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私は一人、エプロンを身につけた。
片付けを始めてすぐに、スマートフォンに通知が届いた。開いてみると、そこに婚約者の彼からのコメントがあった。
(あとで手伝いにいくよ)
急な仕事が入ったらしく、かなり遅れるとのことだ。
(ありがとう、助かる)
そう返信すると、ポケットにしまい、父のクローゼットを開けた。
捨てるもの、持ち帰るもの、業者に引き取ってもらうものを選別していく。吊るされた服、寝具、本やビデオ、レコード類が目に入る。結構な量だ。袖をまくり、手前の背広を取り出そうとしたとき、足元に何かが転がり落ちてきて、身を引いた。
目を向けると、それは母の靴だった。そう言えば、父を発見したとき、無造作にクローゼットの押し込んだ憶えがある。……父がこれを持っているところを、他人には見られたくなかった、からだ。
私は静かに腰を屈め、赤い靴を拾い上げた。父が大切にしまい込んでいたので、こうやって間近に見ることはなかった。深い赤で染め上げられた
欧州の旅先で買ったのだと、父が教えてくれた。母が大層気に入ったのだとか。歴史のあるもので、何度となく修理が施され、履き継がれているという。不思議な謂れがあって、この靴を履けば賢者のような思慮深さが得られる、が、決して夜に履いてはいけないらしい。それがなぜなのか? 馴染みのない言語だったため、肝心のところは理解出来なかったと、父は言葉を濁した。……その余韻にただ漠然と、よくないことが起こるんだと、私は解釈した。
母が死んだのは、私が五歳のときだった。
母の記憶は微かしかないが、いつも薄い影のようなものを纏っていたような気がする。結局母は、自ら命を絶ったのだが、その事実がベールとなってあとから母に影をつけたのかもしれない。
この靴には鍵のかかる専用の靴箱があったはず、そう思いながらクローゼットを探った。……あった。それは背広が吊るされたその奥に隠されるようにしてあった。革張り木箱に真鍮の鍵がついている。靴を収めようとして、蓋を開けたところで、私は手を止めた。その中に封筒を見出したからだ。
手紙? それは父からのものだと直感した。亡くなってもう一年、今さら気づくなんて。うしろめたい気持ちで、封筒の中から便せんを取り出して、それを開いた。
そこには、私に対する感謝と謝罪の気持ちが綴られていた。母がいないことで苦労をかけたこと、厳しくあたってしまったこと。素直に書かれた文字の一つ一つに、涙を抑えずには読めなかった。
最後に、添えるようにして母の靴についての記述があった。靴は箱に入れ、大切に保管する。加えて、謂れにあるとおり、夜に履いてはいけない、と。……最期まで気がかりだったものを、父は私に託したかったのだ。
手紙を手にしたまま、目を閉じる。
父は母を愛するように、靴を愛していた。靴を握りしめ、履き口に頬にあてたり、口をあてたりした。まるでその中へ入っていきたいかのように、執拗に。そんな父の姿を、複雑な気持ちで盗み見たことが何度かあった。
忘れられない夢がある。父が母の靴に乗って海の彼方へ消える夢だ。狭い靴の中にみっちりと嵌まり込んでいる父の身体。空を仰ぎつつ、川を下り、海へと流されていく。……私は泣きながらその様を眺めていた。父の姿が見えなくなるまで、ずっとだ。……目が覚めても、涙が止まらない。父は私を置いてどこか遠いところへ行こうとしている、そんな不安がどうしても拭えないのだ。
過去の憂鬱を振り払うようにして、私は父の手紙をポケットにしまった。母の靴を箱に戻し、もう一度クローゼットと向き合った。父の衣類はすべて処分する。ほか処分に困るものはないかと思いながら、視線を巡らせると、義足ケースに目に留まった。
……これか。
隅に立てかけてあったのを掴み、クローゼットから引き出した。もしかしたら、父からのメッセージがその中にも入っている? そんな気がしたからだ。
父は左足を失っていた。糖尿病を患い、膝から下を手術で切り落としている。私が七歳のときだ。その頃の父がどんな状況だったのか、幼かった私には察することが出来なかったが、今思えば、母が死んだのがその二年前なので、いろいろと心労が重なってのことだと思う……。
ケースの蓋を開け、中身を確かめた。微かな父の残り香を感じつつ、くまなく見てみたが、手紙の類いは見当たらなかった。つかいこんだ義足があるばかりだ。
「……父さん」
大きなハンディキャップを周囲にはほとんど感じさせず、常に凜として振る舞っていた。そんな父が頼もしく、好きだった。もっと父を感じたくて、義足を取り上げた。スチールの骨組みにプラスティックと木材が合わさっている。父の足が
父を支えてくれたものだが、これを持ち帰っても仕方がない。かといって、不燃ゴミに混ぜて出すわけにもいかない。頭を悩ませながら、義足をケースに戻そうとして、私は不意に手を滑らせた。それは勢いよく床に落ち、妙な音を響かせた……。
慌てて、手元に手繰り寄せた。よく見ると、爪先から甲にかけての部品のいくつかが、大きくずれていた。……壊れた? いや、もしかしたらこれは取り外せるのか。……思ったとおり、足型を包んでいたそれらはかちゃりと外れた。
私は手を止め、息を飲んだ。……その下に、もう一回り小さい足が隠されていたからだ。その指には紅いペディキュアが丁寧に塗られてある。女の足のようだ。
これは何? ……誰の足? 父は何をしていたの?
不安と嫌悪が入り混じった心持ちで、私は顔を上げた。無意識のうちに、何かを探している。
……靴だ。
そこに焦点が合ってしまうと、私は自分を止められなくなった。靴箱の鍵を外し、さっき収めたばかりの母の靴を取り出した。左側。それを父の義足に履かせてみた。
案の定、それらはぴったりと合った。この足型は母の足を模られたものだ。
父は母の靴を履いていた。この義足をつかって。私の知らないところで。……胸の奥に湧き上がるこの感情をうまく処理出来ないまま、ソファに身を預けた。どう受け止めたらいいのか。どんどん心が散らかっていく。
ふと、脳裏に『赤い靴』の少女カーレンが現れた。
二次元の彼女はくるくると、終わらない踊りを始める。なぜカーレンは踊るのか? 目に見えない力がそうさせるのか。その力は、靴の向こう側から伝わってくるのだろうか。向こう側に、何があるの?
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