第42話
両親が誘拐され、九重の人生は大きく変わってしまった。中学三年生の時だった。
史上最年少で『童貞』の資格を手に入れ、世間から注目された。九重を引き抜こうと躍起になった企業は数知れない。だが、九重は迷っていた。
自分はただ親の喜ぶ顔が見たくて努力していただけだ。気付いたら童貞になっていた。将来のことなんて露ほども考えていなかったのだ。
相変わらず両親は『社会の役に立てるような場所を選びなさい』としか言ってくれない。至極真っ当な意見で、反駁する気は毛頭なかったが、中学生の九重からすれば、どこがその『役に立てる場所』なのか、判断がつかなかった。
そうやってぼやぼやしていたからだろうか。
ある日、痺れを切らしたどこかの企業の陰謀で、両親が誘拐された。強面の大人が複数人で家に押しかけ、目の前で連れ去られたのだ。危うく、九重に危害が降り注ごうとしたその時――
白コートの男が助けてくれた。
「大丈夫ですか? 世間をにぎわす麒麟児さん?」
彼――のちに髑髏と名乗ったその男は童魔を使って、相手を一瞬でなぎ倒していった。その姿は幼い頃、九重が憧れていた童貞の幻想に漸近していて。
「あのっ! あなたの下で働かせてください!」
その一言を契機に、九重はルドベキアの特殊部隊『琥珀』への仲間入りを果たした。
幼い頃からずっと優秀な童貞になるための鍛錬しか重ねてこなかったので、友達ひとりおらず、ろくな学校生活を送ってこなかった九重にとって、『琥珀』での集団生活はなかなか慣れなかった。
構成メンバーは全部で十二人。
巨大なビルのある一室が、彼らのアジトだった。
「オイ、シンイリ。マタ、コロセナカッタノカ?」
「すみません。悪い人間だとわかっていても、殺すのはちょっと……」
「ソンナンジャ、イツマデタッテモハンニンマエダゾ」
「はい、すみません」
入隊したての時は、人を殺せなかった。『琥珀』ではそれを甘いと評された。
でもある時、落ち込んでいた九重に放った髑髏の一言が、倫理観を狂わせてしまった。
見せつけてきた両親の凄惨な殺害動画で、義憤とも呼べる麻薬に脳を侵された。
「君のせいで両親がこんな風になってしまいました。君が優柔不断で、臆病だったから。先週の任務で君が殺さなかったから、その残党が両親に復讐したみたいですね。全部、君の甘さのせい」
「う……うぁああぁぁぁあぁぁ!?」
「でも起きてしまったことは仕方ない。もう君のような被害者を出さないために立ち上がらなければならない。その痛みは君にしか理解できない。君にしかできないことなんだ」
「…………俺、にしか……」
「そうです。君には才能がある。持つ者は持たざる者のために生きなければならない。能力があるのに、それをあますことなく行使せず、他者に任せるのは怠慢です」
髑髏は怪しげに微笑み、マッチを一本擦る。
「さあ、覚悟を決めてください。今、ここで。このマッチを受け取ったならば、僕が君に童魔のすべてを叩き込んであげましょう」
……。
固唾を呑む。
このマッチを受け取ってしまうと、もう二度と戻れない気がしたが、『君が優柔不断で臆病だったから』という言葉がリフレインし、すでに正常な思考ができなくなっていた。
「よろしくお願いします。髑髏さん」
大人と比べると、まだまだ小さくて細い九重の指が、火のついたマッチを掴んだ。
その日から、九重は人が変わったかのように殺人を繰り返した。もちろん、私利私欲のための殺人はひとつも犯さなかったが、任務とあらば、容赦なく殺した。当時高校生だった九重は、二度と自分のような被害者を出さないため、という狂気じみた義憤に駆られていた。日夜、彼の童魔が幾人もの命を奪っていた。
