魚になった私

桜野 叶う

魚になった私

 日々を生きるのが、重たい。何か困ったこととか、嫌なことに悩まされているわけじゃないけれど、生きていくのが重たい。地球の酸素が薄くなっているような気がして、花の色も、空の色も、鈍く色せているような気がするのだ。

 鏡にうつる、私の透明な焦げ茶色には、ハイライトなんてものはない。まさに死んだ魚の目。

 そんな私の目が映し出すムービーは、何もかもが、まるで死んでいるみたい。全く生気がない。白い梔子らしき花の色も、雲がのベールに覆われた空の色も、通行人の肌の色も、ぼんやり色褪せていた。それは、私に生気せいがないからか。

 生気のない私には、当然、誰もよってこない。私も、れるのは得意ではないみたいだから、ちょうど良い。群れをして、生臭い空気に囲まれるくらいなら、単独で泳いで、狭い岩の間とかに隠れていた方がいい。気楽だし、リスクもよっぽどないだろうから。でも、最悪、大きな魚や、タコなどに食べられてしまっても構わないかもしれない。

 ちょうどこのくさった空間から、抜け出したいと思っている。この空間に延々えんえん拘束こうそくされなきゃいけないのなら、魚になって、フライにでもされればな。

 ああ、魚になりたいよ。広い海をスイスイ泳ぎたいよ。

「ならば、なってしまえばいい」

 どこからか声がした。その瞬間、目の前が真っ暗になった。目の前には、魔法使いの格好をした老婆ろうばが現れた。

「お望み通り、あなたをお魚にしてあげましょう。フライにすると美味しい、お魚にね」

 老婆は言った。

「お魚になったら、基本的に人間に戻ることはないよ。でも、ただひとつ。好きになった人からのキス。それで人間に戻ることができる」

 童話とかでよく聞くセリフだ。しかし、そこらへんは大丈夫だろう。私には無縁のことだ。今まで、私が誰かを好きになることなんて、一切なかったし、これからもないだろう。そもそも、現状にうんざりして、魚になりたいとここまで所望している人に、この先のことを考える余裕なんて、皆無かいむだろう。

 もちろん、私はこれに大歓迎。こうして私は魚になった。

 いつの間にか、教室の床に横たわっていた。そして、ぴちぴちと音を立てて跳ねた。本当に魚になってしまったらしい。ぴちぴちという音に反応して、皆が後ろを振り返った。

「え、魚!?」

「なんで教室に魚が?」

 ぴちぴち跳ねる私を見て、皆は驚き、騒ぎ立てた。まあ、当然の反応だろう。突然、後ろでぴちぴちと音が聞こえて、振り返ったら、そこには魚がいるんですもの。ホラーか何かだろう。これに驚かない人というのは、相当、肝が座っているか、変な人かのどちらかだ。

 そこへ、教室に先生が入ってきた。宇尾うお先生。端麗たんれいな顔立ちでいて、落ち着きがある。それだから、女子たちから陰でコソコソとささやかれている。

「どうしましたか」

 騒ぎを見た先生が、こちらへ駆けつけた。相変わらずクールに。

「先生、教室に魚が…」

 生徒たちを押し分けて、ぴちぴち跳ねる魚をじっくりと見た。

「これは、マアジですね」

「マアジ!?」「あじ!?」「マジで!?」

 えっ、まじ? アジになったんだ。魚になったことはわかるけど、なんていう魚になったかは、わからない。さすがは、昔から魚が好きで、大学時代は魚の研究にれていたと言っていたことだけはある。魚の知識が豊富なのだろう。

 先生は辺りをきょろきょろと見渡すと

「ちょっと待ってください。鯵には触らないでくださいね。火傷やけどするので」

 先生は何かを取りにこの教室を出た。その後を追って、ではないけれど、私も大きく飛び跳ねて、教室を飛び出した。

桃島ももじまですか」

「えっ」

 気づかれてしまった? 魚になった姿で名前を呼ばれたのにも驚いたし、魚になった状態で言葉を話すことができることにも驚きだ。

「なんとなくですけど。桃島の席に服がたくさん落ちていましたし、唯一いませんでしたから」

 服が落ちていた。じゃあ今は、裸の状態だということか。そりゃあ、そうだな。魚は服着ないし。

「すぐに海水に入れるので待っていてください」

 海水。水槽にでも入れられるのだろうか。……それは嫌だ。

「嫌……」

 私はまた、大きな跳ねで、先生の前に飛び出た。

「待ってください。どこに行くつもりですか」

 そりゃあ、鯵なのだから、海だろう。ここらへんから海は近くない。たがら、川? 川は近くにあるけど。川に海水魚の鯵が入ったら、死んじゃうな。でも、本当に死ぬのかは分からない。魔法のさじ加減で、鯵が淡水に入っても死なないようになっていないとも言い切れない。一か八か駆けてみるかな。

