三、
三、
沈丁花(じんちょうげ)。
春は沈丁花。夏は山梔子。秋は、金木犀。
その3つの花は三大香木という。
紅月は、そんな事をネットで調べながらそんな有名な花を名前しかしらなかったのだな、と自分の無能さを恥じた。
今は仕事帰り。今日は少しだけ寄り道をして帰る事になった。といっても、職場のすぐ隣の店だ。隣接する店のアロマショップは紅月がよく訪れる店の1つだった。
「あれ?今日は違う香りの物を買うんですね。しかも、お香じゃなくて練り香水なんて」
毎回同じお香を買っているのだ。店員には顔も品物も覚えられている。コーヒーショップやバーならば「いつもの1つ」と言えば出てくるほどの常連だ。
そのため、1人でアロマショップを切り盛りする女店長である#木藤__きとう__#は驚いた表情で沈丁花の練香水を受け取り丁寧に包んでいく。
紅月は「少し華やかな香りもいいかなって思って」と、少し恥ずかしに微笑み、口元を手で覆った。
それが左手だったのがいけなかった。紅月の薬指にある銀色の指輪を目ざとく見つけて「あぁ!!」と、大きな声を上げたのだ。小さな店だ。その大声はあっという間に店内に響き渡る。だが、幸いに閉店時間間際だったため、紅月以外お客はおらず、迷惑にはならなかった。
「それ!恋人出来たの、紅月ちゃん!?」
「えっと、まぁ……。そんな感じ、ですかね……?」
まさか、「神様と結婚したんです」なんて言えるはずもなく曖昧に濁す。と、後ろから「おいッ」と、怒り口調の声が聞こえた。その声の主は、いつもならば澄んだ声をしているのに、今はとても低い。小鳥から梟に変身でもしたかのような声だ。
今、後ろを向いては木藤に不審がられてしまう。
紅月の後ろには、矢鏡が立っているようだが、それに木藤は気づいていないのだから。
「そうなんだ!こんなに可愛いし、お店の看板娘でいっぱいアプローチされたり告白されたりしてるってのに、誰とも付き合わないんだもん。やっぱり、ずっと好きな人がいたのねー。その人とお付き合い出来たの?」
「おい。そんなに告白されてたのか?誰だ、どこのどいつだ?」
「そ、そんな事ないですよー!みんなお弁当を安く買いたくて、私の事を褒めてるだけですって」
「そんなはずないでしょ。みんな寂し気に肩を落として、お弁当を抱えながら帰っていくの私は見てるんだから。この間のサラリーマン風のイケメン青年は「隣りの紅月さんの好みの香りは何かご存じですか?」なんて、リサーチまでしてたんだから」
「そんな……」
「………そんな話し、聞いてないぞ。詳しく聞く。こいっ!」
「ちょっ、と、ひっぱらないで……っ!」
木藤の噂話をすっかり信じてしまった矢鏡は、すっかりご立腹な様子で、紅月の手を強く引いく。それに合わせて、当然体は動いてしまう。が、木藤は紅月が突然体を動かしたようにしか見えないのだ。「紅月ちゃん?どうかした??」と木藤は目を丸くしながら、紅月の様子を見つめている。急に体が後ろに押されたように動いたのだ、驚くに決まっているだろう。
「ご、ごめんなさい!急用を思い出して、またお邪魔しますッ」
「う、うん。気を付けてー」
慌てて外に出た紅月を、木藤はぽかんとした表情で見送る。そして、「もしかして、束縛系男に捕まったんじゃ…」と、何故か全く見当違いの心配をする木藤の言葉を2人は知る事はなかった。
「矢鏡様、どうしたんですか?自宅で待っててくださいとお話したのに……」
「あんな狭い場所に何時間もいてもつまらないだろ。昼頃から近所を散歩していた。そうしたら、紅月を見つけたのだ」
「散歩って……。自宅からここまで電車で3駅もあるんですよ」
歩いたら数時間はかかるだろう距離を矢鏡は歩いてきたというから、紅月は驚いた。けれど、神様というのは疲れないのだろうか?と疑問も残った。
「そんな事はどうでもいい。おまえは、人間の男に人気があるのか?」
どうしても気になるようで、紅月の話題をすぐに終わらせて質問してくる。紅月は苦笑いを浮かべるしかない。
紅月は家から少し遠くの弁当屋で働いている。
