第4話

「あのなあ。歩くってのは右足を前に出してから左足を出す行為のことだ。これができるとお前もアニメイトに行ってNFのラブコメが買えるぞ」


 香山が後ろを振り向くと、そこには全身ジャージの男性がいた。


「や、別に歩き方はわかるっすけど」


「なんだよ。じゃあ今から一緒にアニメイト行く? おすすめのラノベがあるんだけどさ。初心者も手を出しやすい作風だからハマると思うんだよなぁ」


「あの、今それどころじゃなくて」


 なんだろうか。


 この男が来てから、一気に緊迫感がなくなってしまった。ピンと張っていた糸が緩んだように。というよりかはピンと張った糸の存在を忘れてしまった、と言った方が正しいかもしれない。


 実に不可思議な感覚ではあるが、無童係としてこれだけは忠告しなければならない。


「というか一般人は危ないからこんな場所にいちゃいけないっすよ。早く逃げてください」


「ああん? 俺は一般人じゃねえって」


 その男は山の頂上で新鮮な空気を味わうがごとく、深呼吸をしてから、言った。


「俺ぁ通りすがりの童貞だよ」


「え? なんて言ったんすか?」


「一回で聞けよ! 決め顔で童貞って何度も言いたかねえんだよ」


「ああ。童貞なんですか」


「締まらねえ伝わり方!」


 両手を上げ、天を仰ぐ自称童貞。


 香山はその男の独特な雰囲気に呑まれないよう頭を振り、耐える。


「いやいや、童貞とはいえ訓練されてない童貞はほとんど一般人と変わりないっす。自分には力があると自信過剰になり、悪童と戦って大ケガした童貞はかなりいるし、あんたもその類だと見受けられるっす」


「おいちょっと押し返すな、待て、落ち着け。そんなに言うならほらっ。これ。これあげるからぁ!」


 そう言って男が香山に寄こしたのは、薄氷色をした斧、つまりさっきの爆風で吹き飛ばされた加藤の『童器』である。


「さっき拾ったんだけどさぁ。これがなかったら無童係でもあの悪童倒せないんじゃね?」


「君、童器を知っているんすね」


「バカにしてんのか。童器ってのは童素を込めた特殊な武器。銃火器などで倒せない相手は基本的にこの童器に頼ることが多い。それくらい一般人でも知ってるだろ」


「あ、いや、歩き方をあんなに力説してくるものだから、常識がないのかと」


「よし、そのケンカ買ったぜ、出世払いで」


「長丁場になりそう!?」


 わけのわからないノリに付き合わされ、脱力感に襲われる香山。本当はこんなくだらないやり取りをしている場合ではないのに、なぜか謎の安心感をこの男から覚える。


「あの、君は――」


「おっとそれ以上のお喋りは許されねえみたいだぜ」


「許されない? もしやリーダーたちが殺されたのか――」


 香山はあわてて炎の悪童の方に目を向ける。


 するとある意味予想もしていなかった状況が目に映った。


 悪童が不快そうにこちらを見据えていたのだ。まるで深夜にギターを弾き鳴らす隣人をにらみつけるかのように。


「さっきからべちゃくちゃべちゃくちゃうっせえなあぁあ。某のことをまだ侮っているというのか、貴様!」


「ヤバいっす、どこの馬の骨かもわからない童貞さん」


「あん? 俺が言ったのは、若者が調子に乗って大量に着火した市販の花火みたいなヤツのことじゃなくて、アニメイトが閉まるまで一時間切っちゃった事実のこと! 俺ぁラノベを買うのに最低一時間はかけたい派なの!」


「あんたのラノベ事情は知らないっすよ! というかそんなくだらないことをいちいち言わないでください。うるさいっす!」


「うるさいのはてめえら二人ともだぁぁあぁ! 某の炎の前に死ねええぇえ!」


 怒髪天を突くという言葉が最も似合っている様子で、炎の悪童は両腕から溢れんばかりの炎を生じさせ、そして肥大化させていく。その姿はまるで巨人の腕が生えてきたかのごとく。六車線ある大通りの横幅を十分埋め尽くすほど大きな炎が放たれようとしていた。


