてやろうか。そんなことばかりを考えていた。

 学校教育というものが重視し、ときに偏重に陥りがちな、何年生ならここまでの数式を用いなさい、ここから先はまだあと―――そんな考え方を平気で無視したから、ときに彼の両親は教師たちから呼び出され、こっぴどく叱られることも珍しいことではなかった。

 それでも彼の両親は、グレーベンのやり方、ものの考え方、育ち方を尊重し、庇護し、愛情を注ぎ続けた。

 教師たちも、やがて匙を投げた。

 例え行程が異なるものだったとしても、答えは正解なのだから可及点は与えざるを得ない。また彼が自ら覚えこんだ数式の数々は、ずっと上級生でも呻くものばかりだったから、文句の言いようもなくなってしまったのだ。

 国家制義務教育卒業後、グレーベンは軍の士官学校に入った。

 そこでも成績は良かったが、傲慢、不遜、頭勝ち極まりなく、例え教官や上級生でも自らの思考法に及ばない相手は平気で見下すような生徒だった。彼が学年首席の成績に上り詰め、これを維持するようになり、そして目下の者の意見でも正しければ聞き入れよという風潮体質のオルクセン軍でなければ、あっという間に軍からは追い出されていたかもしれない。

 卒業後、部隊配置につき、陸軍大学校を経て参謀将校となってからの彼も、やはり横紙破りなことばかりやった。

 それでも多くの場合、グレーベンのやり方は周りよりずっとよい「答え」を導きだせてばかりいたから―――

 星暦八七六年現在、オルクセン陸軍最年少の少将、そして参謀本部次長にして作戦局局長の地位に就いている。

 とくに、上官にあたる参謀総長カール・ヘルムート・ゼーベック上級大将の信任が厚い。

「あれは天才なのだ」

 ゼーベックはよくそういった。

 ―――天才には、おかしな奴も多い。

 そんな意味であって、可愛がっている。

 ゼーベック自身は、グスタフ王の信任のもと長きにわたって参謀総長の地位にあるものの、自身は作戦立案の思考に乏しく、どちらかといえばむしろ軍政家向きの調整型、兵站運用のほうのトップだと自らについて深く理解していたから、作戦部局の全てをグレーベンに任せた。

「あいつさえいれば、戦争には勝てる」

 断言して憚らず、次長職にまでつけ、強力に庇護した。

 天才肌の者にありがちな欠陥をも愛嬌ととらえ、また周囲と摩擦が起こりがちなほどの部分はどうにかこれを和らげてやろうと、盟友シュヴェーリン上級大将の末娘を引き合わせてやり嫁に取らせ、また自らはよく酒席の相伴に誘って、好むところの西部産赤ワインや葉巻を教え込んだりしていたから、グレーベンのほうでもこの牡にしてはたいへんに珍しいことに、

「俺はゼーベックの親父のためなら死ねる」

 周囲にも明言し、上官を慕ったものだ―――

 そんな「天才」グレーベンは。

 ここのところ、エルフィンドの地図ばかり眺めている。

 参謀本部次長室の隣、本来なら副官室だった部分を潰してしまい、大机を持ち込んで、兵要地誌局とイザベラ・ファーレンスのおかげで正確無比なものばかりとなったエルフィンドの大地図を広げ、兵棋を並べ、他の業務などそっちのけで睨む日々を送っていた。

 また、自らも脳内のイメージに磨きをかけていた。

 もっとも役に立ったのは、キャメロット人の女流探検家がエルフィンドに潜り込み、その国土のあちこちを巡った旅行記である。

 一〇年ほど前に出版されたもので、その物怖じのなさにより傲慢とも不遜とも評せる探検家は、たった一人で現地通訳だけを伴い、主要都市だけでなく名もないような地方の村や、森や、河川、湖沼まで訪れ、住民気質や生活風習に至るまで克明に記録していたから、思考を広げるための材料として大いに勉強になった。

 グレーベンが大地図を広げた室内には、猛烈な紫煙が漂っているのが常である。

 彼はゼーベックから葉巻を覚え、これを愛し、その喫煙量は相当なものだ。とくに思考を弄んでいるときほど、火を点ける。

 コーヒーも、濃いものをよく飲んだ。

 あのひとは飯の代わりに葉巻やコーヒーから栄養分を摂取できるのではないか。灰皿とポットとを交換する次長付き従卒が内心で呆れるほどである。

 ほんの少し前から―――

 あの師団対抗演習を利用した参謀本部図上演習のころから、グレーベンは現状のエルフィンド侵攻作戦計画に疑念を抱き続けていた。

 現在の侵攻作戦計画の概要は、こうだ。

 エルフィンドのあるベレリアンド半島の付け根、シルヴァン川南岸流域に、一気呵成に兵力動員した約五〇万のオルクセン軍を、西から東に三つの軍に分けて並べる。

 中央部の陣容―――仮にこれを中央軍と呼称するとして、その陣容がいちばん厚い。

 中央軍の正面にはエルフィンドの南岸入植地と、シルヴァン川には珍しい河岸南北をつなぐ橋梁群があるから、開戦と同時に同地へ侵攻、奪取。

 橋を渡り、エルフィンドにはやはり珍しい半島南部中央の平原部で、かの兵力を誘引、決戦を強要。

 またこの平原部の北方中央で街道を扼している要塞都市を落とし、突破。

 その背後にある二つの山脈麓の山間街道を抜け、首都ティリオン東部にあたるエルフィンド領内第二の規模を持つ平原部に到達。

 最終的にエルフィンド残存の野戦軍をここでまた撃破して、ティリオンに侵攻。城下の誓いを成さしめる。

 東部と西部の軍は、それぞれ正面に対して睨みを利かせ、侵攻開始事における中央軍側面防御の役目を担う―――

 これが参謀本部第六号計画第五次修正案、対エルフィンド侵攻作戦計画だ。

 いうまでもなく、中央軍の役割がたいへんに大きい。

 ベレリアンド半島は険峻な山脈が連なっており、大軍を動かせる場所は多くない。むしろまるで乏しかった。

 街道や、かの地にはあまり普及していない鉄道網を進撃路及び兵站路として利用する以上、これらが存在する場所を主要侵攻路に選ばざるを得ない―――

 歴史的にみても、半島中央部はエルフィンドに攻め込もうとする軍隊なら必ず選ぶ場所である。

 その平原部は同国には数少ない穀倉地帯のひとつでもあり、かつてシルヴァン南岸に存在したドワーフの国や、そして旧時代のオルクセンとの会戦は、ほぼその周辺ばかりで生起していた。