「もしかして、死ぬつもりですか」

 悟ったらしい、先生が言った。チクリと心臓を突かれたような刺激を感じた。たしかに、実はそう思っている。毎日のように、“死にたい”と。あー、死にたいな。私の心が、ぶつくさと言っていた。私はそれを、たくさんのガラクタたちで埋めて隠して、無かったことにしようとしていた。でも、死にたいと言っているモノの角がはみ出ていたみたい。それを先生に、バレてしまった。

「別に死ぬことも、いとわないです」

 もう、疲れ切ってしまったのかもしれない。今まで粘って、繋いできたけれど、体力ゲージは赤いところまで削られてしまっている。ピコン、ピコンと警報が鳴っている。あとちょっとで、倒れてしまう。それならいっそのこと、自爆という技で、倒れてしまおうか。そうすれば、永遠と続くバトルを終わらせることができるから。

「では、あと一日だけ」

 先生は口を開いた。あと一日?

「あと一日だけ。ねばってみましょう」

 粘る。あと一日だけ。たったの一日だけ。そうか。せめて、今日の一日くらいなら、粘ってみてもいいかな。

「はい。一日だけなら。いいです」

「えらいですね。共にがんばりましょう」

 先生は、ニッコリ微笑んで言った。その言葉が、笑顔が、温かい。ちょっぴり火傷も負っただろうか。温度差が結構、離れていたから。

「では、海水を持ってくるので、待っていてください」

 今度は、言われたとおりに、待つことにした。


 海水の入ったバケツの中に入れられた。床で跳ねていたときよりも、だいぶ楽だ。丸一日、バケツの中で過ごした。休み時間になると、生徒たちが集まった。私にたくさんの視線が集まっている。そして、楽しそうに賑わっていた。私は鯵という、食べたら美味しい魚だからか、彼らから飛んでくる言葉というのが「美味しそう」である。あの魔女らしき老婆も言ってたな。フライにすると美味しい、お魚にって。たしかに、鯵フライは美味しいけれど。

「鯵フライにして食いたいよな」

「いや、俺は塩焼きがいいな」

「塩焼き美味いよ」

 とにかく食いたがる男子たち。食べると美味しい魚を目にすると、真っ先に、コイツを何にして食いたいか論争が始まるのはお決まりのことだ。

 

 学校が終わり、魚の私は、先生に引き取られることになった。車に乗せられて、先生宅へと向かう。私もよく知っているバンドのミュージックを聞きながら。


「どうして、魚になったんですか?」

 先生宅で、先生は尋ねた。私は、直方体の水槽すいそうの中で、スイスイと泳いでいた。

「よくわかんないんですけど、魚になりたいなあって思ってたら、謎の声がして、気がついたら魚になっていました」

 かなりのパワーワードだよな。今さらだけど。

「すごい不思議な出来事ですね。それで、人間に戻る方法とかってないんですかね」

「いえ、基本的には戻ることはないです」

「基本的にってことは、例外もあるってことですよね」

「……」

 あるにはあるけれど。言えない。言いたくない。でも、言えないとも、言いたくないとも、分からないとも言えなかった。何も言えないから、黙ったまま。

「言いたくないのなら、無理に言う必要はないですよ。言いたくなった時に言えばいいです」

 そう言って、先生は立ち上がった。

「小エビでも食べますか」

「あ、はい」

 魚になった私は、小エビを食べるんだろうか。人間が食べるようなものを食べたら、どうなるだろう。でも、魚になったんだから、魚が食べるものを食べるんだろうな。

 先生宅の洋室のお部屋には、たくさんの水槽が並べられていた。まるで水族館。というか、ペットショップの魚売り場みたいだ。でも、水槽の中で泳ぐ魚たちは、ペットショップで売ってる魚よりも、ずっと大きいサイズのものがほとんどだ。

 先生が戻ってきた。コーヒーらしき飲み物が入ったマグカップと、小エビが入った袋で両手をふさいで、片方の手首には大きめな袋。

「そもそも、どうして魚になりたいと思ったのですか」

「……毎日が窮屈でつまらなくて。生きてくのが嫌だって思ったんです。魚になったら、広い海で自由気ままに泳ぐことができると思うんです。だから、魚になれたらどれだけいいんだろうなって」

「そうですか。魚の生活もそう気楽なものじゃないと思いますよ。特に鯵なんかは、食べられる危険性も高いですし」

「別に、食べられても構わないです。食べられたっていいから、魚になりたくて、もう戻りたくもないです」

 鯵になった私には、皆が集まってきた。そんなことは、初めてだ。そして、嬉しかった。人間に戻ったら、誰も見向きもしなくて、重い生活を強いられる。それは嫌だった。ただただ虚しい。他の人たちと、楽しそうにワイワイしている人が、羨ましい。それを遠くから眺めて、自分との違いに絶望する。絶望を背負って、その重みに絶えないといけない。ハナから少ない私のHPは、どんどん削られていく。