『最大火力――爆炎紅葉ばくえんこうよう


 放出。


 炎で作られた大きなトンネルに正面から入り込むみたいだ。


 一度入ってしまうと、灼熱の炎で一気に闇へと誘われてしまうのではないか。そんな根源的な恐怖を香山は抱いた。


 終わった。


 そう直感し、隣の男をチラッと盗み見る。


 驚愕した。


 焦ってもいなければ恐怖しているわけでもない。さっきと変わらないちゃらんぽらんとした表情のままだった。そして彼は香山に言った。


「サンタを見たことはあるか?」


 男は片膝をついて、右手を地面に添える。


億悦愚楼ノ黒白おくえつぐろうのこくはく――【願いは蛇ねがいはへび】』


 男の右手から地面へ。ぼやけた白色の童素が流れ込み、男と香山を囲い込むように半径五メートルほどのサークルが出来上がる。


 そしてそのサークルに沿うように、地面から綿毛のような光を纏った柳が生えてきた。


「な、なに……コレ」


 香山は惚れ惚れした。


 柳の内側しか見えないが、いたるところにクリスマスツリーの飾りのようなモノが吊るされている。柳にツリーの飾りなんて、ミスマッチもいいところだが、なぜかそんなアンバランスさを笑い飛ばせない、神秘的な魅力を感じる。


「あの、童貞さん。これは一体――って寝てる!?」


 あろうことか、男は胡坐をかいて眠っていた。しかもご丁寧に『起こすな。死ぬぞ』という書き置きまで抱えて。


「これも童魔の一種なんすかね。なら起こさない方がいいか。……ってそうだ、炎! 炎はどうなったんだ」


 静けさのあまり、失念していたが、香山たちは巨大な炎に襲われそうになっていたはずだ。事態を鑑みるに、この柳が炎から守ってくれたのだろうが、やはり外の様子は気になる。悪童を倒さない限り、恐怖は続くのだから。


 変に触れて童魔が解除されないように、香山は少し柳から距離を取りつつ、葉っぱの隙間から覗いた。


 柳の外では炎の悪童が顔を真っ赤にして火球を投げまくっていた。


「くそっ。くそっ。なんだよこの柳はあぁぁあぁ!」


 どうやら推定クラス4の悪童でも、この柳の壁は突破できないらしい。


 リーダーも加藤も無事であることを確認。ホッと胸を撫で下ろした直後のことだった。


 シャンシャンという場違いな音が空から聞こえてきた。


 香山は思わず音の聞こえる方を見上げ、これまた柳の隙間から窺ってみる。


 すると浮世離れした光景を目にした。


 サンタクロースとトナカイが宙を飛び回っていたのだ。ただし一般的な装束ではない。サンタの服は赤ではなく黒。そしてトナカイは全身が白に染まっている。


 そのままシャンシャンと空気を震わせていると、唐突にサンタは真っ黒い袋から何の変哲もない剣を放り投げてきた。


 サンタの手元を離れた剣は真っ逆さまに落ち、柳のサークルの中央、すなわち男の目の前に突き刺さったのだ。


「びっくりしたー。何なんだ一体」


 香山は腰を抜かしたまま、空に浮かぶサンタクロースを見つめる。見つめていると、突如、火球がトナカイを襲ったのが見えた。


 見なくてもわかる。炎の悪童の仕業だ。


 攻撃を受けたトナカイはドロドロに溶け、原形を留めていなかった。


「ハハッ。ざまあねえな。……ってあれ?」


 大方、香山も悪童と同じように間抜けな顔をしている。なぜなら白いトナカイはすぐさま再生し、何事もなかったかのように元に戻ったからだ。


「くそが、トナカイの分際で某にたてつく気か! ならば蒸発するまで燃やし尽くす!」


 宣言通り、炎の悪童は火球を連続でトナカイに放ち続けた。が、そのどれもがトナカイには当たらなかった。というより、たどりつくまでに消されてしまったのだ。


「キイイイイイィィィィィィィ」


 トナカイが発した金属音のような咆哮によって。


 だが消し飛んだのは火球だけではなかった。


「いでええぇぇえぇえ!」


 悪童の両手がなくなっていて、そこから血が溢れだしている。


「い、いだいぃいいぃ。な、何が起こったんだぁ……」


 悪童が苦悶の表情を浮かべているうちに、サンタとトナカイは幻妖な光を帯びながら雲散霧消した。それと同時に、柳のサークル内にいた男が起き上がり、地に突き刺さった剣を抜くと、一気に柳の木が枯れ、こちらも消失していった。