 ロザリンド渓谷―――あのオーク族にとって苦々しい記憶である古戦場は、半島南部平原部から見てシルヴァン川を挟んだ対岸、星欧大陸側にある。

 一二〇年前、飢饉により苦境に陥ったオーク族は、ドワーフの国の穀倉地帯を制し、そのままエルフィンド南部もまた奪取しようとしたのである。

 エルフィンドの側でもそのような歴史的経緯は十分に承知していて、平原部を扼する交通要衝の都市ひとつを城塞で囲み、要塞都市にしていた。

 だが―――

 本当に、この計画で正しいのだろうか。

 グレーベンは、考え続けている。

 最大の懸念は、あまりにも中央軍の負担が大きすぎることだ。

 言ってみればこの将来戦争計画は、中央軍だけに急進撃させ、会戦させ、要塞戦までやらせて、挙句敵首都にまで上らせるというものなのだ。

 ―――要するにだ。シュヴェーリンの義父おやじ殿に、あの闘将シュヴェーリン上級大将に最大の兵力を与え、突っ込め!と号令をかける。

 そんな計画なのである。

 救いがあるとすればエルフィンドの首都は半島中央部にあり、遥かなる半島最北端まで突っ走らなくとも、そこで戦争は終わるとみられていること。

 エルフィンドは首都の放棄や、首脳の逃亡がやれない。

 首都に、かの国における最大の聖地があるから。

 俄には信じられないが、エルフィンドの王族は、同地にあるたった一本の大樹からしか生まれないという。

 ―――では、中央軍をもっと厚くできないか。

 そこまで単純なものでもない。

 既に中央軍の兵力数は、かの地の街道や鉄道路線の数から計算して、兵站線がこれを支えられる最大のものにまで配してある。

 野戦にも使える対要塞戦用の、重砲旅団も軍の指揮下に入れてある。

 空中偵察を担う大鷲軍団主力の配置個所もここだ。

 そして中央軍を、参謀本部の全力を投入して支えようと計画は練られていた。

 半島南岸にある、オルクセン側の四都市には巨大な兵站拠点が築かれることになっている。

 事前準備に要する予算はいまどうにかしようとしていて、そのうち二拠点までを中央軍に割り振ることになっていた。

 戦争全てを支える兵站総監の位置も、またここだ。

 つまり兵站における最高司令部が、直接に中央軍の面倒を見る。

 また、軍の背後には、軍鉄道部隊及び国有鉄道社から動員される予定の軍属を配し、本国鉄道網との連結や侵攻先現地鉄道線の利用のみならず、改修、補修、改良をしながら追従させることになってもいた。

 むろんこれに要する鉄道車両の数や、前進兵站拠点を築くための理想的位置の選定、軍用輜重馬車の数―――そんなものも全て計算済みだ。

 精緻に、緻密に、慎重に、成せるだけのことは成して組み上げられている。

 この侵攻作戦計画立案の大きな部分を担ったグレーベン本人は、もちろんそれをよく理解していた。

 だが。

 ―――兵站、兵站、兵站なぁ・・・

 グレーベンが最初に疑念を持つようになったのは、そこなのだ。

 我らオルクセン国軍参謀本部は、兵站をこそ重視する。組織も配置も思考法もそうやって組み上げてきた。これは自負でもあり、矜持でもある。

 だが「兵站」とは、考える者に依って非常に解釈に幅のある、とてつもなく面倒な言葉だ。

 ―――この計画は、どこかでその思考法に本末転倒が起きたのではないか。

 初めに想定戦場はここしかないと思い込み、その後ろに、言ってみれば引っ張られる格好で兵站線を築こうとしている。

 グレーベンの、兵站に対する解釈は異なる。

 進撃路に引っ張られるものではない。

 兵站のやりやすい場所を進撃路に選ぶべきものなのだ。似て非ざるもの。

 だから、軍とは過剰集中させては行けない。

 ―――たっぷり食らいながら分かれて進んで、大敵を前にすれば一気に集結するもの。

 ―――集中ではなく、集結。

 ―――うん、分進合撃とでも呼ぶか。

 だから彼は、年寄りたちがよく使う「尾っぽを引きずる」というオルクセンの兵諺が大嫌いだった。

 こればかりはゼーベックの親父や、シュヴェーリン義父を相手にした場合でさえ俺には同意できない、と思っている。

 軍に兵站が引きずられている印象ばかりが深まってしまうからであった。

 グレーベンに言わせるなら、まるで逆だ。

 兵站の先にぶら下がっているのが、一線の軍であった。

 「尾っぽ」の根本が繋がっているのは兵站組織の元締めのほうであり、更にいえば―――オルクセンという国家そのものというのが彼の解釈である。

 そしてその兵站実務の柱たる補給品の管理・輸送には、春の演習結果を見てもわかるが、努力に努力を重ねても必ずどこかで停滞が起きる。

 しかも一か所で起きるような生易しいものでさえなく、懸念された箇所全てでそれは必ず起き、複合しながら停滞していく。

 これもまた、グレーベンの解釈によれば至極当然のことだ。

 「尾っぽ」は、先端になるほど細くなるのが道理なのだ。

 尾の根本の側から考えなしに無闇やたらと押し込めば、先に行くほど停滞して当然なのである。

 これを解決するため、第五次修正案では中央軍に現地調達を許可し、しかも出来れば侵攻時期に穀類の刈り入れ時期を選び、肥沃な穀倉地帯そのものを食糧調達拠点として利用する、としていたが。

 大丈夫か。

 本当に大丈夫か。

 ―――現地調達とは、調なのだ。

 至極当然の論理的帰結だ。

 戦争が収穫期以外に起こったらどうする?