髑髏による教えもあって、『琥珀』の中でも断トツの任務達成率だった。
いつしか『八丁荒らし』というコードネームまでもらっていた。
そんなある日、ひとりのメンバーが極秘任務から帰ってきた。構成員からは『弱者』と呼ばれていた。
右目に眼帯をつけていて、左腕に包帯を巻いている。『琥珀』の証である白コートには、自分で書いたのだろうか、黒の線が縞々模様に連なっていて、何とも言えない出来映えとなっていた。よく言えばシマウマといったところか。こんな仕事をしていなかったら、間違いなく中二病だと九重は決めつけていた。
「くっくっく。我、帰還なり」
中二病だった。
彼は妙な立ち姿で決めポーズを取っている。控えめに言って痛々しかった。
それでも周りの構成員は当たり前のように弱者を歓迎していた。後から人伝で聞いた話だが、実力はトップレベルらしい。
妙なポーズのまま、弱者は九重の存在に気付いたらしく、声を掛けてきた。
「お、新顔だなぁ。お前の好きな色はなんだぁ?」
「え……、色?」
「色だよ。あるだろ、好きな色ぐらい」
「はぁ……。まあ、緑ですかね?」
「くーっ。なんだよ、つまんねーなぁ。ここは黒か白の二択しかないでしょーが」
「いや、知らないんですけど」
バシバシと強めに肩を叩いてきた。地味に痛い。
「白ってのはまだ何者でもない始まりの色、黒ってのは逆にすべての色が行きつく最後の色。な? 何かカッコいいだろ?」
「いや、わかんないです」
近くで見るとわかったのだが、弱者はどうやら中年ぐらいの男性のようだ。なおさら中二じみた言動が痛々しかった。
「ったく。これだから青二才は……。仕方ねぇ、酒でも飲みながら我が黒と白の素晴らしさを骨の髄まで染み込ませてやるよぉ! ついてこい!」
「あ、いや。俺、未成年なんで酒はちょっと……」
その瞬間、弱者の顔がすこぶる強張った。鬼のような声で静かに問う。
「それは本当か?」
「え? ああ、はい」
「お前は誰に連れられてここに来た?」
「それは――」
――髑髏さんです――と感謝の念も込めつつ、九重が髑髏の方へ視線をやった。
視界に映った時には髑髏はすでに壁にめり込んでいた。
「……え?」
何が起きたのかわからなかった。理解できていないうちに、気付けば弱者は親指と人差し指で髑髏の両目を抉っていた。
「ふぐあぁあああああぁあぁっぁあぁ」
周りの構成員も動けないでいる。それほどまでに弱者の戦闘レベルは別格であった。
「ほらぁ、てめえが目ん玉修復している間にニ十個は胴体に穴、開けられっぞぉ」
「ちょ、ちょっと待ってください、弱者さん! その人は俺を強くしてくれた恩人であり師匠なんです! やめてください!」
九重は自覚した。ルドベキアへの所属を許可し、その上童魔の使い方まで教えてくれた髑髏に多大な恩を感じていることに。傍から見れば非常識だ。そのせいで九重は殺人に手を染めてしまったのだから。だが、それを是とするほどに、今の九重は髑髏に洗脳されていたのだ。当の本人は洗脳されているなんて微塵も思っていないが。
九重の激情のこもったセリフは弱者の、ナイフで髑髏をめった刺しにする手を止めた。
「恩人? 師匠?」
弱者がこちらを見た。
そう認識した時、九重はすでに地に伏していた。後からじわじわと頬に痛みが広がっていき、何となくビンタされたのだと推測できた。
弱者は九重の胸倉を掴み、怒鳴った。
「出てけ! お前みたいな子どもはこんな汚れた世界に足を踏み入れるべきじゃねえ!」
「子どもだからどうした! 俺のせいで両親が殺されたんだ。俺みたいな被害者を二度と出しちゃいけねえっていう使命があるんだよ! そのために殺して何が悪い!!」
