私はソファに座ったままだった。

 あの日の父のように、ここにじっとしていた。いい加減にするべき、それはわかっている。しかし、動けない。

 手にしたままの母の靴を眺める。履き継がれた靴だという、確かに細部に若干のいびつさが見て取れる。修理に修理を重ねてきた証なのかもしれない。

 日が暮れ始めている。左右の履き口に、薄い影が溜まっていく。不気味な影はゆっくりと濃度を増し、やがてこの世に二つの穴を穿うがった。それらは気が遠くなるほどの深みを持ち、ここではないどこかへつなげる対のトンネルのように見えた。その先が死後の世界ならば、何というか、しっくりとくる気がする。

 私は赤い靴を持っていない。欲しいと思ったことがない。目に見えないものに抗うように、静かに首を振る。そうなんだ、私も母を感じたかったのだ。

 靴を床に下ろし、指先で踵を押さえ、躊躇いつつも足を差し入れた。あつらえたように、ぴったりと合う。私も母と同じサイズ。もう片方も履かせ、爪先を揃えてみる。……もちろん、すぐ脱ぐつもりだったが、じわじわと心が揺れていくのに任せていた。

 母は自殺したのだと、中学生の頃に知らされた。その現場のビルはもうなくて、大手ショッピングモールになっていた。父が指し示すところに、用意した花束を置いた。空を見上げ、母が飛んだ架空の放物線を辿ると、眩暈がした。

 母がなぜ死んだのか、知らない。勇気を出して、父に訊いてみたが、悲しい顔をするばかりだ。……どんな理由があって、人は死を選ぶのだろう。死ぬ理由はいくらでも知っている、けれど、そのどれなのか、確かめる術を私は知らない。

 母の記憶は多くない。母は輸入業を営んでいたらしい。仕事をしている母の姿が数枚の写真に残っている。どんな仕事ぶりだったのだろう。事業の節目節目でこの靴を履き、賢者のような知恵を得ていたのだろうか。

 妙な感覚だった。……混乱していた頭の中がすっと晴れて、心が研ぎすまされていく。深く瞳を閉じた。今さら過去を詮索しても仕方がない。それはわかっているつもりだ。しかし、何かが腑に落ちない。

 靴底が微かに振動しているのに気づいた。錯覚だろうか、いや、そうじゃなさそう。ただ、現実味がない。その感覚は、私の骨を伝い、全身に行き渡り、薄い鼓膜を共振させた。吹きつける風の音のようだ。窓からものじゃない。それはぼうぼうと、私を揺らすほどの強さがある。

 妙な孤独感に目を開くと、あるはずのない夜空と町並みが見渡せた。ここはもはや、父の部屋じゃない。殺風景な場所を低い柵が囲んでいる。ここは見知らぬビルの屋上だった。

 私はそこに一人立っていた。

 きっと夢を見ているのだと、自分に言い聞かせるが、それら光景には生々しさがある。戸惑いながら俯いた先には、ひび割れたコンクリートがあり、赤い靴を履いた私の足が揃っていた。

 風に吹かれている。服の袖と裾が千切れるくらいにはためき、その先々から恐怖が飛ばされていく。耳の覆う空気摩擦の中に、どんと響く音が突如現れた。どん。それは遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。どん、どん、どん。その拍子が私の鼓動と重なったとき、左足がうしろに引かれ、身体が独楽のように回り始めた。勝手に。

 くるくると、踊れるはずのない踊りを、私は舞っていた。

 星が線になり、円を描く。関節が緩み、腱が伸び、夜を手足で切り裂いた。しだいに速くなる。太鼓も鼓動も命も。血が煮えたぎり、思考もままならない。ばちばちと身体の至るところで、何かが弾け飛ぶのがわかった。

 どん、どん、どん。どん、どん、どん。

 このままでは、私はどうにかなってしまう、そう思った瞬間、靴が勝手に脱げた。終わりなんだ。裸足で放り出された私はその場でうなだれた。不可思議な恍惚感に震えながら、転がった靴を揃えて、目の前の柵を越えた。自分の意思なのか、誰かに操られているのか。そのどちらでもない気もする。

 飛び降りるのに、躊躇いも迷いもなかった。汗をかいたから、シャワーを浴びる、そんな感覚で夜に舞った。

 重力と浮力が交ざり合う。心と身体が戸惑っている。瞳を閉じていたい。けれども、それは開かれたままで動かない。ぼやけた地面が目の前に迫る。

 とうとうぶつかる、と思ったが、ぬるりと、私はこの世を突き抜けていた。ああ。そうなんだ。別の世界が広がっている。墨色の雲を何度も貫通し、奥底へと導かれていった。

 こんなに来てしまったら、もう戻れない。

 強い風が吹き上がってきた。それは上昇気流のように身体を支え、大鳥のように緩やかに私を滑空させた。重なっていた黒雲が晴れ、褐色の地面が露わになったとき、私はそこに動くものを見出した。

 人影……?

 膨れる上がる風を掴み、斜めに飛びながら、心を向ける。

 感情の乏しい水墨画のような世界だ。私はさらに目を凝らした。人影は群れている。皆女の人で、裸足だった。その光景が何を意味するのが、朧げながらわかってきた。

 人の群から一人離れて、こちらに向かって手を振っている人がいる。

 いや、手を振っているんじゃなくて、来るなというサイン? 何度も何度も繰り返す。来るな、来るなと。

 私は飛びながら泣いていた。

「……母さん」

 母に会いたい。身体を捻り、高度を下げていった。母に訊きたいことがある。山ほど。

 もう少し、と思ったとき、この世界には似つかわしくないインターフォンの音が、無機質に木霊した。

 え? 我に返った途端、私を繋いでいた重力が失われた。さらに強い風が巻き起こり、糸が切れた凧のように、意識ごとどこかへ吹き飛ばされていった。

 はっと、目を覚ました。ソファの肘掛けを両手で掴み、弾かれたように上体を起こす。夜のとばりの中で、乱れ切った鼓動が響いていた。

 インターフォンが、また鳴った。

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