 占領都市の食糧保管庫が空になっていたら?

 そんな例は、デュートネ戦争だけをみてもゴマンとあった。

 ―――もっと輸送手段を増やせないものか。

 鉄道、街道。

 星欧大陸なら内陸水運も選択肢に入るが、エルフィンドの河川は半島内側に向かうほど渓流ばかりで、幅と流れに懐のある河川はなく、使えない。

 兵站路とは、いってみれば動脈のようなもの。

 補給とは、それによって流し込まれる血液だ。

 国家という名の心臓から延びる動脈の数を増やすことが出来れば、もっと、軍という名の、敵に打撃を与える役目を果たす両腕を支えてやることが出来る。

 だが中央軍の担当地域には、もう現状以上の余裕はない。

 どう見ても、何度眺め、考えてみても、そんな余裕はもうない。

 ―――本当に動脈はここしかないのだろうか?

 大地図の、ベレリアンド半島西部を眺めてみた。

 使い物にならない。

 一瞥するまでもなかった。

 そこには南北に険峻な山脈が海岸線に沿って縦断していて、天地創造のころに氷河が削り取ってできたという深く鋭い入江がたくさんあり、そのうちの幾つかに、小さな町や村が点在しているだけ。

 街道すら繋がっていないような場所もある。

 遠く遥か、ようやく半島の先端近くまでいって比較的大きな港があり、同地に至って初めて半島中央部との間に大きな往来がある。

 動脈として使いものにならなかった。

 動脈そのものが存在しないのでは、どうにもならない。

 侵攻作戦計画においても、半島付け根西部にある入植地の一つを落とし、余裕があれば海軍と共同でベレリアンド半島西岸沖に浮かぶ島嶼の占領作戦を行うための、いちばん小規模な野戦軍を配するだけになっている。

 ―――では、東部はどうか。

 参謀本部は、同方面もまた使い物にならないと判断していた。

 ダークエルフ族たちが脱出行に用いた、あのシルヴァン川東部下流域。ここには大きな浅瀬は一個所あるが、橋は一本もかかっていないのだ。

 浮橋を使えば幾らかの兵力は渡せるが、オルクセン本国から鉄道を引っ張っていけない。

 その終端位置は、兵站拠点のひとつが築かれることになっている直近都市アーンバンドまで。そこから輜重馬車だけでは軍は支えられない。一定の距離で破綻するに違いない。

 兵站輸送が運ばなければならないものは、食糧だけではないのだ。

 仮に銃弾や砲弾は携行数で持ちこたえさせることが出来ても、食糧以外で日々膨大な量が消費されるものは軍用馬の飼葉と水だ。

 水については、幸いエルフィンドは湖沼や河川、井戸がふんだんにある国ではあるが。それでも配慮を有する事実には変わりはない。

 軍馬は一日におおよそ二五リットルから、多いときで八〇リットルも水を飲むのだ。

 ―――新鮮な、飲料に適した水を、たったの一頭だけで!

 そんな一例をあげてみるならば、グスタフ国王の肝煎りで編制された、アンファウグリア旅団。

 彼女たちは騎兵を中心にした部隊だけに、この一隊だけで一日に平均四六トン、最大で七〇トンもの飼葉を消費する計算になっている(食む量が変わってしまうのは、兵と同じことだ。激しい運動をさせれば、それだけ飼葉をたくさん食べるし、飲む水の量も増える)。

 品目もただ干し草を与えればよいというわけではなく、体力消費の激しい軍馬だけに、燕麦や豆かすといった滋養のあるものも与えなければならない。

 七〇トンといえば、単純重量比でもオルクセン軍軽輜重馬車で七〇両必要になるということだ。

 また同旅団が追走にしろ現地調達にしろ確保しなければならない軍用馬の飲用水は、一頭辺り二五リットル計算でさえだ。

 それが師団、軍団、軍ともなれば―――

 将兵たちの消費食糧を含め、オルクセンの標準的な一個師団を支えるのに要する消耗物資は一日一六〇トン。軍団で三二〇トン。一個軍全体ともなると

 これを支えるためには、一日当たり約四編成の鉄道貨車輸送が必要だとされている。

 総予備兵力も含めた全軍で、一日当たり一一列車乃至一二列車。

 オルクセンの極めて緻密かつ縦横に整備された鉄道網と、何よりも豊かになった現在の国力ならば、この作戦計画の、侵攻開始予定地点の、展開全兵力を十分に支えてやれる。

 だがグレーベンにしてみれば、侵攻開始後の軍展開地のその場にこれだけの消耗物資を出現させてくれるような伝説の魔術士が本当に実在するなら、ただちに神と崇め、大地の豊穣を捧げたい気分である。

 このような膨大な兵站路を長期間長距離に渡って築くことが出来ない東部には、シルヴァン流域南岸、国境線地帯に小規模な一個軍を配し、中央軍の側面及び兵站路が突かれないよう警戒役を担うことになっていた。

 ―――勿体ねぇなあ・・・

 橋。橋さえ架かってりゃ良かったのに。

 戦争中に架橋を成すという選択肢もあったが、夢想に近いものだ。

 兵馬を渡す程度の橋ならともかく、鉄道橋は大規模で、その架橋には手間暇がかかる。

 そんなものの完成を待っていたら、戦争は終わってしまう。

 参謀本部はこの戦争を一年で、最長でも二年で終結させるつもりなのだ。

 仮に技師や物資、工員を大量投入し、彼らの尻を叩いて大車輪で完成を急がせても、その間、軍は立ち止まることになる。おまけに渡った先に鉄道があるわけではないから、こんな場所から侵攻したら鉄路を敷きながら前へ進むことになってしまう。