九重は左手を弱者の腹に向ける。髑髏から教わった通り、童素の塊をエネルギー弾にして放つ。弱者は何の抵抗もなく、それの直撃を許した。大量の吐血を誘発させた。
「おい、八丁荒らし! 何やってんだ。弱者は童貞じゃねえんだぞ!」
「え?」
周囲の構成員のひとりがそう叫ぶ。
童貞じゃない……。言い換えればただの一般人であり、そんな人が童素を含んだ攻撃を食らえば、ただ事ではないことを九重は知っている。死んでもおかしくないダメージのはずだ。それでも弱者は胸倉をつかむ手を離さなかった。
それどころか、弱者は優しく九重を抱きしめたのだ。ポンポンとあやすように背中を叩く。
「……あんた、童貞じゃないって……、痛くないんですか……?」
「八丁荒らしっつうのか。優しいな、お前は……。んぐっ――」
「ちょ、血が――。早く手当を――」
「お前みたいな子どもがよぉ。血に慣れちまうなんてよぉ。よっぽど痛い思いしてきたんだなぁ」
弱者の手は、落ち着くほど温かかった。初対面とは思えないほど、まるで九重を別の誰かと重ねて喋っているかのように、弱者は号哭した。
「もうお前は誰も殺さなくていい。頼むから、殺さなきゃいけないなんてもう言うな。他のやり方を我と一緒に探そうじゃねえか……」
心臓を鷲掴みされたかのように、九重の全身が熱くなった。いつの間にか号泣していた。
「ずいぶん勝手なことを言ってくれますね、弱者。八丁荒らしは僕の持ち駒なんですよ?」
童素操作による回復がまだ済んでいないのか、満身創痍の髑髏が言う。
「持ち駒なんてカッコつけやがって。てめえは上に立つ者に憧れそれっぽく振舞ってるだけの小物にすぎねえんだよ」
「こ、小物!?」
怒髪天を衝く髑髏。
「チェスが上手いだけで頭がいいと勘違いしている悪ガキが。これ以上、八丁荒らしをてめえのお遊戯に付き合わせるな」
「貴様!」
「おっと妙なマネはしない方がいい。てめえの首元にはワイヤーが仕掛けられている。首チョンパされたいのか?」
何も言い返せない髑髏を尻目に、弱者は勝ち誇った目を向ける。
「じゃあ我は、しばらくこいつの面倒見るから。邪魔すんじゃねえぞ」
この事件を皮切りに、弱者と八丁荒らしの逃避行が始まった。
もちろん悠々自適な暮らしができたわけではなかった。
ビジネスホテルやネカフェなどを転々としながら、身を隠した。
弱者は敵を殺すためではなく、自分や自分の大切なものを守るための体術を教えてくれた。見方を変えればそれは暗殺術でもあったのだが、弱者は言ったのだ。
「やり方を工夫すれば、殺さない暗殺術だって可能なんだよ」
弱者との逃避行を続けて、約一カ月。
ビジネスホテルの一室で、こんな会話を交わした。
「弱者さんって童貞じゃないみたいですけど、今は独身なんですか?」
「あ? まー『今は』いないな」
「やっぱり家族いるんですね」
「おいどうしてそうなる」
「今はなんてわざとらしく強調してふざける時は大体嘘吐いてるじゃないですか」
「ったく、可愛くねえなぁ」
ガシガシと雑に頭を掻く弱者。
「あーいるよぉ。年下の世話好きな家内とちょうどお前と同い年の娘がひとりな」
「そんな……」
だったら自分なんかに構ってる場合じゃない、と九重は続けることができなかった。
そんなことを言っても弱者は考えを変えないとわかっていた。
口をつぐんだ九重を気にかけたのか、弱者はポンと頭に手を置いてきた。
「いいんだよ。家内も娘も我がいない寂しさごと愛してくれているさ。そしてそれは我も同じこと」
「カッコいいですね。そういうことを自信もって言えるなんて」
「直接話して確認したからな。『我はすべてを愛せるが、お前らは愛してくれるか?』と。どうやら我は大事なことを臆せず言える稀有な性質らしい」
