父親のいない靴底
ピーター・モリソン
1
父のマンションを、引き払うことにした。
一周忌の最中、区切りだと感じたからだ。そういった整理のタイミングが早いのか遅いのか、世間と比べてどうか、わからないが。……来年、私は結婚を控えていた。落ち着いて出来るのは、きっと今だけだろう。
大学へ上がるまで、ここで父と娘の二人暮らしだった。母は随分前に他界していた。3LDKの部屋のうち、父、私がそれぞれ一つずつつかい、残り一つは物置にしていた。
父の部屋には立派なソファがある。ハイバックの一人掛け。生前父はだいたいそこにいて、読書したり、音楽を聴いたりしていた。
一年前、父が亡くなっていた日のことをよく覚えている。結婚の相談をしようと、マンションを訪ねたときのことだ。最初、ソファで眠っているのかと思ったが、呼びかけても微動だにしない父に、私は慌てふためいた。心不全。突然のことだった。
そのとき、父の手には赤い靴が握られていた。母の靴だ。自分の死期を悟っていたのか、最期に、一番大事なものを手にしていたかったのだろう。
私は父のソファにそっと腰を下ろした。父に包まれているような感覚を覚えつつ、本棚の一角を眺める。そこには見慣れた童話全集が並んでいた。子供の頃、私が寝つくまで父が読み聞かせてくれたものだ。落ち着いた父の声を聴きながら眠りにつく。あの頃、それが私の日常だった。
数々の本の中で、記憶に残っているのは、アンデルセン童話の『赤い靴』だった。もちろんほかの物語も気になるものはあるが、『赤い靴』はそれらとはどこか違っていた。
主人公はカーレンという美しく成長した娘だ。恩ある老婦人が死の床についたにもかかわらず、カーレンは気に入った赤い靴を履いて、舞踏会へ出かけてしまう。不思議なことに、靴が脱げなくなり、踊り続ける呪いをかけられる。どうしようもなくなったカーレンは首切り役人のもとへ行き、足を切り落としてもらう。『赤い靴』はそんな内容だった。
その前後にも少しあったと思うが、踊りが止まらなくなったり、足を切り落としたりと、童話にしては残酷な場面が多いことに加え、語って聞かせる父の様子が、普段と違っていたのが気にかかった。
いつも感情を入れ過ぎず、かといって棒読みでもない、張りのある声で読んでくれる父だったが、そのときはまるで心がここにないような、語りながらどこかを彷徨っている、そんな様子だった。
眠らずに最後まで聞き終えたときには、感想めいたことを父に伝えるのだが、『赤い靴』のあとでは何も言えなかった。
父から顔を背け、ぐっと目蓋を閉じた。何かが怖かったのだ。
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