「……私なんて、ずっと鯵のままでいいんです。人間に戻ったって、なんの意味もない。誰も何も思わないです」

「そんなことはないと思いますよ」

「え」

 即座に否定した。予想だにしていなかった、否定の言葉に、私はハッと驚いた。

「これです」

 先生は、手首にかけていた、大きめの袋を手にとった。そして、中を取り出す。私の制服だ。魚になったとき、空っぽになった服たちは、私の席の下に落ちていた。

「これは、仲野なかのが届けてくれたんです」

 仲野さんが? 仲野真奈まなさん。席も離れているし、あまり関わったこともない。

「彼女も、桃島みたいに、一人でいることが多いですからね。桃島のことを気にかけている様子でしたよ」

 私を気にかけている子なんていたんだ。知らなかった。

「仲野も、桃島も、イラストを描くのが好きみたいですし、他の共通点も、探せばたくさん見つかりそうですけどね」

 探せば、か。宝探しなんて、今までしたことがない。最近なんて特にそうだ。宝なんて、探そうともせずに、ただ何もない土を眺めて、何もないと嘆いていただけだと思う。そりゃあそうだ。やってみようか、宝探し。

「私、戻りたいです。人間に」

「どうやって戻るかって、知ってるんですか」

「はい。……あの、好きな人と……キスをするっていう」

 童話みたいなやつだ。でも、それは誰だ。

 先生は、優しく微笑んで、

「桃島が好きな人って、誰なんですか」

 と尋ねた。

 ……いない。私に好きな人なんて、異性に限るなんていう縛りはないと思うけれど、同性にしても、いない。私を気にしてくれているという、仲野さんも、私からしたら、まだ共通点も見つけていない間柄なので、違う。……でも、強いて言うならば。

「多分、…先生だと思います」

 宇尾先生は、すごく生徒のことを大切にしていて、私の気持ちに寄り添ってくれている感じがした。今まで、そんな先生に出会ったことはなかった。素敵な先生だなっと思う度に、湧き出てくる炎に胸の内が焦がれていくのを悟っていた。この悟りは、間違っていない自信がある。

「なら、しますか。キス」

「はい。あ、でも、魚にキスとか平気なんですか」

「そこは問題ないですよ。僕ですから」

 そうだ、先生は魚が大好きな人だった。この部屋を見ればわかるだろうけど。

 待っててくださいと、先生は部屋を出る。その間、私はバックバクのあまり、水槽の中をぐるぐる泳いだ。それと一緒にぐるぐると回る水の流れ。そして整理のつかない、私の気持ち。もはや慣性となってしまっているぐるぐるが止まりきらないうちに、先生がやってきた。

「お待たせしました」

 たった四文字だけで、こんなにも人の心を動転させるような力があるって、もしかしたら先生は、魔法使いか何かなのかもしれない。

 先生は魚の私を水槽から取り出して、その口元にそっと、キスをした。


 気付けば私は、地べたに座っていた。手も足も、ちゃんと人間の手足である。

 背後から、ふわっと柔らかいものがかけられた。バスタオルだ。後ろを振り返ると、そこには宇尾先生がいた、かなりの至近しきん距離である。

「ちゃんと人間に戻れましたね。ひとまずは安心です」

 さっきまで動転して、ぐるぐる回っていた気持ちが、きゅ。と引き締められてしまったような。

「あ…ありがとうございます。先生」

 そして、ピッチャーの投げる山なりの投球のごとく、先生の胸元へと飛び込んだ。今度は球と化した私を、先生は優しく受け止めた。


「あ!おはよう、れいちゃん」

 翌日の朝。私が、いつも通りに教室に入ると、真っ先に気がついて、真っ直ぐに私の元へと駆けつけた。

「おはよう、仲野さん」

「人間に戻れたんだ」

「うん」

「私も、ひとりみの人間だからさ。同士らしき礼ちゃんまで、消えちゃったら、私はしんどいよ」

 私をそう思ってくれている人が、本当にいたなんて。全く見つけられていなかった。すっごく視野が狭かったと思わされた。

「お、桃島さん。昨日は、どうしたんだ?」

「朝は普通に入ってきたと思うけど、いつの間にかいなくなってたし」

 クラスの男子たちが口々にいう。彼らは、昨日、突如とつじょとして現れた、なぞのマアジの正体を知らないらしかった。私と仲野さんで、見合って笑った。

「さあ。それ多分、幻なんじゃない?」

「そうそう、幻」

 二人は、笑顔になって、

「え? 何それ」

「マボロシ?」

 男子たちは、ぽかんとなっている。

「マボロシ〜」

 仲野さんは、人差し指を振りながら、再び言った。

 そこへ、先生が入ってきた。

「先生、おはようございます」「おはようございます」

 挨拶をすると、先生はニコりと笑って、

「おはようございます。桃島、仲野」

 と返した。

 何だか今日は、昨日までとは全然ちがった。明かりがついたみたい。ヘルメットのライトを点灯させたからだろうか。

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