近所に住む人や、近くで働く人々が常連として買ってくれている小さな店だ。それでも、もちろん全て手作りで種類も豊富、ボリュームもほどほどあるため、かなり人気があり夕方は閉店前に売り切れるのだ。店長さんもとてもいい人で、売り子の紅月にも丁寧に料理のコツを教えてくれるのだ。そのため、紅月は料理上手になっていた。
だが、困ったこともあった。何故か、男性から行為を持たれる事が多かったのだ。見た目がそうするのかはわからないが、よく「付き合ってほしい」や「結婚を前提に……」と客に言い寄られるのだ。紅月が断ると、もちろんほとんどの客がもう来なくなる。それが申し訳なかった。
もちろん、「好き」と思ってくれる気持ちは嬉しかった。けれど、それに応える事は出来ない。
好きになれるとも思わなかったし、「知らない方がいい」と自分の事を知って欲しいと思えなかったからだ。
紅月はずっとずっとそう思っていた。
「告白される事は多かったかもしれませんけど……。きっと、お弁当の味を結婚してからも食べたいと思ったんじゃないですか?私が働いているお弁当屋さんは、本当にどれもおいしいですから!」
「………そんな理由のわけないだろう?」
「では、矢鏡様はどうして私と夫婦になりたかったのですか?」
「それは、紅月についた呪いを払うためだ。そうしなければ、おまえが死ねば俺も消えるのだからな」
「ですが、それならば結婚しなくても……」
そう。自分の消滅を防ぐために、紅月が死んでしまっては困ると言う理由はわかる。
けれど、だからと言って紅月と夫婦になる理由がわからないのだ。命を奪いかねない紅月の呪いを払ってしまえば、全ては解決する。
神様という尊い存在の彼が、どうしてたかが人間1人と結婚しようとするものだろうか。紅月はそれが不思議でしかたがなかったのだ。
人通りが少なくなった夜の街とはいえ、一人で道路に佇んでいるように見える紅月は、周囲の人にとっては不可解な女性に見えたはずだ。通りすがりながら怪訝な表情で見ていく人もいるぐらいだ。けれど、それでもその理由を彼に聞いてしまいたかったのだ。モヤモヤとした感情のままに夫婦として過ごしていけるわけがない、と。
話してくれないのには、話しにくい理由があるのだろうか。そんな心配もしてしまう。
けれど、そんな紅月の心配をよそに、矢鏡は「そんな事か」と、腕組みをしながら躊躇する様子もなく、いつものように堂々と説明をし始めた。
「俺がもともと人間だったからだ」
「矢鏡様が人間……」
「あぁ。大昔の話だけどな。俺が、あの村の大蛇を倒したんだ。だから、英雄として死んでからも神として祀られたみたいだな。よくあるだろう?偉人や武士とかが人神として祀られる事が。庶民でも、その地域で何か功績を上げたりすると、神様にされる事があるんだ。俺もその一人ってだけだ」
「人間だったらか、結婚したいの?」
「結婚してみたいと思うのは男だって同じだろう。それに、おまえだけが俺を覚え、祈ってくれたのだ。そういう女がいいと思っただけだ」
乱暴にそういうと、言葉と同じように紅月の手を掴むと引っ張りながらずんずんと歩いていってしまう。
その後ろ姿から彼の表情はわからない。
けれど、風になびく綺麗な髪の合間から、真っ赤な耳が見えた。
神様も照れる事があるんだな。そんな風に思いながらも先程の話を思い返す。
矢鏡様も自分と同じ人間だった。
神様も人間と同じ存在だった。
神様は聖なる存在で、人にとっては限りなく遠い場所に住むモノというイメージを持っていた。
お願いをするときだけは祈り、それが叶わなければやはり神様はいない。そんな風に思ってしまうほどに、近いようで遠い存在なのだ。
けれど、自分の右手を掴む矢鏡は、他の人には見えていなくても、紅月にはとても近い。
今だって冷たい感触と彼の沈香を紅月は感じられるのだから。
生きていなくても、存在している。
紅月はこの感覚が、彼の言葉が、安心感を与え始めている。
その事に気付かないうちに心地よくなり始めているのに、もう少ししてから理解するのだった。
全てを理解してからでは遅いというのに。
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