「サンタの顔は二度までだ。覚えておいて損はないぜ、よく燃えるゴミよ」


「……なんだてめえは?」


 みずからの炎により、義手を創造した悪童は、不快さを露わにしながら名を尋ねた。


「あ? 俺? 俺ぁ飆灯九重ひょうとうこのえっていう、どこにでもいるただの童貞だが」


「こんな奇妙な童魔を使う奴がただの童貞なわけねえだろうが」


「んーホントなんだけどなぁ」


 九重は面倒くさそうに頭を掻いた。


「あのさあ、俺ぁそこのアニメイトに用があるからさぁ。ちょっと道譲ってくんね?」


「ああん? アニメイトだあ?」


 炎の悪童はアニメイトという言葉にピンとこなかったのだろう。訝しげに九重が指差す建物へ視線を向けた。そして額に青筋を立てながら怒号を飛ばす。


「ハイそうですか、って譲るわけねえだろが! 貴様、某のことを舐めてるな?」


「いーや。俺は猫舌だから舐めるなら鎮火してからだな」


「決定だ。貴様はできるだけ苦しめてから殺すことにしよう」


 そう言って炎の悪童は右の義手をアニメイトの方へかざし、火球を飛ばそうとした。しかしそれは叶わなかった。


 気が付くと、悪童の右肩に銀色の蛇が噛みついていた。悪童はチラと一瞥する。


「なんだ、これは――ってぐばばばばばさぢなじゅはんさじゃし」


 にわかに、悪童はこの世のモノとは思えないほどの惨痛を感じ始めた。ものの数秒で悪童は白目をむき、口端から泡が顔をのぞかせている。


 やにわに起こった惨状の原因は、九重が右手に持っている剣である。サンタが放った時はただの剣だったが、今は刃すべてが銀色の蛇と化しており、数メートルほど伸びて悪童に噛みついたのだった。


 悪童が地獄のように苦しむ様子を見た途端、九重の表情が険しくなった。


「お前、今までに何人殺した?」


 だが悪童は苦痛のあまり聞く耳を持たない。仕方なく、九重は蛇をいったん引いた。


 肩から牙が抜かれると痛みが治まったのか、悪童は半狂乱から立ち直った。


「おい、お前。今までに何人殺したんだ」


 ゼエゼエと息を切らしながら、悪童は言う。


「……覚えてねえよ、んなこと」


「そうか……」


 九重は静かにそう吐き捨てるだけ。


 何を思い、何を感じたのか、それは九重にしかわからない。


「この蛇は噛みついた相手の記憶を媒体にして苦痛を与える能力を持ってる。ただしそれは自分が過去に受けた苦痛ではなく、他者に与えた苦痛に限定される。お前の苦しみ方は並大抵のレベルではなかった。だから一人や二人ではないことは明白だったが、そうか、覚えてないか……」


 九重の見た目に変わったところは何もない。呼吸が荒くなっているわけでもなければ、柄を握る手の力が強くなっているわけでもない。


 ただひとつ変わったところといえば、彼の瞳に憤怒の炎が揺らめき始めたくらいだ。炎の悪童よりも熱くて濃い、そんな炎。


 九重はゆったりとした足取りで炎の悪童に近づく。


「人は死んだら誰かの記憶の中でしか生きれねえんだよ。てめえがどんな経緯で人を殺めたのかは知らねえが――」


 九重は悪童のすぐそばで歩みを止め、剣先、もとい蛇の顔面を突き出す。


「てめえが死なせた命をてめえの頭ん中でも殺すんじゃねえ」


 蛇の牙が徐々に接近する。


「ひ、ひぃ……ゆ、許して……くださぃ……」


「許せねえよ。死者はもう何もできねえんだから」


 がぶり、と蛇が深く噛みつく。


「ぎぎゃあああああんどせじゃんぢいかぢいぢに」


 夏終わりの蝉のように地べたでのたうち回る炎の悪童を、九重はただ見下ろして、ぼそりと言葉をこぼす。


「せめて死んだ者の痛みくらいは噛みしめとけ」

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