 鉄路敷設は中央軍の侵攻起点から植民都市間でも行われることになっていたが、距離が違い過ぎた。

 勿体ない。

 本当に勿体ない。

 アーンバンドから、ほんの七〇キロ先に港はあるんだが。

 それもエルフィンドにしちゃあ大きな商業港が。

 だが軍港でもある。

 海軍の連中は、ここにいる軍艦を最大の仮想敵にしていて―――

「・・・・・・・・・・・・・」

 グレーベンは茫然とした。

 馬鹿だ。

 俺は馬鹿だ。

 大馬鹿野郎だった。

 東部の地図をもう一度眺める。

 港。港。港。

 基本的には西部のように険峻だが、緩やかな海岸線も存在するエルフィンド東部には何か所かの港があった。

 キャメロットの商人たちが出入りするため、彼らが整備を勧めたのだろう、エルフィンドにしては珍しく、鉄道路線でそれらの港は繋がっており。

 ―――最終的に、首都ティリオンに到達していた。

 そこに至るまでの過程に、平野部は少なく、狭い。

 だが幾つかはある。

 中央軍が最終決戦の地としていた、あの山間道の先の、ティリオン近郊平原部にも繋がっている―――

「ある。あるじゃないか。もう一本動脈が! 俺は馬鹿だ! 本当に馬鹿だ! 正解に至るまでは、まるで別の方法だってあるんだ!」

 俺は陸軍だからといって、陸の上ばかり眺めていた―――

 その日のうちに、国軍参謀本部三階は大騒ぎになった。

 なにしろ若いとはいえ参謀本部次長兼作戦局局長の要職にあり、少将の位にもあろうという者が、何事かを興奮気味に喚き散らしながら廊下を駆け、まず兵要地誌局に飛び込んだ。そして、そこの局長の胸倉を掴みかからんばかりに何かを依頼。

 次いで、その依頼結果―――あのイザベラの報告書が戻ってくるまでの一か月とその後の二週間とを使い、作戦局の全参謀を事実上軟禁して、彼らに発破をかけ、喚き、罵り、膨大な作業を開始してしまったのだ。

 やがてその作業には、参謀本部からフュクシュテルン大通りを挟んで少しばかり東にある、別の建物を占めている者たち―――オルクセン海軍最高司令部の参謀たちまで巻き込まれていった。

 動脈はあった。街道と鉄道、内陸水路以外にも。

 それもうんと大きな、太いやつが。

 ―――海だ。



 オルクセン北部、ブラウヴァルト州ドラッヘクノッヘン港。

 この国の北海沿岸線にあって、ベレリアンド半島に分断された格好になっている東西の、その東側にあたる。

 地理学的には、ここもまた天地創造の星降るころに、氷河が大地を削りとってできたフィヨルド地形の一種であり、深く内陸へと入り組んだ形状ゆえに、天然の良港であった。

 この夏の時期には鉄道発達著しいこんにち、いまやオルクセン各所から観光に訪れる者もいる、三つの大きな砂浜が湾内にあり、最奥部で二枝にわかれたフィヨルドの西側一本には、古くから隣国ロヴァルナと海上交易の中枢を担ってきたオルクセン屈指の商業港がある。

 その東側のもう一本には、グロスハーフェンという名の支港が存在した。

 このグロスハーフェン側全てを根拠地にしているのが―――オルクセン王国海軍オルクス・マリーネの主力海上兵力、荒海艦隊ラウゼ―・フロッテだ。

 荒海とは、北海の別称である。

 ここから北には、もう大陸も大島もない。

 大昔に、エルフィンドの漁師やロヴァルナの探検隊が発見した、ズーホフ島やノバヤ島という名の小さな無人島嶼群が幾つかあるだけで、そのまたずっとずっと遥か北方に、北の天球頂を占める大氷塊があるのみ。

 かつては、どうもこの星欧大陸から腕のように延びた陸塊が今少しあったのだという学者もいる。それは降星で吹き飛んでしまったのだと。

 島嶼群を地図にすると、ひじょうにくっきりとした円弧状に並んでいて、それが星の欠片のうちかなり大きなものの落ちた跡、かつて存在した星欧大陸の一部だというのだ。

 その真偽は別として―――

 ともかく、北海は冬場になると、荒れる。

 大いに荒れた。

 ロヴァルナの方向へと流れる潮流以外遮るものが何もないまま、厳冬には氷塊が星欧大陸のすぐ北まで押し寄せてくるので、たいへんな低温にもなる。

 霧も濃いものが高い頻度で発生した。

 だから荒海とも呼ばれている。

 ―――そんな海に、こんな艦作るなよなぁ。

 オルクセン王国海軍砲O  M  S艦メーヴェ艦長エルンスト・グリンデマン中佐は、白い夏季用の日覆いを被せた制帽を目深に被り、作業用つなぎを着て、内心暗澹たる気分で艦橋に立っていた。

 オーク族。

 意思の強さのある眉。

 ほんの少しばかり、彼の種族のなかでは角張った顎をしていて、中佐というにはまだ若い。

 将校や水兵向け酒場の牝オークたちに言わせるなら、「お兄様になってもらいたい頼もしさ」があった。

 ただし、いまその顔貌は、長時間に渡って潮風を浴び続けたためごわくなり、また別の事情もあって疲れ切っていたが。

 彼の率いるメーヴェは、本当に小さな艦だ。

 排水量六二〇トン。

 全長五一メートル、全幅八・二メートル。

 喫水は、状態にも依るが、弾薬をいっぱい積み、燃料及び水を三分の二ほど積んだ具合だと三メートル。

 そんな小さな船体に、前後二本のマスト、そのマスト間に挟まって艦橋と、ちょっと高く華奢に見える煙突が一本。

 蒸気機関で走ることも、帆を張って航行することもできる形式の艦だから、汽帆装艦と呼ばれるものの一種だ。

 主たる武装は、一二センチ後装砲が前甲板と後甲板に一門ずつ。これに、両舷に一門ずつ小さな四・七センチ砲。

 砲はこれだけ。

 あとは、艦首から水線下で前へ鋭く伸びたかたちで衝角ラムがある。

 ―――衝角。

 いまの軍艦には、そんなものがついている。

 原因は、ここ三〇年ほどのあいだに海上戦力たる軍艦で起こった技術革新や革命の数々の結果、攻守の均衡が崩れてしまったことによる。

 非常に乱暴に、その概略だけを説明してみると―――

 まず、軍艦が帆だけを使って海上を走っていた帆装の時代から、蒸気機関の採用による汽装の併用に時代は突入して、それまでの航海からは信じられないほど自由自在に艦を航行させることが出来るようになった。