弱者は人差し指でピンッと九重の額をつついた。
「でもお前はそうではないみたいだな。大事であればあるほど言葉にできない気持ちはよくわかる。娘がかつてそうだったからな」
「娘さんが?」
「ああ。いじめられていたことを隠していたみたいでな。んで、我がお前に言いたいことは娘にも通ずることだ」
ビシッと指を差しながら、弱者は中二病みたいにニヤリと笑いかける。
「大事なことを言葉にできないのは悪いことじゃない。隠せば隠すほど胸の中が苦しくてつらくなるだろうが、その痛みに必ず周りの人間が気づいてくれる。こんなにアピールしてんのになんで気づかねえんだ馬鹿やろうぐらいに思ってた方が気は楽だぞ」
「……」
「どうだ感動したか? 娘も絶賛してくれてな。このセリフは我もカッコいいと思ってる」
「最後ので台無しすぎる」
かはっ、と口を大きく開けて、九重は笑う。こんなに笑ったのは両親が亡くなってから初めてかもしれない。
気が楽になったのは事実だ。弱者の言葉は人間の持つ臆病さを肯定してくれる優しさに満ち溢れていた。こんな人を父親に持つどこかの娘さんが羨ましく思えた。
ただ、その娘さんにはそれから三日後に邂逅することとなる。
――髑髏がすべての元凶だった。
名前に劣らず、さながら不幸を運んでくる死神のように、髑髏は九重を逃がさなかった。
只今、九重と弱者は別行動だ。弱者は家族の元へ帰っている。九重が強く進言したからだ。弱者は最初、拒否したが、
「いつまでも弱者さんに守ってもらえるわけじゃないし、ひとりで生きていくための力も付けたい」
と九重のアイデアを聞かされると、首を横には振れなかった。
そこに髑髏が現れた。九重や弱者の見通しが甘かったわけではない。弱者もある程度の安全を担保したうえで、一時的に九重と距離を取ったのだ。つまり、髑髏は弱者に己の気配を悟らせず、虎視眈々と九重に接触する機会を窺っていたというわけだ。
実力が弱者よりも下とはいえ、やはり髑髏もただ者ではなかった。
「お久しぶりですね、八丁荒らし」
「なんで俺のいる場所がわかったんだ?」
「わかったのではなく、わかっていたのですよ、最初から。僕だって弱者の裏をかくほどの実力はあるのですよ? それは君も知っているはずです」
そんなことよりも、と前置きをして、髑髏はスマホの画面を向けてきた。そこには聞いたことのある悲鳴と共に、九重がルドベキアに入るきっかけになった動画が流れていた。
「ッッッ!? どうしてまたこんなのを俺に見せるんだよ!?」
「シッ。ここからが本題ですよ」
九重は驚愕した。
信じたくないがゆえに何度も瞬きするが、弱者が拷問に加担している光景が瞳に映らなかったことは一度もなかった。
「前、君に見せた動画とは別の角度から撮影したものが手に入っていましてね」
「う、嘘だ! こんなの嘘だ! でたらめだ! 何かの細工に決まってる!」
「心配なら君が専門家に聞いて調べてもらうといい。君は信じたくないだろうが、これは本物です」
「そ、そんな……」
「彼――弱者は優秀ゆえに独断行動が多かったんです。この動画の惨状も弱者の暴走でした。正直に言ってしまえば、君はルドベキアに入らないと思って黙っていたんです。本当にすみませんでした」
髑髏は恭しく頭を下げ、こう続けた。
「ですが、弱者が君を連れてどこかに行った時、僕は決めました。君を救うと」
「救う……」
この時点で九重の思考は暗い深海の底に沈んでしまったかのようだった。親の次に温かかった弱者の掌が今は怖い。髑髏が嘘を吐いているとこの時の九重には考えられなかった。疑う疑わないという次元ではなく、ただただ衝撃的で、脳が死んだみたいだった。
