第37話

「おい、……応答しろ、ジラフC。何があった? おい、聞こえていたら――うぐっ!?」

 バタリ。

 またひとり黒スーツが地に伏した。

 三階の、大きな部屋で九重は嘆息する。

「思ったより敵の数が多いな」

 ここまでたどり着くのに、九重は敵を両手両足の指では数えきれないほど制圧してきた。

 外傷こそないものの、隠密しながらの戦闘は精神をかなりすり減らしていた。

 口が渇き、肉体的な疲労も感じ始める。

 一階から上がってきて、残りは四階の立体駐車場のみ。

 早くけりをつけたいという気持ちが胸の内からせり上がってきて、先を急ごうとする。

 すると――

「こんなことだろうと思ったわ」

「ッッッ!?」

 声にならない喚声を上げ、首を守りながら振り向くと、そこにはなんと、無童係の制服姿の絹衣がいた。

「二島、お前なんでこんなところに!?」

「あなたならどうせ病院を抜け出すだろうと思ったから、つけてきたのよ」

 安堵と呆れが混じった微笑みを絹衣は浮かべた。

 それにしても九重は気を抜いていたわけではない。

 ずっとつけられていたことに今まで気づかなかったという事実を意識すると、絹衣の微笑から、得体の知れない恐ろしさを感じてもいた。

 九重はいつから掻いていたかわからない冷や汗を手で拭った。

「お前、暗殺者の才能とかありそうだな。マジで気づかんかったわ」

「あなたが鈍感なだけでしょ?」

 絹衣はようやく腰を下ろして、視線を九重に合わせた。

 九重はおどろいた。

 絹衣にしてはとても慈悲深い瞳だったからだ。

「気づかないほど……気づかないほどわたしのことはどうでもよかったの?」

「な? おい、どうしたんだよ急に」

「だって! 九重、わたしを遠ざけようとしているわよね? 花火の帰りの時も、今日だって病院を勝手に抜け出して、こんなところに来てるし……」

「それは二島のことが――」

 絹衣が大切で、危険な目に遭わせたくない、というのはあくまで九重自身の傲慢なエゴだ。正しくない。現に当の絹衣を悲しませているのだから。

 その時点で、九重に正しい道なんて残されていない。だったら、せめて彼女を言い訳に使うようなマネはしてはダメだと九重は思った。

「いや、これは俺のけじめなんだ。他人を巻き込むわけにはいかねえ」

「他人……」

 絹衣は寂しそうに笑った。とても乾いた笑いだった。

「そうよね……わたしと九重は他人だものね。うっかり忘れてしまいそうだったわ」

「二島……俺は別にお前のことをどうでもいいって思ってるわけじゃ――」

「行って」

 九重の情けなくて、言い訳じみた発言を絹衣は許さなかった。

 絹衣が、自分の中では解決したと言わんばかりに、端的に命令だけした。突き放すような冷たさが含まれているように九重は感じた。

 どこまで言っても人付き合いが苦手な面を九重は嫌った。どこまでいっても自己嫌悪からは逃れられないようだ。

「二島、怪我する前に帰れよ」

 目を伏せた絹衣を見ていると、九重は我慢できずに、結局絹衣を慮るセリフを吐いてしまった。息を呑み、立ち上がった。先を急ごうとしたその瞬間。


 九重の右腕がストン、と切り落とされた。


 ドサッと、砂袋が落下したかのような無機質な音がした。

 最初は何が起きたか理解できず、ただ右腕が本来はくっついていた部分を眺める。

 やはりそこに右腕はなかった。暗闇の中、目を凝らしてみると、地面にあった。

 それが自分の右腕だと認識した瞬間、死を直感させるような痛みが九重を襲った。

「んがあああああああああああぁぁああぁぁぁあああぁ!?」

 何も考えられない。五感が全て痛覚に変わったかのようだった。

「あああああああぁぁあぁぁああぁぁぁああぁあ」

 ただ叫んだ。それで痛みが治まると信じて。

 実際、意識は保つことができた。溶岩のように全身が熱い。童素で何とか傷口を塞ぐ。

 足をばたつかせ、のたうち回りながらも、だんだんと出血は治まった。

 五感が徐々に取り戻されていき、しばらくしてまともに視覚が機能するようになった。

 すると今度は、底なし沼のような恐怖に九重は引きずり込まれた。

「……あはっ、……やった……ついに、ここまで……っ!」

 仰向けの九重を上から覗き込むようにして、絹衣が相好を崩していた。知らない表情だった。

 彼女は血の付いた童器『瀬織津姫』を握っていた。

 九重に起きた事態だけは理解できた。

 絹衣が右腕を切り落としたのだと。

 しかし、理由がわからなかった。

 尻もちをつきながら、九重は後退する。それを絹衣が悠然と追う。

「どうして……」

「わたしの狙いは最初から一貫して、あなたの殺害だったわ」

 無表情で、淡々と述べた。

「わたしから家族を奪った復讐のためよ」

 九重は唖然とした。

 ピンと来ない。

 ただし、それは身に覚えがないというわけではなく、むしろ身に覚えがありすぎて、どれのことかわからないということである。

「三年前の火事……覚えているかしら?」

 ざぁーっ、と。

 廃墟の外を包み始めた、大雨の雰囲気を九重は感じ取った。

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