 最初のころは出入港時にだけ蒸気を使っていたが、やがて蒸気機関の性能と信頼性が向上、いまでは帆装のほうが補助的に。

 それほど機動性が増した。

 次に、艦砲のような大きな砲でさえ前装砲から後装砲へと進化して、発射速度も威力も向上した。

 陸上における銃火器が同様であったように、後ろから砲弾が込められるようになったということは、海上においても革新的な一大事だった。

 なにしろ射撃速度がまるで違ってしまう。

 前装砲のころは、砲口から火薬を詰め、弾を込め、舷側の砲扉からこれを水兵たちが体力を使って押し出し、狙いをつけて発射。反動か手作業で後ろに下がったものの内部を磨いて、また火薬を・・・という流れ。

 これが後装砲だと、装填、照準、発射というふうに、圧倒的に短縮された作業で出来るようになった。

 ほぼ同時に青銅製から鉄製、鋼製へと砲の素材も変わっていき、しかも施条がほどこされるようになり、砲弾は尖頭弾へと進化していたから、威力も大幅に増している。

 自由自在に走れるようになって、砲の威力も向上したということは、縦横無尽に砲撃戦をやれるということだ。

 すると、何が起こったか。

 ―――それまで海軍の主力だった、全木造艦がいなくなってしまったのだ。

 木造艦はもはや火力に対抗できないと判ると、はじめは鉄製、次には鋼製の装甲を舷側表面へと張り付けるようになり、艦の防御力は大幅に上昇。

 またそのほうが頑丈だというので、艦の構造自体にも鉄や鋼が多用されていくようになり。

 ―――今度は、大砲で艦を打ち抜けなくなってしまった。

 ―――大砲をいくら打ち込んでも、軍艦は沈まない。

 また均衡が崩れ、そんな妙な具合になってしまった。

 各国海軍思い悩んだ挙句、では艦首に船体構造と一体になった固く鋭く頑丈な巨大な錐とも表現できる衝角を取り付け、相手の艦に体当たりして、喫水線下―――海水に浸かっている部分の船体に、大穴をぶち開けて沈めようという、なんとも乱暴極まる流れになった。

 むろん、体当たりをしたからといって自らも犠牲にはならない前提にはなっている。

 戦術的にもそうなった。

 風だけを頼りに走っていた時代より自由自在に動けるから、相手に体当たりをしたあとは蒸気機関で後進をかけて、離脱する。

 すると衝角が抜けた相手の船体にはぼっかりと巨大な破孔が口を開くことになるから、ここから一気に海水が流入―――相手は沈む、というわけだ。

 ―――衝角戦法という。

 メーヴェは、その系譜に連なる一種として造られた。

 だからこんな小さな艦なのに、衝角を備えて建造された。

 これには、ちょっとオルクセンの国情も絡んでいる。

 オルクセンは間違いなく、陸軍国だ。

 国土の大半が内陸で、その周囲は人間族の国ばかりだったから、陸軍を中心に軍備を整えるのが当然の流れである。

 国の軍隊とは大半の国民には即ち陸軍のことだったから、参謀本部も参謀本部ではなく、参謀本部と名乗っている。

 海軍からみれば軍隊はお前らだけかよと喚きたくなるような、まったく酷い話であったが。

 おまけにずっと長い間、海軍を育てる余裕などなかった。

 必死に内需を拡大し、国を富ませ、まずは生存競争をしなければならなかったからだ。

 加えてオルクセンの北海沿岸の大半は断崖ばかりで大きな浜辺はほぼ無く、またあるいは遠大極まる干潟であって、どこかの海軍が乗り込んできて大軍を上陸させてくる、というような心配は、あのデュートネ戦争のときでさえ抱く必要がなかった。 

 しかしながら漁業や海上交易を営む国民の保護や救助の必要性は当然あったし、新大陸や道洋の国々とも幾らか商いをするようにもなり、周辺国も近代的な海軍を持っている以上、流石にこれでは不味いと、三〇年ほど前からそれまで数隻規模だった海軍を少しは大きくしようと育て始めた。

 だが、いまでも陸軍と比べるとほんの小さな所帯であって、予算に乏しく、世間からも継子扱いである。

 つまり、大きな艦を思うさま作ったりは出来ない。

 ―――では、小さな艦をたくさん(といっても数隻だが)作ろうじゃないか。

 誰かがそう言いだした。

 そのころ、同じ陸軍国でありながら、キャメロットの強大な海軍に対抗しなければならないグロワールで、そんな思想が生まれていたのだ。

 彼らの海軍はデュートネ戦争で壊滅していたし、その後の内政混乱で長いあいだ海軍など育てられず、やはりオルクセンとほぼ同時期、ようやく整備に手をつけようとしていた。

 国内で造船業を営むヴィッセル社が、ちょうどその思想にぴったりな技術提案もしていた。

 このオルクセン最大の鋼業会社にして火砲製造会社は、意外なようだが元々の出自はドワーフ族の船大工だった。

 だから社名も「勝利の船出ヴィッセル」という。

 いまでも造船業は創業事業として手放しておらず、オルクセンの大型商船は同社製が多く、国産軍艦はほぼ全て彼らの産である。

 その彼らが、いまの発達した技術なら、小さな船体に最新かつ高性能の同社製火砲を装備し、衝角もつけ、これに高性能を狙った蒸気機関を積み込んだものを作れそうだ、と言い出したのだ。

 ―――空を行く猛禽類のように奔り、大砲をぶっぱなし、大艦のどてっ腹に穴を開ける。

 そんな、まるで夢のような軍艦を造れる、と。

 メーヴェを含むコルモラン型砲艦三隻コルモラン、ファザーン、メーヴェはこうして建造された。いまから七年ほど前のことになる。

 海軍から一身の期待を込めて、「第一猪突隊」と名付けられた一隊を成した。

 オルクセン海軍では、衝角突撃を実施する際に掲げられる信号旗「我、突撃す」を、オーク種族の祖の猛烈な突進にひっかけて「猪突旗」と呼んでいたから、その戦法を専門に担う新編部隊、というわけだ。