思うに裏切られるというのは、被害者がどれだけ相手に幻想を抱いていたかによるものだと痛感した。こうだったらいいな、というイメージを勝手に押し付け、見えなかった一面が顔を見せた途端、裏切られた、と思うのだ。まさに九重と弱者に合致した。もちろん弱者が無実である可能性もある。だが、裏切られたかもしれないという予測が土となり思索する脳を墓に埋めた。もう何も考えたくないのだ。何を信じればいいのか、周りに振り回されるだけの自分に価値はあるのか。とにかくすべてが嫌になった。考えるのを放棄した九重はただ呟く。
「……一日だけ、考える時間をください」
翌日、九重は髑髏と手を組んだ。高校生の九重には難儀すぎる、愚かな判断だった。
気味の悪いほど晴れた日の夜。
家族に会いに行っている弱者を急襲するために、九重と髑髏は都会から離れた町へ足を運んでいた。
「凪花火」
聞き慣れた弱者の心臓の音を頼りに、居住地を割り出していく。辿り着いてからは案外あっさりと事が進んでいった。
母親を片付けた後、リビングに父親ひとり。
髑髏が対峙した。
「
髑髏に教わっても、結局最後まで習得できなかった技。唱えると、髑髏の身体を黒い靄が覆う。次第に靄は骸骨の形を成していく。変身が終了すると、髑髏の見た目は真っ黒な影でできた骸骨に変わった。弱者は初見である。
弱者が身構える隙も無く、弱者から伸びる影から、無数の黒い棘が出現し、彼の身体を背中から貫く。
「カハッッッ!?!?!」
「皓濤ト円呪――
すると、弱者の額に禍々しい紋章が浮き出てきた。
「その紋章が出た者は十分以内に死にます。まあ呪いを待たずとも大量出血で終わりそうですけどね」
「そうやって余裕ぶるのは相手が完全に死んでからにするんだなっ!」
鉄臭い匂いにまみれた弱者は殺気を消して髑髏に突進しようとした。髑髏は完璧に不意を突かれ、対応が遅れていたが、『八丁荒らし』は違った。
何度も間近で見てきて、何度もそのコツを教わった『八丁荒らし』は脊髄反射で反応することができた。ノーモーションで右手からナイフを取り出し、弱者の右わき腹から左肩まで一直線に切りつけたのだ。
「ッッッァアッ!?」
弱者の苦悶の叫びを聞くと、なぜか後悔の念が押し寄せてきた。言い逃れができないほど弱者と敵対してしまった。もう戻れない感覚に眩暈がする。
「アッハッハッハッ! よくやった八丁荒らしよ。では僕は
髑髏は高笑いして、姿を消していった。メラメラと周りを囲む炎が、まるで罪を犯した九重を非難しているみたいだった。
そんな自分が正しいと必死に言い聞かせるように、九重は言った。
「正義を執行しに来ました」
ルドベキア――花言葉で『正義』と呼ばれている。
琥珀の隊員は任務遂行時、このセリフを吐くのだ。
「子どもにだけは手を出すな! 頼む……っ!」
弱者のその懇願は仕事仲間ではなく、ただの父親としての勇敢な態度だった。その姿はあまりに美しく、正しく九重の瞳に映った。だから九重は惑い、憂い、そして後悔した。なぜこんなにも優しい人間を殺そうとしているのか。仮に弱者が本当に九重の両親を殺していたとしても、九重が弱者とその家族に復讐するのは間違っているのではないか。そう思わされるほど、今の弱者の姿は家族の大黒柱として完成されていた。同時に自分を激しく呪った。安易に髑髏に手を貸した自分を。高校生は大人ではない。人の命がかかった判断を客体的に捉えることができなかったのだ。自分の気持ちしか考えられていなかった。
人知れず悔い改めていると、突然天井の一部が焼け落ちた。すると、その隙にクローゼットからひとりの女性が飛び出した。九重は一瞬反応が遅れるが、すぐさま追う。逃がしたら自分の罪が世に露見するかもしれない、とこの期に及んで自己保身が身体を動かした事実に嫌気がさす。