 艦自体も、正式分類は砲艦ではあったものの、通称は猪突艦と呼称されるようになった。

 だが―――

 そのうち一番新しいメーヴェの艦長グリンデマンは、本当に疲れ切り、弱り切り、苦り切る毎日ばかりを過ごしている。

 北海における隊訓練からこの日早朝帰還してきて、断崖上の湾口灯台を確認すると、次に見えてきたのは、ドラッヘクノッヘン港口の険峻かつ丈高い両岸からほんの少し入った地点をまたぐかたちで作られた、巨大鉄橋アルブレヒト鉄道橋である。

 延長一・七キロメートル。

 五万トンの鋼鉄と、八〇〇万個の鋲を用い、建造期間三年をかけて完成した、オルクセン近代化の象徴。

 当初はグスタフ・ファルケンハイン橋と名付けられる予定だったのだが、王が固辞したといい、猪公とも呼ばれるオーク族の祖王の名がつけられた。

 二年前に完成したばかりのその大橋の東側の袂、海際には公園が作られていて、夏場ともなると多くの市民が憩いの場にしている。

 湾口から入って波も穏やかとなったちょうどこのあたりで、ドラッヘクノッヘンへ寄港する国内外の大型民間商船はいったん停船し、水先案内船から魔術水先士を乗せる決まりになっている。

 荒れる海に面し、冬場は霧が出て、しかも湾内奥部では商業港側と軍港側の航路が交わるため、かつてこの港周辺ではたいへん事故が多かった。

 何度かの凄惨な海難事故のあと、魔術力を持ったコボルトたちによる魔術水先案内人を乗船させ、魔術通信により交信を取り合い、また魔術探知によって他航船を探知しながら航行する決まりになって、事故は激減するようになった。

 海際の公園横には、ドラッヘクノッヘン港湾管理局の航路監視事務所も作られ、コボルトたちが常駐、湾内航路を監視してもいる。

「航路監視事務所より受信」

 グリンデマンの足元で、信号長のオスカー・ヴェーヌス曹長が低い質の声を上げた。

 コボルト族、ブルドッグ種。

 種族が種族だけにちょっと怖いとも愛嬌があるとも言える顔の上に、斜めに被ることを好んでいる下士官帽を乗せている。

 よくこの短い脚で二足歩行できるものだ、周囲にはそう思われている牡だ。

 ただし、魔術通信担当としての能力は抜群。

 彼もまた、疲れ切った表情である。

 ちかごろの海軍艦艇には魔術担当のコボルト族がかならず乗り込んでおり、彼は航路監視局からの通信を直接に受信していた。

 疲れ果てた表情なのは、大型艦ほどコボルトは多く乗っておらず、何かあれはすぐに日に五交代制で区切られた当直割通りに勤務できない状態に陥ってしまうからだ。

 ヴェーヌス曹長は、昨夜からずっと艦橋に立ちっぱなしだった。

「汝、支援の要ありや? 以上です」

「ご配慮感謝す、自力曳航可能と答えろ」

はい、ヤ―ボール、艦長カピターン

 グリンデマンは、船体中央の小さな操舵艦橋を支柱のようにして、両舷一杯に広がっている艦橋兼見張り台の、右舷側端近くまでさっと歩いていった。

 文字通り「ブリッジ」のように見える指揮中枢構造物であって、中央に舵輪と羅針儀、伝声管の幾つかがあり、左右両舷でも見張りや指揮ができて便利極まり無いが、小型艦ゆえにその作りは小さい。

 まるで金持ちの邸宅の庭池にでも架かる、玩具じみた小橋ほどの大きさしかない。

 双眼鏡を構え、後方を確認する。

 艦の航跡波のちょっと後ろで、ざばざば、ざばざばと同隊を組むコルモランが白波を立てていた。

 勇壮に進んでいる―――のではない。

 後続航行しているには近すぎる位置であり、よく見ればメーヴェの艦尾から延びた曳索がその艦首に結ばれ、ピンと張っていた。

 コルモランは、メーヴェによって曳航されているのだ。

 そのずっと後ろ、やや斜め後方には、やはり同隊のファザーンが心配顔の家族のように二隻に付き添ってきている。

 曳索の張り具合、各艦の位置をさっと確認したあと、グリンデマンは上方を向く。

 マスト両舷から四本ずつ延びる信号旗揚降索ヤードには、「我、曳航作業中」の信号旗がたなびいていた。

 対航船がきたとしても、しっかりと見え、注意喚起できる状態だ。

 むろん、こちらの見張り配置も、ふだんより増やしてある。

 そっと安堵し、艦橋中央での指揮に戻る。

 もちろん、この間に要した時間は素早く、刹那ほどのもの。

 ぼやぼやしていたら返って危ない真似だ。

 部下に確認させて報告を上げさせてもよかったのだが、通行量の増える湾内航路に入る前に、どうしても我が目で確かめておきたかったのだ。

 三隻はのろのろ、のろのろと湾内を進んだ。

 こんな速度で帰ってきたから、本来の帰港予定からは大幅に遅れていた。本当なら昨日の夕刻には戻っている予定だったのだ。

 グリンデマンは先任艦長として、この三隻の隊の指揮官兼務でもあった。

 昨日の午後、隊訓練の最中にコルモランはその衝角で鯨を突いてしまった。

 船舶と鯨類の接触衝突は、実は陸の上の者たちが想像しているよりずっと多い事例なのだが、昨日のそれはまた別格だった。

 なにしろ彼らには衝角がついている。

 グリンデマンは、事故発生時の様子をありありと思い出すことが出来た。

 三隻での襲撃運動訓練中、つんのめるように急停船したコルモランに対し、

「汝、如何したるや?」

「我、鯨を突く」

 そんな通信をやりとりした。

 鯨との接触事故は珍しくないとはいえ、頻発するというほどでもないから一瞬事態が飲み込めず、

「鯨とは何なるや?」

 いったい何があったのだと、そういう意味で、ヴェーヌスに魔術通信で詳細を聞かせた。

 相手が聞き取れないような状況に備えて、同じ意味の信号旗も揚げてある。

 旗旒信号で戻ってきたコルモランの返信は穿っていた。あるいは、まったく天然的に抜けたようにも思える返信を寄越してきた。

「鯨とは、海に棲む、おおきな生き物なり」

 メーヴェの艦橋一同、一瞬きょとんとし、ついで大爆笑したものだ。

 いやいや、そりゃそうだが、そうじゃないだろ、訊きたいことはそういうことじゃねえと全員で腹を抱えた。

 ―――もし外部の者が目にしていれば、事故直後に不謹慎な、などと思えた光景かもしれない。

 だが任務内容や、厳しい自然環境そのものを相手にすることまで含めて、平時から過酷な日常を過ごしていることが多い海軍では、深刻な場面ほど笑いに変えようという空気が集団共有として存在した。

 それが彼らの言うところの、粋や茶目であり、洒落っけであり、流麗である、と。

 しかつめらしい規約など抜きに、家族的な付き合いをする小型艦ではとくにそうで、しかもオルクセンの海軍はまた格別にそのような気質だ。

 主体となっているオーク族はもともと、わいわいがやがやと明朗に周囲と語らうことを好む種族である。その特徴と相まって、いかに明るく振舞うかは、オルクセン海軍を支配した空気である。

 しかし―――

 メーヴェがコルモランへと近づいてみると、事態は意外に深刻であった。

 まず、衝突した鯨が思っていたより大きい。

 しかも小型艦の割には作りの大きな衝角が、がっしりと食い込んでいる。

 艦首上から索を腰に結びつけてぶら下がった水兵が斧を携えて対処しようとしており、海面は既に泡立つ鮮血で染まり、真っ赤になっていた。

 しかも―――

 機関後進をかけて抜け、なぜそうしないと問うメーヴェに対し、コルモランが寄越した返信内容こそがいちばん深刻、重篤、重大なものだった。

「我、機関故障」

 鯨へと衝突した衝撃で、コルモランの蒸気機関はおしゃかになっていたのだ。

 二時間かけて鯨の排除と修理を試みたが、機関は完全に再起不能。

 やむを得ずメーヴェで曳航して帰ることになり、その準備にまた小一時間を要し、進み始めた夕刻には、なんとも間の悪いことに海が荒れてきた。

 三隻で小さな船体をもみくちゃにされながら、まるで牛歩の如き航海となり、あちらの備品は壊れる、こちらの装具は流されると、悲惨極まる状態となった。

 メーヴェもたいへんだった。

 夜半には給水系に機械油が混入。

 必死の水兵たちがせめてもの一息に熱いコーヒーを飲もうとしても、完全に油交じりで、飲めたものではなくなった。

 揺れに揺れるだけに烹炊所キッチンは満足に火を入れることも出来ず、また仮に可能であったとしても調理がやれる状態などではなく、皆で乾パンと、焼きも茹でもしていないヴルストを貪るしかなかった。

 ―――そうして一晩かけて帰ってきた。

 だからグリンデマンは疲れきっている。ヴェーヌスも。いや、一隻あたり八〇名、三隻合わせて二四〇名の乗員全てが。

 一同、またか・・・、という思いが強い。

 ―――コルモラン型砲艦は、完全な失敗作だったのだ。

 ヴィッセルのいう「夢のような軍艦」は端的に事実を示してはいたが、夢は夢でも悪夢のような代物であった。

 荒い北海を行くには、船体が小さすぎた。

 その小型な船体に比べて作りの大きな衝角は、安定性を阻害して揺れを増やした。

 ヴィッセル社お墨付きだったはずの高性能機関は、技術的な熟成がなされておらず、故障を頻発した。

 砲艦として使うには、砲の数が少なすぎる等々―――

 付け加えれば、数年前に後部ウェルデッキに追加装備した新兵器、アルビニー魚形水雷のたった一本の火薬式発射管が、艦のシルエットを更に不格好にし、揺れも増幅させた始末である。

 おまけに建造された時期が悪かった。

 艦船分野においても技術革新が一気に進んだ時期に作られたため、同型艦といえども細かな部分が違っている。

 まず機関形式はヴィッセル社が大慌てで改修を重ねた為もあって、それぞれ別個のものが積まれていた。

 船体構造も異なっている。

 一番艦コルモランは、鉄製。二番艦ファザーンは鋼製。三番艦メーヴェはモリム鋼製だったのだ。

 こうなってくると、細かな要目は三隻でバラバラである。統一行動にも苦労することが多々あった。

 ついには三年前、グスタフ国王臨御の荒海艦隊大演習で演習海域に三隻揃って遅参してしまい、当時オルクセン海軍内でいちばん有名となった魔術通信文を、艦隊旗艦から最大出力で放たれてしまった。