逃げる彼女の背中をひたすら追いかける。この光景はたぶん一生、夢に見るだろう。彼女が玄関の扉を開けたところで、九重は諦めて、再びリビングまで戻った。『子どもにだけは手を出すな』という弱者の言葉がかろうじて九重の足を止めたのだ。
「ちょっと来い」
弱者がそう言って、書斎と思われる部屋に九重を誘導した。
「これが、髑髏が俺を消したがる理由だ」
引き出しを開け、バサッと書類の束を机に広げる。九重は黙ってそれらを手に取り、中身に目を通す。
――全人類童貞化計画(十体の髑髏クローン運用について)
というタイトルを始まりとしたルドベキアの機密がびっしり記されていた。
「な、なんです、これ……っ!?」
ルドベキアの社長によって全人類に童魔の力を分け与え、髑髏クローンが童素操作で個々の能力を引き上げる。だが、現状分け与えた童魔は最大二十四時間しか持たないため、調達した人間で日々研究を繰り返す。その際の、いかなる犠牲もすべて不問とする。
読み終えたタイミングで弱者がバタリと倒れる。
「弱者さん!」
「敵意向けたり心配したり忙しいなお前は」
「ごめんなさい、俺、俺はなんてことを……」
「悔やむのは後にしてくれ。もう俺も長くは持たねえ。伝えたいことがある。耳貸せ」
指示通り、九重は膝をつき弱者が耳打ちできそうな姿勢を取る。
「ここから逃げて、俺の代わりにルドベキアを止めてくれ。あいつらがいると犠牲者が増える一方だ。このことを知っているのは社長と髑髏、そして俺とお前だけ」
ガシッと九重の左腕を掴む。
「お前にしかできねえ。頼む!」
――お前にしかできない。
髑髏に誘われた文句と被り、九重に迷いを生じさせる。
「俺みたいな周りに流されるだけの人殺しに、そんなことできない、ですよ……」
「でもお前が流されなかったら俺ぁお前に出会えなかった。お前の人生に介入できなかったんだよ」
家が燃えているのに弱者は寒そうに手を震わせながら、握る手に力を込める。
「罪は確かに消えねえ。それでもそれはもうお前の一部だろ? だったら全部抱きしめて苦しみながら糧にするしかねえ。殺した数以上の人間を救うんだよ」
流されるだけだった九重の人生を肯定してくれるようなセリフに、目の前のすべてがぼやけていった。目尻に熱い涙が溜まる。
「それができたらこっちに来い。そんときゃ今度こそ酒でも飲みながら話そうや。こちとらまだ話してえことがたくさんあんだ」
「弱者さん! 弱者さん……っ!」
強く、強く手を握り返すが、もう握り返されることはなかった。
最後まで九重は「任せてください」なんて殊勝な一言も「それでも怖い、自信がない」なんて弱音すらも吐けなかった。「ありがとう」すらも。
それでも死にゆく弱者の顔はとても満足そうだった。
――大事なことは言葉にできなくてもいい。
胸の内に言葉を秘めるのはなんてつらくて痛いのだろう。
でもその鈍痛があるおかげで、弱者はいつまでも九重の心の中で生き続けられるのだ。
託されたのはルドベキアの悪事を止めること。たくさんの人を救うこと。
それだけ達成しても弱者はきっと顔をしかめることだろう。
どこかで今後出会えるのなら。いや、出会わなくていい。むしろ出会っちゃいけない。
顔の見えないどこか遠いところから、弱者の娘さんを救うのも使命のひとつに入るに違いないのだ。
せめてもの形見として、弱者の万年筆を持ち出し、九重は立ち去った。
この日を境に、八丁荒らしはルドベキアから身を
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