「第一猪突隊は何処にありや? 全荒海は知らんと欲す」

 それからさほど間をあくことなく、海軍最高司令部と、ヴィッセル社の間で責任の擦り付け合いともいえる激しいやりとりがあったあと、第一猪突隊は解隊になった。

 いまでは三隻で、第一一戦隊という一隊を成している。

 元々は老朽艦を配して沿岸防備を行う隊の番号であったから、海軍上層部が彼らをどのように見ているかは明らかであった。

 おまけに海軍は、もうこのような小型の艦を造らなくなり、ある程度コルモラン型より大きさのある、性能や技術的視点からも余裕のある艦ばかり造るようになっていた。

 ―――そんな反省結果が得られたのだから、いいじゃないか。

 海軍上層部のなかにはそう口にする者もいたが、乗員一同の心が慰められようはずもない。

 おまけに今では、第一一戦隊と呼ぶ者すらいなくなっていた。隊編成後も故障やこれを起因とする任務遂行困難が相次ぎ、ついについた渾名が、

屑鉄シュロット戦隊フロッティレ

 屑鉄というのは実はまだ上品なほうで、そのニュアンスとしては「ポンコツ」と表現するものに近い。

 三隻乗員一同の心が、大いに傷ついたのは確かである―――

「艦長」

「おう」

 艦橋に若い中尉が上がってきた。

 若いというには、赤毛の髭面。

 体躯はグリンデマンの半分ほどしかない小柄で、ずんぐりむっくりとしており、がっしりとした筋肉質。

 発音は、彼の種族全体の特徴として、ぼふぼふと空気が漏れるような塩梅である。

 メーヴェ砲雷長ドゥリン・バルク。

 ドワーフ族。

 彼の種族の特徴からか、士官下士官全員を笑わせるほどの、猥談の得意なやつだ。ただし、配置中は真面目極まりない。

「どうやら何とかもちそうです。ホルマン機関長は、太鼓判まではとても押せんが、とのことですが」

「そうか。ご苦労さん、少し休んでろ」

 機関の具合のことを言っていた。

 今朝になって、メーヴェの機関の調子も怪しくなってきたのだ。蒸気系にふけこみがある。どうもどこかに煤が貯まっているらしい。

 バルクは配置こそ砲雷長だが、コルモラン型砲艦のような小さな艦には副長は配属されておらず、その役割の兼務でもある。

 また生家が鉄工所であるというので多少機械に詳しいところがあり、機関の具合を見に行かせていたのだ。

 ようやく、ドラッヘクノッヘン港内にあって、本港と支港グロスハーフェンの分岐する箇所にさしかかった。

 ここが湾内航路としては一番危険な場所だ。

「長声一発」

「長声一発、了解」

 変針してグロスハーフェン側へと舵を切る前に、汽笛を長く鳴らした。これもまた事故を防ぐための、定められた処置だ。

 あちらの岬、こちらの浮標と航海上の測的をしながら湾内航路を抜けると、懐かしの―――そう、たった二日の航海でありながら、懐かしささえ覚えてしまいそうな母港の姿が見えてきた。

 そればかりは、堂々とした石造りの艦隊司令部庁舎。

 岸壁。

 曳船や水船、給炭船。連絡用の汽艇が幾つか。

 黄色く塗られた、艦隊碇泊用の係留浮標。

 そして、艦隊将兵への歓楽街を中心にできあがったグロスハーフェンの街。

 むろん、軍艦も碇泊している。

 所属艦のほぼ全てがいるようだ。

 主力たる、六二〇〇トンの一等装甲艦が三隻。

 三四〇〇トンの二等装甲艦が二隻。

 その他、甲帯巡洋艦や水雷巡洋艦が何隻か。

 俊敏そうな水雷艇数隻が、母艦のまわりで訓練でもしているのだろう、走り回っている。

 ―――総勢二六隻。

 これが、オルクセン海軍のほぼ全てといってもいい、荒海艦隊の全容である。

 誇らしくはあったが、陸軍と比べて何と小所帯なことか!

 各艦、第一一戦隊の姿を認めると、一斉に信号を送ってきた。

「レーヴェより魔術信号。朝飯はもう食っちまったぞ、屑鉄」

「ゲパルトより旗旒信号。しっかり見たぞ、屑鉄」

「パンテルより魔術信号。つまずくなよ、屑鉄」

「グラナートより魔術信号。こっちくんな、屑鉄」

 なんとも酷い言葉の数々だ。

 他者が見れば、何もそこまで言わんでもなどと思えたかもしれないが、これらは全て意訳してみれば、

「お疲れ様。心配したんだぞ。無事でよかった。負傷者はいないか?」

 という、彼ら仲間内流の気遣いである。

 各艦の甲板には手すきの水兵たちが集まってきて、わあわあと手を振りながら出迎えてもいた。

「ふふ、ぶははははははははは!」

 グリンデマンは我慢しきれなくなって、大声で笑い始めた。

 ヴェーヌスも、バルクもまた。乗員一同も。

 ―――これだから海軍はやめられない。

 彼らは不屈である。

 例えどれほど酷い艦を与えられてしまったのだとしても、勘弁してくれと罵りつつ、乗艦を愛してもいた。

 艦乗りにとって、艦とは何よりも我が家であり、惚れた女のようなもので、どうあっても憎み切れないものだ。

 どうにか使い物になるものにしようと、懸命だった。

 彼らは一頭一頭が艦乗りであると同時に、それぞれの分野での専門技術者であり、本職プロフェッショナルだ。

 良いやつもいて、どうにも理解できないやつもいて、立派なやつも、冗談の過ぎるやつも。

 笑いも、涙も、怒りも、希望も、落胆も。

 そんなもの全てが一体となって、はじめて「艦」だと誇っていた。

 屑鉄戦隊もまた例外ではない。

 彼らはその名を、いまでは自称していた。

 公の場でさえ、自ら名乗る者すらいる。

 そうすることで、精神的な鬱屈を乗り越えていた。

 これまた何とも海軍らしく、一年ほど前、戦隊の水兵たちが旗艦の水兵と酒場で大喧嘩になり、彼らの艦を小馬鹿にされ罵られたとき、

「おお?おお!屑鉄さ!屑鉄で何が悪い!」

 と言い返し、ぼこぼこになるまでやり返して以来、そうなった。

 そのとき、酒場を破壊してしまった水兵たちを地元警察署まで頭を下げて迎えにいった当事者であるグリンデマンは、げらげらと笑いながら、信号を送ってきた全艦への返信内容を叫び、ヴェーヌスに発信させた。

「我、屑鉄戦隊! 御用はなきなりや!」



 ―――彼らは何故これほどまでに明るかったのか。

 海軍の底抜けの明るさには、何か大きな困難を不屈の精神で乗り越えることが、その背景にあると既にいった。

 そう。

 彼らの奥底には、ちょっとした不安があった。それを乗り越えようと必死だった。

 対エルフィンド戦が近いと噂されるこんにち、圧倒的な戦力を持ち、自信を深め続ける陸軍の連中はともかくとして、こと海軍に至ってはまるでそうではなかった。

 それどころか、海上兵力だけを比較すると、エルフィンドのほうが上だったのだ。

 なかでも頗る強力な艦が二隻いた。

 装甲艦リョースタ。同スヴァルタ。

 堅艦。巨砲。重厚。

 他国の海軍士官からは「例えオルクセン海軍が全滅を賭しても沈めることは出来ないであろう」と評されているほどの、キャメロット製の、排水量九一三〇トンの化け物である―――



(続)

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